皇后の恋-3
この稽古場は、晴天の霹靂的なことが多い。
伊織は、唖然としてアンサンブルの稽古を見つめている。いや、唖然としているのは伊織だけではない。他の演者たちも、製作陣も、演出家もだ。
一糸乱れぬ、完璧なアンサンブルだった。モブ1がいるにも関わらず。彼はきちんと他の人たちの声を聞き、合わせているのだ。
「じゃ、じゃあ、次は、1幕シーン4、で……」
動揺した演出家が吃りながら指示を出す。アンサンブル隊は互いに目を合わせると嬉しげに壁側に寄った。その中にはきちんとモブ1が入っている。
さらに驚いたことに、例の長閑な村のシーンでも、モブ1は完璧な歌声を披露した。皇后とアルバトールの密やかな愛の喜びの歌に調和する歌だった。
(何が起きた?)
自分は夢でも見ているのかと、伊織が思うほどだ。でも夢でないことは、歌い終えたモブ1がハケていくのを見送っている義樹の表情が唖然としていることからもわかる。
確か昨日、悠人が「若手で居残り練習」と言っていた。たった一回の居残り練習で、あれをこれにできるなら、その指導者こそ天才だ。
伊織が咄嗟に悠人を振り返ると、その視線に気づいたらしい悠人が伊織を見て眉を上げた。
(まさか悠人くんが、その、天才か?)
顔を正面に向けて、伊織は思う。表現者として悠人は優秀だが、だから指導ができる……というものではない。
小路エリカ皇后と義樹のアルバトール、そして染谷皇帝の稽古は、一度もストップが入ることなく終了した。
休憩になると、稽古場はざわめき出した。そんな中、悠人が稽古場を出ている姿を見つけて、伊織はその後を追う。
「悠人くん!」
伊織の声に振り返った悠人は笑っている。
「どういうこと?松本くんに、何が?」
「何がって?」
言いながら、悠人が歩き出すから、伊織も慌てて歩き出す。
「『何がって?』って、わかってるよね」
「さて、どうでしょう」
笑いを含んだ声で言って、悠人は控室に入る。
「悠人くん!」
悠人がはぐらかしているものだから、伊織の声は荒くなった。
「なんで怒るんです?万々歳でしょう?松本がちゃんと歌えるようになって」
「怒っているんじゃないよ。何があったか、話して!君、どんな指導を?!」
詰め寄ってくる伊織をおかしそうに見つめながら「俺は、何も」と首を傾げた。
「嘘だ!昨日の居残り練習で、彼に何か言ったんだろ?」
「いえ。スマホで動画を撮って、みんなで見ただけ」
「え……?それだけ?」
伊織がポカンとすると、悠人は頷いた。
「昔の稽古場でよくやったなって思い出したんすよ。若い役者なんて、バイトか稽古しかしてないから、稽古終わりに自主練って形で。その時、誰も見ててくれないから、動画で確認が当たり前でした。それでやってみたら、松本、本当にあれだけ変な歌になってたこと気づいてなかったらしくて。で、そこから何度もみんなで歌って、動画見て、修正してって感じで。元々、あの人、本当に歌は上手いから、すぐに修正きいたってわけ。松本が元々いた2.5次元って、アンサンブルの美しさより『いかにキャラを目立たせるか』とか『寄せていくか』ってのが大事だったりするし、個人の魅せ方に注力しがちだから、正直、白川さんの言ってる事も、ほとんどわかってなかったぽいです」
伊織は絶句した。てっきり松本は、目立ったり、爪痕を残すことを目的にやっているのだと思っていた。あからさまにそれを責めたりはしなかったけれど、心では決めつけていたから、的外れなアドバイスをしていた可能性もあった。
「想像してなかった、そんなこと……」
伊織が呟くと、悠人は肩をすくめた。
「伊織さんはしょうがないっすよ」
「どういう意味だい、それ‥…?」
何か含みのあるような悠人の言葉に、伊織は眉を寄せて悠人を見た。だけど悠人は、ちょっと眩しそうな表情で伊織を見ている。
憧れている……。高みにいる人を見つめるみたいな表情だった。伊織は時々、そういう表情にぶつかることがある。同じ業界の若手の人たちの中には、伊織を尊敬してくれる人もいるのだ。
そうした人たちと悠人の表情に違いがあるとしたら、きっと、はっきりとした愛情が目に浮かんでいることだ。
悠人は、自分のことが好きらしい……。昨日は、「らしい」で止めたけれど、こんな目で見つめられたら、断定するしかないじゃないか。
戸塚悠人は、自分を好きなんだと。
悠人が言った「伊織さんはしょうがないっすよ」の意味は、もう、聞けなかった。悠人が、ちょっと両手を広げたからだ。悠人は温かい体温を伊織に捧げようとしている。
もしそれを伊織が進んで享受したら、何か変わるかもしれない。それはきっと、伊織にとっても良いことに違いないという予感がする。例えば、寒さを感じる時でも、心の中だけは温まっていられるような、そんな喜びを得られる気がする。
だけど……、だからこそ、伊織は足に力を入れた。一歩なりとも悠人に近寄らないように。
享受してはいけない理由などありはしないけど、享受してはいけない理由はたくさんあるような気がするから。
「……ご、ご褒美は、だ、ダメだよ」
伊織がいうと、悠人の微笑みが深くなった。そしてあっという間に伊織に近づいて、腕の中に囲ってしまう。
また優しい手が伊織の頭を引き寄せて、伊織は額を悠人の肩に預けた。頭上から、幸福この上ないというような悠人のため息が漏れて、伊織の髪を揺らす。
結局また、悠人に抱きしめられることを受け入れた。そう思う一方で、悠人のせいにしながら、本当は自ら受け取ったんじゃないかと、伊織は思う。
だって、悠人が微笑みを深くした瞬間、伊織はこうなることがわかっていた気がする。わかっていて、悠人が数歩で近づける距離から動かなかった。後退り、ドアから出ればよかっただけなのだ、本当にこうなることを望んでいなかったなら。
あの日、タクシーを降りた悠人に言われたことを思い出す。「嘘は通用しないと思って」と、悠人は言った。
(本当だ、もう、通用しないんだ)
「ご褒美はダメだ」という伊織の嘘は見抜かれていて、だから悠人は、伊織を抱きしめているのだ。
このままどんどん嘘を暴かれて、悠人が差し出すものを受け入れ続けたら……、どうなるんだろう。
ぼんやりと、そんなことを考えた。
そして、そんな思考を巡らすことで、この瞬間を引き延ばしているんじゃないかとさえ、感じた。
不意に悠人が身じろぎして、伊織の頭に唇を押しつけられた。もし伊織が顔を上げたら、それは伊織の唇に降ってくるだろう。それを自分は望んでいるのか、望んでいないのか。
それすらもう、わからない。
悠人の唇が伊織の耳たぶに触れて、さらに頬に触れた。伊織はピクリとも動かなかった。動かないことで、心地よさを享受した。
やがて悠人の両手が伊織の肩にかかって、そっと2人の体が離れる。それでも伊織は顔を上げられない。悠人の顔を見るのが怖い。
「先に、戻ります」
そう言って、悠人は控室を出て行った。伊織は思わず天を仰ぐ。
もう、自分がわからない。何を望んで、何を求めて、何を欲しているのか。いつだって自分は、明確に自分をわかっていたはずなのに……。
伊織は、天を仰いだまま、ぎゅっと目を瞑った。
休憩をはさみ、今度は皇后が鳳、アルバトールは悠人、伊織が皇帝というバージョンでの稽古となったが、伊織はもう、自分がちゃんと歌えているのかすらわからない状態だった。
綿密に考えて練習を重ねた新しい歌い方を念頭に置くことさえできない。
理由はもちろん、先ほどの控室でのことが原因だ。だけど、それだけじゃない。
問題は、悠人の演技だ。
義樹のアルバトールが、愛されている自信を滲ませているとしたら、悠人は愛する喜びに溢れている。ただひたすら、2人でいられることに幸福を感じているかのようだ。
それはまるで、伊織のそばで見せる悠人の表情で……。それを演技とは言え鳳に捧げる悠人に、伊織は動揺した。皇帝が2人の逢瀬を想像し苦しむシーンでは、アルバトールは皇帝を苦しめるために皇后を愛したのではないかと感じたほどだ。
だが、この稽古は、演出の白川を大いに満足させた。これまでのどのアルバトールとも違う悠人のアルバトールを、新しいアルバトールの誕生として称賛した。
稽古終了となった途端、伊織はその場に座り込んだ。演技のプランなどすっ飛んで、歌い方さえあやふやになってしまった。だがそれは、鳳も同じだったらしい。
「伊織さん……」
伊織の隣に座り込んだ鳳は、「なんなんです、あの子」と呟いた。
「つい昨日まで、フラフラしてたのに、今日になったら、いきなりあんな……」
「ははは……」
2人はともに、芸歴20年に近い。その2人が、一桁の芸歴しかない悠人に振り回された形だ。
「皇帝陛下、皇后陛下」
白川の声に伊織と鳳が顔を上げると、彼はニヤニヤ笑って2人を見ていた。
「励めよ」
一言いうと、白川は稽古場から出て行ってしまう。
「そりゃ、励みますけど……」
鳳がボソリと呟く。その隣で、伊織はガックリと肩を落とす。
伊織はもはや、自分自身の気持ちだけでなく、絶対の自信を持っていたヨーゼフ一世という役すら、わからなくなってしまっていた。
「ブラボー、戸塚くん」
パチパチと拍手をしながら、染谷が近づいてくる。椅子に座って汗を拭いていた悠人は笑顔を見せた。
「皇后と皇帝をやり込めたな」
「そんなんじゃないっす」
染谷は笑って悠人の隣に座った。
「アルバトールが何者か、掴んだのかい?」
「それはまだすけど、気持ちは決めました。アルバトールは皇后を本当に愛していて、皇后のそばにいられることを奇跡ぐらいに思っているんだって」
「なるほど。けっこう」
染谷は頷くと、歌い方についていくつかのアドバイスをして立ち上がった。
「ありがとうございます」
「次の稽古で、君のアルバトールと絡めるのが楽しみだ。もし私をやり込めたら、もはや無双だぞ」
「頑張ります」
悠人の返事に、染谷は大笑いしながら去っていった。見送ると、悠人は椅子の背に体を預けて目を閉じた。
(これが、俺のアルバトール)
沸々とした興奮が、後から後から湧いてくる。なんの違和感も不安もないアルバトールだった。もしも自分がアルバトールであったなら、ただひたすら、皇后のそばにいられること、そして皇后の瞳に自分が映っていることを喜び続けるはず。そして、そんな時間が永遠に続くように、皇后に愛を捧げる。
悠人が目を開けると、視界に、鳳と共にしゃがみ込んでいる伊織が飛び込んできた。
(伊織さんこそ、俺の皇后だな)
そんな小っ恥ずかしいことさえ、思ってしまう。
その伊織は、しゃがみ込んで肩を落としている。おおよそ、成川伊織らしくない姿を見れたことさえ、悠人にとっては喜びだ。そして、そんな彼が愛おしい。
許されるなら、どうやら落ち込んでいるらしい伊織のところに駆け寄って、抱きしめたい。抱きしめて、どんなに伊織が素晴らしいか言い聞かせて……。
伊織が笑ってくれるならなんでもするのに……。
だがここは稽古場だ。周りには、帰り支度をしている人がたくさんいる。その真ん中で伊織を抱きしめるような真似はできない。
悠人は立ち上がると、稽古場を後にした。
控室にいれば、伊織は戻ってくる。落ち込んでいるか立ち直っているかわからないけど。
伊織は戻ってくるのだ。
帰り支度をした染谷とすれ違いざまに挨拶をして、悠人は控室のドアを開けた。その中には、思わぬ先客がいた。
「おや、新生アルバトールのお戻りだ」
考えてみれば、義樹がいるのは当然だ。この部屋は、三番手までの男性演者のための控室なのだから。
椅子に腰掛けて悠人を振り返った義樹は、「お前には本当に驚かされるよ」と苦笑した。
「なんか、稽古してる間に、あんな感じになったんすよ」
「まぁ、啓示を受ける時なんて、そんなもんだよな」
そう言うと、「帰るんだろ?たまには、飯でも食いに行こう」と、義樹は言った。
「いや……、俺は……」
伊織を待つつもりだったから、悠人は返事を言い淀む。そんな悠人に、義樹は首を振る。
「今日は、1人にしてやれ。幸いさっきアンサンブルの皆さんと一緒にモブ1も帰ったみたいだから、大丈夫だし」
義樹の言葉に、そう言えば義樹には伊織への好意がバレているんだということを思い出す。
義樹は伊織と親しい。その義樹が言うんだから、伊織を1人にした方がいいのかも知れないけれど。
(俺が、伊織さんを待ちたい)
それが本音だ。悠人が義樹の誘いを断ろうと決めた瞬間「いいから、1人にしてやれ」と、義樹はもう一度言った。
「こんな時は、1人でいたいはずだ。成川伊織は、きちんと1人で対処できる」
「でも俺、もし伊織さんが落ち込んでるなら、頼って欲しい」
「それは、『頼らせてくれ』って言われる男になってから、するんだな。もし伊織が、お前の助けが必要だと感じたら、電話でもかかってくるさ」
「……」
悠人はとうとう諦めた。義樹の食事の誘いが、悠人のためではなく、伊織のためだと感じたからだ。
