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従姉妹

作者: 府雨
掲載日:2026/06/06

「従姉妹」


 井垣兎乃と九重孤形は従姉妹同士。


 社会人の孤形の家に、高校生の兎乃はよく遊びに行く。


 孤形は、調布のはずれにマンションを持っている。


 ちょっと掃除が苦手な孤形のために、よく兎乃はお小遣いをもらって、掃除を手伝う。


 ゴールデンウィーク明けに呼ばれた兎乃は、高校の帰りに調布に寄った。


「兎乃おかえりー!」


「ここは私の家じゃないですよ、孤形ちゃん」


 兎乃は、カバンを玄関に下ろすと、まず洗面所で手を洗い、持ってきていたペットボトルの水を飲むと、早速片づけを開始した。


 玄関では靴を靴箱に入れ、洗面所のタオルを洗濯機に突っ込む。


 服をたたみ、いくつかのアイテムはクリーニングに出すようにまとめた。


 部屋に掃除機をかけ、布団を干し、皿を洗った。


 孤形はこの時ばかりは兎乃の指示に従って、楽しく掃除に参加した。


 一通りの掃除が終わると、喫茶店に出た。午後三時半。


 コーヒーフロートを兎乃が美味しそうに飲むのを、孤形はにこにこしながら見ていた。


「ありがとね」


 孤形は兎乃に言った。


 兎乃は首を振った。


「孤形ちゃん、お小遣い」


「はいはい」


 一万円札のやりとり。


「やったぁ」


 兎乃は嬉しそうに札を財布に入れた。


「ご飯何にする?」


「ステーキ」


「まかせろ」


 兎乃の家、井垣家は聖蹟桜ヶ丘にある。


 孤形が調布に居を構えてから、しばしば行き来があった。


 孤形はスタイルのいいお姉さんで、背も高すぎず低すぎずのちょうどいい感じ。二十九歳。


 胸の膨らみは服の上からでもよくわかる。たまに、胸の谷間を見せる服を着ている。


 兎乃の方は、背が低く、顔が小さい。ポニーテールがよく似合う。十六歳だった。


 兎乃も孤形も結構モテる。


 兎乃はクラスではかなり人気で、男子の付き合いたいランキングで常に上位に位置する。


 孤形は、割と孤高を貫いているけれど、仲のいい男友達が何人かいる。


 孤形が付き合う男友達は、知的なタイプとユーモラスなタイプに分かれる。ただ、どちらも紳士であることは間違いない。


 兎乃も孤形も、恋愛関係にのめり込むタイプではないので、その境界を侵犯しない人が、二人の友達になる。


 従姉妹同士仲がいいのは、そういう人間関係的な方向性に一致が見られるからかもしれない。


 彼氏いる? とか聞かれないのが、いい。


 本屋に行ったり、博物館に行ったり、カフェに行ったりするデートが二人の基本で、そこには感情的な恋愛より快適な友情が優先している。


 というか、本来ならどぷどぷの恋愛性情になりそうなのを、快適さに留めるという抑圧が、二人にとって重要な快楽の源泉だった。


***孤形***


 孤形の仲のいい男に羽凪そよぎがいる。


 羽凪とは職場で知り合って、よくご飯に行く。


 羽凪は長身で、風采のいいビジネスマン。


 財務畑の人間で、カッチリした本を読んでいる。いつも財務系の専門書を一冊カバンに忍ばせている。


 孤形は財務諸表には全く興味がない。文庫本で小説を読むのがせいぜいだけど、内勤で必要な情報はスマホに入っているからと、手近な文庫本だけ携えて、会社に来ることもある。


