第18話:草原のセラピーと、溶けゆく鉄の仮面
ガルドさんの手によって「魔力循環型・永久楽園」へと作り変えられた我が家は、もはや単なる牧場の域を超えていた。
一年中、春の終わりのような心地よい風が吹き抜け、なっちゃんが一口食べるごとに新しい芽が吹く芝生は、まるでふかふかの緑の絨毯だ。
だが、この「至高の環境」をエルゼ様が放っておくはずがなかった。
「なつさん。これほどの聖域を、私たちだけで独占するのは、王国の損失ですわ。……いえ、正確に申し上げますと、王都の生産性が著しく低下しておりますの。激務に次ぐ激務で、有能な官僚や騎士たちが、次々と『虚無』の表情で壁を見つめる病にかかっております」
エルゼ様は、王都から届いた「緊急要請(という名の悲鳴のような手紙)」を束ねて掲げた。
「そこで、この牧場を期間限定で『王宮職員専用・メンタルケア・サロン』として開放いたしますわ。……もちろん、入場料と体験料は、王宮の厚生予算からたっぷりと頂戴いたします」
「……エルゼ様、結局それ商売ですよね?」
「いいえ、救済ですわ」
彼女は真顔で言い切ると、翌日からさっそく「患者」たちを受け入れ始めた。
最初にやってきたのは、王都の治安維持を担う騎士団の分隊長だった。
鎧を脱いでいるものの、その目つきは鋭く、全身から「不眠不休」の殺気が漂っている。
「……こんな場所で、本当に心が休まるのか? 私は一刻も早く戻って、山積みの報告書を……」
彼がそこまで言いかけた時だった。
草原の向こうから、一塊の「白いふわふわ」が、地面から数センチ浮き上がった状態でフワフワと近づいてきた。
「モニュ~ン?」
なっちゃんである。
なっちゃんは、初めて見る「鉄の臭いのする人間」に興味を持ったのか、分隊長の足元でピタリと止まり、首を傾げて彼のズボンの裾をペロリと舐めた。
「なっ、ななななっ!? なんだこの生物は! 子牛か? ポメラニアンか? それとも天使か!?」
「分隊長、動かないでください! 刺激してはいけませ……」
部下たちが制止しようとするが、なっちゃんは構わず、分隊長の膝の上に前脚を乗せ、そのまま「抱っこ」を要求するように身を預けた。
なっちゃんのミルクの甘い香りと、ハムさんの黄金の鱗粉による温かな魔力が、分隊長の全身を包み込む。
「……暖かい。なんだ、この重みは。……ああ、私が守りたかった平和とは、この小さな命の重みのことだったのではないか……?」
分隊長の目から、一筋の涙がこぼれ落ちた。
数分後、そこには鎧を脱ぎ捨て、芝生の上でなっちゃんに膝枕をしながら「よーしよし、可愛いなぁ、なっちゃんは……」と赤ちゃん言葉で話しかける、変わり果てた(?)英雄の姿があった。
「……一人、陥落(落ち)ましたわね」
エルゼ様が冷徹にチェックリストに記入する。
その後も、やってくる人々は皆、同じ運命を辿った。
国の予算を管理しすぎて数字の亡霊に取り憑かれていた財務官は、ガルドさんが作った「空飛ぶイチゴ」を一口食べた瞬間、体がふわりと浮き上がり、「あはは、私は数字ではなく雲になりたかったんだ!」と叫びながら空中でクロールを始めた。
外交問題で胃を痛めていた若き外交官は、アイス・ピンが足元に作ってくれた「ひんやり冷感ロード」を裸足で歩き、ピンちゃんの小さな翼を握りしめて「冷たい……世界の真理は、ここにあったんですね……」と悟りを開いていた。
そんな中、私はなっちゃんの搾りたてミルクをコップに注ぎ、疲れ果てた大人たちに配って回った。
「皆さん、あまり無理しないでくださいね。ここに来る間だけは、仕事のことは忘れていいんですから」
「……ありがとう、なつさん。君の作ったこの場所は、救世主の住処か何かかい?」
ミルクを飲んだ官僚の一人が、憑き物が落ちたような笑顔で私に言った。
その瞬間、私は自分の胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
前世での私は、誰かの役に立っているという実感が持てないまま、ただ消費されるだけの毎日を送っていた。
けれど今、私の始めたこの「自分勝手なスローライフ」が、巡り巡って、国を支える誰かの心を救っている。
なっちゃんを可愛がり、美味しいミルクを搾り、仲間たちと笑い合う。そんな当たり前の日常が、これほどまでに誰かを幸せにする力を持っているなんて、思ってもみなかったのだ。
「キュイッ!」
ルルが上空から、森で見つけてきた「癒やしのハーブ」を人々の膝元に落としていく。
ハムさんは、人々の肩の上を駆け抜け、黄金の粉を振りまいて肩こりを解消させている。
パコは、その大きな背中に子供たちや疲れた騎士を乗せて、のんびりと楽園を一周している。
「……なつさん。見てください、あの光景を」
エルゼ様が、草原の中央を指差した。
そこでは、王都では決して相容れないはずの騎士と官僚が、一緒になってなっちゃんにブラッシングを施し、「どちらがよりなっちゃんを気持ちよくさせられるか」という、平和すぎる議論を交わしていた。
「ポメラニアンサイズの子牛……。この小さな存在が、国の歪みを正していく。……ふふ、やはり私の目に狂いはありませんでしたわ」
エルゼ様は満足げに頷き、自身もなっちゃんのモフモフの隙間に指を差し込んで幸せを噛み締めていた。
太陽が沈み始め、楽園が黄金色の夕闇に包まれる頃。
人々は皆、別れを惜しみながらも、清々しい表情で馬車に乗り込んでいった。その手には、お土産としての「空飛ぶイチゴ」と、なっちゃんのミルクで作った「特製プリン」が大切に抱えられている。
「また、来てもいいかな?」
そう尋ねる彼らの瞳には、かつてあった「死んだ魚のような光」は消え、明日を生きるための小さな希望が宿っていた。
私は、彼らを見送った後、満足げに草を食むなっちゃんを抱きしめた。
「なっちゃん、お疲れ様。みんな、君のおかげで元気になったよ」
「モニュ!」
なっちゃんは私の顔を力いっぱい舐め、それから私の腕の中で、世界で一番幸せそうな寝息を立て始めた。
私のスローライフは、今や私だけのものではない。
この優しくて温かい時間が、いつまでも、誰かの心に届き続けるように。
私は、この楽園をこれからも大切に育てていこうと、心に誓った。




