皇后の恋-4
大千穐楽の日を迎えた。
白薔薇の小さなブーケを手に、悠人は楽屋口から会場に入る。13:00からの最後の舞台のために、演者のほとんどは楽屋で準備をしているはずだ。
悠人は昨日、無事に「皇后の恋」の出演を終えた。悠人の最後の回、ヨーゼフ一世は伊織が務めてくれた。エリカと伊織、そして悠人の座組で、最高の舞台だったと言い切れる。
伊織は引き続き、義樹がアルバトールを務める大千穐楽にヨーゼフ一世として出演する。残念ながらドラマの撮影で観劇は叶わなかったけれど、ちょうどしっかりした休憩と重なったため、伊織に花束を渡しにきた次第だ。
伊織にだけ花束を持ってきたのがバレないように、悠人はサングラスにマスク姿だ。ご丁寧に帽子も被ってきたが、ちょうど楽屋に戻ろうとしていた義樹とかち合って、「何やってんだ、お前」と、笑われてしまった。
悠人が手にしたブーケを見て、義樹は眉を上げると、伊織の楽屋の方を顎でしゃくった。そのまま、義樹は自分の楽屋に消えていく。
だから悠人は、義樹にのれん越しにお辞儀をして、先を急いだ。
悠人がわざわざ伊織に会いにきた理由は2つ。
一つは、千秋楽前に、伊織に最後のエールを送りたかったから。
もう一つは、今日の約束をちゃんと取り付けるため。
今日明日の互いのスケジュールは把握している。きっと伊織も、悠人が今夜、伊織の部屋に来るだろうと思っていると思う。だけど、ちゃんとした約束をして、伊織の自宅を訪問したいと、悠人は思っていた。
だってきっと、今日は特別な日になる。そんな日なんだと、伊織とちゃんと約束したい。
コソコソしながらも弾んだ足取りで、悠人は伊織の楽屋前に立った。ノックをしようと思ったら、中から伊織と染谷の声がして、悠人は一瞬、ノックをためらった。
2人のヨーゼフ一世が、互いの健闘を称え合っている。特に染谷は、伊織の今回のヨーゼフ一世を絶賛し、彼の成長を讃えていた。そんな中に悠人が入っていくのは、憚られる。
(伊織さんは、やっぱりすごい。染谷さん、手放しで褒めてる)
思わず笑みを浮かべた悠人の表情は、次の瞬間の染谷の言葉で凍りついた。
「何はともあれ、白川と君が企てた『戸塚悠人育成計画』も、これで終了だな。どうだ、長かったろう?」
「はい、長かったです」
伊織の答えは、晴々とした気持ちが込められていて、明るい。
(俺の、育成計画……?)
悠人は思わず、ブーケを握りしめた。
「嘘は得意な方だと、思ってたんですけどね」
「意に沿わない嘘なんて、上手にならんでよろしい。それで、戸塚くんにはバレてなさそうかい?」
冗談めかした伊織に対して、染谷の問いかけは気づかわしげだ。だけど伊織は、少しテンションが高いのか、変わらず朗らかに続けた。
「さぁ、どうでしょう。こと、ここに至っては、バレててもバレてなくても、どちらでもいい気分です。育成計画は成功ですから」
伊織の言葉に、悠人は思わず一歩、後ろに下がった。身体中の血の気が引いていくのがわかる。
(嘘って、何が?)
悠人の脳裏に、ここ最近の伊織の姿がいくつも浮かんだ。ウィーンで抱きしめ返してくれた伊織。予定を切り上げて日本に帰ってきて、一緒に初詣にも行ってくれた。それからだって、伊織はもう、抱きしめる悠人の腕から逃れたりしなかった。いつだって受け入れてくれて……。
(嘘だったって、こと……?全部……?)
悠人がいうスケジュールをちゃんと覚えてくれて、悠人が自宅にいつ訪問するか、ちゃんとわかってくれて。時間があれば、悠人の訪問を当たり前に思ってくれている風で。
悠人がわざと残した悠人の痕跡にも、ちゃんと、伊織の部屋の一角に居場所を作ってくれたのに……。
(でも、キスは絶対、避けられて……。そこまでは、嘘がつけなかたって事?!)
グラグラと地面が揺れるような感覚がした。玄関を開けて迎え入れてくれていた、あの笑顔も、全部、嘘だった?時には、伊織の方が自分を待っていてくれたんじゃないかと錯覚するほど、優しい笑顔を見せてくれていたのに……?
この事実は、あまりに、ひどすぎる……。
「とにかく、今日から僕は、自由の身です」
伊織の朗らかな声を、もう、聞いていられなかった。悠人は踵を返すと、元来た道を歩き出す。歩調はどんどん早くなって、それと一緒に、堪えられない涙が溢れてくる。
(誰から、自由に……?伊織さん……)
昨日まで、伊織を不自由にしていたもの……。
(それは、俺……?)
楽屋口から無言で出て、悠人は裏通まで走った。嗚咽が口から溢れてから、悠人は立ち止まると膝に両手を置いて喘いだ。
(あんなふうに見つめてくれたのも、嘘だった?)
そういえば、伊織が素直に腕の中にいるようになってから、悠人は、その瞳がガラス玉かどうかを確認しなくなった。伊織の態度が、まるで悠人を好きだと言っているようだったから。それに有頂天になって……。
(嘘だった……、伊織さんの、嘘だった……)
きっと悠人の演技のために、白川と一計を案じたのだ。悠人の恋心を利用して、新しいアルバトールを生み出した……。
そのおかげで、悠人のアルバトールが絶賛されても、悠人自身の役者としての評価が上がっていたとしても、許せそうもない。許せるわけがない。
悠人の気持ちを弄んでいたのだとしたら……。
(許さない……、伊織さん……)
ここまで膨れ上がった伊織への気持ちのやり場を、どうしたらいい。
きっと今夜は、伊織を腕に抱いていられると期待しながら、こんなところまでノコノコやってきた間抜けな自分を、どうしたらいい。
(絶対に、許さない……)
悠人は握りしめすぎてくしゃくしゃになったブーケを力任せにアスファルトに叩きつけた。それでも足りずに、それを思い切り蹴り上げる。ブーケは弧を描いて、どこかに消えていった。
そして悠人は、思いを振り切るように、劇場とは反対方向に駆け出した。
大千穐楽のスタンディングオベーションを、伊織は眩しい気持ちで見つめた。この瞬間のために生きていると言っても過言じゃない。演者も観客も一体になって、この素晴らしい作品を讃える瞬間だ。
ふと隣を見ると、義樹は珍しく涙を浮かべていた。そして伊織の視線に気がつくと、義樹は伊織に飛びついてきた。そんな義樹を、伊織も力いっぱい抱きしめる。拍手が一層、大きくなった。
義樹にとって、この公演がどれほど苦しかったか知っている。大千穐楽の今日、義樹は「やはりアルバトールはこの人だ」と思わせるような演技を見せた。やり切った義樹を讃えたいと思う。
大千穐楽のメディア取材は、笑いあり、涙ありで、和やかだった。悠人が突然覚醒して、現場を混乱に陥れたことや、それによって全役者が阿鼻叫喚の坩堝に陥ったことなどが愉快な逸話として披露された。モブ1こと松本も、「モブイチの乱」を披露されて、イジられて笑顔を見せている。
(やり切った、悠人くん……)
ここに悠人がいないのが寂しい。だけどきっと、撮影の現場で時計を見ながら、この景色を想像してくれていると思うと、伊織は自然と笑顔になった。
涙と笑いと、そして、この現場から離れる寂しさを抱えながら、演者たちは楽屋に戻る。記念写真を撮ったり、別れを惜しんだりして、ひとしきりの時間が経つと、楽屋のフロアからは少しずつ、人がはけていった。
義樹もマネージャーに連れられて帰っていった。こんな日だというのに、夕方から別の仕事だという。
そういう伊織も、1時間後には事務所で打ち合わせだ。いただいた花束やプレゼントなどと一緒に、手早く荷物をまとめて肩に担ぐと、伊織は自分の楽屋を見回した。
(本当に、色々あった……)
だけど、この公演で得たものの大きさは、どうだろう。自分の殻を破って得た演技。その達成感と充実感。自分の欲に気づいた瞬間。目指したいものも、できた。
そして、悠人。
(撮影、21:00には終わりそうって、言ってたな)
それ以上に伸びることはあっても、早く帰ることはないだろう。伊織の打ち合わせは18:00には終わるだろうから、そこから買い物に行っても、ちょっとした手料理を振る舞える時間だ。
楽屋口から搬入口に降り、呼んでいたタクシーに乗り込む。地下1Fから地上に出たタクシーから車窓を眺めていた伊織は、無造作に歩道に落ちているブーケを見つけた。
(誰か落としたのかな……。白薔薇が潰れちゃってる)
何人かに踏まれてしまったのかもしれない。ブーケの周りに、花びらが散りじりに落ちている。
タクシーがブーケを行き過ぎると、伊織はその可哀想な花のことを忘れた。
悠人が撮影が終わると言っていた21:00を1時間すぎても、悠人からの連絡がなくて。仕事中の人に御法度と思いつつ、伊織は悠人に電話をかけた。着信音は鳴るのに悠人は出なくて、伊織は仕方なくスマホを手放す。
現場が予定通り進まないことなんて、よくあることだ。それでも、最近のテレビ業界はコンプライアンス上、日を跨いでの撮影はあまり行われないと聞いている。
「遅くとも、1:00には帰って来るかな」
料理はもう、温めればいいだけのところまでし上がっているし、少し眠気を感じた伊織は、悠人を待ちながら仮眠をとることにした。30分おきにアラームをセットして、悠人が置いていった大判のストールをかけ、ソファーに座る。そのままスマホを膝に置いて目を閉じた。
(そういえば、今度のドラマ、どんな役をやるんだろう)
悠人がきたら、聞いてみよう。そこまで考えたところで、伊織の意識が揺らぐ。暖房の暖かさが心地いい。
それから30分おきのアラームに目覚めても、悠人からの連絡はなくて。
そして悠人は、伊織の前から、姿を消した。
大千穐楽の日から、半月が過ぎた。
1人の自宅で、伊織は悠人が置いていったストールにくるまって、ソファーにうずくまっている。何度考えても、わからない。何も、わからない。
(どうして……)
「どうして」も「なんで」も、何度も思った。思っても思っても、答えは出ない。悠人と最後に会った、悠人の千穐楽の日の記憶も、何度も何度も反芻した。楽屋に戻った悠人は、片付けた荷物をマネージャーにあずけてから、伊織の楽屋を訪れた。
明日の早朝ロケのために、その日はホテル宿泊なのだと言っていた。そのスケジュールは伊織も知っていたから、「わかってる」と頷いてから、「頑張って」と、答えた気がする。
そして悠人は、いつものように伊織を抱きしめてくれて。そして翌日は撮影で劇場には来れないのに、「また、明日」と告げて、帰っていった。
「また、明日」。大千穐楽の舞台を終えた伊織の家に、悠人は帰ってくる。そういう約束に近い言葉だと思っていた。
だけど、悠人はその日、来なかった。翌日も来なかった。
何かあったのではと心配になり、伊織は何度も電話をかけた。メッセージも送った。メッセージは既読にならず、何回かの電話の後、悠人の電話の返答は「お繋ぎできません」という、着信拒否のものに変わった。
悠人に何かあったんじゃない。伊織が悠人に拒絶されたのだと気づいた瞬間だった。それ以来、何度も考えている。その理由がなんだったのか。考えて考えて、どんなに考えてもわからない。
あまりにも理由がわからな過ぎて、実は悠人なんて存在していないんじゃないかとさえ、考えてた。全部、自分の寂しさが見せた幻想で、悠人なんて人は、初対面のあの日から、存在していなかったんじゃないかと。
その想像があまりに怖過ぎて、伊織は悠人が置いていった物たちを、一つ一つローテーブルに並べて確かめた。元旦の夜、悠人が被ってきた帽子、いつの間にか置かれていたサングラス、伊織の指には少し大きいサイズの指輪、それから、悠人の台本と譜面。悠人が置いていった大判のストールにくるまって、それらを一つ一つ手にとって、確かめる。
悠人の台本には、多くはないけど悠人の文字でメモが残されていた。「俺の皇后は」という走り書きを見た時、いつだったかの朝に「俺にとっては皇后だよ」と伊織に向かっていってくれた、悠人の声をはっきり思い出した。
だから、悠人は絶対に存在していて、伊織に気持ちを届けてくれていたことに間違いはない。そして、大千穐楽の前日、悠人は間違いなく、伊織を抱きしめてくれた。
「な……んで……」
納得する答えなんてない。
もし、唯一あり得そうなことが浮かぶとしたら……。伊織が最後の舞台を務めている間に、悠人が他の誰かに気持ちを移してしまったという答えぐらいだ。
ドラマの撮影だと言っていたから、女優や俳優がたくさん現場にいるんだろう。その中の誰かが悠人の気持ちを捉えて、伊織から悠人を取り上げてしまったとしたら……。
「い、やだ……」
悠人の腕が自分以外の誰かを包む想像に、伊織の全身が震える。あの腕は、伊織を温めてくれる唯一のものだ。だけど、伊織が「いやだ」と否定すればするほど、その想像は鮮明になる。伊織が何度も制した悠人の唇が、他の誰かの唇と重なったら……。
(いやだ、悠人くん!!)