義樹と連れ立って帰る途中、稽古場の前を通った。扉は閉められていたが灯りはついたままで、中からピアノの音がした。ヨーゼフ一世が皇后の裏切りを嘆く「盲目だった愛」だ。
立ち止まった義樹が「伊織だな」と呟く。
「あいつの立ち直り方は色々あるけど、ピアノもその一つだ」
悠人にはピアノのうまい下手はわからないけれど、楽器はなに一つできない悠人からすると、ピアノが弾けるだけで「伊織さん、すげぇ」と、呟いてしまう。
「ピアノも弾けるんだ……」
もはや賞賛と言える口調の悠人に、義樹は唇を歪めた。
「俺も弾けるけどな」
「へぇ。義樹さんもすごいね」
「棒読みかよ。行くぞ」
義樹が誘っても、悠人はそこから動かない。というか、このままフラフラと稽古場に入って行きそうだ。ただ立っているだけなのに、義樹の目には、悠人の全身から伊織への気持ちが迸っているように見えた。
(本当、役者向きだよな)
本来の自分の気持ちにせよ、役の気持ちにせよ、それを表に出せる人は強い。役柄の感情さえ掴んで仕舞えば、表現が自然に溢れてくる。もちろん計算で演技を構築する天才もいるけれど、悠人はそれとは真逆なんだろうと思う。
「いいから、行くぞ」
今度は悠人の腕を取って引っ張った。それでも心残りらしく、悠人は稽古場の方を振り返り振り返り、ついてくる。
エレベーターに乗って、悠人はようやく諦めたようだ。
「なんで、伊織なんだ?」
義樹が尋ねると、「わかんない」と、悠人はポツリと呟いた。
「でも、気がついたらキスしてた」
「あ?」
思わず義樹がマジマジと悠人を見たところで、エレベーターが1Fに到着した。裏口に回る間にも、義樹の興味は強くなるばかりだ。
「いつから?」
「ハッキリしたのは、ここ数日。むしろ、キスしてから、なんか、納得したっていうか……」
守衛さんに挨拶して、2人で裏口を出る。大通りに向かう途中、悠人はあかりの灯る稽古場を見上げて立ち止まったが、すぐに歩き出した。
「最近、一段と寒いな」
首を縮めながら義樹が言う。
「そろそろダウンの季節すね」
義樹に同意しながら、悠人は思う。
(伊織さん、ちゃんとタクシーで帰るといいけど……)
タクシーを呼べるかどうかは心配していない。だけど、もし伊織が落ち込みから立ち直っていなかったら、自分を労るよりも、自分を罰する方に舵を切りそうな気がして嫌だ。
例えば、もっと冷え込んだ深夜でも、その寒さの中での帰宅を選びそうな……。
「その辺の店でいいだろ?」
飲食店が立ち並ぶ一角へ曲がろうと、義樹が尋ねてくる。
「はい」
悠人は頷いて、義樹を追いかけた。
義樹は、「電話でもかかってくるさ」と軽口を叩いた自分を、後悔している。
悠人が気もそぞろで、テーブルに置いたスマホにチラチラと意識を奪われているから。その度に、着信がないことに落ち込んだ表情を見せる。逆に、別の誰かからの通知が来たりすると、不快な表情を隠しもしない。
「お前、そう言うタイプだったの?」
ビール片手に、義樹は尋ねる。悠人の恋愛なんぞ想像したこともなかったが、考えられるとしたらクールというか、冷静というか、そういうタイプに見える。
見えるだけだった。
「だって、伊織さん、落ち込んでたみたいだし」
「そんな経験、死ぬほどしてるよ、あいつは。大丈夫だって」
「それは、優越感ですか?俺に対しての」
「今度は俺に絡んでくんのかよ。めんどくせぇ奴だな。いいから飲めよ」
言われて悠人は、形ばかりビールに口をつけた。そしてまた、チラッだ。
「お前、車とか持ったら、迎えのために酒セーブしそうだな」
義樹が嫌味を言うと「だね」と悠人は頷く。それからようやく「車、ね」と内容を認識したようだ。
「車かぁ……」
「待て。冗談だし、まだ免許取ってないだろ。『忙しくて行けない」って言ってたよな。車の購入には、免許と駐車場の証明がいるんだ」
「駐車場の証明も?」
悠人の表情は「いいことを聞いた」と言いたげだ。このままでは、なんとか時間を捻出して、免許取得に動きかねない。
「それに、伊織を迎えに行くためには、その伊織の依頼も必要だ」
今の悠人にとって、もっとも難関と思われる問題をあげると、悠人は落ち着きを取り戻した。
「そうだね」
「なんで、伊織なんだ……」
義樹は本日2度目の質問をしてしまう。
「お前なら、告白してくる女性の1人や2人、いるだろ、常に」
「いや、アイドルじゃあるまいし、常になんて、ないですよ」
「じゃあ、年だったら?」
「年だったら、もっと多いかな」
「……喧嘩売ってるの?お前」
「ははっ」
悠人は、店に入ってから初めて笑顔を見せた。そして、ビールを一口。
「伊織さん、本当に、大丈夫かな」
それがずっと気になっているんだろう。義樹は務めて明るく「大丈夫だって」と太鼓判を押す。
「それに、伊織が今日、落ち込んでるのは、お前の成長について行けなかった自分の未熟さに対してだ。ある意味、俺たち世代の役者にとっては貴重な経験だぞ。だから、それはそれとして、伊織は今、自分自身にとって貴重な成長のチャンスと向き合ってるってこと」
「俺の成長?」
悠人が首を傾げる。それで義樹は、今の今まで、悠人が伊織の落ち込みの原因に気づいていなかったことを知った。
「お前、原因に気づいてなかったのか?」
「俺のせい?」
「違う違う!もっと言うなら、お前のおかげ、だな」
そう義樹が言っても、悠人は「自分のせい」という部分が引っかかっているらしい。少し眉を寄せた表情が、暗く翳っている。だから義樹は、懇切丁寧に説明することにした。
「俺たちは、毎日同じ人たちと稽古をしている。そうすると、ほぼ全員の力量を把握できる。だから安心もするけど、ある意味、それは慢心なんだ。もちろん、自分の役へのこだわりや責任は誰もが持っているけれど、それもある意味、カンパニーの力量の範囲内に留まりがちだ。だけど、今日、全員の目を覚ますような変化が起きた。モブ1のこともそう。お前のいきなりの成長もそう。そういうのは、チャンスなんだ。そりゃ、その瞬間は落ち込みもするけど、その変化を自分の力にしたがるのが役者だ。そうすれば、役者ひとりひとりの意識も力も高まるし、カンパニーの力も底上げされる。だからきっと、伊織は今頃、笑ってるよ」
「……」
義樹の言葉を理解したのか、していないのか。悠人はただ、また、ビールに口をつけただけだった。だから義樹もビールを手にする。
悠人の成長に、衝撃を受けたのは義樹も同じだ。嬉しいとも、頼もしいとも思っている。それと同時に恐怖も感じている。その恐怖すら、笑顔になってしまうような出来事だった。
(そして俺は、最後も笑ってみせる)
悠人が産もうとしている新しいアルバトールと、義樹が磨いてきたアルバトール。
その戦いに勝って、俺が、笑ってみせる。
店を出たのは、稽古場を出てから3時間後。あたりのショーウィンドウは、とっくに灯りを落としていた。
「タクシーでいいか?」
義樹が通りで手を挙げると、悠人は「俺、ちょっと……」と、言い淀んだ。そして「お疲れ様でした!」と叫ぶが早いか、踵を返して駆けていってしまった。
「青春だなぁ」
悠人の行き先はきっと、稽古場だ。伊織に会いに行くんだろう。
だが、相手は成川伊織だ。今は予想外の悠人の好意に戸惑っていても、どこかで必ず立て直してくる。
その時、悠人は笑っていられるか、泣いているか、苦しんでいるか……。
「どうか、公演にだけは影響しませんように」
義樹が今願えるのは、それしかない。
息を切らせて、灯りの落とされた稽古場の小窓を見上げる。
もし今、伊織が灯りを落としたなら、数分後に伊織に会える。
悠人は裏口に回った。吐く息が、少し、白い気がする。
義樹は「伊織は大丈夫だと」言った。悠人も伊織はきっと大丈夫だと思う。それでも、会いたい。
伊織が落ち込んでいるなら、落ち込んでいる伊織の傍にいたい。立ち直るなら、立ち直る伊織の傍にいたい。できることがあるなら、本当に些細なことでもいいから、伊織の役に立ちたい。
今、伊織に会いたくて、仕方がない。
だけど、待っても伊織は裏口から出てこない。悠人はたまらなくなって、ポケットからスマホを取り出した。
伊織からの着信がなかったスマホで、悠人は伊織の番号を検索する。4年前の初めての公演の稽古中に「なんでも相談して」と言われて、伊織と番号を交換した。この4年間、一度もかけたこともかかってきたこともなかった番号だ。
どうして、この番号を放置していられたのだろう。かければ、あの人につながる、大事な番号なのに。
発信して、耳に当てる。
呼び出し音が鳴り始めてしばらく経っても、伊織は応答しなかった。
ベッドに入ろうとしていた伊織は、サイドボードのスマホの着信に気づいて顔を向けた。
ディスプレイに、悠人の名前が浮かんでいる。
「そういえば、4年前に交換したっけ」
いついなくなるかわからない、その時の共演者と交換した番号だ。かけた覚えもかかってきた記憶もない。
その番号が、悠人の存在を伝えてくる。
出る気には、ならなかった。
それでも着信は続く。伊織がそれを見つめているうちに、やがて着信は切れた。きっと悠人は、今頃自動音声に「お出になりません」とにべもなく拒絶されているだろう。
またかかってくるだろうかと、伊織はそのままスマホを見守ったが、スマホは黙り込んだままだ。
だから伊織は、ベッドに潜り込む。体も頭も疲れ切っていた。こんな疲労感は久しぶりだ。心地よくて、このまま意識をなくせる気がする。
(まさか、家まで押しかけてきたりしないだろうな)
ふと思いついて、伊織は「ふっ」と笑いを漏らした。最近の悠人のやりたい放題さを思うと、それぐらいの無茶はしそうだ。
仮に来たとしても、伊織は悠人には会わないだろう。どんな無茶をされても、絶対に。どうしたって1人で過ごしたい夜というのがあるのだ。
目を閉じると、今日、弾きたいだけ弾いた「皇后の恋」のメロディーたちが聞こえてくる。ピアノを弾きながら、悠人が見せた演技を思い出した。最初はひたすら音に漂っていただけなのに、次第に伊織はワクワクと指を走らせた。あのアルバトールと皇后の恋に、皇帝は何を思うだろう。どう感じるだろう。台本の中には落ちていない新しいヨーゼフ一世の思いを追いかける。
あの直向きな青年に皇后が心を奪われたことをどう思ったか。その答えは、幾つも幾つも浮かんできた。
最後に伊織が導き出したのは、「許し」と「後悔」。これまでのヨーゼフ一世は、ただひたすらに苦悩し、妻の不貞を嘆き、苦しんでいた。だけど……。
ヨーゼフ一世にも、悠人のアルバトールのように皇后を愛し、傅きたいという憧れがあったのではないかと感じたのだ。だが、立場的にも人柄的にも、そうした愛し方が許されなかったとしたら……。
嫉妬と苦悩のどこかに、自分も自分が望んだように愛せばよかったという後悔は生まれなかったか。
そして、自分が与えられなかった愛を求めた皇后を、許さざるを得なかったのではないか。
悠人のアルバトールなら、きっと。皇帝の心さえ溶かしてしまう。
その細やかな心情を必ず表現してみせようと、伊織は決めた。
(本当に、あの子には困ったもんだ……。僕から、キスだけじゃなく、演技プランまで奪うんだから……)
薄れていく意識の中で、伊織は悠人を思い出す。
その代わり、温かさを与えてくれたな……と、伊織は思う。
悠人の腕の中は温かくて、悠人の気持ちも温かくて……。
こんな時に抱きしめられたら、幸福にさえ酔える気がする……。
「どうした戸塚くん、昨日とは打って変わってシリアスじゃないか」
ちょっとおどけた染谷を「まぁまぁ」と言いながら、義樹が控室から連れ出す。
「若いんだから、色々ありますって」
「だから、その色々を聞きたいんじゃないか」
朝から騒がしい染谷と義樹が控室から出ていくと、2人の足音しか聞こえなくなった。悠人は壁の時計を見つめる。
稽古開始まで、あと10分。なのに、伊織がこないのだ。
いつも、遅くとも30分前には来て、発声をしているはずなのに。
(何か、あったりしたら……)
そんなことを思ったら、恐ろしくなる。悠人はまた、時計を見上げた。
その時、遠くから足音が聞こえてきた。真っ直ぐに一定の速度で近づいてくる足音に、悠人はドアを振り返る。
ドアの前で一瞬立ち止まって、丁寧にそれが開いて。
姿を見せた伊織は、悠人がそこにいることに驚きもせず「おはよう」と挨拶をした。それだけで、悠人は胸が詰まったようになってしまう。
まるで、一つ前の公演に戻ったかのように、伊織は成川伊織だった。乱れのない髪。肌艶も戻っている。最近クマが目立っていたけど、それも綺麗さっぱり消えているようだ。
手早くコートを脱ぎ、それをハンガーにかけた伊織は、悠人など目に入らないかのようにテーブルに置いたバッグから台本を取り出した。そのキビキビとした動きは、本当に伊織らしくて……。
もし伊織が本当に前の伊織に戻ってしまっていたら、その瞳は、あのガラス玉みたいに悠人を見るかもしれない。
そんな予感が胸を過ぎって、悠人は呆然と立ち尽くしてしまった。
