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異世界最強の引きこもりは、人と生きる意味を知る  作者: わまたよ


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第三十五話 祭りの影、伸びる手

 学院祭二日目の朝は、初日よりもさらに賑やかだった。


 王立学院の正門前には、一般商人の屋台が並び始めていた。学院祭二日目は、学院内の模擬店に加えて、王都の許可商人たちも敷地内の一部で販売を許される。


 焼き菓子の屋台。


 果実水の店。


 串焼きの露店。


 文具や小物を並べる商人。


 学院生の家族だけでなく、王都の一般市民も多く訪れるため、初日とはまた違う活気があった。


 祭りの匂いがする。


 焼けた砂糖の甘い香り。


 香草を炙る匂い。


 新しい布の匂い。


 人々の笑い声。


 足音。


 呼び込みの声。


 空は晴れ、風は穏やかで、魔導灯に結ばれた飾り布が青空の下で揺れていた。


 一年Sクラスの喫茶店も、朝から開店していた。


 ただし、初日ほどの混雑ではない。


 理由は明確だった。


 二日目は学院全体の出し物が本格化し、さらに一般商人の販売も始まったため、客足が分散していた。


 昨日は廊下に列ができるほどだった喫茶店も、今日はゆっくり席が埋まり、時折空席も出る。


 それは悪いことではなかった。


 生徒たちは初日の疲れもあり、少し余裕を持って接客できるようになっていた。


「今日は昨日より落ち着いてるね」


 エマが薬草茶の茶葉を量りながら言った。


「うん」


 ルナは盆を持ったまま、教室を見渡した。


 空席が二つ。


 待ち列はなし。


 厨房補助も慌てていない。


 昨日とは違う、穏やかな繁盛だった。


「これくらいだと、お客様の顔もちゃんと見られますわね」


 リリアーナが柔らかく言う。


 彼女の接客は、二日目にしてさらに自然になっていた。


 王女としての品はそのままに、客と目線を合わせ、笑顔で言葉を交わしている。


 セシリアも会計帳簿を確認しながら頷いた。


「売り上げは昨日より少し落ちますが、悪くありません。むしろ休憩時間を交代で取りやすいです」


「じゃあ、みんな少し学院祭を見て回れる?」


 ミーナが明るく言う。


 その言葉に、教室の空気が少し弾んだ。


 昨日は忙しすぎて、自分たちの出し物以外ほとんど見る余裕がなかった。


 けれど今日は違う。


 交代で店番をすれば、少しずつ自由時間を作れる。


 カインが安全導線を確認しながら言った。


「人数を半分ずつに分ければ可能だ。客足が増えたら呼び戻す形にすればいい」


 セシリアは帳簿を閉じ、少し考える。


「では、午前の後半から一組ずつ休憩にしましょう。ルナさんたちは先に行っても構いません。昨日かなり働いていましたし」


「セシリアは?」


「私は最初の会計整理が終わってから行きます」


「じゃあ、一緒に行けない?」


 ルナが少し残念そうに言う。


 セシリアは一瞬目を瞬かせた。


 それから、少しだけ頬を緩める。


「では、会計整理を急ぎます」


「無理しないで」


「大丈夫です。友人との約束ですから」


 その言葉は、以前のセシリアなら決して言えなかったほど自然だった。


 ルナは嬉しそうに笑った。



 しばらくして、ルナ、エマ、リリアーナ、セシリア、ミーナの五人は、短い自由時間をもらって教室を出た。


 カインは安全管理のため店に残ると言ったが、後で交代する約束をした。


「一緒に行かなくていいの?」


 ルナが尋ねると、カインは苦笑した。


「女子五人の中に混ざる勇気はまだない」


「そういうもの?」


「そういうものだ」


 エマが笑い、ミーナが「じゃあ後で串焼き買ってきてあげる!」と手を振った。


 廊下へ出ると、祭りの音が一気に近づいた。


 他クラスの出し物の案内。


 演劇の呼び込み。


 魔法展示の光。


 上級生たちの研究発表。


 中庭には屋台が並び、来客たちが楽しそうに歩いている。


 ルナはその景色に目を輝かせた。


 昨日は店の中から外を眺めるだけだった。


 今日は自分も祭りの中を歩いている。