両手で頭を掻きむしり、伊織は何度も嗚咽を漏らす。もしそんなことになったとしたら、悠人の気持ちは自分にあると過信して、大千穐楽まで悠人を受け入れ切らなかった自分を呪ってしまう。
「好き……、なんだ……」
この一言を、どうしてもっと早く言わなかったんだろう。悠人が伊織を見つめてくれているうちに伝えていたら、もっと悠人を捉えらえたかもしれないのに。
もし悠人が戻ってきてくれるなら、何十回も、何百回でも言うから。それでも足りないと言うなら、何千回でも何万回でも言うから。
「戻ってきて……、悠人っ……」
そうして、僕を抱きしめて。名前を呼んで。
そうでないと、僕はもう……。
君がいないと、もう、寂しくて、寒くて、仕方がないんだ。
悠人くん……。
『マネージャーさんから連絡もらったぞ。何かあったのか?』
義樹からの電話は、気遣わし気だった。きっと、伊織の状態をマネージャーが相談したのだろう。本人からも「何かあったのか」と、何度も尋ねられた。答えることはできなかった。
「なんで、も、ないっ」
『なんでもないわけないだろ!声、掠れてんじゃねぇかっ!』
驚きと、わずかな怒りを滲ませて、義樹が怒鳴る。そして『悠人と、何かあったのか?』と尋ねられた。
悠人の名前を言われて、伊織の涙腺が崩壊する。堪えるのは、もう、限界だった。
「あ、えて、ないんだっ」
嗚咽混じりに伊織が訴えると『なんで?』と、伊織が何度も繰り返した疑問を、義樹からも投げかけられる。
「分からないっ」
『大千穐楽の日に、白薔薇のブーケ持ってお前に会いにきてただろう。顔は隠してたけど、全身からルンルンオーラ滲ませて。あの後からか?』
義樹の言葉に、伊織は目を見開く。脳裏に、帰りに見た、無惨に潰れて歩道に落ちていた白薔薇のブーケが浮かんだ。
あれがもし、義樹のいうブーケだとしたら……。悠人はそれを、捨てたということだ。
「あ、ってないっ!楽屋にっ、来てないっ」
伊織はあの日のことを反芻する。義樹と雑談をして、白川から発破をかけられて、それから染谷がきて……。
(染谷さんと、育成計画の話を、した……)
「育成計画」なんて、伊織と染谷の間の、ちょっとした冗談だった。悠人が恋をしている相手への気持ちが、公演中に変わってしまわないことを願っていた白川の気持ちを汲んで、その相手が自分だと知っている伊織が、悠人との関係を進めることを躊躇っただけに過ぎない。
染谷もそれはわかっていて。でも、ほんの冗談で、伊織が耐えていることを「育成計画」と名付けただけなのだ。
だけど、それを知らない悠人が、話を聞いてしまったとしたら……。
まるで背中に冷水を浴びたような感覚に、伊織は陥る。
もし悠人があの会話を聞いていたら……。真逆の誤解をしてもおかしくない。伊織が恋心を隠していることが「嘘」だったけれど、結局、隠し切れてはいなかったから。
(悠人くんにとって、僕の気持ちこそ「嘘」になるんだ……)
スマホを取り落としそうになる。まさか悠人があの会話を聞いていたなんて、想像もしていなかった。
「よ、義樹、くんっ、悠人くんの、家、し、知ってるっ?」
『2回ぐらい遊びに行ってる。ちょっと待て』
しばらくして、伊織のスマホにメッセージが届いた。義樹に悠人が送ったであろう、住所だ。
(ここに行けば、悠人くんに会える……)
伊織にとっては命綱みたいな住所だ。
「ありがとっ」
『あ、伊織っ!』
義樹の呼びかけを無視して電話を切ると、伊織は玄関に向かう。スニーカーの踵を潰したまま、スマホを握りしめて飛び出した。
住所は、伊織の自宅からそう遠くない。タクシーで行けば、10分程度の距離だ。
(家にいて、悠人くん、お願いだから……)
もう、0:00を回っている。悠人が家にいる可能性は高い。もし、染谷との会話が原因だとしたら、悠人は誰かに心を奪われたんじゃなくて、ただ、伊織に憤っているだけかもしれない。
それなら……。ちゃんと、話さえできれば……。
悠人を、取り戻せるかもしれない。
あれから、眠れない。目を閉じると、伊織の楽しそうな顔がチラついて、イラつかせてくるから。
だから悠人はアルコールに頼った。飲めるだけ飲んでしまえば、前後不覚になって、気がつけばアラームが鳴る。悠人の体からアルコールの匂いが消えないからか、マネージャーの本庄は、嫌そうな顔をしながらも悠人のスマホに翌日のアラームをセットしてくれている。
どこかで、正気に戻らなければと思っていた。だけど、きっかけがない。
うさが晴れるようなこともなければ、泣くきっかけもなくした。あの日、撮影現場に戻ってなんとか演技をこなしたせいで、逆に悲しみに浸るタイミングを逸してしまった。
ただ伊織が憎い。それだけだ。今頃、晴れ晴れと自由を満喫しているかと思うと、その笑顔が曇るような罵倒を口にしたくなる。
「クソっ!」
また、伊織のことを思い出した。悠人は飲み干したビールの缶を壁に投げつける。「ぼこっ」と妙な音が鳴ったせいで、余計に苛立ちが募った。
突然鳴ったスマホの着信音に、悠人はビクッと肩を振るわせる。そして表示されている義樹の名前を見て、顔を歪ませた。
伊織の番号は、早々に着信拒否にした。メッセージもミュートにしてある。これまでの間に、伊織から何度連絡があったか知らない。伊織からの着信を受けたところで、晴れ晴れした声で種明かしされるだけだ。「君のためだったんだよ」と、先輩らしく訓示を垂れる伊織の声なんて、聞きたくもない。
2度と顔も見たくないし、会いたくもない。
「一生、恨んでやる……」
呟いたら、苛立ちに加えて悔しさも湧き上がった。悠人がどんなに恨んだところで、成川伊織に影響なんてない。たかがモブを弄んだ程度だ。「作品の出来が良かったんだから、いいじゃないか」と、笑いかねない。
腹立ちが治らなくて、悠人は気晴らしにトイレに立った。リビングに戻る途中で、インターフォンが鳴る。
いつもの宅配のくせで、反射的に解錠を押してしまう。そして、今日は何も頼んでいないことに気づいてモニターを見た時には、遅かった。
画面から外れようとしている肩だけでわかる。
伊織だ。
と、すると、先ほどの義樹の電話は「伊織に住所を教えたぞ」という、律儀な報告だろう。ご丁寧なことだ。
「ちょうどいいや……」
悠人は、テーブルの上のコンビニ袋からビールを取り出す。500mlのそれを開けて一気に喉に流し込み、悠人は玄関に向かった。
ちょうどいい憂さ晴らしだ。
俺をこんな気分に陥れた奴に、責任を取らせてやる。
悠人の部屋のインターフォンを押すと、程なく扉が開いた。暗い玄関の中に、異様なぐらい目をギラギラさせた悠人の顔が見える。
「悠人くん……」
伊織がそっと呼びかけると、その顔は奥に引っ込んだ。閉じそうになったドアを開いて、伊織は中に足を踏み入れる。悠人はビール片手に、上がりマチの上から伊織を見下ろしていた。
伊織の目に映る悠人は、もはや醜態に近い。髪もボサボサで、着ているスウェットの下からだらしなくTシャツがのぞいている。そして、伊織を見下ろす表情はニヤついていて、伊織を嘲笑っているかのようだ。
伊織は、手に持っているスマホをグッと握った。ちゃんと、話をしなければ。落ち着いて、ちゃんと……。
「悠人くん、誤解、なんだ」
伊織が言った途端、悠人は「誤解ぃ?」と嫌な語尾の伸ばし方で、復唱をする。それだけで、伊織は喉が詰まったようになってしまった。正直、目の前の悠人が怖かった。
それでも、取り戻したい……。悠人を、取り戻したい。話さえ聞いてもらえれば、きっと、「なんだ、そんなことか」と言いながら、いつもの悠人が戻ってくる。
「ちゃ、ちゃんと話を……!」
伊織が手を伸ばした途端に、その手は結構な強さで振り払われた。反対に顔を押さえ込まれて、目の前に悠人の怒りの形相が現れる。
「何が、話だ。冗談じゃねぇよ」
「ゆ……」
「俺はなぁ、怒ってんじゃねぇんだよ。恨んでんだよっ!!!」
叩きつけるように叫ばれて、伊織は戦慄する。片手で押さえ込まれた顔に、ギリギリと悠人の指が食い込んできた。
「あんたの顔なんて、2度と見たくなかったよっ!よくもまぁ顔を出せたもんだなっ!」
「ゆ、と、……くんっ」
掴まれた顔の痛みで、伊織の意識が白濁しそうになる。でも、それでも……。
「ちゃ、ちゃんと、話をさせっ……」
「うるせぇっ!」
悠人の手が顔から離れたと思ったら、ドンっと肩を押された。弾みで伊織の手からスマホが滑り落ちたが、それにも構わず、伊織は悠人に手を伸ばす。
だって、誤解なんだ……。
それさえ話せば、君は絶対、びっくりして、それから「なんだ、そんなことか」って呆れて、「紛らわしい」ってちょっと怒って……。
でも、最後には絶対、わかってくれる。
わかってくれるはずだから。それで、僕を、いつもみたいに、抱きしめてくれるはずだから……。
「悠人くんっ!!聞いてよっ!」
また伸ばされた伊織の腕を、悠人は掴み上げた。
「恨んで、憎んでんだよっ、こっちはっ!」
悠人が叫んだ途端、伊織の目にブワッと涙が浮かんだ。両方の目に映り込んでいる悠人の怒りの形相が涙に滲むのを見て、悠人は少し、溜飲を下げた気がした。
仕上げとばかりに、伊織を玄関のドアに追い詰める。それでも伊織は、溢れる涙を拭いもせずに、悠人の顔に触れようとした。
「うぜぇんだよ、おっさん!」
悠人が放った言葉の威力は十分だったようだ。伊織は呆然として固まった。悠人に伸ばされていた手が、だらりと落ちていく。
悠人は構わず玄関のドアを開けて、伊織を外に突き飛ばした。転びこそしなかったものの、伊織は二、三歩後ろによろめいて、内廊下の壁に体を打ちつけたようだ。
「2度と、俺の前に現れんなっ」
言い捨ててドアを閉め、鍵もかけて、悠人はリビングに戻る。そしてソファーにどさりと座り込んだ。
「ああ、スッキリした」
無理に、そう口にした。正直、気分は最悪だ。さっきまで手に持っていたはずのビールも、どこかに行ったし。
仕方なく、悠人はまた、新しいビールを開ける。もはや苦味しか感じられないそれを喉に流し込んで、イライラとテーブルを指で弾いた。
明日だって、撮影はある。昼前に入ればいいけれど、その前に顔のむくみぐらいはどうにかしなけりゃならないだろう。悠人はそのままソファーに転がった。
少しでも眠らなければ……。両目の上に腕を置いて、無理やり目を閉じる。伊織の姿こそ浮かんで来なかったけれど、先ほど耳に響いた伊織の声が蘇ってきた。
『ちゃ、ちゃんと、話をさせっ……』
『悠人くんっ!!聞いてよっ!』
ヨーゼフ一世を演じている時ですら出さなかった、悲鳴に近い声だった。
それに……。
(掠れてたな……、声……)
伊織を目の前にした時は、傷つけることばかり考えていて気にも留めなかったけれど……。この数年間、少なくとも稽古や公演を共にした時に、伊織の声が掠れていた記憶は一度もない。ミュージカル以外でも、伊織は役者としてより声楽家としての活動が多いから、声のケアを怠らないはず……。
「はぁ……」
結局、腕をどけて、悠人は目を開けた。今度は伊織の声が睡眠の邪魔をしてきやがる。体勢を変えて横向きになり、もう一度、目を閉じた。
伊織のことなど考えまい……。そう思う矢先から、先ほどの伊織が浮かんでくる。
誤解だと、言っていた気がする。あの日、悠人が伊織の楽屋を訪ねたことなど、伊織は知らないはずだ。だったら、悠人が何に怒り、傷ついたかも知らないことになる。
(それを、誤解とか……、適当なことを……)
思った途端、あの日、義樹に会ったことを思い出した。思わずまた、目を開いてしまう。
(義樹さんに聞いたとして……。染谷さんとの会話を、俺が聞いたことに気づいたとして……)
それでも、悠人の「育成計画」とやらで、嘘で悠人の気持ちを弄んだことは事実だ。
(それが「誤解」とか……。よくもまぁ、言えたもんだ)
「今日から自由の身だ」と、あんなに機嫌よく宣っていたくせに。
(ダメだ…‥、少しでも眠らなきゃ…‥)
悠人はまた、目を閉じる。だけど、目を閉じると、やっぱりまた、伊織が浮かんできた。
モブを弄んだ程度のことで、両目に涙を溜めていた。成川伊織からしてみたら「舞台が成功だったんだからいいじゃないか」ぐらいのことなくせに。
そのモブに対して、随分、必死になって。「次の公演に差し障ると困るな」とかで、機嫌でも取るつもりだったのが、あまりの悠人の怒りの大きさに、驚いて怖くでもなったんだろう。
涙まで、流して…‥。
悠人はまた、目を開けた。そのまま、空間を凝視する。
何か、見落としてはいけないものがあった気がした。
伊織の瞳には涙が……。違う、そうじゃなくて……、伊織は、悠人を見ていて、その瞳に……。
(俺が、映ってた……?)