 電車で席が隣になって、孤形から声をかけたのがきっかけだった。


 羽凪は京王線千歳烏山駅が最寄りで、特急で立ちながら一緒に帰ることがしばしば。


 羽凪は三十三で、少し上だけれど、ほとんど同期のように話している。


 お出かけは、変な気にならないようにあんまり酒を飲まないのが予防線。


 そうでなくとも起伏の豊かな孤形の体は、爆弾のようなものだった。


 顔を近づけて笑ったりはするけれど、袖をつまんだり、肩を叩いたりはしなかった。


 呼び方は「羽凪さん」と「九重さん」でさん付け。


「従姉妹が最近家に来て、掃除してくれた」


 二人で上野の美術館にワイエスを見に来ている。


 そのせりふ自体が一つの形象を帯びているようで、羽凪は内心面白く感じていた。


 ワイエスの絵の前で、羽凪は自分の思ったことを口にする。


「たとえば、セロハンを挟んだネガみたいに見える」


「もしそうなら、私の目の水晶がなかったら、どう見えるのかな?」


 孤形は言った。


「見えないんじゃない?」


「でもワイエスには見えた」


 目をぱちぱちさせて、孤形の顔を見る。


 それからまた別の絵に移る。


 ワイエスは孤形が好きで、孤形から誘った。


 そうしたら羽凪が、同日のN響のコンサートに行かないかと、返した。ワーグナー、モーツァルト、バルトークという演目。


 午前の美術館を終えて、上野で食事を取り、渋谷に回った。


 孤形のあまり慣れない渋谷の道を、羽凪は抵抗なくするすると案内する。


 一緒にいる時間に、音楽を聴いて話せないのは、二人にとっては損でもなんでもなかった。


 何かに焦る必要もないし、強く求め合っているわけでもなかった。


 でもそれが、居心地がいいという意味で、二人に特別の関係と認識されていたかもしれない。


 どこか中学校の同級生みたいなノリは、ありふれたものだとしても貴重だった。


 羽凪は孤形の体にはもちろん魅力を感じていた。


 それは男として失礼にならない正常な範囲だったけど、それ以上に、ごく当たり前の仕草や服装に関する孤形の「よさ」に言及することで、その関係を平準化させようとしていた。