台本とペンを揃えた伊織は、ふと悠人を見る。
「そう言えば、電話をもらってたみたいだね。早寝したから、朝に気づいた。ごめん」
言われて、悠人は首を振る。そんな悠人に、「どうした?」と、伊織は怪訝そうな表情を浮かべた。
「い、伊織さんこそ……」
「僕?ああ、昨日、あれだけ落ち込んでたのに、もう立ち直ってるのかって、そういうこと?」
今度は、コクコクと悠人は頷く。正確には、もっと複雑なことを尋ねたかったけれど、何を聞けばいいのか、悠人にもわかっていなくて。
「おじさんにはね、色々、技があるんですよ」
そう冗談めかして、伊織は台本を持つとドアに向かう。悠人は咄嗟に腕を伸ばして、伊織を背中から抱きしめた。
「伊織さんっ……」
びっくりするぐらい細い声が悠人の口から漏れて、情けない気持ちになる。何が「伊織に頼ってほしい」だ。すがっているのは、自分じゃないか。
だけど伊織は、抱きしめる悠人の腕の中にいてくれている。その瞳が、ガラス玉でないことを確かめたくて、悠人はそっと後ろから伊織の顔を覗き見た。
途端に伊織が振り返る。悠人が目を見開いたのと、伊織の腕が後ろに伸びて、悠人の頭が引き寄せられたのは同時だった。悠人の唇に、伊織のそれが軽く触れた。そして、すぐに離れて、伊織は悠人の腕から逃れてしまう。
ドアを開けながら、伊織は悠人を振り返った。
「お礼だよ」
言い残して、そしてご丁寧にドアも閉めて、伊織は去っていってしまった。
(伊織さんから、キス……)
思った途端、悠人はガッツポーツで雄叫びを上げていた。それはミュージカル俳優の雄叫びだったから、控室のドアなど通り抜け、廊下を歩く伊織を追い越して、稽古場まで響いてしまった。
「クッ」
伊織は思わず笑いを漏らす。それと同時に、稽古場のドアが開いて、義樹が顔を出した。
「うるせぇぞ、悠人っ!さっさと稽古場にきやがれっ!」
途端にドアが開く。満面の笑みの悠人が「ハイっ」と良く通る声で返事をした。
後ろから駆けてくる悠人より先に稽古場に到着した伊織に、「お前か?」と、義樹は顎をしゃくった。
「なんで、僕?」
伊織は肩をすくめて稽古場に入っていったが、息を切らしてキラキラと瞳を輝かせている悠人を見る限り、原因は伊織としか思えない。
稽古場で柔軟をやっていた染谷は一連の騒ぎを横目で見ながら「本当に若者は色々あるな」と呟いた。
本日の稽古場は、透明な阿鼻叫喚が起きていた。もし全員の心の声が文字にできたなら、稽古場が文字で埋まっているに違いない。
今日は、昨日の悠人の演技も踏まえ、白川の意向でメインのシーンをすべての組み合わせてやり切ってみることになったのだ。
そして、そのメインのシーンの出演者のうち、義樹、伊織、エリカ、鳳、染谷が、演技を変えてきたのだ。
辛うじて義樹は、自分のアルバトールのイメージをより増幅させ、朗らかさや軽快さを強めたところで留めていた。悠人と組んだ小路は少女のようなトキメキを感じさせる皇后にシフトし、鳳は何か、この瞬間は今しかないのだとわかっているような悲しみを感じさせた。染谷は、義樹の場合も悠人の場合も、これまで皇后に向けていた憎しみをアルバトールに対しても向けているように振る舞っていた。
そんな中、悠人と組んだ伊織の歌はボロボロだった。迷いはないが、表現したいことがまだ表現しきれていないことを如実に感じさせた。初稽古に入る時、伊織はほぼ仕上げの状態で入ってくるから、こんな伊織を見るのは、誰もが初めてだ。
皇后の裏切りに苛まれる伊織のそばで皇后に傅きながら、悠人は汗を滲ませて歌う伊織に見惚れる。自分が求める表現のためにボロボロの自分を曝け出す伊織を美しいと思った。
シーンが終わると、伊織は深いため息を吐き稽古場の天井を見上げた。
「伊織くん」
演出の白川に呼ばれて、伊織は演出テーブルに向かって行く。その後ろ姿を見ていたエリカが「伊織くん、ここまで壊しちゃって大丈夫かしら」と、呟いた。
すると、エリカの隣で汗を拭いていた悠人が口を開いた。
「伊織さんは、大丈夫。絶対」
「そうよね、伊織くんだものね」
そこから数日の間、稽古終わりに伊織と白川が稽古場を占拠するようになった。通常の稽古の時の伊織の演技は元に戻っており、通常の稽古が終わると、演者たちはさっさと稽古場から追い出される。
演者たちは「白川さんの秘密の特訓だ」と、コソコソ囁きあった。
悠人は毎日、夜、伊織に電話をした。伊織は普通に出てくれて、悠人と会話をしてくれた。
『大丈夫、心配ないよ』
伊織がいう『大丈夫』の中に、嘘がないか耳を澄ませても、声だけじゃわからない。少なくとも伊織の声には疲労が滲んでいて、皇帝を完成させる前に、伊織が体調を崩すんじゃないかと心配になる。
「伊織さん、会いにいっちゃダメですか」
思い切って聞いてみたけれど、伊織は明快に『ダメだね』と笑った。
『とにかく、体を休めたいんだ』
そう言われては、会いに行くはおろか、この電話さえ伊織の迷惑になっているのではと思ってしまう。
「じゃあ、切りますね。また、明日」
そう言って、悠人が通話を切ろうとすると、『悠人くん』と、伊織の呼びかけが聞こえた。
『本当に、大丈夫だから。もうそろそろ、白川さんからも解放されると思うから』
「……はい」
『じゃあ、おやすみ』
通話は切れてしまって、悠人はソファーにドサっともたれた。
「俺って情けね……」
伊織に宥められている自分に嫌気がさす。本当なら、悠人の方が、伊織が少しでも楽になれるように気遣わなければならないのに。何かを思って、それまでの演技プランを全部捨て、ボロボロになりながらも新しいヨーゼフ一世を生み出そうとしている伊織に、悠人の方が寄りかかっている。
結局、義樹のいう通りなのだ。成川伊織は成川伊織だから、悠人の助けなんて必要としていない。義樹が言ったように、悠人のアルバトールが彼の琴線に触れて、彼を動かしていたとしても……。伊織がそこから何かを生み出すのに、悠人の存在なんて必要ないのだ。
自分の力不足なだけなのに、伊織に頼られないことが嫌だと思う。その気持ちを伊織に押し付けてしまう。そして彼に「大丈夫」と言わせてしまう。
それでも、伊織のことを思ってしまう。今日の伊織を思い出して、その表情や歌声や汗を拭う仕草に気持ちをざわめかせて……。
(だって、伊織さんは……)
そうした姿を稽古場で曝け出すようになってから、ますます悠人の気持ちをとらえてくる。必死な伊織の表情に泣きたい気持ちさえなってくる。
あんな顔、して欲しいわけじゃない。だけど、あんな顔をしている伊織をもっと好きになる。気持ちが大きくなり過ぎて、伊織が疲れているとか、1人で考える時間が必要なんじゃないかとか、そういうことをすっ飛ばして、伊織の声が聴きたくなる。
もしそんな自分の気持ちを押し殺したり、むしろそんな気持ちにもならずに伊織を見守っていられるのが大人だと言うなら、悠人は自分で自分が嫌になるぐらいのガキだった。
しばらくソファーにもたれて考え込んでいた悠人は、ようやく体を起こす。
気持ちはガキだけど、理性は明日も稽古があることを思い出させてくる。悠人だって、眠って、明日に備えなければならない。
(わかってる。俺は、俺の責任を果たさなきゃ)
伊織のことが気になり過ぎて、ここ最近、浅い睡眠しか取れていない自覚がある。睡眠をとることも仕事の内だ。
そう思ったけれど、ベッドに行く気にはならない。
悠人はそのまま、ソファに仰向けに寝転んだ。
「伊織、お前は悠人の演技をどう思う?」
通常稽古終わりに白川に課せられた特別稽古も4日目の今日。伊織は白川から、そう尋ねられた。
「どう、とは?」
「演技だと思うか、あれ」
「ああ……」
伊織は、白川の質問の意図を理解し、頷いた。
「悠人くんのアルバトールは、演技というより感情の投影だと、仰りたいんですか」
「『感情の投影』か。まさに、それだな。自分自身が片思いで浮かれているから、それを爆発させてアルバトールでも浮かれている。公演の間中、その浮かれた感覚に酔っていてくれればいいが、プライベートで絶望でも味わえば、一気におじゃんになりそうな危うさを感じる。逆に悠人の恋愛が上手くいって、充実感が増えれば、今の直向きさを失うかもしれない。そうなると、お前のヨーゼフ一世ともチグハグになりかねないし、義樹のアルバトールとも方向性が被ってきてしまう。そうなると、義樹のアルバトールの紛い物の印象にもなってくる……。とはいえ、『公演の間中、片思いをしておけ』とも、言えんしなぁ。悠人に言ったところで、相手があってのことだしな」
「……」
その悠人の片思いの相手が自分であると知っている伊織としては、返答に困る白川のぼやきだ。
「今時の若者は、あれだ。『タイパ』とか言って、なんでもスピード勝負なんだろ」
「『タイパ』は時間効率ですから、早ければいいということではないと思いますけど」
「2ヶ月も現状の浮かれた感覚を続ければ、役柄の感覚として身につくとは思うんだが……」
「いずれにしても、公演終了まで、現状維持でいてほしいと。白川さんは、そう思っていらっしゃるわけですね」
返事を白川に返しながら、伊織は、もしかしたら白川は、悠人と伊織の事に気づいているのではないかと感じた。だが、白川の表情からは、そこまで確証を得ることをは難しい。
「いずれにしても、今回の公演は、悠人のアルバトールと一緒に心中だ。みんなで助かればよし、助からなかった時は、お前も、覚悟しておけよ」
冗談なのか本気なのかわからない口調でそう言って、白川は稽古場を出て行った。
伊織は、ちょっと脅された気分になる。もし白川が悠人と伊織の事に気づいているなら、脅しとまではいかなくても牽制ではあるのだろう。
(進みもせず、終わらせもせず、現状維持、か……)
白川の言うことは、理解できる。他人事だったら、伊織も「そうだったらいいね」ぐらいのことは思ったかもしれない。
いや、当事者であっても……。もし、伊織が悠人の事をどうするか決めていたら、自分の取るべき行動を決められたはずだ。白川の意向に従うかどうかも含めて。
(多分、悠人くんを拒絶したいと思っていたら、僕は、白川さんには従わない)
いくら舞台をうまくいかせるためだとしても、気持ちのない相手を煽るなんてことはできない。
だから、伊織が今、身動きできないのは……。
(ダメだ、考えるのはよそう……)
伊織は頭を振って思考をリセットする。そして、白川との稽古を思い出しながら、1人で稽古を再開した。
休みの前日の稽古は、長丁場になりがちだ。だけど今日も、通常稽古が終わった演者たちは、すぐに稽古場から追い出されてしまった。
「これで6日目かぁ、長いなぁ」
「まぁ、白川さんもノってる証拠なんじゃないか」
そんなこと言いながら、演者たちは次に次に帰っていく。だけど悠人は、閉じられた稽古場の前から動けなかった。
昨日、今日と、伊織は徐々に白川との特訓の成果と思われるヨーゼフ一世の演技にシフトしつつあった。それでも納得がいかないのか、悔しそうな表情を浮かべてばかりだった。
(笑顔を、見てないんだ)
稽古の間中、ずっと厳しい表情を浮かべている伊織なんて初めてだ。それがもう一週間近く続いている。あの「モブ1の乱」の時でさえ、引き攣りつつも笑顔を浮かべていたのに……。
「悠人、帰らないのか」
帰り支度を整えた義樹に声をかけられて、悠人は顔を上げた。義樹は悠人の顔を見て「なんて顔してるんだ」と、苦笑する。
「叱られた子供か?」
「だって……、さっきから稽古場から声も聞こえないし。中が、気になって……」
「何が『だって』だ。面倒な奴だな」
義樹はそう言うと、ツカツカ稽古場のドアに近寄って、勢いよく開けてしまった。
「白川さん、伊織、後進のために、秘密の特訓を見せてやってくださいよ」
そう言うが早いか、義樹は悠人を引っ張って稽古場に押し込んだ。通常稽古の時とは違う雰囲気の白川と伊織が、悠人を見ている。2人がこれから新たなヨーゼフ一世を生み出そうという空気の中に、自分が異質な空気を混ぜ込んだような気がして、悠人は硬直した。
「……どうする?伊織」
白川の問いかけに、伊織は悠人から視線を外して答えた。
「構いませんよ」
「そう言うことで、俺は帰ります」
悠人を勝手に稽古に引き込んでおいて、義樹は「じゃ!」と手を振ると、さっさと退散していった。
「悠人、見るなら、その辺にいてくれ」
白川が、手に持った台本で稽古場の隅を指す。指示に従って、悠人は壁際に座り込んだ。
(伊織さん、伊織さん、伊織さん、伊織さん)
折り曲げた足を両腕でぎゅっと抱えて、悠人は伊織を必死に見つめる。緊張で全身に力がこもり過ぎて、足を支える両手の指がふくらはぎに食い込んでいるほどだ。微かに、全身が震えていた。
ピアノも音源もない状態で、伊織はヨーゼフ一世を演じている。普段は長テーブルに着席して指示を出している白川も、今はピッタリと伊織に寄り添い、細かな指示を出す。それに応じて歌い方やセリフの言い方を変え、何度も繰り返し、伊織は演技を自分のヨーゼフ一世へとチューニングしていく。