伊織の瞳に映る、憤怒の表情の自分を見た気がする。ギリギリと伊織の顔に指を食い込ませた時……?違う、腕を捻り上げて顔を近づけたら、自分が映ってて、それが、伊織の涙で歪んだのを見た……。
その映像が頭に浮かんだ途端に、悠人は、すごい勢いで飛び起きた。
伊織は、モブを瞳に映したりしない。それが嫌で、嫌で、何度、彼の瞳を確認しただろう……。もし稽古中や公演中に伊織の瞳に映った悠人が「嘘」だったとしても、さっきのあれは……。
(伊織さん……)
思わずスマホを手に取った。伊織を追い出してから、どれぐら時間が経っただろう。時計も気にせずに飲んでいたから、全くわからない。
(ちゃんと、家に帰ったか……?)
なんとなくそんな考えが頭に浮かんで、悠人は苦笑する。ここから伊織の家まで、タクシーなら10分程度だ。帰れないわけがない。
だけど……。伊織は、なんとなく、寒空の下で、自分を罰するようなことをしそうな気がする。そんなことを思ったのは、確か、悠人のアルバトールが覚醒した稽古で、伊織が完全にペースを無くした時だ。
そんな風に自分を律し過ぎたりせず、ちゃんと、温かくして帰って欲しいと願ったことを思い出す。
同時にザワザワと、不安がセリ上がってきた。
(せめて、帰宅したかだけでも、確認しよう……)
追い出しておいて「家に帰れた?」と電話をするのは、間抜けもいいところだ。だけど、このままでは気になって気になって、仕方がない。
「くそっ!」
悪態をついて、悠人は伊織の番号を履歴から探す。着信を拒否して以降の履歴は残らないから、だいぶ前の履歴に、伊織の名前を見つけた。その頃も、もう、伊織の電話には出なくなっていた。
(こんなに、かけてきてたんだっけ……)
煩わしさが先に立って、見もしなかった。その間にも伊織は、悠人のことを考えていたのかも知れない。
悠人は思い切って、発信した。無事に伊織が出ればいい。今、伊織を心配してしまっていることと、例の計画は、別の話だ。
注意深く発信音を聞いていた悠人は、どこかでバイブレーションが鳴っていることに気がついた。嫌な予感しかしなくて、スマホを耳に当てたまま、音の方へ向かう。
そして、三和土の上で光るスマホを見つけて、愕然とした。
思わず走って、玄関のドアを開ける。伊織の姿はない。
悠人が発信を止めると、三和土の上のスマホも静かになった。間違いない、伊織のスマホだ。
伊織のスマホを拾い上げ、悠人は走ってリビングに戻ると、とりあえずコートを着込んだ。3月も下旬だが、夜はどうしたって冷える。
玄関から内廊下に出て、非常階段に続くドアの窪みまで見て回る。伊織の姿はなかった。次に悠人は、エレベーターに向かった。悠人のマンションの1Fには、小さなソファースペースがある。そこにいてくれたら、御の字だ。
祈るような気持ちでエレベーターで1Fに降りたけれど、伊織はいない。マンションを出て大通りを見回したけれど、伊織はいない。
追い出しのは自分だ。わかっている。わかっているけれど……。今、目の前に伊織がいない事に恐怖しか感じない。
「伊織……、どこに……」
呟いた途端、悠人は弾かれたように走り出した。家にいてくれたら、それでいい。それで安心できる。
走りながら伊織を探した。時々立ち止まって、周りを見回す。伊織らしい人影はなくて、代わりに大通りにたむろう外国人に目が止まった。こんなところをフラフラ歩いていたら、何をされるかわかったもんじゃない。
注意深く伊織を探しながら走って、走って……。伊織を見つけられないまま、悠人は伊織のマンションに着いた。
こうなると、伊織は自宅に帰れている可能性高い。
(多分、大丈夫……)
自分に言い聞かせ、息を切らしながらインターフォンで伊織の部屋番号を押そうとしたところで、外出する一団がマンションから出てきた。それをやり過ごし、住人っぽいふりをして開いた自動ドアを潜り抜ける。夜でも活動している街は、ありがたい。
コンシェルジュがこちらを見ていたが、何度か顔を合わせた人だったので、会釈をしたら笑顔を返された。悠人も笑顔で通り過ぎる。
エレベーターのセキュリティが高くなくて助かったと思う。伊織の自宅階を押して扉が閉まると、悠人はがっくりとしゃがみ込んだ。
伊織はきっと家にいる。きっと大丈夫だ。仮に、さっきの悠人の剣幕に恐れをなしたとしても、インターホン越しぐらいなら在宅を知らせてくれるだろう。それで、安心できる。それだけで、いい……。
(何、やってんだ、俺は……)
恨んで、憎んで、傷つけて……、なのに真夜中の全力疾走だ。義樹あたりに知られたら、「バカなの?」と、呆れられるだろう。
やがてエレベーターは伊織の自宅階に到着した。伊織の自宅のドアを見ただけで、条件反射のように心臓が跳ねる。あのドアを開けて、伊織のいる部屋に入れることが、どれほど幸福だったか。
悠人は伊織の自宅の前に立って、ちゃんとカメラに映るようにしながらインターフォンを押した。夜中のインタフォーンは想定以上に大きな音に感じられる。
悠人は、中の気配を伺った。伊織の自宅はシンと静まり返っている。
(もう、寝たとか……?それならそれで、いいんだけど……)
確かめる術がないから、悠人は思わずノブに手をかけた。ゆっくり回すと、抵抗もなく玄関のドアが開く。
(カギもかけずに……、何を……)
おおよそ、伊織らしいくない状況に、また嫌な予感が湧き上がる。開いたドアの向こうの廊下は真っ暗で、リビングも薄明かりが灯っているぐらいだ。
これで伊織が、ヘッドホンでもして動画を見ながら笑ってるというなら、それはもう、それでいい。「あの出来事の後によく笑ってられるな!」と、思いはするだろうけど、伊織がちゃんと、自宅にいるなら……。
玄関の中に入って、悠人は「伊織さん」と声をかけた。どこかで物音がしないか、祈る気持ちで耳をそばだてる。
でも、部屋のどこからも、伊織の気配は感じられなかった。
伊織は、帰っていないのだ。その事を認識して、悠人は思わず舌打ちをした。
(どこかで追い越した?それとも伊織さん、別の道を……?)
いくら外国人が多くても、大通りが一番安全だ。とはいえ、繁華街に近いこの場所は、朝までやっている店がいくつもある。その辺りの路上は、たいてい人がいるし、伊織にとって慣れた道はいくつもあるだろう。
(別の道で、家まで戻るか?)
そうすれば、途中で伊織を見つけられるかも知れないと、悠人は考える。仮にまたすれ違っても、伊織のスマホをここに置いていけば、悠人が来たことはすぐにわかるはずだ。
だけど、もし伊織からの連絡がなければ、朝どころか、伊織の安否がわかるまでハラハラさせられる。
「くそっ!」
本日、何度目かの「くそっ!」を吐き出した時、レベーターの稼働音が聞こえた気がした。悠人は薄く玄関を開けて様子を見守る。悠人が乗ってきたエレベーターとは別の機が動いているようだ。
(頼むから、伊織さん……)
どうか、伊織であってくれと願う。悠人が見つめる先で、エレベーターは小さく「チン」と鳴った。イライラするぐらいの速度でドアが開いて、俯きがちの伊織が降りてきた。
途端に、悠人の胸が抉られた。
伊織なのに、そこにいるのは、悠人の知っている成川伊織ではなかった。
疲労困憊で満身創痍といった風情で、伊織はトボトボ歩いてくる。その足取りが、伊織の失意を物語っていた。
こんな伊織を見るのは、本当に初めてで…‥。
自分は、もしかしたら伊織の言うように、「誤解」してしまったんじゃないかと思う。
たかが「誤解」で、伊織を、ここまで傷つけてしまったとしたら…‥。
(笑ってると、思ってたんだよ……)
「自由の身だ」と言っていたから。晴れて、悠人の「育成計画」から解放されて。なんなら「子守りは懲り懲りだよ」なんて、義樹あたりと笑ってると……。
そう思ったから、憎むしかなかったんだ。結局、モブでしかなかったと突きつけられたから、傷つけたかったんだ。
(俺の気持ちを、笑ってたんだと、思ったんだ……)
でも、きっと、違ったんだ。伊織が必死に言ったように、何かが「誤解」なんだ。
ちゃんと話してくれれば……。
いや、違う。俺がちゃんと、話を聞けば、きっと、すぐに解ける「誤解」だったんだ……。
それを伝えにきてくれたのに、そんな伊織を、もっと傷つけた。泣いている伊織に、さらにひどい言葉を投げつけた。
時間が時間だから、悠人は透明に近い声で「伊織さん」と呼んだ。聞こえない距離かと思ったけれど、伊織は俯いた顔をあげた。
生気のない表情に驚きが混じる。「悠人くん」と、口だけ動くのが見えた。
そして突然、伊織はしゃくりあげた。そのまま、全力でかけてくる。
足よりも体よりも早く、伊織が伸ばした腕が悠人の首に巻きついた。勢いつけてぶつかってきた伊織の体を、悠人は受け止めて玄関に引き入れる。
「い……」
名前を呼ぼうとした瞬間、伊織の手に頭を引き寄せられた。同時に激しいキスに襲われる。悠人が目を見開いて硬直しても、伊織は舌を絡めてくる。それはもう、甘いとか、とろけるとか、そういう次元ではない。
伊織のキスは、文字通り、必死だった。何かを伝えたくて必死だった。呼吸が間に合わない悠人が止めようとしても、止まらない。
なす術なしで、悠人は受け止めることに専念する。伊織を抱く腕に力が籠った。
(伊織さん……)
こんなになるぐらい、俺を、好きだった…‥?
本当に、俺が、誤解しただけだった…‥?
