皇后の恋-2
顔合わせよりも前に行われた「皇后の恋」のポスター撮影の日、「伊織から」と義樹に手渡された包を開けて、悠人は首を傾げた。
「なんで、岩塩……?」
悠人が呟くと同時に、開封の儀を見守っていた義樹が爆笑する。
一瞬、何かの嫌がらせかと思った悠人だったが、それはあり得ないと瞬時に打ち消した。義樹にせよ伊織にせよ、その人柄には全幅の信頼を置いている。先輩として指導されたことはあっても、悠人の人格や役作りや歌唱を否定されたことはない。
「お前が、恋敵になるからだって!」
「恋敵?で、岩塩?」
義樹の説明は意味不明だ。ますます訝しがった悠人に義樹は助け舟を出した。
「どうやら成川伊織は、『恋敵に岩塩を贈る』っていう格言を生み出そうとしているらしい」
「……あー、そういうことすか」
どこぞの武将が、敵に塩を送ってフェアな戦いをしたとかいう話は、悠人も知っている。
「贈り手が伊織さんだと、塩もおしゃれになるもんすね」
包を戻しながら悠人が言うと、「言うじゃないか」と、義樹が目を見開いた。
「まるで大人の会話だ」
「まぁ、大人なんで」
そう答えながらも、悠人はちょっと気恥ずかしい気持ちになる。義樹とは17歳の頃からの付き合いだ。今、思い返せば、悠人にとって「黒歴史」と言えるような出来事も知られている。そんな義樹の前で大人を名乗るのは「大人ぶっている」ようで格好が悪い。
それに「大人ぶっている」と思われようものなら、義樹はおちょくってくるに決まっている。
「おー、一丁前じゃないか。あの、多感な17歳の少年も、今や生意気な口を聞く大人になったか」
「はいはいはい、ストップ!ストップ!」
ニヤニヤし出した義樹の口を悠人は片手で塞ぐ。
「あんまりくだらないこと言ってると、アルバトールの品位が下がりますよ」
「バカ言え。カメラの前では、これでもかと高貴なるアルバトールを保ってやりますよ」
そういった義樹は、衣装のローブをさらりと揺らして優雅なお辞儀をする。その姿に、悠人は自分の緊張が高まったのを感じた。
(これからは、義樹さんと比べられるのか……)
若干21歳でのアルバトールへの挑戦。業界は、悠人のアルバトール決定に蜂の巣をつついたような騒ぎになった。ミュージカルファンも様々な感想をSNSに書き込んでいる。
それを意識して視界から排除してきた悠人だったが、Wキャストの義樹からは目を背けられない。経験、実績、実力ともに、悠人より数段上にいる舞台人。これからはこの人がライバルとなるのだ。
「で、今日は、伊織さんは?」
義樹に祝いの品を託したと言うことは、本人は来ていないのだろう。そうアタリをつけつつ悠人が尋ねると、「伊織の撮影日は今日じゃないんだ」と、義樹が答えた。
「前々から、今日はウィーンに滞在の日程だったしね」
「へぇ……」
「何をしに?」とは、聞かなかった。どうせ悠人には理解もできない理由に違いない。
伊織とは、前回の公演の打ち上げ以来、会っていない。それどころか、この一年半、伊織の名前さえ聞かなかった。悠人は最近、映像作品に活動の場をシフトしつつある。その映像の世界で、伊織は無名に等しかった。
逆に義樹は、テレビやラジオにも積極的に出演している。たまに出演番組が被ることもあるし、「あの人、知ってる?」なんて連絡が来ることもあるので、義樹とはコンスタントに会っていた。
そんな時、義樹から伊織の名前が出ることはない。学生時代からの友人だと聞いていたけれど、それほど親しくないんだなと思っていたが、「前々から、今日はウィーンに滞在の日程だったしね」という義樹の言い方からするに、少なくとも、同じ作品に出演が決まったりすれば連絡を取り合う仲なのだろうと、悠人は思う。
悠人は、ミュージカル俳優仲間で義樹ほど連絡を取り合う相手はいない。その義樹が伊織のことを語らない限り、悠人の日常に伊織の「い」の字も入り込む理由はない。
だけど悠人は、いつも自分の心のどこかに伊織の存在を感じていた。この一年半、伊織に会わない間もずっと。いや、自分がこのカンパニーに参加してからずっと、伊織の存在を意識してきたと思う。
過去2回、同じカンパニーの出演者として付き合った伊織は、一貫して「成川伊織」だった。よく笑い、よく話し、時々おかしなボケをかます。柔和な笑顔で場を和ませ、若い役者に請われれば、その相談にもよく乗る。時折、義樹が苛立てば、そばにいるだけで彼を宥め、大御所と製作陣が揉めそうな時は、すんなりと仲裁役を買って出た。
座長と呼ばれるのが主演であるなら、その相手役である義樹や義樹のWキャストの俳優は準座長。それらの役割を、誰もがちゃんとこなしていたと思う。だけど、悠人の目には、伊織こそがカンパニーのリーダーに見えていた。リーダー……?いや、違う。