 孤形は谷間ののぞく服を着ているけれど、それは単にファッションだ、というポーズを崩していなかった。


 孤形がデートする男の基準は、はっきりしていた。


 自分をアクセサリーにして人に自慢する男とは、決してデートはしない。


***


 キャメル色のタイトなコットンニットに、つば付きの帽子、短めのオレンジ色のスカート。


「少し前までこんな服装しなかった」


「おばさんくさいって?」


「蹴るよ?」


「ごめん」


「でもまあ、そうだよね。私ももうそろそろ三十だし」


「いつまでも子どもだよ。そうじゃない?」


 レストランで葡萄ジュースを飲みながら、孤形しばらく考えて首を振った。


「たぶん、内側から見ると自分は子どもだけど、外から見ると大人」


「つまりいつまでも子どもなんじゃないの?」


「全然違うよ」


 孤形は言った。「微視的な変化が積み重なってる。だって私たちは小学生の頃とは違うでしょ?」


 男の子同士の会話。「だからまあ、おばさんくさいのかもね。制服は着れない。制服を着ていた時に軽蔑したファッションに身を包まれているわけだから」


***


 例えば電車でよろめいて、孤形の胸が羽凪に当たったとして、何か起きるだろうか。


 たぶん何事もなく姿勢を直して、全てを無化する。


 でもそういうことがあったことを、二人は時折思い出すかもしれない。


 だからといって、どうということもないと思いなす、ちょっとした抑圧が、体にいいとは言えないけれど。


***兎乃***


 お小遣いからスタバのフラペチーノ代を出すのは、兎乃には結構大変だから、定期的に孤形の部屋で掃除をする。


 兎乃も孤形と同様に、積極的に彼氏を作るタイプではない。


 誰のものにもならない兎乃に、クラスメイトは安心して声をかける。


 兎乃が好きなのは背の高いイケメンではなくて、メガネをかけた知的なタイプ。


 クラスで勉強で最後まで残るメンバーで、塾に行っていない大殿悠里と一緒に帰るのが習慣だった。


 悠里は、兎乃と帰る特権を有している数少ないクラスメイトだった。


 本を読むのが好きで、基本読んだ本の話をする。


 九段下の高校なので、神保町に寄ってから家に帰ることもある。


 兎乃は悠里から読み終わった本を譲り受けて、代わりに喫茶店で飲み物を奢る。


 兎乃の手元には小説やら評論やらが集まる。


 悠里のいいところは、奢られるとかそういうことに抵抗がなく、兎乃を彼氏扱いしない。


 二人は正直なところお互いを「友達」と思っているかも怪しかった。


 友達という枠組みとは違う感覚で、コミュニケーションを取っていた。


 兎乃は小顔で、ポロシャツにスカート、ポニーテールという、今風のスタイルで、リュックサックを背負っている。


 兎乃のリュックサックには電子辞書とタブレットしか入っていない。


 一方で悠里はかなり大きなカバンに、何冊か本を入れていた。


 二人は無言で一緒に歩くのも苦ではなかった。


 九段下から神保町まで歩くと、東京堂書店で時間を潰した。


「なんか、悠里くんって野心とかあるの?」


「いや? 特には。でも、最近わかったことがあって」


「ん?」


「兄が、僕らの生活は密度が濃いって。忙しいのとはちょっと違うらしいんだけど」


「? 密度が濃いって?」


「兄は今地方にいて、大学生をやってるんだけど、弟の僕に、よくやっているなって声をかけてくれる」


「うん」


「同じ時間にたくさんのことを詰め込んでいるって」


「それで?」


「気づいたら高みにいるって」


「気づかないんだ」


 兎乃は、一緒に食べるラーメンを奢った。


 二人でラーメンを啜る。


 平日の夜の神保町は、とても空いていて、高校生が制服で入っても、特に変ではなかった。


 二人の雰囲気は全然違うから、彼氏彼女でないことはなんとなくわかる。


 今は、そういう友達関係みたいなものも高校生にありふれているから、少し上の世代の大学生や社会人なんかも、違和感を覚えない。


 親とベタベタするタイプも少なくなってきて、一昔前とは雰囲気が刷新されたようでもある。


 そこにはポロシャツが夏服で当たり前という時代を共有する空間が広がっていた。


***


 今日、兎乃が悠里から譲り受けた本は、西谷修の『夜の鼓動にふれる』だった。


 調布まで直通の新宿線=京王線をそれを読みながら立って過ごした。


 兎乃は決して座らない。ポリシーとかではないのだけれど、ポリシーというのがわかりやすい。


 片手で本を持ちながら、リュックサックを前に抱え、片手で吊り革を持つポニーテールは、もしかしたらこの時代にはありふれた光景なのかもしれない。


 ちくま文庫の柔らかい紙を、兎乃は一枚ずつめくり、調布に着くとそれをリュックサックの小さいコンパートメントに仕舞い、聖蹟に行くために乗り換える。


 悠里の本はどれも面白い。しかも、渡す前に軽く感想を言ってくれるから読みやすくなる。