(だとしたら、俺は、なんてことを…‥)
成川伊織を…‥、この大事な人を、こんなに切羽詰まるぐらいまで傷つけた。その原因は「誤解」だったかも知れないけれど、悠人が伊織を信じてさえいれば、その誤解も防げたはずだ。
(俺が、逃げたんだ…‥)
文字通り染谷と伊織の会話から逃げ出して、伊織から逃げ出して、伊織への想いから逃げ出した。伊織が追いかけてきたのに、それからも逃げたくて、伊織を傷つけることをたくさんしてしまった。
それでも伊織は、伝えようとしてくれている。
「いおっ…‥んっ…‥」
名前を呼ぼうにも、キスで阻まれる。とにかく一度、伊織を落ち着けようと、悠人は自分の頭を拘束している伊織の手に触れた。
途端に、ゾッとした。伊織の手は、氷みたいに冷たい。
慌てて肩に触れてみる。腰も人の体とは思えないぐらい冷え切っている。
その上、伊織は上着も羽織らず、シャツ姿であることに気づいた。きっと、悠人の自宅にきた時から、そうだったに違いない。本当に、何も見えていなかった。
とにかく伊織の体を温めなくては。抱きしめた程度では何の足しにもなりそうもなくて、悠人は唇を伊織に預けた状態でコートを脱いだ。それを伊織の肩にかけようとしたけれど、身長差のある悠人の頭を抱えているから、滑り落ちそうになる。
無理やり伊織を引き離し、腕もろともコートで覆って引きずる。リビングの方が少しは暖かいと思ったのだ。伊織が首を伸ばしてくるから、キスを返しながら、悠人はリビングに向かう。
だけど、リビングも暖房はついていなかった。部屋の空気も、数時間暖房を切ったというレベルの冷え方ではない。
ソファーに無造作に置かれた自分のストールを見つけた悠人は、顔を歪めた。
伊織はまさか、暖房さえ忘れて、これにくるまって過ごしていたのか…‥?
その間、自分はギリギリな状態ではあったものの仕事をこなし、夜には好き放題に酒をかっ食らっていた。冬の終わりの寒さを、暖房の効いた部屋で過ごしていた。
あまりにも鬱憤が溜まりすぎて、誰か女でも呼ぼうかとさえ、何度か考えた。
それもこれも全て伊織のせいだと思っていた。
「伊織さんっ!!」
コート越しに、力一杯、伊織を抱きしめた。ソファーにもつれて座って、伊織の冷えた体を、自分に極力触れさせる。伊織はようやく体の力を抜いて、悠人にもたれてきた。
そのこめかみにキスを落として。額にも、涙でぐちゃぐちゃの目元にも、優しく唇を押し付ける。何度も、何度も…‥。
傷つけてしまったけれど……。本当は伊織に、こうしたかったことを、思い出す。
ふとテーブルに目をやると、サイドデスクにまとめられていたはずの悠人の持ち物が、並べられているのが見えた。伊織が並べたのだろうか…‥。
聞かなくても、理由はわかる気がする。開かれた悠人の台本の片隅に「俺の皇后は」という文字が見えるから。伊織が感じた通りだ。本当は、「俺の皇后は伊織さん」と書きたくて。でも、誰かに見られたらマズイから、途中でやめた走り書きだ。
この部屋で、唯一、悠人の存在を感じられる物たち。伊織を慰められる物たちを、どんな気持ちで伊織は手に取っていたんだろう。
「伊織さん……、ごめんっ!」
悠人の謝罪に、伊織が顔を上げる。頬には全く赤みがなくて、このまま伊織の体温が戻らなかったらどうしようと不安になった。
「伊織さん、体を温めよう。風呂、入れてくるから、ちょっと待ってて」
悠人が体を起こそうとしたら、伊織がのしかかってきた。悠人のスウェットにしがみついて「やだっ、やだっ」と、繰り返す。
「置いていくんじゃないよ。風呂をいれて……んんっ!」
説得を試みている途中で、またキスだ。普段なら嬉しい状況だけれど、今は、伊織が心配すぎる。
またなんとか伊織を引き剥がし、悠人は伊織をコートごと抱えた。伊織の冷たい腕が、悠人の腹に巻きつく。それだけでも、悠人の体が冷え切りそうな冷たさだ。
しがみついてくる伊織を連れて浴室に向かい、隙をつくみたいに唇を寄せてくる伊織に応えながら給湯ボタンを押す。風呂の栓も、抜かりなく締めた。
そこからまた、リビングに向かおうとした悠人は、途中で寝室に切り返す。布団を被った方が温かいと判断したのだ。
掛け布団の中に伊織と一緒にもつれ込んで、上になった伊織に唇を吸われながら、なんとか自分のスウェットを脱ぐ。伊織のシャツのボタンを外し、ボトムも脱がせて、悠人は伊織の体を抱きしめた。
どこまでも、伊織の体は冷えている。裸の伊織を抱いているのに、エロい気分になるどころか危機感ばかりが募った。顔を撫でてくる冷たい伊織の手も捕まえて、2人の体の間で拘束した。そうして、手のひらでさすった背中も腰も尻も、まだ冷たい。
その上伊織は、悠人の唇を求めてずり上がってくる。
(ダメだ、これじゃ…‥)
悠人は一瞬起き上がり、伊織をうつ伏せに組み伏せた。その上にピッタリと体を押し付けて布団を被ると、伊織はようやく静かになった。
だけど、伊織は悠人を探す素振りを見せる。
「ゆ、と…‥くんっ」
「いるよ、伊織さん」
そっと耳元で囁いて、布団からはみ出している伊織の両手を捕まえた。
「ゆう……ん」
「大丈夫、いるよ。伊織さん、俺はいるから、大丈夫。大丈夫だよ」
伊織が悠人を探さなくてもいいように、何度も繰り返す。少しは安心したのか、伊織の呼吸音だけが聞こえるようになった。
眠ってしまったら、風呂は諦めなきゃならない。悠人がそっと伊織を伺うと、伊織はぼんやり目を開けたまま、涙を流していた。その横顔に、多分、悠人が掴み上げた時についたであろう赤味が残っている。
(本当に、ごめん、伊織さん……)
あの跡が消えても、自分を許せそうもない。伊織がそばにいなければ、忘れられたかも知れないけれど、自分が伊織を傷つけた証をこの目で見てしまった。
それに……。
(やつれてる……)
頬も少しこけた気がするし、ぼんやり開いている目の下にはクマがくっきりと浮かんでいた。それに全体的に、まばらなヒゲが残っている。いつもの伊織より、10歳は老けて見えた。
だけど、愛おしいから不思議だ。さっきは「うぜぇんだよ、おっさん!」なんて、ひどい言葉をぶつけてしまったけれど……。どんな姿でも、伊織は伊織だ。
「好きだよ、伊織さん。すごく好きだ、伊織さん」
繰り返しているうちに、気持ちがどんどん溢れてくる。あの日、ブーケと一緒に伊織への気持ちは捨てたと思っていたけれど、伊織が傍にいれば、いくらでも湧き出してくるのだ。
こんなに自分を捕らえてくれる人は、伊織しかいない。それを無造作に捨てようなんて、向こう見ずにも程があったのだ。恨んでいる、憎んでいると思っていても、どこかで伊織の姿を見てしまったら……、きっとネガティブな気持ち以上の量の「好き」が溢れたに違いない。
その時になって気付いても、遅かったかも知れない。だけど今は、まだ間に合うと信じたい。
風呂とキッチンから、ようやく「お風呂が沸きました」のアナウンスが聞こえた。
うつ伏せの伊織に、自分がきていたスウェットの上だけ被せて、悠人はまた、伊織を抱えると風呂場に引きずった。伊織の足は全く動かなくて、文字通り引きずっていった。
ほかほかと湯気をたてるお湯のに中に、スウェットごと伊織を浸からせる。伊織の体を支えながら、悠人もその隣に並んだ。今にも崩れそうな伊織を抱き抱えて、スウェットを脱がして……。悠人はやっと一息ついた気分だ。
このお湯の温かさなら、少しは温まるだろう。伊織は相変わらずぼんやりしているけれど、ちょっと表情が和んだように見えた。
どうしてもお湯から出てしまう伊織の首にもお湯をかけてやる。何度も何度もかけてやる。不意に伊織が「す、き……」と、呟いた。
今まで一度も、言ってもらえなかった言葉だ。伊織にとって、この言葉を言えないことが「育成計画」で、言えるようになったことが「自由の身になった」という表現に繋がったのだと、悠人は悟った。
(それに、きっと、キスもだ……)
したいと思ってくれていたんだろう。それを押して曲げてでも悠人を制した伊織が、気持ちを隠して守ってくれたのは、悠人がアルバトールに投影した、直向きなまでの片思いの感覚だったんじゃないだろうか。
「バカだよ、伊織さん……」
仮に公演中に伊織がキスをくれたとしても、その何倍も何十倍も欲しがるのは、悠人の方だ。伊織からもらう「好き」の言葉で、どこまでも有頂天になったとしても、きっと悠人は、100倍ぐらいの「好き」を伊織に捧げたに違いない。
「俺の方が、何倍も、何十倍も、何百倍も伊織さんが好きなんだから…‥」
悠人が言うと、伊織は「ふぅ……」と吐息を漏らした。身体中の力が抜けたように、くったりともたれてくる。
それを、悠人はしっかり受け止めた。
全身からほかほかと湯気をあげるぐらいまで伊織が温まったのを見計らって、悠人は伊織を風呂から上げた。棚のバスタオルを2枚使って、水滴の一滴も残らないぐらい伊織の体を拭いて。自分の体もザッと拭いてから、また伊織を寝室に引きずる。
裸のままの伊織をベッドに寝かせて掛け布団をかけたら、ようやくホッとした。
(でも、パジャマかなんか、着せた方がいいよな)
勝手に家探しするみたいで気が引けたが、ウォークインクローゼットで「この辺かな」という引き出しを開ける。2段目で、伊織がいつも着ているパジャマと、綺麗に畳まれたスウェットを見つけた。
まずはパジャマだ。もはや眠りについた伊織にパジャマをきちんと着せて、もう一度掛け布団でくるむ。そうしてから悠人は、自分の真っ裸をどうしようか考えた。
着てきたスウェットは水浸しだし……。
「伊織さんの借りるか」
先ほどの引き出しに戻って、パジャマの隣のスウェットを手にした。それは、以前借りた伊織のスウェットと違って、パリッとしている。
着てみて、気がついた。以前借りたものは手首も足首もはみ出したのに、今、着たスウェットは……。
(俺のサイズだ……)
きっと伊織が、悠人のために用意してくれたのだろう。とうとう悠人はその場にしゃがみ込んで顔を覆った。伊織が、こんな細やかな準備をしてくれていたことも知らずに、この半月以上、ただひたすらアルコールに逃げていた自分をぶん殴りたい。
抑えきれない涙をスウェットの袖に染み込ませてから、悠人はヨロヨロ立ち上がった。
泣いている場合ではない。やっと体を温められたとはいえ、伊織のためにできることは、他にもある。
日課のジョギングから戻った義樹は、玄関で靴を脱いでいるところで着信を受けた。
朝の7:00。常識から考えれば早すぎる時間だが、7:00きっかりの着信ということは、数時間、耐えて電話を寄越したんだろう。
「もしもし」
応答すると、『義樹さん、朝早くに、ごめん』と、悠人の声。
『伊織さん、熱出してるんだ。体温計の場所がわからなくて、測れてないけど、ちょっと高い気がして……』
「お前んちでか?」
『いや、伊織さんちにいる』
悠人の返答に、義樹は「?」と思う。昨夜、伊織は悠人の家に押しかけたはずだ。なのに、2人で伊織の家に戻ったのだろうか?
