第十七話 王都の市場、仕立てられる日常
王家より正式な召喚状が届いた翌朝、王都ソルレイアはいつも以上に賑わっていた。
城門から放射状に伸びる大通りには荷馬車が絶えず行き交い、石畳を打つ車輪の音が朝の空気に規則正しく響いている。焼きたてのパンの香り、香辛料を煎る匂い、果実の甘い香り、革と鉄と人いきれ。幾千もの生活が混ざり合い、一つの都市の呼吸となっていた。
その喧騒の中を、アルトたちは歩いていた。
「つまり今日は、買い物です」
セラフィスが淡々と言った。
「王家への謁見に普段着ではさすがに問題がありますので」
「問題でしょうか」
アルトは首を傾げた。
「ええ。主様はそういうところが問題です」
「主様はそのままでも十分整っていますが、世間は形式を好みます」
「理不尽ですね」
「文明です」
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ルナは二人の会話を聞きながら、少し弾んだ足取りで歩いていた。
市場へ行く。
服を買う。
その響きだけで胸がそわそわする。
奴隷として売られていた頃、衣服は“与えられるもの”だった。粗末で、汚れていて、寒さを防げればそれでよかった。
けれど今日は違う。
自分で選んでいいのだと、昨夜アルトが言ってくれた。
「好きなものを選びなさい」
ただそれだけの言葉だったが、ルナには世界をひとつ渡されたように思えた。
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ヴァルクは無言で後方を歩いている。
人混みの流れ、周囲の視線、建物の影、屋根の上の気配まで観察しながら、自然に一行の死角を埋めていた。
市場の買い物ですら、彼にとっては護衛任務だった。
ただし、ルナが露店の焼き菓子を見て立ち止まった時だけ、ほんのわずかに視線が緩んだ。
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王都中央市場。
辺境都市ルゼルスとは規模が違った。
通りごとに扱う品が分かれ、布地街、食料街、装飾街、武具街、古書街と、それぞれが小さな町ほどの活気を持っている。
上空には魔導灯の補助具が浮かび、日陰の通りまで明るい。噴水広場では吟遊詩人が歌い、子どもたちがその周りを駆け回っていた。
「……すごい」
ルナが立ち尽くす。
目に映るすべてが新しかった。
鮮やかな染布。銀細工。積み上げられた果物。笑い声。値切り交渉。人々の自由な顔。
この世界には、こんな色があったのだと初めて知るようだった。
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「まずは衣装店です」
セラフィスが言う。
「先に本題を終わらせ、その後自由時間にしましょう」
「逆では?」
「主様に選ばせると一時間で終わります」
「効率的では」
「情緒がありません」
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案内されたのは、王都でも評判の仕立て店《白鳥の針》。
白い外壁に青銅の看板。扉には上品な金の装飾が施され、窓越しに見えるマネキンはまるで貴族の肖像画のようだった。
中へ入ると、香木の落ち着いた香りが迎える。
壁一面に布地見本。棚には手袋、靴、帽子。奥には採寸台と鏡。
年配の女性店主が現れた。
「いらっしゃいませ――あら」
彼女の視線がアルトで止まる。
整った顔立ち、長身、無駄のない姿勢。
服飾店の者は、人を見るとき骨格から入る。
「素材がいいわね」
「素材」
アルトが呟く。
「人を家具みたいに言わないでください」
「褒め言葉よ」
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セラフィスが召喚状を見せる。
「王家への謁見用です」
店主の顔つきが変わった。
「……なるほど。では遊びは抜きね」
職人の目だった。
「三時間で仕上げるわ」
「可能なのですか」
「不可能なら看板を下ろしてる」
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まずはアルトから採寸が始まった。
肩幅、腕の長さ、腰回り、脚の比率。
店主は測りながら何度も頷く。
「ええ体型してる。変に鍛えすぎてもいない。立ち姿が綺麗」
「森育ちですが」
「森に感謝しなさい」
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選ばれたのは、深い黒を基調とした礼装だった。
無駄な刺繍はなく、襟元と袖口にだけ銀糸の細工。動けば布が静かに光を返す上質な生地。
「主張しすぎず、隠しすぎず。こういう人にはこれが一番映える」
着替えて出てきたアルトを見て、ルナが息を呑んだ。
「……すごい」
「変でしょうか」
「ちがう。すごく……すごい」
語彙が足りなくなるほどだった。
セラフィスも珍しく満足げに頷く。
「ええ。主様らしい」
ヴァルクも一度だけ見て、短く言った。
「問題ない」
最大級の賛辞だった。