 兎乃が家に帰って、シャワーを浴びた後、リビングで本を読んでいると、仲の悪い兄が「ちくま文庫とか読み切ったことねえわ」とだけ言って、自室に戻っていった。


 そういう兄は受験生で、自室で勉強している。


 女にモテる俗物だと、兎乃は軽蔑していた。


 聖蹟の家からは多摩川が見える。


 たまに河川敷を走る。


 この時代、東方のアレンジは女子高生にも聴かれる。流しながら走る。


 東方というシューティングゲームも東方原曲も知らない。ただ、Apple Musicのオススメのままに、可聴域を自然に拡げる。


 ジャージで走る。


 その時ばかりはLINEを開かない。そういう分けを作れるのが、兎乃のこだわりなのかもしれない。


 朝は兎乃が走る。夜は兄が走る。


 朝は兎乃が勉強する。夜は兄が勉強する。


 会話することはない。


***


 昼間は、悠里と話すことはない。


 悠里も兎乃も、男子は男子、女子は女子という不文律を冒すことはしない。


 そろそろテストが近いから、みんな残って勉強している。そういう時に悠里に話しかけたりはしない。


 悠里の友達で、悠里と兎乃が仲がいいことを知っている岸加瀬梓は、残りが四人くらいになったところで飴を配った。


「悠里くん、今回のヤマは?」とか、「うさ、貴族って英語でなんていうでしょう?」とか、軽くクラスの雰囲気をストレッチしてほぐす。


「ポテチ、開ける?」


 田坂幸太郎がカバンからカロリーを提供する。


 教卓でポテチを広げて食べてまた勉強して、それから悠里が「ご飯食べ行く?」とみんなに聞いた。


 そうして四人でサイゼリヤに行く。


「サラダ頼むんだ」


「チキンのサラダはタンパク質と食物繊維が」


 兎乃が珍しく食い気味に力説しようとする。


「そういうのいいから」


 梓は笑った。


「むー」


 兎乃は安心していた。梓も幸太郎も信頼できる。


 空いているサイゼリヤで、また勉強道具を出したのが兎乃と梓で、男二人はそれを咎めた。


「問題出してあげる」


 梓はみんなに言った。


「skeptical」


「懐疑的なって、日本語で使うことあんまないよね」


「正解」


 サイゼリヤでみんなでピザを食べ、パスタを分け合う。たくさんコップを使って、ドリンクバーでいろんなジュースを飲む。


 幸太郎はコーヒーだった。


 見目のいい男の子たち、可愛い女の子たちが、恋愛を半分埋めて作った塚には綺麗な樹が枝をつけて伸びていた。


***


「いやだよね」


「? 何が? 孤形ちゃん」


 兎乃は孤形とのステーキディナーで、話題を振られた。


「仲良かったのに、恋愛に引っ張られたり、セックスのこと考えたりするの」


「そう? 私はたまに妄想するよ?」


「たとえば?」


「手を繋がれたりとか、キスしないかって聞かれたりとか」


「高校生だなぁ。性は暴力なんだよ」


「じゃ、なんで孤形ちゃんはそれを強調する服を着るの?」


「文学や法律と一緒で、知っているって思われるのが一番いい防御策なんだよ。地味な服着てる女を、男は狙うから」


 兎乃はしばらく考えて手を止めた。


「胸がない時は?」


「Tシャツ着て、屈んでみたら?」


「孤形ちゃん、エロい」


「酔っ払って、腕を組んだりしたらさ。怒られたんだ」


「なんで?」


「お前は結婚して大切な人がいても、酔っ払えばそういうふうに身を預けてしまう女なのか? って」


「喰っちゃえばいいのに」


「酔っ払っても身を崩さないところが好きなんだと」


「好きなんじゃん」


「な? 不思議だろ? おかしいなぁ」


「わかるけどね」


「私もすごくわかる。女の子も男の子も恋人でも友達でも、相手が特別だから好きなんだよ。好きだから特別なわけだし。きっと一時の感情で、悲しくなってほしくないんだよね」


「孤形ちゃんの好きな人?」


 もきゅもきゅとステーキを喰みながら、兎乃は聞いた。


「さあ。わかんないんだよね、好きっていうのはさ」


「私はわかるよ」


「言ってみなよ」


「孤独になってうねうねと自分から線が伸びていくの。その線がどこか遠くにいる好きな人の線と絡まって、想いを伝えられるようになる」


「運命の赤い糸、幼稚園生か?」


「でもそうじゃない? というか、そうでない関係って精神的なものは何もないよね」


「精神的なものねえ。脱色された関係がいいのかどうかはよくわからないけど」


***


 わずかに触れる指先と指先は、すぐに空を切る。


 それは高校生だろうが二十九歳だろうか関係なく、指が触れた緊張と、離れた安心が交互に織りなして、気持ちを反転させて、いつか結実する。


 孤形は大切な思い出を持っているから、焦ることはない。触れたら絡めて繋がなきゃいけないとは、今はもう誰も思わない。


 兎乃には夜の九段下のホームで、悠里にさよならと手を振ることが、例えようもなく美しい行為に思えた。

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