(まぁ、経緯はいいや)
少なくとも伊織は悠人といられて、悠人は伊織を心配するマインドになれたんだろう。
「お前、今日、仕事は?」
『昼前には現場に入る予定だったんだけど……』
悠人は、言い淀む。もし、代わりに伊織を看られる人が見つからなかったら、現場を休む腹づもりのようだ。
「状況はわかった。すぐ折り返すから、ちょっと待っといて」
言って、義樹は電話を切る。そして、すぐに別の番号にかけ始めた。
7:00の電話は非常識だが、和江なら大丈夫だろう。何せ5:00には掃除を始める人だ。
それに伊織の緊急事態なのだ。迷惑になど、思うわけがない。
義樹が連絡を入れてくれた、伊織の実家の家政婦の和江は、9:00少し前に、伊織の自宅に到着した。
伊織に付き添っていたら、いきなり鍵が開いて驚いたが……。そして、9:00前だというのに、どこかの薬局で色々買い込んで来ているのにも驚いた。
和江は、眠っている伊織の様子を見ると「まぁまぁ、きちんとしていただいて……」と、悠人にお礼を言った。冷えピタや経口補水液は、宅配で注文したものだ。体温計は売り切れだった。
和江は持ち込んだ体温計で伊織の体温を測った。38度を超えている。
「後で、ドクターに往診していただきましょうね。お医者様に診ていただくのが、安心ですからね」
寝ている伊織に話かけているか、そばにいる悠人に言っているのか……。医者の診察を受けるとしたら病院に行くものと思っていた悠人は(伊織さんのところには、医者の方が来るのか)と、変な感想を持ってしまった。
「悠人、さん?……は、11:00ごろにはお出かけでしたね」
名前を確認しながら、和江が尋ねてくる。
「あ、はい」
「そうしましたら、ご準備をどうぞ。その間に、朝食をご用意いたしましょう」
「あ、俺は、大丈夫です」
反射的に遠慮したら、「まぁまぁ、朝ごはんも食べないと、お仕事に身が入りませんよ」と、嗜められた。
「じゃ、じゃあ、お願いします……」
「ご準備できましたら、ダイニングにどうぞ」
そう言って、和江はキッチンに向かっていく。物腰は柔らかいけれど、一筋縄では行かなそうな人だ。
昨夜、伊織と一緒に湯船には浸かったが、髪も体も洗っていない。悠人は脱衣所に向かう。鏡の前で自分の匂いを嗅いでみたら、酒の匂いが残っていた。
当たり前だ。伊織が訪ねてくるまで、前後不覚を目指して、暴飲していたのだから。
その上、髪も髭もボサボサで、目は充血している。和江の心象は最悪だっただろうと、悠人はため息を吐いた。
ウィーンで伊織が話していた「家政婦さん」というのは、きっと和江のことなのだろう。子供の頃からずっと伊織を育ててきた人なんだから、伊織にとって、大切な人に違いない。その伊織の大切な人に「伊織に近づく変な虫」とでも認識されたら、事である。
悠人は可能な限り顔のむくみを取ろうと、マッサージをしながらシャワーを浴びた。髪もちゃんとドライヤーをかけたが、ヒゲはどうしようもない。悠人は電気シェーバー派だが、伊織の家にはカミソリしかないからだ。
浴室に放置していた濡れた自分のスウェットを絞って、洗濯物カゴに入れる。履いてきた下着も一緒に。そして先ほどのスウェットだけ身につけて、悠人はダイニングに向かった。
ダイニングテーブルには、もうおかずが整っていた。悠人が来たのに気づいて、和江がご飯と味噌汁の準備をしてくれた。
和江は伊織の定位置をわかっているのだろう。その向かい側に、悠人の分を置いてくれる。
「ありがとうございます。いただきます」
できる限り礼儀正しく、食事を始めた途端、「おヒゲのお手入れは、よろしいんですの?」と尋ねられ、悠人は米を喉に詰まらせた。
「い、今の役柄が、こういう、感じなもので……」
誤魔化したら、次の一手を撃たれる。
「あらまぁ、役者さんでしたのね。今は、どちらの作品に?」
「あ、今は、テレビの方で。撮影をしています」
「あら、あら、伊織さんがテレビの役者さんとご一緒するなんて、珍しい」
「こ、この間までは、『皇后の恋』で、伊織さんと共演させていただいていて……」
「あら、どの役で?」
悠人の正体見極めてやろうと言うような、矢継ぎ早の質問に、悠人は食事どころではない。
「アルバトールです。義樹さんとWキャストの」
悠人が言った途端、和江の態度がガラッと変わった。
「まぁまぁ、あの悠人さんでしたの。舞台、拝見しましたけど、印象が違ったものだから。失礼いたしました」
「ははは、今は、テレビドラマの方の役柄が、こうなんです……」
悠人が伊織の共演者だとわかって、和江は安心したらしい。「伊織さんのご様子を見てまいりますね」と言い残して、和江は廊下に消えていった。
途端に悠人は、食事を流し込む。また和江に張り付かれたりしたら、心臓に悪い。
食事を終えて、食器を洗って、スマホの時計を確認したら、10:15だった。マネージャーの本庄には、こっちに迎えに来てもらう連絡を入れる予定だったけど、自宅に荷物を取りに帰れそうだ。
戻ってきた和江に朝食の礼を言ってから「じゃあ、伊織さんの様子見て、俺、帰りますんで」と続けたら、「本当に色々とありがとうございました」と、丁寧にお礼を言われた。
ベッドの中の伊織は、まだ赤い顔をしている。呼吸も荒い。離れたくないけれど、和江が来てくれた以上、悠人にできることはない。
ベッドのそばにしゃがんで、汗ばんでいる頬に張り付いた伊織の髪を整えた。
「伊織さん、俺、仕事に行ってきます。でも、夜には戻るから。安心して、休んでててください」
伊織からの返事はないけれど、悠人は立ち上がった。ここでウダウダしていても仕方がないのだ。
玄関に出ると、和江が見送りに来てくれた。靴を履いてから、悠人は和江に向き直った。
「もし、伊織さんが起きて、俺のこと聞いてきたら、『夜には戻る』って、伝えてもらえますか。遅くても、20:00頃には、帰れると思うので」
悠人の言葉に、和江は「あら、まぁまぁ」と、声をあげた。
「こちらにお戻りになりますの?」
そりゃ、和江からしたら驚きだろうなと、悠人は気づく。熱を出した共演者を図らずも看病することはあるかもしれないが、家政婦が来ているのに、戻る人はそうはいない。
「心配なんで。じゃ、そう言うことで、よろしくお願いします」
早口で言って、悠人はすぐに外に出た。
(俺、マジ心象悪いと思う……)
これが義樹だったら、和江もここまで追及しないだろうし、なんなら夕飯に好物を用意されそうだなと、悠人は少し、落ち込んだ。
悠人が伊織の自宅に帰ったのは、19:30を少し過ぎたあたりだった。エントランスからインターフォンを押すと、和江が応答してオートロックを開けてくれた。
部屋に帰ると、驚いたことに和江は帰る準備をしていた。てっきり泊まり込むのだと思っていたら、「義樹さんが、悠人さんにお任せして大丈夫だとおっしゃったものですから」とのことだ。
「伊織さんは、お医者様に見ていただいて、過労だろうってことでした。点滴もしていただいて、お薬もいただきましたよ。お薬はもう飲まれましたし、明日の朝の分は、お腹に何か入れてから飲んでいただきますので、水分だけこまめに摂らせてあげてくださいませ」
和江は悠人に説明をしながら、玄関に向かう。
「明日は、何時に伺えばよろしいですか?」
「できれば、10:00までに。大丈夫ですか?」
「かしこまりました」
和江は靴を履くと、悠人の顔を見た。
「そういえば、伊織さんが悠人さんを探されていたので『お仕事ですよ』と、お伝えしておきました」
「ありがとうございます」
悠人が礼を言うと、和江は不意に「おヒゲ、当たられましたのね」と尋ねてくる。
「あー……、今日から、ヒゲのない役になったので」
「左様ですか。では、また明日」
丁寧にお辞儀をして、和江は帰っていった。思わずドアスコープで、和江がエレベーターに乗るのを確認してから、鍵とドアチェーンをかけてしまう悠人だ。
洗面所でしっかり手を洗って、うがいをしてから、悠人は伊織の寝室に向かった。
伊織はスヤスヤと眠っている。熱も少し下がったようで、顔色も少し赤い程度に戻っていた。
だから、余計目立つ……。悠人がつけた、指の跡が……。薄い青色に変化しているから、もっと目立つ。
悠人はギリっと唇を噛み締めた。伊織がどれぐらいの痛みを感じていたかと思うと、理性を失っていた自分が怖くなる。
(酒はやめよう。普段から、飲まなくてもいいんだし)
自宅で晩酌をするようなこともないのだ。人付き合いで外食時に飲むことはあるが、こう言うことがあると、それすら怖い。
ベッドの端に腰掛けると、「伊織さん、ただいま」と、小さく声をかけた。伊織は穏やかな顔で眠り続けている。
布団からはみ出していた手を握る。その手にキスを落とす。伊織の顔を見る。伊織は目覚めない。
悠人は、握った伊織の手に頬を押し付けた。そのまま、伊織の寝顔を見つめる。
朝よりも顔色は良くなっているけれど、伊織はヒゲが濃くなっていた。そんな伊織もいいなと思ってしまい、悠人は自分で自分を笑う。
(俺は本当に、この人を失っても大丈夫だと思ってたのかな)
酒の勢いで、「2度と顔を見せるな」と、告げたけれど……。伊織の顔を2度と見ないで、生きていけただろうかとさえ思う。
「好きだよ、伊織さん」
言って、悠人は伊織に軽いキスをする。少しシャリシャリする顎にも、カサカサになってしまった頬にも、まだ少し腫れているまぶたにもキスを落とす。こうやって優しく触れられるところに戻って来れて、本当に良かったと思う。
伊織が望んでくれるなら、ずっと、いつまでだって、こうやって触れていたい。大切な大切な宝物を扱うみたいに、触れていたい。
でも今は、煩わしいぐらい触れて伊織を起こすのも気が引ける。そこからはただ、伊織の顔を眺めながら手を握っているだけだった。
随分前、テレビの端役で、病気の恋人に付き添う役名もない役をやったことがある。監督からの指示は「手を握れ」だけで、(他になんかやることあるだろ)と、思ったけれど……。
正直、ない。やることがないと言うより、悠人にできることがない。今、伊織が空腹を訴えても、コンビニにお粥を買いに行くぐらいしか思いつかないし、飲み物も、水とかスポドリとかぐらいしか飲ませてやれない。
あったかいスープも、やれてお湯を注ぐぐらいのことだ。自分が、伊織のためにできることの少なさに、情けなくなった。
一丁前に一人暮らしをしているけれど、いきなり誰かが訪ねてきた時に上がってもらえるかと言えば、否だ。それどころか、ここ半月は、足の踏み場もないぐらいの部屋で過ごしていた。
悠人が伊織の部屋を訪れるたびに、伊織は食事を出してくれたり、お茶を淹れてくれたりした。時には、味がわかるようなわからないようなワインも……。生活感がゼロに見えて、ちゃんと生活をしている人だった。
役者としての格だけじゃない。そう言う生き方的なところにも、伊織と自分には大きな隔たりがある。伊織と生きていくなら、伊織と同じような事を返せるようにならなきゃならない。そうじゃないと、大事にできない。
握った伊織の手に額を押し付けて、悠人は思う。もしあの日、あの大千穐楽の日に「育成計画」の話を聞くこともなく、伊織の自宅を訪れていたら。幸せな時間だけを享受して、こんなことには気付けなかったかもしれない。
(無駄にしない、絶対……)
思わずギュッと伊織の手を握ると「ん……」と、伊織が声をあげた。ハッとして伊織の顔を見ると、ぼんやり目が開いている。
「伊織さん!」
伊織の瞳が動いて、悠人を捉えた。
「悠人、くん……」
「大丈夫?水か何か、飲む?」
伊織がコクリと頷いた。悠人はサイドボードにセットされていたペットボトルにストローを刺す。ベッドに乗って、伊織の上半身を抱き起こした。
伊織がストローでスポーツドリンクを飲むのを、息を詰めて見守ってしまう。伊織は三口分ぐらい飲むと、ストローを離した。
そのまま、また、目を閉じてしまう。このまま抱きしめていたかったけれど、伊織の体はまだ熱くて……。悠人はゆっくり、伊織の体を横たえた。
それからまた、伊織の様子を伺い続けた。伊織はもう一度だけ、スポーツドリンクを飲んでくれた。
次に悠人が気づいたのは、朝だった。床に座ったまま、伊織のベッドに突っ伏して眠ってしまっていたらしい。
伊織の呼吸はだいぶ楽そうになっている。顔色も良くなっていた。
時計を見た悠人は、軽くシャワーを借りることにした。和江には「10:00」と伝えたが、なんとなく8:00には来そうだと思ったのだ。
シャワーを浴びて、仕事道具として持ち歩いている小さなシェーバーでヒゲを剃り、髪を整えて。昨日自宅に帰った時にバッグに突っ込んだシャツに着替えた。昨夜着ていた服は、和江に見られている。
そうしてまた伊織のそばにいたら、やっぱり和江は8:00にやってきた。伊織の顔色を見て、「もう、大丈夫そうですね」と言ってくれたので、悠人は安心した。
和江が来てくれたら、もう、悠人にやれることはない。少し早いけれど、現場に向かうことにした。ここ最近、出番ギリギリに到着して、終わるとすぐに帰る事を繰り返している。ダメなわけではないが、褒められることでもない。
和江は「作る」と言ってくれたが、朝食は断って、悠人は伊織のベッドのそばで膝を折った。
「伊織さん、仕事に行ってきます」
伊織はスヤスヤと眠っている。不意に、もうずっと、ちゃんと伊織と話ができていないことに気がついた。
「皇后の恋」の悠人の最後の出演回の日に、「また、明日」と挨拶をしたのが、最後だ。それに気づいた途端、猛烈な寂しさに襲われた。
「今日は多分、19:00には戻れると思うから……、だから……、起きて、待っててくれると、嬉しいです」
思わず滲んだ涙を拭いながら、悠人は立ち上がる。もう少しここにいたら、伊織は目覚めるかもしれない。それを待ちたい衝動に駆られたけれど、キリがないのも事実だ。
伊織のことは和江が見てくれる。大丈夫だと、思えた。
和江はやっぱり見送りにやってきて、悠人が靴を履くと「今日のお帰りは?」と尋ねてきた。
「え?」
思わず聞き返すと、「あら、今日はこちらにお戻りではないんですの?」と、首を傾げる。
「あ、いやっ、戻ります!多分、19:00には……」
「承知しました。それでは、こちらをお持ちくださいませ」
和江が差し出した鍵を見て、悠人は思わず、和江の顔を見た。
「あの……」
「伊織さんのお世話で、お戻りになったことに気づかないと困りますから。お持ちくださいませ」
「はぁ……」
悠人はありがたく、和江の鍵を受け取る。
「それでは行ってらっしゃいませ」
「……い、行ってきます」
悠人は、ぺこりと頭を下げると、急いで玄関から飛び出した。
なんだかよくわからないけれど、和江は、怖い。
「まぁまぁ、伊織さん、良かったこと。熱もすっかり下がりましたね」
和江の声に、伊織の意識が覚醒する。ぼんやりとした視界が徐々に鮮明になって、こちらを覗き込んでいる和江を見つけた。
「和江さん……」
自宅のベッドにいるのに、どうして和江がいるんだろう。自分で呼んだのだろうか?そんなことを思い巡らせていると「義樹さんからご連絡をいただいた時は、心臓が止まるかと思いましたよ」と、和江が種明かしをする。
「義樹くんが……?」
どうしてここで、義樹の名前が出てくるのか、皆目見当もつかない。
(義樹くんに連絡したんだろか……?僕が?具合が悪くて?)