「そう!そう!そう!」
白川が叫んだ時、悠人は唇を噛み締めた。少しでも口が開いたら、声が漏れそうだったから。
伊織が、歌の最後の一音を、空を見つめて歌い終えようとしている。悠人が涙ぐむぐらい、美しくて優しい一音だった。
「よしっ!」
白川が言った瞬間、伊織はのけぞって、両手で顔を覆った。切れた息が、伊織の体をガクガクと震わせている。その体が崩れ落ちるのを支えたいと思ったけれど、悠人は動けなかった。
だって、あの振動は、伊織だけが味わうべき達成の証だ。もしそれで伊織が床に崩れ落ちるなら、その瞬間の浮遊感だって、床に打ち付けられた痛みだって、伊織だけのものだ。
やがて伊織は、力が抜けたように両手をだらりと落とした。それでも表情は虚で、まだヨーゼフ一世が伊織の中に居座っているかのようだった。
「伊織よ、お前、俺の年も考えてくれるか」
白川がぼやくように言って、伊織はようやく「クスッ」と笑って覚醒した。
「ありがとうございました、白川さん」
伊織が礼を告げると、白川はそばの椅子にかけていた上着を手に取る。伊織の指導の間に、煩わしげに脱ぎ捨てたものだ。
「明後日の稽古から、これでいくか。稽古は残り二週間しかないからな」
「はい」
伊織が頷くと、白川はいきなり目をしょぼしょさせて眉間の辺りを指で摘んだ。
「今度は、他の連中が、お前にキリキリ舞にされるな」
「そこは、白川さんにお任せします」
「ふぅ……」
ため息を一つ吐くと、「お疲れ」と言って、白川はドアに向かう。その途中で、端の方で縮こまっている悠人を見つけた。
「勉強になったか?」
180cm以上あるはずの男が、本当に小さく、小さく、なっている。伊織の姿に圧倒されて、口もきけない様子だ。
白川は悠人の返事を待たずに控室を出ていった。
伊織はそんな2人に気付かなかった様子で、床においてあったドリンクホルダーを手にし、ゴクゴクと水分を喉に流し込んでいる。そして「フゥッ」と吐息を漏らすと、ゆっくり、ピアノに近付いて行った。
蓋を開けて、カバーを外し、「ポーン」と一音。そして、また、一音。伊織は椅子に座ると、スローなリズムで「盲目だった愛」を弾き始めた。
(伊織さん……)
伊織の背中は、幸福に満ちているように感じた。よくわからないけれど、悠人は泣きたくてたまらなくなる。抱え込んだ膝に瞼を押し付けて、悠人は必死に涙を堪えた。ピアノの旋律が美しくて、悠人の中の何かがせりあがろうとするのを後押しする。悠人が懸命に抑えないと、今にも、吹き出してしまいそうだ
やがて伊織のピアノは止んだ。
「悠人くん」
伊織の穏やかな呼びかけに、悠人は少し顔を上げる。ピアノの椅子に腰掛けた伊織が、悠人の方を向いて「歌うかい?」と尋ねてくる。
悠人は首を振って、また、膝に額を押し付けた。
素晴らしい舞台で感動した時よりも、自分が満足する歌唱ができた時よりも、ステージでスポットライトを浴びて会場中の拍手を浴びている瞬間よりも、心が震えて仕方がない。
ピアノの蓋が閉められる音がして、キュッと伊織の靴が鳴った。伊織の足音が近付いてくるのと同じスピードで、悠人の心臓が絞り上げられる。
あの足音が悠人のずっと手前で止まって、ドアが開いたらどうしよう。でも、そうされても仕方ないと、悠人は思う。伊織に気遣ってもらう価値なんてない。こんなところでうずくまっていることしかできない自分なのだから。
成川伊織は、成川伊織であるがまま、1人で立ち直って、1人で成長して大きくなる。そんな伊織に比べて、自分のちっぽけさはどうだ。
置いて行かれたって仕方がない。元々、先を行く伊織が、悠人よりももっと速いスピードで進んでいるのだから。距離は開くばかりで、近づけるかもしれないという希望さえ失いそうになる。
だけど伊織の足音と気配は、悠人のすぐ傍まで来てくれた。
「悠人くん」
優しい声が悠人を呼ぶ。悠人はますます泣きたくなる。伊織に優しくされるのは嬉しい。だけど、今は、自分のちっぽけさを痛感させられる。
「待たせたから、食事にでも行こう」
その言葉にも、悠人は顔を上げられない。どんな顔をして伊織を見ればいいのかわからない。だけど、今の自分の顔が、伊織に一番見せたくない顔であることは確かだ。
それでも伊織のそばにいたいと思ってしまう。伊織のそばにいることで、伊織に近づけるという希望をもう一度持ちたいと思ってしまう。
「ほら」
くしゃっと髪をかき混ぜられた感触に、悠人はやっと顔を上げた。見上げた伊織の顔は稽古場の照明が眩しくて見えないけれど、「行くよ」と誘う声は、やっぱり優しい。
(伊織さん……)
悠人はフラフラと立ち上がった。途端に伊織を見下ろす形になったけれど、それでも、悠人の前を歩く伊織の存在感に圧倒される。
(伊織さん……)
すぐ前を歩いているのに、腕を伸ばして伊織を引き寄せる気にもなれないまま、悠人はただ、従順に伊織の後を歩いて行った。
「悠人くん、そこで眠っちゃダメだよ」
ソファーにうずくまる悠人に声をかけた伊織は、悠人からの返事がないことに苦笑した。
(これはもう、寝ちゃうんだな)
それは予言に近い予想。本格的に眠る前に、ベッドに寝かせなければ。ソファーでなんて眠ったら、明日は身体中が軋むに違いない。
食器を片付ける手を止めて、伊織はリビングに向かった。予想通り、悠人は体を丸めて、膝に顔をうずめて目を閉じていた。
「寝るならベッドにしなさい。ほら、立って」
悠人の腕を引っ張ったけれど、ビクともしない。伊織は悠人の腕を肩に担いで、無理やり体を起こさせた。
「重い……」
成人男性が全力でのしかかってきているのだ。重くないわけがない。すぐにも力が抜けそうな悠人に「ほら、歩いて」と声をかけながら、伊織はなんとか悠人を寝室に運ぶ。ベッドに腰掛けさせて悠人の腕を肩から外すと、悠人の体は面白いぐらい素直にベッドに沈んだ。
その体の下から、なんとか掛け布団を引っ張り出し、悠人の体を覆う。このタイミングで風邪なんてひかれたら大問題だ。
サイドデスクの上のライトだけつけて、伊織はダイニングに戻る。悠人が残したリゾットを、もったいないけど処分して、食洗機に入れてスイッチを押す。
そして伊織は、きちんと風呂に入って就寝の準備を整えた。ベッドは悠人に貸してしまったし、今夜は自分がソファーで眠ろうか。一瞬、そうも思ったけれど、伊織は「ふぅ」と吐息を一つ漏らして、寝室に向かった。
悠人が目覚めた時、自分がベッドで伊織がソファーで寝ていたら、それこそ彼は地獄の底まで落ち込みそうだ。
「ま、クイーンサイズだし」
悠人はベッドの半分側で丸まって眠っている。その反対側に回り込んで、伊織は布団に足を入れた。
(これは……、何されても文句は言えないな……)
上半身を起こしたまま、眠る悠人の顔を見つめる。
伊織と白川の稽古を見た直後から、悠人の消耗は激しかった。食事に誘ったものの、悠人の反応があまりにも鈍いから、外食は不可能と判断して自宅に連れて帰ってきたが……。
(それを言ったら、連れて帰ってきた時点で、何されても仕方なかったんだ)
悠人は伊織が好きだと、真っ直ぐに伝えてきていたのだから。そんな相手を自宅に改めて招いたんだから。しかも、突然キスをしてくるという前科付きの男。
自宅に入る瞬間、伊織はちゃんと、それを認識していた。いや、タクシーで行き先として自宅の住所を告げた段階で、ある意味、覚悟もしていた。悠人が暴挙に及んだら、その顔にあざを残す事になったとしても、抵抗してやるという覚悟だ。
だけど、伊織の懸念に反して、悠人は何もしてこなかった。それどころか、伊織の自宅に招かれたことも、差し出されたのが伊織のお手製のリゾットであることにも、気づいていないのではないかと思うぐらい反応が鈍くて。
疲弊という言葉がピッタリな表情で3口リゾットを食べたただけ。あまりにもダルそうにしているものだからソファーに座るように言ったら、それには従ったものの、そこで寝落ちする有様だ。
「今日のショックだけじゃないんだろ?」
寝息を立てている悠人に、答えはないとわかっていながら尋ねる。伊織の状況がわからなくて、きっと、気を揉んでいたはずだ。眠れていなかったのかもしれない。
当の伊織は、演技や歌に苦戦はしていたけれど、日々の生活に影響は出していなかった。むしろ、毎日全力以上の力を出し切っていたから、良質な睡眠が取れていたほどだ。
今日には、ひと段落すると思っていたし。焦りもなかった。
だけどきっと、悠人は違ったんだろう。状況が見えない分、あれこれ考えて、考え過ぎて心配して。
それをわかっていて、義樹が悠人を稽古場に押し込んだ時、伊織は帰宅を促さなかった。むしろ、見せつけてやろうとさえ思った。
「僕は、プロなんだ。その自負がある」
成川伊織が何者であるか、悠人に見せつけてやろうと思った。どれほど悠人を揺さぶれるか、求める表現に向かって、どれほどの努力ができるか。伊織を「心配」しているであろう悠人と、自分の差も。
伊織は悠人から目を離してベッドに潜り込む。しばらくそのまま、暗い天井を眺めていたけれど、腕を伸ばしてサイドデスク上のライトを消した。
そしてゆっくり、悠人の方に体を向ける。少しだけ腕を伸ばして、規則的に動く悠人の背中に手のひらを当てた。悠人の背中は、腕の中と同様に温かい。
伊織の企みは、成功した。2人きりで伊織の自宅に帰ってきたのに、伊織に圧倒されて精も根も尽き果てた悠人は、伊織を抱きしめることもキスも、それ以上のことも思いつかないぐらい憔悴していたのだから。伊織と自分の間のプロとしての大きな隔たりにも衝撃を受けたことだろう。
(だけど、それだけじゃなかったんだよ)
見せつけてやろうと思うのと同時に、悠人に見てほしいとも思っていた。白川の導きでヨーゼフ一世を作り上げながら、その過程を、そのための自分の苦しみも辛さも、悠人に見ていてほしかった。どんどんチューニングされていく伊織のヨーゼフ一世に、離れて座る悠人が息を呑む気配も、涙ぐんでいることも、手に取るようにわかって、満たされていく自分を感じた。
今日の、最後の一音を歌い上げた時、浮かんでいたのはアルバトールだったのか、悠人だったのか。
その答えを伊織は知っている。
ふわふわと、悠人の意識が浮上する。なんだかいい匂いがする暗い場所で、薄く目を開いた。
最初は視界が定まらなくて、どこからか入ってきている薄明かりを頼りに、ぼんやりと周囲の気配を伺う。自分の肩口に触れている温もりに気づいて、ゆっくり首を回して……。
「い、いお……っ」
叫びかけて、ぐっと口を閉じた。
伊織が、眠っている。穏やかな表情で、スヤスヤと。
(う……わぁ……)
伊織を起こさないように呼吸音にさえ気をつけてしまう。そして悠人は、そろそろと体を動かして、伊織の方に体を向けた。
(伊織さん……)
自分の腕を枕にして少し顔を起こし、悠人はマジマジと伊織の寝顔を見る。ブラインドの隙間から淡い光が差し込んで、伊織の顔に広がっていた。
「あ……」
小さく声をあげて、悠人はちょっと笑う。
(伊織さん、ヒゲ伸びてる)
どんなシーンで会っても、つるりとした肌の伊織しか見たことがない。あの「モブイチの乱」の時だって、髪は乱していても、無精髭など皆無だった。新しい伊織を発見した気分になった。
飽く事なく、悠人は伊織の寝顔を見つめる。徐々に陽の光が動いて、広がって、伊織の寝顔がはっきり見えるようになった。その経過さえ記憶に留めておきたい。
悠人は小さな声で、歌ってみる。アルバトールが隣で眠る皇后を思って歌う歌。
太陽よ、早く昇れ。そうすれば、愛しい人の顔を目に焼き付けられる。
だけど昇るな。高く昇れば、この愛しい人を置いてさらねばならないから。
目を開けて、私を見てほしい。そうすれば、あなたを思う男の姿を、あなたの瞳に焼き付けられる。
だけど、安らいで眠っていてほしい。ただ、こうして見つめるだけで、幸福だから。
不意に、伊織の口角が上がる。薄く唇が開いて、言った。
「……僕は、皇后じゃないよ」
「皇后だよ、俺にとっては」
伊織の瞼がピクリと震えて、ゆっくり目を開ける。そして、間近で自分を見下ろす悠人を見つけた。
「おはよう。よく眠れた?」
「はい、伊織さん」
悠人が言うと、伊織は満足したように頷いて、また目を閉じた。だけど、そのまま二度寝をするつもりはないらしい。
「ここ最近、よく眠れてなかったんじゃないか」
図星を刺されて、悠人はちょっと躊躇いながら答えた。
「伊織さんのことが気になって」
「そういう事を言っているから、僕にギャフンと言わされるんだ」
どうやら伊織は、昨日、伊織の演技に衝撃を受けた悠人をからかっているらしい。
「『ギャフン』なんて言ってない。ただ……」
悠人の脳裏に、昨日の伊織が浮かぶ。全身から感じた気迫とオーラ。苦悩している姿さえ、力強くて。