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次はルナだった。
彼女は最初、店主の前で固まってしまった。
「……わたし、何を着れば」
「あなたが着たいものよ」
「でも、似合うのとか……」
店主はしゃがみ、目線を合わせた。
「似合うかどうかは、大人が考える。あなたは好きかどうかを言いなさい」
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その言葉に、ルナは少しだけ肩の力を抜いた。
布地が何枚も広げられる。
青、白、薄紅、若草、金糸入り、花模様入り。
ルナは恐る恐る指先で触れた。
「……これ」
選んだのは、淡い月色の生地だった。
夜明け前の空のような、静かな銀青色。
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仕立てられた衣装は、年相応の清楚さと気品を備えていた。
胸元は控えめに、裾は動きやすく。肩から流れる薄布が柔らかく揺れる。
着替えて鏡の前へ立ったルナは、自分を見て固まった。
「……だれ?」
「あなたです」
セラフィスが即答する。
「綺麗だ」
ヴァルクが言った。
ルナは目を丸くする。
アルトも静かに頷いた。
「とても似合っています」
その一言で、ルナの耳まで赤くなった。
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店主は腕を組み、満足げだった。
「素材がいい子は化けるわね」
「また素材」
アルトが言う。
「主様、服飾業界では通常です」
「怖い世界です」
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セラフィスとヴァルクの分も手早く整えられた。
セラフィスは白銀の燕尾調礼装。知的で冷たい美しさが際立つ。
ヴァルクは濃紺の簡素な正装。装飾が少ない分、鍛えられた体躯と無駄のない所作が映える。
店主は感嘆した。
「あなたたち、立ってるだけで絵になるわね」
「訓練の成果です」
ヴァルクが真顔で答えた。
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仕立てが終わる頃には昼を過ぎていた。
市場へ戻ると、陽は高く、人の熱気も増している。
「では約束通り自由時間です」
セラフィスが告げた。
ルナの顔がぱっと明るくなる。
「ほんとに?」
「ええ。ただし迷子禁止です」
「子ども扱いしてる」
「子どもです」
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まず向かったのは菓子屋だった。
蜂蜜を絡めた焼き菓子、果実の砂糖煮、木の実のタルト。
ルナは目移りして決められない。
アルトはしばらく見守り、全部買った。
「えっ」
「迷う時間が惜しいので」
「そういう買い方ある!?」
ルナは笑いながら抗議した。
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次に古書露店。
ルナは文字の練習用に絵本を選び、セラフィスは魔法理論書を十冊まとめ買いし、店主を震え上がらせた。
ヴァルクは鍛冶屋で無言のまま短剣一本を手に取り、重さと重心を確かめ、何も言わず戻した。
職人は汗だくで姿勢を正していた。
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噴水広場では大道芸人が火球を操っていた。
観客が拍手する。
ルナも目を輝かせる。
アルトはしばらく見てから、火球の軌道効率について小声で分析し始めた。
「主様」
「はい」
「野暮です」
「失礼しました」
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夕方、袋をいくつも抱えて宿へ戻る道。
王都の石畳は橙色に染まり、人々の影が長く伸びていた。
ルナは買ってもらった小さな髪飾りを胸元で握っていた。
「……ねえ、アルト」
「なんでしょう」
「今日、すごく楽しかった」
素直な声だった。
「それは良かった」
「こういうの、普通の子はずっとしてきたのかな」
アルトは少し考える。
「たぶん、人によります」
「そっか」
「ですが」
ルナが見上げる。
「これから、いくらでもできます」
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彼女は立ち止まり、しばらく黙ってから笑った。
奴隷だった少女の笑顔ではない。
未来を知った子どもの笑顔だった。
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その夜、宿の部屋には新しい服が丁寧に並べられた。
明日は王城。
格式と権威の世界。
だがその前日に彼らが得たのは、もっと小さく、もっと確かなものだった。
誰かと歩き、選び、笑い、荷物を抱えて帰る一日。
何でもない日常。
それこそが、ルナにとって最も贅沢な贈り物だった。