それなら直接、和江に連絡を入れるだろう。記憶を辿ってみたけれど、どうも曖昧だ。
(悠人くんが、いてくれたような気が、したんだけどな……)
思った途端、悠人の自宅で起きたことを鮮明に思い出した。「うぜぇんだよ、おっさん!」と、追い払われたことも。
ズキッと心臓が痛んで、伊織は思わず体を丸めた。だけど、同時に「好きだよ、伊織さん」という、悠人の優しい声も聞いた気がした。
(ずっと、手を握ってくれてた気が、したんだけど……)
熱に浮かされて、甘い夢でもみていたのだろうか。
「それで、お医者様に診ていただいたら、過労だろうってことで。舞台のお疲れでも出たんでしょうかね」
和江が話すのに適当に相槌を打っていたら、突然、「それで、悠人さんですけどね」と、和江が悠人の名前を出した。
伊織はパッと和江を見る。和江は、悠人に会ったことはなかったはずだ。
「ゆ、悠人くん、て……?」
伊織の質問に、和江はきょとんとした表情を見せた。
「アルバトールの悠人さんですよ。まぁ、伊織さん、昨日は随分、悠人さんのお名前を呼んでらしたのに、忘れたんですか?悠人さんのこと」
和江の言葉に、伊織はギョッとした。熱に浮かされて、余計なことまで口走っていないか、気がかりだ。
「僕が?ゆ、悠人くんの名前を?へ、変だなぁ。……他には、何か、言ってた?」
「いえ、特には」
和江は表情も変えずに首を振ったけれど……。仮に伊織が変なことを口走っていたとしても、それを教えてくれるような人ではない。
「それで、悠人さんですけどね。まぁ、最初お会いした時はびっくりしましたよ。髪もモジャモジャで、ヒゲも整えていらっしゃらないし。お酒の匂いもしてましたでしょ。伊織さんのお友達にしては珍しいタイプの方だと、思ったんですけどね」
和江の話聞く限り、どうやら悠人は、伊織を悠人の自宅から追い出したあと、伊織の自宅で和江と会ったようだ。
(あんなに怒ってたのに……)
どうしてそんなことになったのか、全然、全く、繋がらない。
「でも、伊織さんの額にちゃんと冷たいのを貼ってくださっていて、経口補水液も飲ませてくださっていて。お話を伺ったら、まぁまぁ、アルバトールを演られた悠人さんだっておっしゃるじゃないですか。びっくりいたしましたよ。今は、ドラマの方のお仕事で、ヒゲの役をされているんですって」
どういうシチュエーションかわからないが、伊織の脳裏に、和江に詰め寄られている悠人が浮かんだ。きっと、和江の勢いに驚いたことだろう。
「でも、昨日、お帰りになった時には、すっかりおヒゲも整えらえていて」
「昨日?昨日も、悠人くん、来てたの?」
「ええ、朝まで、いてくださったんですよ。朝も、ちゃんとシャワーを浴びて、着替えて、髪もおヒゲも整えられたら、確かにアルバトールの悠人さんでしたよ。まぁまぁ、舞台の美貌の好青年、そのまんま。昨日から、おヒゲのない役になられたんですって!」
(……無茶苦茶だ、悠人くん)
伊織は思わず、笑いを漏らす。和江の勢いに飲まれて、適当な事を言って誤魔化したであろう悠人を思うと、笑わずにはいられない。
「その悠人さんですけれど、本日は19:00には、お戻りだそうですよ」
「え?」
伊織は思わず、和江を凝視する。和江は和江で、伊織を凝視しながら「ですから、悠人さんは19:00には、戻られるそうですよ」と、繰り返した。
(悠人くんが、来てくれる……)
伊織は思わず、胸を押さえた。
悠人が今、どういう感情でいるのかはわからない。でも、少なくとも伊織の様子を見にこようとは、思ってくれているのだ。
伊織に伝えるべきことは全て伝えたようで、和江は「おかゆでもお持ちしますね」と言って、出て行った。
(悠人くん……)
横向きに態勢を変えて、伊織はきゅっと縮こまる。怖いぐらいに怒っていた悠人は紛れもない現実の悠人で……。好きな人に拒絶される恐怖の前に、悠人の本気の怒りが、本当に怖かった。
その悠人が、どうして伊織の自宅で和江に会うことになったのかわからないけれど、和江の勢いにやられたのか、体調不良の伊織を気の毒に思ったのか、昨日も、今日も、伊織の様子を見にきてくれる。
(19:00か……)
悠人の来訪時間を思い返して、今、何時だろうかと、伊織は顔を上げた。いつもスマホを置いているサイドボードに手を伸ばしたけれど、そこには充電スタンドしかない。
(あ……)
悠人の自宅で、スマホを落としたことを思い出した。そのまま追い出されて、ショックのあまり、それすら忘れて帰ってきてしまった気がする。
悠人はそれを、返しに来てくれたのかもしれない。
(結局、優しいんだ、悠人くんは……)
怖い悠人のことも知ってしまったけれど、優しい悠人のことはもっともっと知っている。あの腕の温かさも、抱きしめられると、どれだけ安心できるかも、知ってしまった。
それを取り上げられてしまったら、もう、どうしていいのか、わからないぐらい、知ってしまった。
ノックがして、「おかゆをお持ちしましたよ」と、和江の声。
「それから、リビングのソファーに携帯が落ちてましたよ」
和江の言葉に、伊織は飛び起きた。
「か、貸して!」
「まぁまぁ、そんなに慌てなくても……。マネージャーさんには、義樹さんの方からご連絡入れていただいてますから、お仕事は大丈夫ですよ」
「うん、でも……、気になるから……」
和江からスマホを受け取って、伊織は着信を確かめる。事務所の社長やスタッフ、マネージャーといった人たちの名前ばかりが並んでいる。
(そうだ、着信拒否されて……)
それを思い出すのと同時に、悠人の名前を見つけた。一昨日の夜中、1時30分を過ぎたころの着信だった。
伊織が悠人の自宅に向かったのが、確か0:00過ぎ。時計を見ている余裕はなかったけれど、多分、0:30前には、悠人の自宅に着いたはずだ。
(悠人くんは、怒ってて、追い出されて……)
そこからはもう、あまり記憶がない。どの道を通って帰ってきたかも、定かではない。
この着信を頼りに、何かを思い出そうとしたけれど、考えすぎたせいか、頭痛がしてきた。
「伊織さん、ほら、まだ本調子ではないんですから……。まずはおかゆを召し上がって、そこからになさいまし」
「はい……」
スマホは和江に取り上げられる。その画面に映る時計が17:00を過ぎていたことに、伊織はハッとした。
(悠人くんがくるまで、2時間しかない!)
せめてお風呂に入って、体を清めたいと思った。多分2日は寝たきりだったろうし、髪がぺたっとしてしまっているのを感じる。きっと大量に汗をかいたのだ。
「和江さん、僕、お風呂に入りたい」
伊織が言うと「いけません」と和江は首を振る。
「まだお風呂は早いですよ、伊織さん」
「でも、体がベタついて気持ちが悪いんだ」
「でしたら、まぁ……。仕方ありませんねぇ。準備してまいりますから、おかゆを召し上がっていてくださいまし」
言われて、伊織は急いでおかゆを口に運んだ。お腹は全く空いてなかったし、一気に食べたせいで気持ち悪くなってしまったけれど……。和江は、おかゆを残した伊織にお風呂を許してくれるような性格はしていない。
戻ってきた和江は、伊織がおかゆを食べ切ったのを見て「まぁまぁ、仕方ありませんね」と頷いた。
給湯完了のアナウンス聞こえて、伊織は新しいパジャマを抱えて急いで浴室に向かう。ちょっと並行感覚がおかしい感じがしたけれど気にしてはいられない。
「ちゃんと温まってくださいましよ」
「わかってる」
伊織は超特急で髪も顔も体も洗うと、浴槽に沈んだ。給湯器の時計は、まだ18:00前を指していた。
「ふぅ……」
お湯の温かさにほっとして、吐息が漏れる。ふと、悠人が、伊織の肩や首にお湯をかけてくれたような、記憶が蘇った。
(記憶?……夢、かな……?)
裸の伊織を支えながら、絶えず、お湯をかけてくれていた。自分の体がお湯からはみ出していることなんて気にも止めにずに……。
夢だとしたら、何の暗示なんだろうと、考えてしまう。だけど、どんな暗示であったとしても、悠人に支えられて無性に安堵した感覚の方を信じたいと思った。
10分ほどお湯に浸かって、伊織は浴室を出る。やっぱり少しふらついたけれど、パジャマをちゃんと着て、鏡に映る自分の顔を見た。
「ひどい、顔……」
頬が少しこけて影ができている。目の周りなんて、パンダみたいだ。それに、薄いとはいえヒゲもしっかり生えて、悠人がいった「おっさん」そのものだった。
それに、ところどころに、青とか黄色に変色した箇所があった。悠人に掴まれたところが、薄いアザになっているのだ。
昨日も一昨日も、来てくれたという悠人は、このあざに気づいただろうか。アザの様子が気になって、様子を観に来てくれてるんだろうか。
役者が役者の顔に傷をつけるなんて、騒がれたら、ことだから……?
それでもいいと思ってしまった自分は、浅ましいだろうか。
(浅ましいかも……)
それでも、悠人と話せるチャンスを、無くしたくない。
伊織は愛用のカミソリを取り出すと、フォームをつけて慎重にヒゲを剃った。いつもより力が入らない気がして、押し付けたせいで少し血が出たけれど、これぐらいは大丈夫。
歯磨きもして、少し爽快な気分でリビングに向かう。和江がキッチンで何かを作ってくれていた。
(なんとかして、和江さんに帰ってもらわなきゃ……)
この2日、看病をしてもらったのに、失礼は承知だが。時計はもう、悠人が来るまで、残り30分を切っているのだ。
和江と悠人が顔を合わせようものなら、和江は、今日の伊織の様子を悠人に報告した挙句、興味津々に「テレビドラマのお仕事の様子」などをヒアリングし始めるだろう。
「和江さん、あとはもう、大丈夫。悠人くんも、来てくれるんだし……」
伊織が声をかけると「あらあら、いけません」と、和江は首を振る。
「悠人さんもお仕事でお疲れなんですから、伊織さんのお世話をお任せするわけには参りません」
「いや、僕はもう大丈夫だし、自分の世話は、自分でできるし」
和江はコンロの火を止めると、しげしげと伊織の顔を見て。
「義樹さんにご相談してみます。伊織さんを置いて帰っても良いものか、どうか」
言うが早いか、和江は自分のスマホで義樹に電話をかけ始めた。何故かいつも、和江は伊織に関する相談を義樹に持ちかけるのだ
(義樹くん、頼むよっ!)