「すごく、素敵だった」
悠人の言葉に、伊織は「フッ」と笑いを漏らす。
「それに、カッコ良かったし、綺麗で、本当に、綺麗で……」
囁きながら、悠人は伊織に近づいていく。あの歌声を響かせた伊織の唇にキスを落とそうとした途端。
「いいから、シャワーを浴びておいで」
目を閉じたまま、伊織が言う。一瞬、そういう誘いかと期待しかけた悠人に「君、昨日、稽古で汗かいたのに、そのまま眠っただろ」と伊織が続ける。
「ごめん、俺、臭い?」
「汗臭い」
「俺、最低っ!」
悠人は慌てて伊織から距離をとると、ベッドから飛び出した。
「浴室は向かいね!棚のタオルでもなんでも、使っていいから」
「はいっ」
アタフタと寝室を出ていく悠人の気配が完全に浴室に消えてから、伊織は目を開けた。
「何時だ……」
アラームをかけ忘れたスマホを手にする。8:00を少し過ぎたところだった。休日の朝に目覚める時間としては、いい時間だ。
「ご飯でも作るか」
何せ悠人は昨夜、リゾットを少ししか食べていない。きっと、空腹だろうから。
大急ぎでシャワーを浴びた悠人が浴室から出ると、脱ぎ捨てた洋服と下着は消えていて、バスタオルと一緒に長袖のスウェットの上下と真新しい歯ブラシが置かれていた。悠人がシャワーを浴びている間に、伊織が置いていってくれたようだ。
バスタオルで体の水滴を拭い、スウェットを手にした悠人はそれに顔を埋めた。清潔な洗剤の香りがして、それを胸いっぱいに吸い込む。
「はぁ……」
ベッドで一瞬感じた衝動は、シャワーの間に綺麗に消えた。スウェットから香った洗剤の香りも心を落ち着けてくれる。
歯磨きをしてスウェットを身につけて、悠人は鏡の中の自分を見つめた。洗い立てのボサボサの髪に、はっきりと目立つ無精髭のせいか、いつも伊織の前に立つ自分よりも大人っぽく見える。
(でも、見た目の問題じゃないんだ)
そうだ、見た目の問題じゃない。悠人が歳を重ねて風貌だけ大人に変化しても、そんなことは無意味に近い。
相手は、成川伊織だから。あの人に、認められたいのだから。
洗面所から廊下に出ると、廊下の一番奥のドアの向こうから、香ばしい匂いとカチャカチャとした音が聞こえてきた。どうやら伊織はもう、キッチンにいるようだ。
悠人がそのドアを開けて顔を覗かせると、白いシャツとラフな黒のボトムを身につけた伊織が悠人を振り返った。
「座って。もう、できるから」
言われた瞬間に、悠人は自分の空腹に気づく。ダイニングテーブルには、焼きたてのシャケと何かのおひたしと卵焼きが2人分並んでいる。
「伊織さん、和食も作るんだ」
自分でも変な感想だなと思ったけれど、伊織も同じように感じたようだ。
「なんで?」
「いや、なんとなく……。パン派かと思ってた」
二つの茶碗によそわれたご飯を持ってきた伊織は「君はどうも、僕を誤解しているようだ」と、言いながら茶碗をテーブルに置く。
「朝から、ワインでも飲んでるとでも思われてそうだな」
「そこまでは……。でも、エスプレッソとか飲んでそう」
「確かにそういう日もあるけど……」
伊織はキッチンに戻り、今度は湯気をあげるお椀を二つ持ってきた。
「普通にご飯を食べるんだよ、僕は。いいから、座って」
「はい」
そして2人で向き合って、「いただきます」と声を揃えて。伊織は一口、味噌汁を飲むと「うん」と頷いた。
静かな食卓だ。だけど全然、気づまりではなくて。伊織が作ってくれた朝食を食べながら、悠人は心地よささえ感じていた。
「ああそうだ。洋服と下着、勝手に洗濯したよ。汗臭いのをまた着るのは嫌だろ」
「うん、ありがとう。助かります」
そうしてまた、2人とも食事に集中した。悠人は普段、自宅ではスマホを見ながら食事を済ませてしまう。こうやって食べることに集中することも、あまりない。
そして、向かい側の伊織を時々盗み見る。伊織はヒゲを剃らなかったようだ。うっすら見える野生味で、童顔の顔が伊織の言う「おじさん」に、ちょっと見えなくもない。
(本当に、見た目の問題じゃないんだ)
悠人は、先ほど鏡の中の自分を見て思ったことと、同じことを思う。だけど、伊織に対してのそれは、自分に対する評価と180度違うのだ。
童顔だって伊織はやっぱり大人だし、悠人が並べるはずもない経験と実力を兼ね揃えている。ニコニコ笑顔を浮かべている時だって、その内側には演技に対する情熱を燃やしているし、ボロボロの状態で悔し気に見えても、その先に必ず達成の道筋を立てている。
(それに、ヒゲが生えてても、なんか、いいし……)
考えてみれば、皇帝に扮している時の伊織はもっとふさふさした付けヒゲをつけているっけ。その姿をずっと見てきたのに、それでも伊織に惹かれた。父親役だった人に、恋をした。
「伊織さん」
「ん?」
伊織は食事の手を止めずに悠人に先を促す。
「俺、思ったんだけど……。弱ってる伊織さんに頼られようってのは、俺が弱い証拠だったんだなって。なんか、隙を突こうとしたっていうか……」
「うん」
伊織は相変わらず食事の手を止めないけれど、相槌を打ってくれる。ちゃんと話を聞いていると、教えてくれる。だから悠人は、まとまり切っていない思いを乗せる言葉を、なんとか紡ぎ出す。
「必ず、倍速で成長するから。伊織さんに追いつくように、伊織さんが弱ってない時でも、俺を必要としてくれるぐらいに……、だから……」
「だから……」の続きは、しっくりくる言葉が浮かばなかった。「俺を好きになって」も違うし、「待っていて」も、なんか違う。悠人が言い淀んでいる間に、伊織はクーっと味噌汁を飲み干した。
そしてお椀を丁寧にテーブルに置くと、箸もその上に置いて「ご馳走さまでした」と手を合わせてから、悠人を見た。
「僕は、待たない」
はっきりと言われて、悠人は一瞬、動揺する。だけど伊織の瞳にはちゃんと悠人が映っていることに気づいた。伊織の中に、自分の像が結ばれている。それに勇気をもらって、悠人は伊織の言葉の続きを待つ。
「待つ義理もないし、暇もない。僕は、今の僕のまま留まる気もないし、進めるだけ前に進むつもりだ。それでも君が、本当に追いついてきたら……」
無意識に、悠人はゴクリと喉を鳴らした。
「考えるぐらいはするかもな、君のこと」
悠人は思わず天を仰いだ。本当に、成川伊織と言う人は、一筋縄ではいかない。
だけど、そういうところが、一番好きなところかもしれない。
悠人は顔を正面に戻して、伊織を見た。伊織の中には変わらず、自分がいる。その瞳に居続けたいと思うから。
「必ず、追いつきます」
途端に伊織は、カタンと椅子を引いて立ち上がった。自分が使った食器を重ねて持って。
「その前に、食事のスピードで僕に追いついてくれるかい。片付けたい」
伊織の言葉に、悠人は思わず吹き出す。そして、また泣きそうになっている自分に気づいて、無理やり笑顔を作った。結局、伊織は優しい。何故かわからないけれど、そう思った。
「片付けは俺がしますから。食事まで作ってもらったんだから」
「そう?じゃあ、お願いしようかな」
伊織はテーブルに自分の食器を戻すと、「お茶でも淹れようか」と言って、キッチンに向かう。悠人は猛烈な勢いで食事を再開した。
伊織がお茶を入れているその隣で、自分が食器を洗う。2人並んでキッチンに立つ。そんな小さな理想を、すぐに実現させたくなったからだ。
全力で食事を終えて、悠人は席を立つ。自分の分の食器を下げにキッチンに行くと、伊織はもう、急須にお湯を注いでいるところだった。
「伊織さん、今日の予定は?」
自分の分はシンクにおいて、今度は伊織の分を下げにダイニングに戻る。そのタイミングでさりげなく聞いたら、伊織は「特にないよ」と答えた。
「心穏やかに台本を眺めるぐらいかな」
「じゃあ、俺、もうちょっと居てもいい?」
次に悠人がキッチンに戻った時、伊織は二つの湯呑みにお湯を注いでいた。そして、洗い物を始めようとした悠人に「ちょっと待って」と声をかける。
「何?」
「湯呑みを温めるのに使ったお湯がもったいないから、汚れた食器にかけたいんだよ」
そんな生活感を感じさせる伊織の言葉にさえ、悠人の胸が高鳴るから不思議だ。伊織は湯呑みが温まるのを見極めるように真剣な顔で湯呑みを見つめていたが、タイミングで湯呑みを二つ持つと、シンクに置かれた食器にゆっくりかけた。
「もうちょっと待ってから洗ったほうがいい?」
「んー、油物じゃないから、大丈夫。ただの気分の問題なんだ。火傷しないようにね」
「うん」
そうして悠人は洗い物をして、伊織はその隣でお茶をいれる。お茶を入れ終わると、伊織はダスターを手にした。
「あ、伊織さん、いいよ」
「2人でやったほうが早いから。それに、勝手なところにしまわれたくない」
「……教えてくれたら、覚えるよ」
悠人の呟きに、(なるほど)と、伊織は思う。悠人が伊織の食器棚の食器の位置を覚えて、その内、食洗機の使い方を覚えて、洗濯機の使い方までマスターしたりして。
そうして、いつか普通に、悠人は、伊織のそばにいるのが当たり前になるかもしれない。そういう未来が浮かんだりもして。
洗い物を終えた悠人が、伊織の手から拭き掛けの食器とダスターを取り上げた。
「教えてよ、伊織さん」
洗いざらしの髪に、いつもより濃いヒゲの美貌が華やかに笑っている。(まつ毛と同様、ヒゲも濃いなぁ)と、思って、伊織はちょっと笑ってしまう。
違うんだ。そうじゃなくて……。
「これはどこ?」と逐一聴きながら、拭いた食器を片付けていく悠人は、全く気づいていないだろう。食器とダスターを取り上げられた瞬間、伊織の心臓が跳ねたことにも、いつもより男臭い悠人の笑顔を色っぽいと感じたことにも。
「よし、終了!」
そう言って笑った悠人を、(かわいいなぁ)と感じたことにも、目の前の悠人は気づいていないし、伊織も教えるつもりはない。
(今は、ね……)
伊織は悠人からダスターを取り上げて、代わりに湯呑みを渡す。取り上げたダスターを伊織が洗っていると、悠人が遠慮がちに尋ねてきた。
「もうちょっと、いても、いいですか?」
ああ、本当に、気づいていないんだな、君は。
僕が、君を留めおきたくて仕掛けたトラップに。
「服はまだ、乾かないよ。乾燥には入っていると思うけど」
「ああ、確かに。スウェットじゃ、帰れないもんな」
納得と嬉しさを半分半分滲ませた悠人の声に、伊織は苦笑した。そして、自分の分の湯呑みを手にするとリビングに向かう。悠人は伊織の後ろをついてきた。
伊織はソファーに座って湯呑みを片手に台本を開く。悠人の気配は、ソファーとは反対側の、壁一面の本棚に向かったようだ。
「興味があるのがあったら、見てもいいよ」
「うん」
そうして、悠人は端から端まで書籍や譜面の背表紙を眺め始めたようだ。時々、本のタイトルを読み上げる小さな声が聞こえた。
(なんだろ、この空気感は……)
悠人の気配がこの部屋の中にあるだけで、なんだか、くつろいだ気分になる。台本に自分で記した膨大な量のメモを眺めながら、伊織は、自分が微笑んでいることに気づいた。
やがて書棚の背表紙を制覇したらしい悠人の気配が、近づいてきた。ソファー越しに伊織の首元に腕を回して、伊織の台本を覗き込む。
「すげぇメモの量……」
「前の演技プランのも残ってるからね」
「本当、伊織さんはすごいよ」
感嘆が籠る悠人の言葉に、伊織は「ははっ」と笑った。
「義樹くんだってこんな感じだよ。彼の台本を見ると、どこからスタートして今に行き着いたかが、一目でわかるぐらい詳細に書き込んであるんだから」
「マジか……。俺、そういうのはあんまり得意じゃない」
「その代わり、稽古中のひらめきで、いきなり変貌するじゃないか」
「あれは……、ちょうど、伊織さんに対して、そうだったから……」
そう告白した悠人の腕に力が籠る。伊織の首筋に熱い息がかかって、そのまま唇の感触に変わった。
「こら、そこまでは許してないよ」
「うん」
頷いた割に、悠人の腕の力は抜けていかない。首筋を滑るようにたどって、悠人の唇は伊織の右耳を食み始めた。
(このまま……)
受け入れたらどうなるだろう……。この心地よさを受け入れて、促したら……。ダメな理由はなくて、でも躊躇う理由は明確にある。悠人の感情を現状維持で止めるためという理由が……。
だから伊織は、「そろそろ、ぶん殴るぞ」と呟く。冷静な声を演じるのも、限界だった。
「うん」
ようやく悠人の腕の力が緩み、体温が離れていく。拒絶しておきながら、寂しさを感じるなんて、本当に馬鹿げているなと、伊織は思う。
(だけど、まだなんだ……)
「伊織さん、好きです」
背後から聞こえた悠人の告白に、伊織は目を開けた。
「知ってるよ」
もう、十分なぐらい知っている。直向きに皇后を愛するアルバトールは、悠人の伊織への気持ちを役に投影させたものだって。そしてあの演技は、まだ悠人のものにはなっていなくて、もし、今、伊織が悠人を受け入れて、彼がそれに満足をしてしまったら、途端に霞のように消えてしまうかもしれないぐらい、脆いものだって。