「どこから行く?」


 エマが尋ねる。


「薬草研究会の展示があるらしいです」


「エマ、それ見たいだけでしょ」


 ミーナが笑う。


「見たい」


 エマは素直だった。


 リリアーナは案内札を見て微笑む。


「その前に、広場の屋台を見ませんか? ミーナさんおすすめの串焼きもありますし」


「賛成!」


 ミーナが元気よく手を上げる。


 セシリアは少し困ったように言った。


「歩きながら食べるのは、少々行儀が……」


「学院祭なので特別ですわ」


 リリアーナがにこりと笑う。


「王女殿下がそう仰るなら」


「セシリア、言い訳にした」


 ルナが呟くと、セシリアは頬を赤くした。


「違います」


 五人は笑いながら中庭へ向かった。


 ルナの笑顔は自然だった。


 朝の光の中で、友人たちと肩を並べ、祭りの喧騒に包まれている。


 その時間は、彼女にとって宝物のようだった。



 だが、その少し離れた場所で、別の動きも始まっていた。


 一年Sクラスの喫茶店の裏口付近。


 荷物搬入口に近い廊下。


 一人の使用人風の男が、紙包みを持って立っていた。


 中には、茶葉に混ぜるための不審な粉末。


 毒ではない。


 飲めば命に関わるものではない。


 だが、強い苦味と腹痛を起こす薬草粉だった。


 客が体調不良を訴えれば十分。


 一年Sクラスの管理責任が問われる。


 薬草茶を担当するエマ。


 店の中心にいるルナ。


 二人へ疑いを向けるには、それで足りる。


 男は周囲を見回し、裏口の扉へ手を伸ばした。


 その瞬間。


「そちらは関係者以外立ち入り禁止でございます」


 穏やかな声が背後から響いた。


 男の肩が跳ねる。


 振り返ると、銀髪の執事が立っていた。


 セラフィス。


 白い手袋をはめた手を前に重ね、柔らかな微笑みを浮かべている。


 その姿は美しい。


 だが、男の背筋に冷たいものが走った。


「わ、私は納品の者で」


「納品先が違いますね」


 セラフィスは一歩近づく。


「その包みの中身も、パンでも茶葉でもありません」


 男の顔色が変わる。


「何を根拠に」


「香りです」


 セラフィスは微笑んだまま言った。


「隠すには少々、雑でした」


 次の瞬間、男は逃げようとした。


 だが足が動かなかった。


 床に薄い銀色の魔法陣が浮かび、足首を静かに拘束していた。


「騒がずに」


 セラフィスの声は優しい。


「学院祭ですので、子供たちの楽しみを壊したくありません」


 その優しさが、男には恐ろしく聞こえた。


 すぐに近くの王家監察官が現れ、男を静かに連行する。


 周囲の生徒や客は、ほとんど何も気づかなかった。


 セラフィスは床に落ちた紙包みを拾い、封印魔法をかける。


「一つ目、失敗ですね」


 彼は誰にともなく呟いた。



 別の場所では、会計帳簿の写しをすり替えようとした生徒がいた。


 彼は緊張しながら、一年Sクラスの仮控室へ近づいた。


 懐には偽造された帳簿の写し。


 不正な金額が記されている。


 これを発見されたように見せかければ、喫茶店の評判は落ちる。


 だが、彼が控室の扉へ手をかけた瞬間、背後から声がした。


「お探し物ですか」


 振り返ると、そこにもセラフィスがいた。


 同じ銀髪。


 同じ微笑み。


 同じ声。


 だが、先ほど裏口にいたはずのセラフィスとは別の場所にいる。


 生徒は目を見開いた。


「な、なぜ」


「私は執事ですので」


 答えになっていない。


 しかし、十分だった。


 生徒の手から偽造帳簿が滑り落ちる。


 それをセラフィスの影が拾う。


 正確には、セラフィスの造った諜報用使い魔だった。


 影は紙を飲み込むように消え、証拠を保存する。


「協力していただければ、学院側も情状を考慮するかもしれません」


 セラフィスは穏やかに言う。


「誰から頼まれましたか」


 生徒は震えながら俯いた。



 その頃、中庭では、ルナたちが串焼きを分け合っていた。


 ミーナが嬉しそうに肉串を掲げる。


「これ、美味しい!」


「熱いから気をつけて」


 ルナが言う。


 エマは薬草入りの塩を気にしている。