伊織は思わず、両手を組んで義樹に祈ってしまった。
「お疲れ様でしたー!お先します!」
マネージャーの本庄と連れ立って、現場のスタッフに声をかけながら、悠人は急いで駐車場に向かっていた。想定よりも30分、現場を出るのが遅くなった。本庄には、伊織のマンションの方に送ってもらわないと、約束の19:00に間に合わない。
(タクシーにしようかな。そのほうが……)
本庄に、誰を訪ねていくのかとか、どういう関係かとか、聞かれないで済む。伊織の名前を言えば「ああ、伊織さんか」と、納得されるかもしれないが、今、悠人は、あの日、伊織に贈れなかった白薔薇のブーケを持っているのだ。昼休憩の時に思い立って、急いで買ってきたものだ。
伊織の自宅に白薔薇のブーケを持って行く……。本庄の中に不信が芽生える気がする。
「本庄さん、今日は俺、タクシーで帰るから」
「女か?」
間髪入れず本庄に尋ねられて、悠人は反射的に「違うよ」と答えていた。回答は間違っていない。伊織は女性ではないから。
「女性と過ごそうが、まぁ、いいけどな。ただ、ハメ外したりするな」
「はい」
本庄は大通りまで悠人に着いてくると、タクシーを止めてくれた。
「明日は9:00入り。アラームは、自分でセットできるな。8:30には迎えに行くから」
「はい。大丈夫です」
悠人が頷くと、本庄は「お願いします」と運転手に声をかけて車両から離れた。
行き先を伝えて、シートベルトを絞める。悠人は両手の中のバラにそっと触れた。
あの日みたいな手放しな幸福感ではないけれど、今日は伊織が目覚めているんじゃないかという期待が、ふわふわした気持ちを生んでくる。
もし、伊織が起きていたら……。ちゃんと謝って、それからちゃんと告白をする。何度も伊織には好きだと伝えてきたけれど、大千穐楽からの半月間の自分の行動で、全部チャラにしてしまった気がするのだ。
そして伊織が受け入れてくれたら、何か、話をしたい。考えてみれば、大千穐楽の話も聞いていないのだ。
(それと、スウェットのお礼も……、あと、今のドラマの話も聞いてほしい)
アルバトールとは真逆のインテリヤクザっぽい役なのだ。あと、和江さんについても聞いてみたいし……。
現場ではそんなに人と絡むタイプではないけれど、伊織が相手だと、あれもこれもと話したくなるし、伊織の話も聞きたくなる。だから公演中も、伊織との進展はないとわかっていても、舞台と撮影の合間を縫って、足繁く伊織の自宅を訪れたのだ。
(伊織さん、起きてるかな……)
大きな期待と小さな不安を抱えた悠人を乗せたタクシーは、伊織の自宅マンションに到着した。約束の時間の10分前だった。
オートロックを和江から預かった鍵で開けて、悠人は一路、伊織の部屋を目指す。伊織の自宅の鍵を開ける時、ちょっと緊張した。
ドアを開けた途端に、リビングの方から伊織の声がした。
「和江さん、忘れ物?」
そして、廊下に続くドアから、伊織の顔がのぞいた。
「悠人くん……」
驚いた表情で、パジャマ姿の伊織が悠人の名前を呼ぶ。そして、悠人に近づいてこようとしたけれど、悠人はそれを手で制した。
途端に、不安そうに表情を曇らせた伊織に、「手を洗って、うがいしてから、行きます」と声をかけ、悠人は急いで洗面所に向かう。
宣言通り手を洗い、うがいをして……。悠人は洗面のヘリに両手をついた。元気そうな伊織の顔を見ただけで、泣きそうになった衝動を、やり過ごす。
(良かった……)
たった二日間だったけれど、苦しそうな伊織ばかり見ていた。その前は……泣かせた。その前は……、見てもいなかったけれど、きっと、苦しめた。
鏡の中の自分を見つめる。まともな顔になっていて、ほっとした。伊織を怖がらせたくない。
「フゥッ!」
強く息を吐いて、悠人は荷物とブーケを手にした。リビングに向かう廊下の向こう、すりガラスのドアに、伊織の影が見える。伊織が、固唾を飲んで悠人の挙動を伺っているんだろう。
ドアを開くと、伊織はダイニングテーブルに片手をついて立っていた。相変わらず不安そうな表情で、悠人の様子を伺っている。その伊織に、悠人はゆっくり近づいいた。
(ちゃんと謝って……、許してもらって……)
そう思っていたのに、伊織の前に立ったら、ダメだった。バッグをダイニングテーブルに預けて、そのまま伊織を抱きしめてしまった。
腕の中に収まる時、伊織はちょっと震えたけれど、そろそろと悠人の背中に腕を回してくれる。それだけでもう、悠人の胸はいっぱいになった。謝罪の言葉も浮かばなければ、告白さえ忘れてしまった。
もう、何もいらないとさえ感じた。伊織の首筋から清潔なボディソープの匂いがする。風呂に入れるぐらい回復したんだと安堵の気持ちが湧いてきた。
いつまでだって、こうして抱き合っていられそうだったけれど、無粋な邪魔というものは入るものだ。この場合は、悠人の腹の音だった。
「クッ……」
腕の中で伊織が笑って。
「お腹空いてる?」
伊織の自宅に来るたびに尋ねてくれた問いかけと、同じことを聞いてくれて。
「空いてます……」
悠人が答えると、笑いながら、伊織は体を起こした。
「和江さんが、シチューを作っていってくれたんだ。温め直すから、座ってて」
そう言ってキッチンに向かおうとした伊織を捕まえて、悠人はブーケを差し出した。伊織は目を細めてそれを受け取ると、「来てくれてたんだってね、大千穐楽の日」と、呟いた。
「うん」
「ありがとう」
ブーケへのお礼なのか、大千穐楽の日に訪ねていったことへのお礼なのか。とにかく伊織は「ありがとう」と言って、悠人の顔を見た。
顔色こそ戻っているし、綺麗にヒゲも剃られている。だけど、悠人の指の跡は残っているし、クマも頬のくぼみも回復はしていない。
悠人が思わず伊織の頬に触れると、伊織が目を閉じた。誘われるように伊織にキスをする。唇が触れるだけの穏やかなふれあいだった。
「シチュー、温めるね」
そう囁いた伊織に「俺がやる」と悠人は答える。
「できるの?シチューは焦げやすいよ」
「火加減を教えてくれたら、俺でもできます」
「大丈夫かなぁ。心配だ」
こんな他愛もない会話ですら、相手が伊織だと幸福感に満たされるから、不思議だ。
悠人が食事を始めると、伊織は何も食べずに食事をしている悠人を見守っていた。少し前にお粥を食べたから、お腹は空いてないそうだ。
「ああ、そうだ。鍵って、和江さんに借りた?」
立ち上がりながら、伊織が尋ねてくる。
「あ、うん」
悠人はボトムのポケットを探って、和江の鍵を出した。
一度キッチンに向かった伊織が戻ってきて、「返しておくね」と、悠人から鍵を受け取る。悠人は、ちょっと残念な気持ちになった。
もちろん和江に返すつもりでいたけれど……、次に和江がここに来るときまで、借りておけないかなと、思ったりして。
だけど伊織は、和江の鍵を悠人から取り上げて。
そしてその手に、別の鍵を載せてくれた。
「君の分」
代わりに載せられた鍵を、悠人はマジマジと見つめる。伊織の自宅の鍵はディンプルキーだ。合鍵を作るのに、数週間かかると聞いたことがあった。
「作ってくれたの?」
悠人が尋ねると、伊織はこともなげに「うん」と頷いた。
「あったほうが、いいかなと思って」
「いつっ?」
思わず立っている伊織を引き寄せて尋ねると、「公演中には、出来上がってたかな」と、伊織は呟いた。
引き寄せた伊織のお腹に頭を預けて、悠人はぎゅっと眉間に皺を寄せる。本当に、何も知らなかった。伊織が隠していたからだけど、だから「仕方ないよね」とは、言えない。
「俺、本当に……、何もわかってなくて……」
「僕が隠してたんだから、当たり前だろ」
そう言って、伊織が悠人の頭を撫でてくれる。そして「シチュー、食べちゃいなよ」と、囁いた。
「うん……」
頷いてはみたものの、伊織の体温から離れるのが惜しい。頭を撫でてくれる伊織の手つきも気持ちがいいし。
「なんか、眠くなったかも……」
悠人の言葉に、伊織は「子供みたいだな」と、笑った。
「ーーそれで、松本くんが『モブイチの乱』の事、いじられてね」
「……うん」
支えにしていた腕からガクッと頭が落ちて、悠人はハッとした。
せっかく伊織の話を聞いているのに、眠ってしまいそうになっていたようだ。
「眠いんだろ?寝ちゃっていいよ」
悠人を見上げて、伊織が囁く。すごく魅力的な囁きだったけれど……。
(やっと、伊織さんと、話ができてるんだ……から……)
今日、伊織を置いて出かける時に感じた猛烈な寂しさを思い出し、悠人は伊織の肩を抱く腕に力を込めた。
だけどそれもすぐに、力が抜けていく。
(伊織さんがそばにいると、なんか、安心して、眠くな……る……)
考えてみれば、この半月以上、伊織と離れていたのだ。だけど考えることと言えば伊織のことばかりで……。安眠とは程遠い生活をしていた。
それに、ここ2・3日は、伊織のことが心配で、付きっきりだった。
2人がいるベッドは温かだし、伊織が寄り添ってくれている温もりも感じる。
「眠っちゃっていいよ。話は、明日にしよう」
チュッと唇を吸われた感覚を追いかけようとして、悠人はそのまま、眠りに落ちていく。穏やかすぎて、抗えない。
悠人がスースーと眠りに入ったのを感じて、伊織は「ふっ」と笑いを漏らした。
(『美貌の好青年、そのまま』か……)
和江がそう、評していたのを思い出す。目の前で寝息を立てる悠人はまさに、アルバトールのような好青年だった。
伊織はまた、悠人の胸の中に収まる。悠人の穏やかな心臓の音が聞こえた。
(不思議な人だな、悠人くんは……)
今日、悠人が来たら、長い話が始まるんだと思っていた。伊織には、悠人に説明をしなければならないことがあって、悠人には悠人の言い分もあったはずだから。
だけど悠人は、ただ伊織を抱きしめて……。それで、全ては解決したような気がする。実際、この半月近い断絶が嘘のように、悠人は食事をして、そして伊織を抱きしめて眠っている。
自然過ぎて、まるで昨日も一昨日も、同じ日常があったかのように錯覚してしまいそうだ。いや、それ以前の半月の間も、こうやって寄り添っていたとさえ、思えそうだ。
(それでも、一度は、話をしたほうがいいのかな)
お互いに何が起きていて、どうして2人が会えなくなってしまったかとか、あんなに怒っていた悠人が、どうして元に戻ってくれたのかとか、情報の共有をする必要があるのか……。伊織の性格では、本来、そうすべきだと思うんだけど、悠人がわだかまりを持っていないなら、不要な話し合いのような気もするし……。
(悠人くんの出方を待とうかな……)
そう思った瞬間、伊織は、ちょっと自分で自分にビックリする。相手にそうした選択を委ねるなど、記憶のあるかぎり、初めてな気がしたからだ。大人の責任として、仕事でもプライベートでも、判断は自分でした上で、行動を決めてきたと思う。相手が目上であれ後輩であれ、必要と思えば話し合ってきた。ましてや、一回りも下の悠人に選択を頼るなんて……。
(甘えてる、悠人くんに……)
思わず、悠人のスウェットの胸元をギュッと握りしめた。いつの間にか、ピンと張っていたはずの心の糸まで悠人にほぐされて、気持ちまで預けてしまっていることに気付く。
そうした付き合い方を、元来自分は、好まなかったはずなのに……。いつも柔和で人当たりのいい自分だけを知っている周囲の人に話したら驚かれるかもしれないが、過去、伊織がお付き合いをしていた人と上手くいかなくなった大きな原因は、伊織の頑固さだったりする。曰く「なんでも勝手に決めて、事後報告」「恋人なのに相談もしてくれない」と、言われてきた。
相手に負担をかけまいという、思いやりでもあったんだけど……。「自分の責任は自分で」と、こと自分自身には課してきたから。
なのに悠人は、伊織が意識するまでもなく、頼らせてくれる。
これから先、伊織が何か、泣きたい気持ちに苛まれることがあったら、悠人は泣かせてくれるんだろうなと、思った。「泣かせてくれる」というより、悠人がいてくれたら、泣かずにはいれられないような気がする。
(なんか僕も、眠くなってきちゃったな……)
夕方近くまで眠っていたはずなのに、悠人がいると思うと、安心してしまう。悠人の体は温かで、心も体も、もう、凍える心配をしなくていいし……。
ふわりと意識が揺らいだ時に、『大丈夫、いるよ。伊織さん、俺はいるから、大丈夫』と、悠人の声が聞こえた気がした。悠人の前で泣き喚いても、あんなふうに宥めてくれるのだと、薄い記憶が蘇る。
(いつの、こと……、だった……け……?)