だから、まだなんだ。
あのアルバトールが君に馴染んで、役に入り込めば、すぐにアルバトールと共鳴するぐらい、君の中にアルバトールが育つまでは……。
「僕は待たない」と言ったけれど、本当に待っているのは、僕の方だ。
君は、知らないだろうけど。
12月の下旬、年内の稽古は一旦終了となった。
出演者の大半が、クリスマスや年末の書き入れ時となる。改めての稽古は年明け4日から。そこから劇場の稽古場に移り一週間の稽古、リハ期間を経て本番を迎える流れだ。
「伊織さん、24日の予定は?伊織さんて、毎年、この時期のコンサートいれてないですよね。確か今年も」
控室で帰りの準備を整えながら悠人が尋ねてくる。伊織も台本などを鞄に詰めながら答えた。
「僕は明日、日本を発つよ。毎年、年越しはウィーンなんだ」
「えっ!いつまで?」
「稽古再開の前日には帰ってくる」
伊織がさらりと答えると、隣で悠人がガックリ肩を落とした。
「クリスマスデートに誘おうと思ってたのに……。初詣も……」
「残念だったな」
平然と答えながら、伊織も少し残念だったと思う。あれ以来、悠人は稽古と仕事の合間にちょくちょく伊織の部屋を訪れて、食事やお茶をして帰っていく。伊織にちゃんと認められるまでは自分では動かないと決めたからか、悠人は暴走することもなく、伊織の部屋で寛いでいる。
そんな空気感は、伊織にとっても心地よくて……。悠人が言った「クリスマスデート」も「初詣」も、行ってみたいなと、思えてしまう。
だけど、チケットはだいぶ前から取っているし。まさか悠人のために、年末年始の家族の団欒をキャンセルもできない。
今年の春先、別の用事があってウィーンを訪れ、そのタイミングで父母にも会っているが……。だから年末は行かなくていいということもないし……。
相変わらず隣でうなだれている悠人の背中をポンと叩いて、伊織は「残念だったな」ともう一度言う。悠人は顔を上げると「明日、何時の便ですか?」と尋ねてきた。
「夕方の便ではあるけど、君、もう、明日からドラマの撮影が入ってるんだろ。何かのドラマの、春のスペシャルだっけ?」
「くぅぅぅぅぅぅぅっ!じゃあ、せめて今から‥…」
「あ、ごめん。事務所の人達と、忘年会‥…」
「あぁぁぁぁぁっ」
とうとう悠人は、床に手をついてしまった。その絶望の仕方に伊織はクスクス笑ってしまう。悠人の一挙手一投足が、伊織の心を温ませてくるから。
「ほら」
伊織はカバンからキーケースを取り出して、しゃがみ込むと悠人の頭のところでブラブラさせた。
「え?」
顔を上げた悠人は、キーケースを見つめてポカンとしている。
「1時間ぐらい顔出して、なんか買って帰るから」
「伊織さん‥…」
途端にパァァァァァとほころぶ顔が、幸福そうで。伊織の手からキーケースを受け取ると「食事は俺、準備しておきます」と言って、立ち上がった。
「頼む。じゃ、後で」
伊織はコートを羽織ると、悠人を置いて控室を出た。だが、すぐ後ろでバタンとドアが開く音がした。
「待って、伊織さん」
「どうせ後で会うだろう」
「それでも、一緒にいたい」
臆面もなく悠人は言う。その言葉が、どれほど伊織を喜ばせるかも知らないで‥…。
年内の稽古で、カンパニーの方向性はきっちり固まった。義樹のアルバトールと悠人のアルバトール、それぞれを中心とした演者一人一人の演技も磨きがかかっている。
(きっと、これまでにない作品になるだろう)
その一員として、この作品に携われていることを幸運だと思うほどだ。
「伊織さん、寒くない?」
大通りまでの道を、悠人と歩く。気遣わしげな悠人の声に「気持ちがいいよ」と、伊織は答えた。
本当に、気持ちがいい。冬の初めのころ、同じ道を歩きながら、寒さに寂しさすら感じたのが嘘のようだ。
「僕は、ここでタクシーを拾う‥…」
伊織が言うが早いか、悠人が手を挙げてタクシーを止めた。開いたドアに伊織を押し込むと、いつかのように、社外から伊織を覗き込んだ。
「じゃあ、伊織さん、また後で」
「うん」
ドアが閉じて、伊織は行き先を告げる。車がゆっくり走り出すのと同時に、伊織は振り返った。悠人は立っている。伊織が振り返ったのが見えたのか、大きく手を振っていた。
それが見えなくなった頃、伊織はようやくシートに体を預けた。
(あと、3ヶ月も、ある‥…)
それを待つのが楽しみなようで、焦ったくて‥…。だけど悠人の気持ちがわかっている分、穏やかですらあった。
白川が望んだように、伊織も望んでいる。悠人のアルバトールは、必ずセンセーションを巻き起こす。それを公演の最後まで維持してこそ、悠人の中にアルバトールは根付くし、当たり役にもなるだろう。2ヶ月のロングランの期間、舞台上でアルバトールとして生きれば、次の公演でもその感覚はきっと活かせるはずだ。
(いつの間にか、こんなに‥…、悠人くんのことを考えてる)
時々、いつからだったのだろうと、考える。あのキスの日からかもしれないし、悠人がモブ1を変えた時かもしれないし、悠人が今のアルバトールを芯に据えた時かもしれない。抱きしめられた時かもしれないし、伊織の方から「お礼」のキスをした時かもしれない。
たった1ヶ月半の稽古期間だったのに、悠人の存在が至る所にありすぎて、きっかけさえ見つけられない、稽古場のどこからか自分を見ている視線にすら、胸が震えた時だってあった。
(本当に、困った子だな‥…)
こんなに夢中にさせてくるなんて‥…。伊織がポーカーフェイスが苦手なタイプだったら、きっと、今頃、悠人には全部バレていただろう。
事務所の役者連中が集うレストランに顔を見せた伊織は「1時間で帰る」と言ったのに、奥の席に座らされてしまった。それでも困らないのが成川伊織だ。「帰る」と言ったからには、伊織は帰る。例え俳優仲間が文句を言おうが、笑って躱せる自信があった。
その会でも、「皇后の恋」の悠人のアルバトールは話題になっていた。伊織が到着する前に、同じ事務所の共演者が吹聴したらしい。
「戸塚悠人って、そんなすごい役者なんすか?」
「そうだね、彼は、とても才能があるよ」
伊織が卒なく対応していると、「成川伊織の育成も功を奏してな」と声がした。染谷がワイングラスとボトルを手に立っている。
「染谷先生、いらしてたんですか?」
「こう言う楽しみがあるから、事務所に所属してるんだ」
適当なことを言って染谷は伊織の隣に座る。「少しはいいだろ?」とワインを振られて、伊織は頷いた。
「え、伊織さんが指導してるんですか?羨ましいなぁ!」
幾人かの役者が感嘆の声を上げた。染谷は「いいから、あっちに行ってろ。大人同士の話があるんだ」と、若手の役者を追い払う。
そして伊織のグラスに自分のグラスを当てると、「新生アルバトールに」と、グラスを掲げた。
「はい」
「そして、君にも乾杯だな、成川くん。殻を破ってみた感想はどうだ?」
「毎日、充実してます、その分、きついですけど」
「確かに、安定していないところもいくつか見受けられるが、まぁ、それも味と言えば味だな」
「染谷先生にそう言っていただけると、気が楽になります」
伊織が一口ワインを飲むと、「それで、白川と組んだ育成計画は順調かね?」と尋ねてきた。伊織は口に含んだワインを吹き出しそうになって、堪えて、飲み込む。
そんな伊織を見ながら、染谷は「ふふん」と鼻を鳴らした。
「まさか、白川さんから?」
「それこそ、まさかだ。白川が、姑息な育成計画なんぞ、私に話すものかよ」
「じゃあ、なんで‥…?」
「そりゃ、見ていればわかる。若者に色々あるってことぐらいは」
「参りました‥…」
伊織が頭を下げるのを見て、染谷はまた「ふふん」と笑った。
「過保護にしたくなる気持ちは分からんでもないが、どうも、人の恋路を邪魔している白川に腹が立ってな。君もだいぶ、彼に参っているようだし」
「‥…」
染谷の言葉に、伊織は思わず赤くなるのを感じた。誤魔化すためにワインを飲んだけれど、誤魔化せていたかは謎だ。
「そんな事は‥…」
辛うじて口にいたが、ニヤニヤ笑っている染谷が納得したとは思えない。
「長いぞー、まだ3ヶ月はある」
「その分、舞台にぶつけます」
「ははは、皇后たちはたまったもんじゃないな」
染谷は愉快そうに笑ってから、不意に、「戸塚くんは、大丈夫だと思うんだよ」と言った。
「仮に千穐楽までの間に、君との関係が変化したとしてもだ。それであの演技がぐらつきはしないと思うんだ。役者としても…‥、と言うのはあるが、あの戸塚くんが、いきなり井浦のように自信満々になるとも、思えんからな」
「ははっ。それが義樹くんのアルバトールの持ち味ですからね」
「むしろ成川くんは、よく我慢ができるな。今日の稽古の時なんぞ、殴りたくなるぐらいだったぞ。『俺、愛されてます〜、ジジイは引っ込んでろ〜』と、言わんばかりだったじゃないか」
「あはははははっ!」
染谷の軽口に、伊織は盛大に笑った。確かに、悠人の性格で「俺、愛されてます〜、ジジイは引っ込んでろ〜」は無理がある。
「でも、決めたんで。万が一、何かが起きて後悔する方が嫌ですから」
「それも君らしい選択ではあるな」
染谷は頷くと、腕時計に目を落とした。
「そろそろ、1時間だな」
そう言って帰宅を促してくれた染谷に礼を言って、伊織は店を辞した。
途端に、悠人が心に舞い戻ってくるのを感じる。
悠人は何を買って待っていてくれるだろう……。
自宅に帰るのに、待ってくれている人を思うなんて、いつ以来だろう……。
伊織の脳裏に、テイクアウトの料理をワクワクとテーブルに並べる悠人の姿が浮かんだ。
「そろそろ休憩も終わるんじゃないのか」
伊織が言うと、どうやら時計を見上げたらしい悠人が画面から消える。すぐ戻ってくると『はぁ……』とため息を吐いた。
『終わる……』
「じゃあ、早く戻りなさい」
『ちぇっ!』
わかりやすく拗ねた悠人に、伊織は思わず吹き出してしまう。
『俺は休憩が終わるから拗ねてるんじゃないすからね。もう一週間も伊織さんに会ってないのに、伊織さんは全く平気そうで、悔しい』
「平気にきまってるだろ」
その時、スマホに映る悠人の背後のドアからノックの音。引き続き、悠人と同世代の俳優が顔を覗かせた。
『悠人、充電器かして』
『わり、今、使ってる』
『マジ?っていうか、もう、休憩終わるじゃん。行こ』
『おー、先、行ってて』
スマホの向こうで交わされるぞんざいなやり取りに、伊織は思わず微笑む。カンパニー内にいる時の悠人は、礼儀正しい方らしい。
『あーもうっ!』
伊織との会話に戻ってきた悠人は『もう行かなきゃ』と呟く。そしてもう一度盛大なため息を吐くと『伊織さん、好きです』と告げてきた。
伊織がウィーンに来て一週間、悠人は寸分を割いて電話を寄越すようになった。時差は8時間。伊織が寝ようとしている時間の休憩中であったり、伊織が散歩に出ようとしている時、悠人の起き抜けで電話を寄越したり。
いつの頃からか、音声ではなくテレビ電話になった。そして、電話の最後に、必ず言うのだ。「伊織が好きだ」と。
「いいから、早く現場に戻りなさい」
『はい。じゃ、また』
通話が切れる。途端に伊織は、ベッドにばさっと倒れ込んだ。
「慣れてないんだ……、勘弁してくれ……」
伊織は普段、テレビ電話はほぼ使わない。自分の顔が小窓に見えるのも苦手だし、無性に緊張する。その状態で、「好きだ」なんて言われると、ポーカーフェイスが保てなくて、画面からわざと外れてしまうこともしばしばだ。願わくば、それが自然に見えていますようにと、思う。
この一週間の電話で、悠人はほぼ、ウィーンでの伊織の生活を把握したと思う。休暇の意識できているから、夜会の予定なども入れていないし、逆に両親は夜会ばかりだし。伊織は1人で家で読書をしたり、散歩に出たり、ちょっと足を伸ばして名所を見に行ったりしたぐらい。年明けから公演もあるので人混みは避けたいため、観劇などもせず両親の自宅にこもっている。必然的にそうなった。
それを聞いた悠人は、ちょっと意外そうに『じゃ、なんでウィーンまで行ったの?』と尋ねてきた。
「両親に会いにきたんだよ」
『へぇ……』
その時の、悠人の「腑に落ちない」と言わんばかりの『へぇ』を思い出すと、伊織は毎回笑ってしまう。
そして、思うのだ。
(本当、なんでわざわざ来てるんだ……)
これで毎日、両親が伊織を歓待してくれると言うなら、話はわかる。だが、自主性を重んじる両親は、年越しのディナーを一緒にする予定以外は、伊織を放置しているのだ。きっと日本にいた方が、あれやこれやと用事が入って忙しく過ごしただろう。
だけど伊織は、毎年、こうやって年末を過ごしている。今年、例年との違いがあるとしたら……。悠人からの電話と、伊織の意識に、いつでも悠人が居座っていることだ。
これだけゆったりと過ごしている時間、悠人がそばにいたらどうだろうと考える。悠人は今、ドラマの撮影で忙しくしているけれど、きっといつものように仕事終わりには伊織の自宅を訪れるだろう。いつもは簡単な食事になってしまうから、たまには時間をかけた料理を振る舞っても……。