「この香草、たぶん消化を助けるやつ」


「食べながら分析するのね」


 セシリアが笑う。


 リリアーナは串焼きを上品に食べようとして、少し苦戦していた。


「これは……難易度が高いですわ」


「リリアーナ、串を横にすると食べやすい」


 ルナが教える。


「なるほど」


 そのやり取りに、五人が笑う。


 ルナは、知らない。


 自分たちの喫茶店へ向けられた悪意が、すでにいくつも止められていることを。


 セラフィスが、王家の監察官と共に、祭りの裏側で静かに動いていることを。


 彼女の笑顔を守るために、大人たちが水面下で刃を交えていることを。


 ただ今は、友人たちと学院祭を楽しんでいた。



 フェルナンド侯爵の苛立ちは、報告を受けるたびに増していった。


 学院近くに用意された臨時の控え場所。


 貴族用の休憩棟の一室。


 そこに、彼はいた。


 初日は自ら姿を見せなかった。


 だが二日目は、計画実行のため学院内に入っていた。


 報告役の男が、青い顔で頭を下げる。


「薬草粉の混入は失敗しました」


「なぜだ」


「セラフィスに阻止されました」


 フェルナンドの指が肘掛けを叩く。


「帳簿は」


「それも失敗です」


「なぜだ」


「同じく、セラフィスが」


 部屋の空気が重くなる。


 別の男が続けた。


「セシリア嬢への文書も届く前に回収されました。エマという商家の娘への接触も、王家監察官らしき者に妨げられています」


 フェルナンドの顔が歪んだ。


「すべて止められているだと?」


「はい」


「馬鹿な」


 彼は立ち上がった。


「なぜ動きが読まれている」


 誰も答えられない。


 フェルナンドは部屋の中を歩き回った。


 計画は完璧だったはずだ。


 直接的な毒ではない。


 直接王女には触れない。


 噂と混乱でルナを孤立させる。


 あの黒髪の男も、剣を抜く理由を得られない。


 そう考えていた。


 だが、すべて防がれている。


 それも、音もなく。


 騒ぎにもならず。


 まるで、こちらの手の内をすべて知っているかのように。


「……こうなれば」


 フェルナンドの声が低くなる。


 側近たちが顔を上げた。


「侯爵閣下」


「予定を繰り上げる」


「まさか」


「ルナを拘束する」


 部屋が凍る。


「しかし、それは最終手段です」


「今がその時だ」


 フェルナンドは冷たく言った。


「このままでは、我々が追い詰められる。ならば先に動く」


「ですが学院内です。王家の近衛も」


「こちらにも兵はいる」


 彼は窓の外を見た。


 休憩棟の外、一般客に紛れた護衛たち。


 侯爵家の私兵。


 そして、帝国から密かに入った協力者。


 王国の服を着ているが、歩き方が違う。


 目の動きが違う。


 彼らは祭りを楽しむ客ではなかった。


「帝国の協力者は?」


「配置についています」


「脱出経路は」


「北側の搬出門から馬車を出せます。その後、王都外縁で帝国側の者と合流予定です」


 フェルナンドは頷いた。


「ならばやる」


「ルナを人質に?」


「保護だと言え」


 彼は言った。


 もう、取り繕う余裕すらなかった。


「王国が我らを裁く前に、帝国へ渡る。ルナを連れていけば、帝国は我らを受け入れる」


 彼は知らなかった。


 王城での会議の翌日には、セラフィスがすでに帝国の関与を掴んでいたことを。


 そして、その情報はアルトたちにも伝えられていることを。



 その時、学院の外周では、王家の近衛兵が静かに配置を変えていた。


 レオンハルト・グランヴェルが指揮を執る。


 彼はヴァルクの指導を受けて以降、以前よりも足音が静かになっていた。


 目も鋭くなった。


 祭りの喧騒の中で、不自然な動きを見つける。


 一般客にしては視線が鋭すぎる男。


 護衛にしては配置が広すぎる集団。


 学院祭の動線を見ているのではなく、逃走経路を測っている者。


「動くぞ」


 レオンハルトが低く言った。


 近衛兵たちが頷く。


 王家はすでに警戒していた。


 だが、フェルナンド一派が想定より早く、しかも武力へ踏み切るとは、現場の一部にはまだ伝わりきっていなかった。


 最初の衝突は、中庭北側で起きた。