記憶を辿ることもできず、伊織は眠りに落ちていった。
自宅のマンションを飛び出したら、周囲は真っ暗だった。右に行けばいいのか、左に行けばいいのか、真っ直ぐが正しいか……。
(伊織、どこに……)
闇雲に走り出そうとした瞬間、悠人は「ハッ」と、目を覚ました。
夢の映像は霧散したけれど、伊織を見失った危機感だけは心臓をバクバクと鳴らせている。周りは煌々と灯りのついた伊織の寝室で、悠人のすぐそこに、伊織の肩を見つけた。
(いた……)
思わずにじり寄って、背中から伊織を抱きしめる。伊織の背中に額を押し付けたら、長い吐息が漏れた。そうしているうちに、心臓も落ち着いてくる。
顔を上げた悠人は、サイドボードに置かれた伊織のスマホの時計を確認する。起きる時間まで、まだだいぶ余裕がある。昨夜は2人で、ずいぶん早くに眠ってしまったから、こんな時間に起きてしまったのだろう。
消し忘れてしまった室内灯のおかげで部屋の中は明るいけれど、外はまだ真っ暗な時間だ。伊織が何時に眠ったかわからないけれど、起こすのは忍びない。
(せめて電気を消すか……)
明るい光の下での睡眠の質は悪いはずだ。悠人は体を起こしかけた。
「ん……」
伊織が覚醒しそうな声を漏らしたので、思わずそのまま様子を窺ってしまう。伊織は少し間をおいて、ゆっくり悠人の方に寝返りを打った。その目が薄く開かれる。
起きている悠人に気がついて、ふわりと笑った。「おはよう」と伊織の口元だけが形作って、自分を凝視している悠人に気づいて、ちょっと怯んだような表情を作った。
その瞳に映る、欲望も露わな自分の顔を見つけた瞬間、悠人は(もう、限界……)と、思った気がする。伊織が病み上がりだとか、実はちゃんとした謝罪がまだだとか、ブーケを手渡せたぐらいできちんと気持ちを伝えていないとか、そういうのも全部吹っ飛ばして……。
「悠人、くん……?」
少し不安そうな伊織の声を、悠人は唇を塞ぐことで黙らせてしまった。
裸のまま布団に顔までくるまって、伊織は死にたいほどの羞恥に震えていた。
(あ、あんな……、あんな、あ、あ、あんなの、僕じゃないっ!!!!)
思い返すのも恥ずかしい!思い返したくなんかない!だけど、全てが伊織の目の前で繰り広げられて……、そもそも伊織は当事者だ。
その上……。
(なんなんだ、あの声っ!どこから出たっ??)
自分は口以外に発声器官を持ってでもいるのだろうか。色々な役をこれまでやってきて、声色を変えるなんて朝飯前だけれど、あれは……。
(どこから出たーーーーーー!!)
それがわかるなら、今にも封じてしまいたい。その声を聞いた途端、悠人が驚いた表情を浮かべたのも気にかかる。途端に悠人の動きが、性急になって……。
(だから、思い出したくないんだってばっ!!)
脳よ、思考を止めてくれ……。そして神よ、蘇った僕の記憶を、どうか抹消してください……。
伊織は真剣に神に祈る。
途端に寝室のドアが開き、伊織はそのままの体勢で寝たフリを決め込んだ。
「伊織さん、俺、もう仕事に出るね」
「……」
伊織が寝たフリをしているにも関わらず、悠人は「起きているのはわかっている」と、言わんばかりだ。布団からはみ出した伊織の頭を優しく撫でてくる。
だから伊織は、諦めの境地で布団から目だけ覗かせた。悠人は昨日とは違うシャツを身につけ、コート姿だ。1人だけシャワーを浴びて、身支度を整えて、「美貌の好青年」さながら、そこにいる。
その悠人が近づいてきて、伊織の額にキスを一つ。そして「今日は多分、18:00ぐらいには、戻ります」と告げた。
「じゃあ、伊織さんは病み上がりなんだから、大人しくしててください。行ってきます」
悠人は勝手な事を言うと、伊織の返事も待たずに、足早に部屋を出て行った。やがて玄関が開いて閉じる音。からの、鍵が閉まる音。
昨夜、悠人に渡した鍵を早速使ってくれたんだろう。鍵が閉まった途端、伊織はようやく身体中の緊張を解いた。
同時に、悠人の気配が家から消えたことで、少し物悲しい気持ちに襲われる。
(これは、きっと悠人くんがいなかった期間の、後遺症だな……)
チクンと胸が痛んだ気がしたけれど、それを打ち消すように、伊織の家の玄関から顔を覗かせていた悠人を思い出した。
伊織を自分の家から追い出したはずの悠人が、何故か伊織の家にいて。その表情は、悠人の家にいた悠人とは別人みたいだった。伊織を見つけたことに、本当に安堵してくれていた。そして気遣うように伊織を見つめてくれていた。
だから伊織は、最後の力で悠人に向かって走ったのだ。悠人の家にいたのが本物の悠人なら、伊織の家で待っていてくれた悠人は、幻かもしれないと怖くて……。幻の悠人が消えてしまう前に辿り着いて、捕まえなきゃと必死だった。
言葉で伝えられることはない気がして、必死に悠人にしがみついてキスをした。何度か悠人に阻まれそうになって、それが怖くてもっと必死になった。悠人が何か言っていたけれど、意味なんて理解していなかったと思う。
悠人に風呂に入れてもらって初めて、悠人が自分を温めようとしてくれていたことに気がついた。疲れ果てて意識を失いかけていたけれど、しっかりと悠人が支えてくれていたから、安心した。何度も首や肩にお湯をかけてくれる悠人に、「ありがとう」と言いたかったけれど、言えなかった気がする。
多分、「好き」もちゃんと言えていない。
と、いう諸々の記憶が、何故か、悠人に煽られている最中に蘇ってきて、伊織は前代未聞の声を出すに至ったのだ。
「本当に、僕は、何をやっているんだ……」
悠人が本気で心配そうに何かを言っては体を引き離そうとするのに、彼にしがみつくことばかり考えて。途中、何度か悠人に乱暴に引っ張られた気がする。それでも伊織は、悠人がいるということを信じたくて、そう感じられるように縋り付くので精一杯だった。
自分の状況も顧みず、本当に悠人には迷惑をかけてしまったと思う。
大いに反省すべきと思う反面、その暴挙があったからこそ、悠人には伝わったのだとも思える。
やってしまったことは仕方がないし、問題となるべきはリカバリーだ。この場合、やってしまったことが幸運につながっているから、あとは、それを逃さないように大切にしていけばいい。
(お風呂にでも入るか……)
伊織はベッドから起き上がる。ウォークインクローゼットからパジャマを出したら、残り1枚になっていた。
仕事やレッスンもだいぶ休んでしまっているし、家事も全くできていない。今日は一日、住環境の整頓を行なって、軽いレッスンから再開しなければ……。
洗面で服を脱ぎながら、伊織は、ふと、自分の顔を見た。34歳の伊織が映っていた。
「皇后の恋」の今回の公演で得たもの……。稽古場に入ってから演技プランを全替するという向こう見ずなチャレンジと、殻を破り切る経験。アルバトールをやってみたいという思いと、それに挑戦する意思。それから、悠人。
(次は、アルバトールだ)
早ければ半年以内に、キャストの押さえは始まるだろう。配役についても一年以内には内定が出る。その前に制作側に自分の意思を伝えよう。次がダメなら、また次の回で。それでもダメなら、また、次の回でもいい。
(僕は、アルバトールをやってみたい)
鏡の中の自分とコンセンサスを取るかのように、伊織は頷いてみせる。
鏡の中の伊織も、強靭な意思を感じさせる瞳で、頷いていた。
1年後。義樹は定番のホールでのアニバーサリーコンサート出演のため、タクシーで荷捌場に降り立った。今日の出演は、伊織と一緒だ。
最近の伊織は、これまで以上に精力的に仕事に取り組んでいて、プライベートで会える機会がほとんどなかった。久しぶりに会えるのが楽しみだ。
楽屋に向かう途中で、義樹はメッセージの通知に気づく。開くと、1年後の「皇后の恋」のキャスト内定に関するマネージャーからの連絡だった。
それをザッと見た義樹は「やべぇっ!」と叫ぶ。そして猛ダッシュで楽屋に向けて走り出した。
途中で立ち止まり、見間違いではないかとメッセージを再度確認する。だけど、見間違いではなかったらしい。
アルバトールの内定者は、義樹、悠人、そして伊織の名前が間違いなくある。地方公演も見据えての、トリプルキャスト体制だと書いてあった。
義樹はまた、全速力で楽屋に向かう。やっぱり今日も、伊織と楽屋は一緒だった。
ノックもせずにドアを開けると、いつものように伊織が義樹を振り返った。そして義樹に向けてスマホを振ってみせる。
「伊織!お前、アルバトールって……!」
走ってきたため息が続かず、義樹はそこで言葉を切った。伊織はにっこり微笑むと「オーディションを受けたんだ」と、事後報告にも程がある返事を寄越した。
「だから、なんでアルバトール……」
「やってみたくなったから」
おおよそ、成川伊織らしくない返答に、義樹は目を見開いた。
最近の伊織は、精力的仕事に取り組んでいると聞いていた。イメージに合わない役柄を受けてみたり、歌唱のない朗読劇に出てみたり……。正直、何かヤケでも起こしているのかと心配していたところに、「やってみたくなったから」だと?そしてオーディションだと?成川伊織が?
「そんなに驚くこと?随分前に義樹くんだって言ったじゃないか。『アルバトールはいいのか?』って」
「そりゃ、聞いたよ。聞いたけど、まさかこんなに早く決心するなんて、思ってないさ」
「何事も、善は急げだよ」
そう言って、伊織は華やかに笑った。
「……悠人の影響か?」
義樹の言葉に、伊織の微笑みが濃くなる。義樹は盛大なため息を吐いた。
「あいつは、自分が俺のライバルになるだけじゃ飽き足らず、さらにライバルを送り込んできやがったのか……」
「ああ、違う、違う。悠人くんは知らないよ、僕がオーディション受けたこと。なんなら今頃、連絡受けてびっくりしてるんじゃないかな」
「え?悠人、知らないのか?っていうか、怒るんじゃないか、あいつ」
「怒る?なんで?」
「『なんで?』って、一応、恋人が無断で、ライバルに名乗りを上げてるだぞ。そりゃ、怒るだろう、普通は……」
「そういうもんかな。でも多分、悠人くんは怒らないと思うよ」
そこで伊織のスマホが着信を告げた。「あ、悠人くんだ」と言って、伊織は無頓着にスピーカーで応答する。
「もしもし?」
『伊織さん?今、マネージャーから連絡もらって、伊織さんもアルバトールって、マジ?』
スピーカーから聞こえる悠人の声は、確かに驚いているけれども、楽し気だ。義樹は思わず「おめでたいね、お前は……」と呟いてしまった。
『あれ?今日、義樹さんと一緒?』
「そう。この電話で、来年のアルバトールが揃い踏みだよ」
ニヤッと笑った伊織に、義樹は一瞬、飲まれそうになる。だけど、踏みとどまった。
「誰がかかってこようと、俺のアルバトールには敵いやしないけどな」
『それをいうなら、俺だって負けるつもりはない』
悠人の言葉に、伊織と義樹は目を合わせて笑う。
「じゃあ、この3人で勝負だね。僕ももちろん、勝ちに行く」
伊織の宣言に、義樹と悠人は「おう!」と、声を揃えた。
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