「来年は、日本で過ごそうかな…‥」
そうすれば、毎年断っているクリスマスや年末のコンサートにも出演できる。
「でも、そうなると僕も忙しくなるし……」
悠人とすれ違いになるかもしれない。それはそれで、味気ない……。
そこまで想像して、自分がもはや悠人と過ごすことを前提に日常を描いていることに気づき、伊織は「はぁ……」と、また、ため息を吐く。
「重症だ……」
日本にいる時から、自覚はあった。だけどウィーンに来てから、さらに自覚したと思う。
すぐに会える距離に悠人がいない。それだけで、心許ない気分になる。街中を歩くと、悠人にもこの景色を見せたいと思う。予想していた時間に電話がないと、少し不安になって。着信音が聞こえると飛びつきたくなって、それを誤魔化すのに少し、モニターをタップするのを躊躇う。
「……悠人くん……」
呟くと、胸が痛む。その痛みから、全身を覆うように甘い痺れが走る。会えないと思うと、会いたくなる。悠人が不意に伸ばしてくる腕の温かさを思い出して、切ない気持ちになる。
(三十路も半ばで、なんて醜態だ……)
そう思う反面、いい大人だからこそ味わえている気分なのかもしれないとも思う。これが20代だったら、分別くさく悠人の役が完成するのをまったりしなかったはずだ。と、言うことは、遠く離れた地で悠人を思うというオツな状況もなかったわけで。
「何を考えているんだ、僕は」
呟いて、伊織は起き上がる。窓の外には、雪がチラついていた。
東京だと、12月に雪を見ることは滅多にない。だから、悠人と2人で雪を眺めた……なんて、経験もなくて。
今ここに悠人がいれば、「雪だね」と、笑い合えていたかもしれない。「伊織さん、雪だ!」と空を見上げる悠人の姿が浮かんでくる。
(ま、それもきっと1月中には叶うだろう)
その頃には舞台も始まっていて。一段と寒い2月は、2人で鍋でもつついているだろう。そして3月の初旬には千秋楽を迎えて……。
そこから同じ現場になるのは、また2年以上後の可能性はあるけれど……。
(そうだ、悠人くんサイズのスウェットを買っておこう)
きっと、現場は離れても、悠人は伊織の部屋に帰ってくるだろうから。千秋楽さえ、過ぎてしまえば、きっと伊織も、素直になれるんだから。
『伊織さん、今、どこ?』
珍しく、悠人が音声電話をよこした。
「家だよ。何度も言うけど、僕は休暇で来てるんだから」
耳元で響く、音の良くない悠人の声に目を細めながら伊織が応えると、『じゃあ、今すぐ空港来れる?』と、悠人が謎なことを言った。
「空港?どこの?」
『そりゃ、ウィーンの」
「……は?」
伊織は何か、不審なことを聞いた気がして眉を顰める。
『来れる?』
「っていうか、君、今、どこにいるんだ?」
途端に、電話口の向こうで堪えきれない悠人の笑い声が聞こえた。
「まさか、こっちに?」
伊織は座っていたソファーから体を起こす。サイドテーブルに腕を伸ばして、昨夜置いたはずのバッグを探す。指に触れたそれを手に、スマホは耳に当てたまま、足早に玄関に向かう。
『大正解!』
悠人の声が耳に響いた時には、伊織は、もう、ハンガーラックにかかったコートを乱暴に手にして、小脇に抱えていた。ドアの外に出て、肩と耳の間にスマホを挟んだ状態で、カバンの中の鍵を探す。
「あった」
思わず見つけた鍵に声をあげると、『何が?』と、悠人の声。
「鍵だよ」
ドアを施錠して、伊織は階段を駆け降りる。伊織の両親の自宅は、低層アパートメントの2階。市の中心街に位置している。
外に飛び出すと、伊織は迷わず2軒隣のホテルに走った。ウィーンは流しのタクシーはほぼ居ない。捕まえるなら、ホテルから乗るのが早い。
『伊織さん、走ってる?』
悠人の嬉しそうな声が聞こえるけれど、返事をする余裕はない。伊織がホテルの車寄せに到着すると、その様子で「用事はタクシーだな」と判断した駐車係が、後方に停まっているタクシーに合図をしてくれた。
お礼を言って、乗り込む。
「空港まで」
「はいよ」
子供の頃から何度も来ているし滞在期間も長かったから、ドイツ語は得意だ。伊織は行き先を告げると、またスマホを耳に当てる。
『かっこいいですね、ドイツ語』
どうやら悠人に聞こえていたらしい。
『ここまで、あと、どれぐらい?』
「30分ぐらい。1人で大丈夫かい?」
『ここまで1人で来れたんだから、あと30分ぐらいどうってこともないっすよ。お土産とか見てます』
「来て早々、お土産か」
このまま空港まで電話で話していようと思っていた伊織だったが、悠人は少し話すと『トイレ行きます』と言って、電話を切ってしまった。
「全く、無茶をする」
独りごちて、伊織はシートにもたれ直す。車窓に映る景色を見ているうちに、悠人をどこに連れて行くかと思いを巡らせ始めた。
あまり歴史的な建築物に興味はなさそうだけど、シェーンブルン宮殿は外せないだろう。今後、悠人もマリーアントワネットやエリザベートなど、ウィーンに関わる登場人物の物語に出演する機会を得るだろう。その時、彼らが生活した場所の空気感を体験しておくことは絶対に役に立つ。
(少し滞在できるなら、オペラも……。それに、インネレシュタットも、いいな。……何泊できるんだろう)
ウィーンの街を、悠人と連れ立って歩く。それを思い描くだけで、伊織はワクワクしてきた。この街は、本当に悠人に見せたいものが沢山ある。
やがて伊織を乗せたタクシーは、空港に到着した。支払いをして車両を降りると、伊織は早足で歩き始めた。
年末の空港は混んでいる。伊織は一度ぐるりと周りを見回して、電話をしようとスマホに目を落とした。
途端に。
「伊織さん」
悠人に呼ばれた。電話越しでない悠人の声に、伊織は思わず目を閉じる。鼓膜が痺れた気がした。
声の方を振り返ると、間違いなく悠人はいた。たくさんの人越しなのに、伊織の目はすぐに悠人を見つけ出す。外国でも少し長身な部類の悠人が、こちらに向かってきていた。
その姿を見た途端、伊織は一歩も動けなくなった。本当によくわからないけれど、たかだか一週間会えなかっただけの悠人が、懐かしくてたまらない。
悠人はもう、そこまできている。彼は両手を少し広げた。あの腕に抱きしめられたら、温かい。伊織はその温もりを知っている。
(早く……)
1秒でも早く抱きしめてほしい。そうでないと気づいてしまう。悠人が不在だと、自分は、こんなにも寂しさを感じてしまうんだと。
伊織が願った通り、悠人は伊織を抱きしめた。そして「伊織さん」と囁く。たったそれだけで身体中の力が抜けそうになって、伊織は悠人の腰に腕を回した。
(悠人くん……)
悠人が触れてくれているどこもかしこが温もりに満たされる。一瞬感じた寂しさも、するすると溶けていった。それでも足りなくて、伊織は悠人の背中に腕を回す。顔も肩もすっぽりと悠人の中に収まった。
「はぁ……」
安堵とも、充足とも思えるため息が伊織の口から漏れる。まるで、足りなかった悠人が充電されて行くようだ。
「伊織さん、人が見てるよ」
悠人は伊織の耳元で囁いた。その声が、自分の声かと疑うほどに甘い。
てっきり自分が挨拶みたいに抱きしめて、次の瞬間には離れてしまう伊織に、引き続き説教されるものだと思っていた。なのに伊織は、悠人を抱きしめ返してくれている。その上、引き寄せられて……。悠人の胸に頬を押し付けている伊織の表情はわからないけれど、目を閉じて、悠人を感じているように見える。
(伊織さん、もしかして……)
けして嫌われてはいない自信はあった。それどころか、伊織の周りにいる誰よりも近くにいることを許されているとも感じていた。だけど、これは……。
(俺を好きに……?)
そう、思ってしまったって仕方がないはずだ。
やがて伊織は、ゆっくりと悠人の体から腕を引き上げた。それもまるで惜しむように悠人の体を撫でながら。
「伊織さん」
離れてしまった伊織に顔を近づけてキスをしようとしたら、流石に阻まれた。
「そこまで許してないよ」
「抱きしめ返してくれたから、いけるかと……」
「ただの挨拶だ。ここはウィーンだからね」
無理のある言い訳をした伊織は、寒気に体を震わせる。それを見て、悠人は思わず笑った。
「ウィーンでは、コートは着ないで腕にかけておくの?」
「これは、慌ててたんだ。すぐに、タクシーだったし」
指摘されて、伊織は少し赤くなりながらコートを羽織った。そして悠人に目を向けると「いつまでいられるの?」と尋ねてきた。
「いつまでいるの?」じゃない。「いつまでいられるの?」と。そんなわずかな言葉の違いだけでも、悠人は天まで昇れそうなほど舞い上がる。
その結果、伊織の瞳に映る、締まりのない満面の笑みを浮かべた自分の姿を、目の当たりにしてしまったり、するんだけど。
「5時間後には、帰ります」
悠人が告げた瞬間、伊織は目を見開いた。
「は?5時間後?」
「うん。明日の昼から、撮影だから」
「……」
しばらく唖然としていた伊織は、ハッとした表情を浮かべて「じゃ、じゃあ、とにかく行こう!どこか、見たいところとかあれば、連れて行くから」と、言った。
「特にない。伊織さんに会いにきただけ」
「……」
悠人が本音を言った瞬間、伊織の表情がちょっと歪んだ。どう反応していいのかわからない。そんな表情だった。悠人から視線を外して、伊織は考え込んでいる。その目は、少し潤んで見えた。
「わかった。行こう」
やおら伊織が悠人の腕を引いて歩き出す。
「どこに?」
「うち」
「伊織さんの家?」
「正確には、僕の両親の家だね」
タクシー乗り場に向かいながら、伊織は考える。1時間前には搭乗手続きをするとして、うちまでの往復で1時間。2人でいられるのは3時間弱だ。
悠人だって、それぐらいは覚悟してきているんだろう。下手すれば、伊織と会えずに帰る羽目になる覚悟もしていたはずだ。
タクシーに乗って行き先を告げてから、伊織は聞いてみた。
「もし、僕がどこかに出かけてたらどうするつもりだったんだ?」
すると悠人は、得意そうにニヤリと笑う。
「俺、根掘り葉掘り聞いてたからね。伊織さんの予定。ゼロだったけど」
「それにしたって……。突発的な用事だってあるかもだろう」
「その時は、その時っす。結果、会えたからいい」
その上、伊織に抱きしめ返してもらった。それだけでも来た価値はある。
悠人がそう言うと、伊織は文字通り呆れた顔で「呆れるよ、本当に」と呟いた。
「伊織さんて、こっちに住んでたこともあるの?」
伊織の肩を抱き寄せながら悠人が尋ねてくる。用意したお茶をこぼさないようにしながら、伊織は一つを悠人に渡した。
「住んでたというより、滞在してたって方が正しいかな。僕は普通に、日本の学校に通ってたからね」
「じゃあ、親とはあんま一緒に住んでなかったの?」
「僕と親も一緒には住んでなかったし、両親もほぼバラバラだったんじゃないかな。一緒に暮らし始めたのも、母が引退してからだからね」
「……なんか、すごい話だね」
なんとも言えない感想を漏らした悠人の肩に、伊織はもたれる。悠人の手に引き寄せられて、もう少しだけ、近くなれた。
「寂しかった?」
「どうだろう、そんなもんだと思ってたっていうのが正しいかな。家にはお手伝いさんが住み込みでいてくれたし、すごく面倒見てくれたから、特に寂しいってことは感じなかったかなぁ。忙しかったしね」
「習い事?」
「そう。ピアノにホルンにバイオリン。塾も行ってたし……」
「想像つかない、そういう生活」
「悠人くんの子供の頃は?」
伊織は悠人を見上げる。悠人はハッとするほど優しい顔をして伊織を見ていた。
「俺?俺は、普通だから」
「その普通を、僕は知らないんだ」
伊織が言うと、悠人は視線を巡らせた。
「両親は共働きだったから、保育園に行って、学校は高校まで公立だし。まぁ、習ってたのはダンスぐらいか。中学の時に事務所にスカウトされて、レッスン通うようになって、ドラマの端役をこなしつつ2.5次元出るようになって、17で『皇后の恋』のオーディションに受かって、今に至るって感じかなぁ」
「そうか……、17歳だったねぇ」
初対面で伊織に面食らっていた少年。その人に、今は肩を抱かれている。そして、それだけじゃ足りないと思ってしまっている。
「今思うと、さ……。あの頃から、伊織さんは俺にとって、特別だったと思う」
「嘘をつくな。義樹くんにばっかり、懐いてたじゃないか」
伊織が反論すると、「それは伊織さんが俺を相手にしなかったから」と言い返された。
「会えない間も、考えてたもん。次の公演では、絶対、伊織さんに認めてもらう。モブなんてごめんだって。今回、早いって事務所に言われたけど、白川さんに直談判してアルバトールのオーディションやってもらったのも、一番手じゃないと、伊織さんには認めてもらえないって、思ったからだし」