 侯爵家の私兵が、見張りの近衛兵を押しのけて通ろうとした。


 近衛兵が止める。


 私兵が剣を抜く。


 その瞬間、祭りの空気が破れた。


 金属音。


 悲鳴。


 倒れる椅子。


 逃げ惑う客。


 中庭の明るさの中に、突然、戦場の色が滲んだ。


「近衛兵団! 民を下がらせろ!」


 レオンハルトの声が響く。


 近衛兵たちは素早く展開した。


 一般客を後方へ誘導し、私兵たちを押し返す。


 彼らの技量は高い。


 フェルナンドの私兵では、正面から勝てる相手ではない。


 実際、最初の数合で私兵たちは次々と押し込まれた。


 だが、数が多かった。


 一般客に紛れていた者。


 屋台裏に潜んでいた者。


 学院外から同時に入り込んだ者。


 さらに、帝国の協力者たちが動き始める。


 彼らは王国の私兵とは違った。


 連携が冷たく、狙いが正確だった。


 近衛兵たちは武力的には圧倒している。


 一人一人の技量も、士気も、明らかに上だった。


 それでも守るものが多すぎた。


 民。


 生徒。


 王族。


 学院設備。


 逃げる子供。


 倒れた屋台。


 敵はそれを利用した。


「くそっ、数で押してくる!」


 近衛兵の一人が叫ぶ。


 レオンハルトは歯を食いしばった。


「前線を下げるな! 民を通せ!」


 剣がぶつかる。


 魔法が弾ける。


 白い石畳に火花が散る。


 祭りの音は、完全に悲鳴へ変わっていた。



 ルナたちは中庭の東側にいた。


 最初の悲鳴を聞いた時、ルナは振り返った。


「なに……?」


 エマの顔が強張る。


 セシリアは即座に周囲を見る。


「人が逃げています」


 リリアーナの表情が王女のものに変わった。


「近衛が動いていますわ」


 ミーナが紙袋を抱えたまま震えた。


「え、何? 学院祭だよね?」


 ルナの心臓が強く鳴る。


 遠くで剣戟の音がした。


 戦闘。


 これは訓練ではない。


 誰かが本当に剣を抜いている。


「ルナさん、こちらへ」


 セシリアが手を伸ばす。


 だが、その瞬間。


 中庭の人混みの中から、黒い外套の男が飛び出した。


 狙いは明確だった。


 ルナ。


 彼女の腕を掴もうとする。


 ルナは反射的に身を引いた。


 ヴァルクに教わった足運びが身体を動かす。


 男の手が空を切る。


 ルナはエマを庇うように前へ出た。


「下がって!」


 魔法を使う。


 薄い風の膜が展開され、男を押し返す。


 だが、次の男が来る。


 さらに二人。


 帝国式の短剣。


 速い。


 ルナは木剣を持っていない。


 学院祭の衣装のまま。


 それでも魔法で対応する。


 土で足元を崩し、風で距離を取り、光で視界をずらす。


 男の一人が倒れる。


 もう一人の短剣を、水膜で受け流す。


 近くの客が悲鳴を上げる。


 リリアーナを守るために近衛兵が駆け寄る。


 セシリアが魔法陣を展開し、エマとミーナを後方へ下げる。


「ルナさん!」


 セシリアの声。


 その時、ルナの背後に別の気配が現れた。


 振り返るより早く、首元へ冷たい魔道具が押し当てられる。


 魔力封じの拘束具。


 身体の魔力が一瞬、重く沈む。


「動くな」


 低い声。


 フェルナンド侯爵だった。


 自ら剣を持っているわけではない。


 だが護衛に囲まれ、手には高価な拘束魔道具を握っている。


 彼の顔は怒りと焦りで歪んでいた。


「動けば、この娘の魔力を焼く」


 周囲が凍った。


 ルナの腕が後ろから掴まれる。


 肩が痛む。


 けれど、彼女は叫ばなかった。


 怖い。


 怖いに決まっている。


 首元の魔道具は冷たく、魔力が流れにくい。


 昔の記憶が、ほんの少しだけ蘇りかける。


 掴まれる腕。


 逃げられない身体。


 誰にも助けてもらえなかった過去。


 だが、今は違う。


 目の前に、友人たちがいる。


 セシリアが青ざめた顔でこちらを見ている。


 エマが震えながら涙を浮かべている。


 ミーナが口元を押さえている。


 リリアーナが怒りで顔を強張らせている。


 だから、ルナは必死に息を整えた。