「オーディション、してたのかい?」
初めて聞く話に伊織が驚くと、「そうじゃなきゃ、流石に回ってこないよ」と、悠人は苦笑した。
「義樹さんは決まってて、立石さんのスケジュールを押さえるかどうかって、タイミングだったんだ。ここを逃したら、また2年、モブに甘んじなきゃならない。必死だった。ただ、正直、自分が伊織さんに惚れてるとは思ってなかったけど……」
悠人はそう言って、苦笑する。その表情が大人びていて、伊織はまた一つ、悠人の魅力を知ってしまった。
「好きです、伊織さん」
真っ直ぐ伊織の目を見て、悠人がいう。アルバトールと同じ直向きさで、恋心を伝えてくる。
皇后がアルバトールへの恋を抑えきれなかったように、こんな目で見つめられたら、伊織だって恋心を募らせずにはいられない。何度も何度も、悠人は伝えてくれている。あとは、伊織が頷けばいいだけだ。
だけど、まだ、ダメなんだ。まだ、言わない。それが悠人のためだから。
「知ってるよ」
いつもと同じ返事を返すと、悠人は小さく笑った。そして、さっき伊織が淹れたお茶をローテーブルに置くと、伊織の手からもティーカップを取り上げる。それもテーブルに置いてから、悠人は伊織を抱き寄せた。
「俺は、待つから。伊織さんのタイミング」
柔らかい抱擁に、伊織の方がじれてしまう。もっときつく抱きしめて欲しい。そうすれば、悠人の体温で温まれる。伊織のタイミングを待つという悠人の物分かりの良さにも苦しくなる。無理にでもキスをしてくれたら、それを言い訳に、悠人の唇を味わえるのに……。
だけど、悠人はそうしない。従順さなのか、理性的なのか、わからないけれど。
しばらく無言で抱き合っていたら、不意に悠人が「あ!」と声を上げた。
「伊織さん、雪だ!」
窓の向こうにチラチラと舞う雪に、悠人が笑顔を浮かべている。そんな悠人を、伊織は間近で見つめた。
こんな悠人を見られるのは、年明け、日本でだと思っていた。だけど悠人は、伊織の予想をもっと早く叶えてくれる。このスピードなら、2人で鍋をつつくのは1月中になるかもしれない。
(大きめの鍋を買っておこう。コンロも。あと、悠人くんのサイズのスウェットも何着か……)
先日、悠人に貸したスウェットは伊織のものだったから、悠人の身長だと足首も手首も収まりきらなかった。
(それから、ああ、そうだ。鍵もないと、不便だな)
1本あるスペアキーは、和江が持っている。新しく作らないと……。悠人の自宅の鍵は特殊なものだから、申請から完成まで、三週間ぐらいかかるはずだ。
悠人の温もりを感じながら、悠人を自宅に招き入れるための準備を考える。そうして準備を整えて、千秋楽さえ過ぎて仕舞えば……。
「好きだよ、伊織さん」
そう囁いた悠人に、伊織は答えない。その返事は、もう少し後にとっておく。
その代わり、伊織は悠人の肩にもっともたれた。今返せる、精一杯の伊織の気持ちだった。
悠人は宣言通り、5時間後の飛行機で日本に帰って行った。伊織は空港まで送るつもりだったけれど「搭乗口で見送られるの苦手」という悠人を尊重し、タクシーで空港に向かう悠人を自宅で見送った。
翌日、伊織は両親との約束の年越しディナーを済ませ、翌々日の早い便で帰路についた。予定より2日早い、元旦の夕方には自宅に到着し、メッセージで悠人に帰宅を告げた。
悠人は新春ラジオの仕事の後に伊織の自宅を訪れて、2人でささやかな食事会を楽しんだ。伊織の自宅に当たり前に宿泊することを前提に「どうしたって初詣デートをする」と言い張る悠人に付き合って、近所の、さほど有名でない神社に向かったのは、翌日の朝の8:00。10:00にはドラマ撮影の現場に入るという悠人を見送って、伊織は自宅に帰ってきた。
明後日からは稽古が始まる。そして、来週末には舞台が幕を開ける。その前に、住環境を少し整えようと、伊織は掃除を始めた。
月に1度はハウスクリーニングが入っているし、12月の初めには大掃除もしてもらっているから、ざっと掃除機をかけるだけだ。
鼻歌を歌いながら掃除機をかけていると、壁一面の収納棚の書籍の上に、隠すように置かれた帽子を見つけた。昨日、悠人が被ってきたものだ。きっと忘れ物だと思うけれど、置かれている場所が妙だなと、伊織は思う。その帽子を手に、引き続き掃除をしていると、今度は重ねられた譜面の上に、悠人のサングラスを発見した。
「?」
注意深くあたりを見回すと、見覚えがあるようでないような指輪が写真立ての前に置いてあったり、ソファーの隅に昨夜悠人が巻いていたマフラーが丸められて置いてあったりと、至る所から悠人の所有物が見つかる。
「これは、忘れ物なのか、マーキングなのか」
どうやら後者らしいと、伊織はあたりをつける。あるいは、もしも伊織が訪問を断ったりしたら、これらを理由に入り込もうという保険かもしれない。
「僕の思い人は、随分と姑息だな」
笑いながらそう呟いて、悠人は手にしてた帽子を元の書籍の上に戻した。
それで悠人が安心するなら、このままにしておこう。もっとも、3ヶ月も経たないうちに、これらはこの家の中で居場所を与えられるだろうけど。
舞台の幕が上がると、「皇后の恋」は瞬く間に業界の話題を掻っ攫った。元々、注目度の高い演目ではあるが、ベテランの立石に変わって若きエースがこれまでにないアルバトールを見せていること、それに準じて、他の役者たちがガラリと演技を変えていることが大きなニュースになったのだ。
観客たちも、「義樹アルバトール派」と「悠人アルバトール派」でレビュー合戦を繰り広げている。それが「義樹アルバトールの場合の伊織皇帝が好きか、染谷皇帝が好きか」とか「悠人アルバトールの場合の小路皇后のが好きか、鳳皇后が好きか」といった、演者一人一人の細かいレビューに及ぶ人が多く、色々なパターンで作品を楽しみたいというファンが、なんとかもう一枚、チケットを確保しようと躍起になっている。
チケットはもう完売しているが、リセールサイトでは10万以上のプレミアチケットとなっており、製作陣としては嬉しいけれども頭の痛い問題となった。基本的に転売目的のチケット購入は禁止である。
そんな中でも、伊織は通常運転で誠実に舞台を務めていた。義樹のアルバトールの場合は、元の演技プラン通り「苦悩と嫉妬に苛まれ続ける皇帝」で、悠人アルバトールの場合は「許しと後悔を抱える皇帝」を演じ分ける。義樹と悠人のアルバトールが全く別の演技を見せるから、伊織としても演技わけがやりやすい。
「伊織さん、お疲れ様」
マチネを終えて、早々に着替えた悠人が伊織の楽屋に顔を出す。伊織は今日、ソワレの公演を控えているが、悠人はマチネのみだ。
公演が始まってから、悠人は目に見えて忙しくなった。稽古とは違い、公演は長引いたりしない。時間が明確に見えているので、事務所が空いている時間に他の仕事を入れやすいのだ。おかげで、公演を終えてからドラマの撮影とか、テレビのインタビュー収録を終えてから劇場入りとか、動きが忙しない。
悠人は、皇帝のメイクを落としていない伊織を腕に抱くと、頬にキスを落とした。
「俺、今日は伊織さんの家に行けないと思うから。この後のドラマが何時までかかるかわからないし、明日のAMは、数本分のラジオ収録の予定で早出だから」
伊織は明日、マチネのみの出演だ。夕方から、次のコンサートの打ち合わせが入っているが、1時間やそこらで終わる。
「明日は、ソワレだったね」
「うん」
「じゃあ、明日の夜に、うちで」
伊織が言うと、悠人は極上の笑顔を浮かべて伊織に迫ってきた。伊織は手で、それを制す。悠人はそこまで読んでいたようで、「『そこまで許してない』でしょ」と、伊織のセリフを奪って、笑った。
のれんがけしてある伊織の楽屋に、ノックが響く。
「すみません、本庄です。悠人、きてますか」
本番に入ってから、悠人のマネージャーも随行するようになった。当初、劇場内で悠人の姿を見失うたびに、方々を探し回っていた彼も、今では悠人がいなくなると、すぐに伊織の楽屋を訪ねてくる。
「今、行きます!」
伊織を腕に抱いたまま、悠人が答える。そして、もう一度、伊織の顔を見ると「また明日」と囁いて、伊織を解放した。
そのまま、暖簾をくぐって、悠人は出て行く。それを見送って、伊織は一旦、衣装をラフな楽屋着に着替え始めた。
公演も、一週間を残すばかり。伊織は大千穐楽まで出演するが、悠人の出演は前日まで。大千穐楽の日は、4月からのクールのドラマ撮影が入っていると言う。
約束はしていないけれど、大千穐楽の日の夜も、悠人は伊織の自宅に来るだろう。その時には伊織も、染谷が言うところの「悠人育成計画」から解放されている。
「長かったなぁ…‥」
思わず呟いてしまった。抱きしめる以上のことは本当に避け続けた3ヶ月間だった。よくもまぁ、悠人の方が飄々と我慢できたものだと、感心してしまう。
伊織にだって、人並みに欲求はあるのだ。何度キスをしたくなって耐えたことか。悠人の表情に琴線を弾かれて、自分から抱きつきたくなったことも一度や二度ではない。
それも、あと一週間の辛抱だと思えば、楽しい時間に思えてくるから不思議だ。大千穐楽の日に悠人に渡そうと思っている合鍵も届いているし、悠人が部屋でくつろぐためのスウェットも数着、引き出しに仕舞われている。
悠人が忘れ物風に置いて行った小物たちは、あれ以来その数を着々と増やして存在感を増しているので、伊織の部屋の一角に居場所を与えた。
それを悠人も知っている。だから彼は、もう、気づいている。
伊織が悠人を好きなことも、受け入れるつもりであることも。多分、そのタイミングが大千穐楽であることも。悠人が知らないのは、伊織がそのタイミングまで待つ理由が、悠人のためであることぐらいだ。どうも悠人は「伊織さんは真面目だから、舞台中に雑念を持ち込みたくないんだ」とか、解釈しているらしい。
「舞台役者が舞台中に恋愛できなかったら、いつ恋愛するんだ。年の半分は舞台に立ってるんだぞ」
そう呟いたところで、「伊織、おはよ」と義樹の声がした。のれんをめっくって、義樹が顔を出している。ソワレのために会場入りしてきたのだ。
「おはよう、義樹くん」
挨拶をすると、「ちょっといいか?」と言いながら、義樹は楽屋に入ってきた。
「どうしたの?」
「愚痴というか、気持ちの吐露だな」
珍しく弱気な表情を浮かべた義樹に、伊織は怪訝な表情を浮かべた。
「いつになく弱気だね。どうしたの」
「お前は、自分の幸せに目が眩んで、周りが見えてねぇんだな」
呆れたように言って、義樹は苦笑した。
「その、お前の相手の悠人だよ。あいつが日々、演技に磨きをかけやがるから、俺のアルバトールが霞んじまってる」
「悠人くんの演技が冴え渡ってることはわかるけど、義樹くんのアルバトールだって評価は鰻上りじゃないか。この間、制作の星井くんが言ってたけど、SNS上のデータだと、義樹くんの名前が圧倒的だったってよ」
「そりゃ、過去のデータだろ。この一週間で、悠人に抜かれるかもしれない」
義樹が漏らした言葉に、伊織は黙り込んだ。義樹がそう感じるぐらい悠人の演技が神がかっているのは事実だ。
しばらくの間、2人は黙り込んだ。義樹に適当な励ましは通用しないから、伊織も言う言葉を思いつかない。だけど義樹は、慰めの言葉なんか期待していないだろう。
伊織が思った通り、義樹はやがて「ふぅ……」と、吐息を漏らし、「弱音はここまで」と呟いた。
「スッキリした?」
「スッキリとはいかないが、でも、楽にはなった」
義樹はそう言うと「本物のアルバトールに変身して来るわ」と言い残して、楽屋を出て行った。
舞台の幕が降りようとしている頃、それを惜しむ気持ちと一緒に、自分の演技が果たして最良だったかという不安に苛まれるのは、舞台役者としての性分のようなものだ。今頃、きっと、出演者の誰もが、それを抱えている。伊織も、前回はそうだった。
だけど、今回は「これがベストだった」と胸を張れる。義樹と悠人、どちらのアルバトールに対しても、最良の相手役としていられた。稽古の時、自分の殻を破って新しい演技プランに挑んで正解だったと感じている。
こんな経験は、伊織の長い舞台経験の中でも初めてだったかもしれない。
(今なら……、自分を変えられる気がする)
人に求められる成川伊織の役割ではなくて、自分が「こうしたい」「こうありたい」と思えるものに、突き進める気がする。
そして、次に自分がチャレンジしたいことも、朧げながら、わかっているのだ。
(アルバトール……)
グランドミュージカルの中でも、最高峰に位置する「皇后の恋」の舞台で、最も自由に役を構築でき、舞台のイメージすらガラリと変えられる、真の主役とも言える役。義樹が理想を磨き続け、今回悠人が、新しい風を吹き込んだとも言える、役。
(アルバトールをやりたい、一度ぐらいは)
たとえそれで、義樹や悠人とぶつかったとしても、諦められないと思う。それぐらい魅力的な役だと教えてくれたのは、その2人なんだから。