 怖い。


 でも、呑まれない。


 ヴァルクの声を思い出す。


 恐怖は消すな。


 持ったまま立て。


 ルナは、震える足で立った。


「フェルナンド侯爵」


 リリアーナが低い声で言った。


 それは王女の声だった。


「今すぐ、ルナさんを放しなさい」


「殿下。これは保護です」


 フェルナンドは歪んだ笑みを浮かべる。


「この少女は学院を乱した。王国の秩序を乱した。私は彼女を一時的に保護し、適切な場所で事情を聞く」


「そのような権限はあなたにありません」


「今は非常時です」


 彼はルナを引き寄せる。


 ルナの顔が痛みに歪む。


 その瞬間、セシリアの目に怒りが宿った。


「その手を離しなさい」


 彼女の声は震えていた。


 だが、逃げていなかった。


「ルナさんは私の友人です」


 エマも震える声で言う。


「ルナは何も悪いことしてない!」


 ミーナも叫ぶ。


「ルナを連れて行くな!」


 フェルナンドは苛立たしげに顔を歪める。


「黙れ。子供が」


 その言葉が、ルナの胸を熱くした。


 怖いのに。


 痛いのに。


 友人たちが、自分のために声を上げている。


 それだけで、折れずにいられた。



 遠くで、セラフィスがその光景を見た。


 彼の周囲には、拘束された工作員が数人転がっている。


 王家監察官も動いている。


 だが、中庭の中央でルナが拘束された瞬間、セラフィスの微笑みが完全に消えた。


「……愚かな」


 静かな声。


 それは、怒りだった。


 彼はすぐに通信魔法を開く。


 アルトへ。


 ヴァルクへ。


 そして王家へ。


「主様」


 声は冷静だった。


 だが、その奥には凍るような殺意があった。


「フェルナンド侯爵が、ルナ様を拘束しました」


 ほんの一瞬。


 通信の向こう側で、空気が止まった。


 次に返ってきたアルトの声は、驚くほど静かだった。


「場所は」


「学院中庭、東側」


「分かりました」


 それだけだった。


 セラフィスは通信を切る。


 そして中庭へ向かって歩き出した。


 同時に、ヴァルクの気配が学院の外周から動く。


 王家の近衛兵たちも再配置に入る。


 だが、フェルナンドはすでにルナを人質に取り、北側搬出門へ向かおうとしていた。


 帝国への逃亡。


 ルナを手土産に。


 彼はまだ、自分が何を敵に回したのか、本当の意味では理解していなかった。



 ルナは、首元の魔道具の冷たさを感じながら、空を見上げた。


 学院祭の飾り布が風に揺れている。


 さっきまで、そこには笑い声があった。


 香草茶の香り。


 友人たちの声。


 アルトたちの笑顔。


 そのすべてを壊したこの男が、自分を引きずっていく。


 怖い。


 でも。


 ルナは小さく唇を噛んだ。


 今の自分は、一人ではない。


 必ず来る。


 アルトが。


 セラフィスが。


 ヴァルクが。


 そして、友人たちも自分を見捨てない。


 だから、今は耐える。


 恐怖を持ったまま、立つ。


 フェルナンドが怒鳴る。


「道を開けろ! この娘がどうなってもいいのか!」


 近衛兵たちの動きが一瞬止まる。


 それが狙いだった。


 人質。


 卑劣だが、効果はある。


 フェルナンドは笑った。


 だが、その笑みは長く続かなかった。


 中庭の空気が、急に冷えたからだ。


 遠くから、一人の男が歩いてくる。


 黒髪。


 穏やかな顔。


 しかし、その周囲の空気が静かに沈んでいく。


 アルトだった。


 その後ろに、セラフィス。


 さらに別方向から、ヴァルク。


 祭りの喧騒は、もうなかった。


 誰もが息を呑む中、アルトは静かにフェルナンドを見た。


 声は穏やかだった。


 けれど、そこにいる全員が理解した。


 これは、終わりの始まりだ。


「その手を」


 アルトが言った。


「離しなさい」


 フェルナンドは、初めて本当の恐怖を知った。


 学院祭二日目。


 祭りの光の下で、愚かな侯爵の破滅が始まろうとしていた。

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