カンパニーは大人たちの集団だ。その集団において、誰もが協調性を持って人と関わる。だけど人間同士だから、気の合う、合わないは多少出てくる。カンパニーで出会い付き合いを深める者たちがいれば、互いに一定の距離をとって関わり合いを避ける者たちもいる。それらも含めて、カンパニーを成り立たせるための協調性なのだと、悠人は感じている。
悠人自身、2回の公演を通じて、義樹とはだいぶ親しくなった。製作サイドのスタッフの中にも連絡先を交換するぐらいの付き合いをする人はいるし、役名はなくとも同じ舞台に立った仲間として、たまに近況を伝え合う相手もいる。
だけど成川伊織は、そうした人間関係とは一線を画したところにいるように見える。誰とでも親しげな割に、誰とも密ではない。全ての人間と、同じ距離感を保っている。もっと言うなれば、伊織だけが断絶された崖の上にいて、誰もがその崖の麓で伊織を見上げているように感じられた。
成川伊織といると、自分が途端にモブになった気がする……。悠人が自分をそう感じるだけなら、まだ理解できる。成川伊織がいると、その場にいる全ての役者がモブに見えてくる。皇后を務める2人の女優も、助演のアルバトール役の2人の俳優も。その1人である、現時点でミュージカル界のトップ俳優である義樹ですらも、だ。
悠人が初めてこのカンパニーに参加した日……。伊織が『私が、君の父様だよ』と、笑いも取れないような挨拶をしてくれた日、著名な役者を父に持つ若手役者と伊織を、悠人は(似ている)と感じた。その境遇や立ち振る舞いは確かに似ていたと思う。だけど、千秋楽を迎えたころ、彼はやっぱり伊織を取り巻くモブに成り下がっていた。
圧倒的に何かが違う。演技力でも歌唱力でも、表現力でもない何か。伊織を前にすると、途端にそれまでの努力や自分の実力を心許なく感じてしまう。
(その伊織さんの、恋敵か……)
ため息が漏れた。ポスター撮りのために袖を通したばかりの、新調された衣装が本当に似合っているか……。そんなことさえ、気になり出す。
「なんだ?緊張してるのか?」
笑いを含んだ義樹の声に、「まぁ、ちょっと」と、悠人は頷く。
「ポスター撮りぐらいで緊張してたら、本番まで持たないぞ」
そう言った義樹が、「ほら」と、前方を指差す。
今回の主演、皇后役を務める2人の女優が、純白のドレスを纏ってスタジオに入ってきたところだった。
片方は、20年前にアイドル歌手としてデビューし、鳴かず飛ばずで活動を舞台にシフトしてから、根性でミュージカル女優として花開いた小路エリカ。エリカは皇后役を5公演連続で務めている。もう1人は有名歌劇団でトップスターに上り詰め、退団後の初舞台にこの作品を選んだ生粋のミュージカルスター、鳳茉里。
「今は朗らかにしているが、稽古が始まったらどうなることか……。アルバトール役の責務は、2人の皇后の機嫌を取るのが最重要と、俺は心得ているぐらいだからな」
「え……」
悠人が顔を上げると、「なんだお前、気づいてなかったのか?」と義樹は眉を寄せた。
「前回の小路さんのWキャストの名越華ちゃんが今回カンパニーから外れたのは、小路さんに恐れをなした結果と、俺は聞いている。噂だがな」
「マジで?」
「さあ、噂だよ。少なくとも、噂だ」
義樹はそう言うと、大袈裟に両手を広げて皇后たちに近寄っていく。その後ろ姿は、過去2回身につけたアルバドールの衣装がピッタリと似合っていた。濃いシルバーのパンツにドレープが幾重にも重なる純白のシャツ。そして同じく純白のローブが、義樹の歩みに合わせて美しくたなびく。
「麗しの皇后様方!」
大仰なそのセリフを「滑稽」と思う人もいるだろう。だけど悠人は感じていた。義樹はこの空間を掌握しにかかっている。
ここは「皇后の恋」の世界。Tシャツ姿のスタッフも照明もカメラもない。いや、ないのだと思わせる。現実世界との隔たりを生み出して、舞台を確立するのは井浦義樹のアルバトールなのだと、義樹は言外に宣言しているのだ。
「あら、私のアルバトール」
動いたのはエリカだ。裾の広がるドレスをなんのその、滑るように義樹に近づいていく。2人が向き合うと同時に、周囲からいくつも、うっとりとした吐息が漏れた。
この瞬間、このカンパニーの目玉となるカップリングがお披露目されたに等しい。カンパニーの主役は、ここに誕生した。小路エリカの皇后と井浦義樹のアルバトールこそが本公演において最も見るべき主役であると、印象付けられてしまった。
エリカと向き合っていた義樹が、悠人を振り返る。いつもの義樹の表情で、「おいでおいで」と悠人を手招きした。そうしてもらえなかったら悠人は、一歩たりとも動けなかっただろう。向き合う義樹とエリカの間に悠人がヒョコヒョコと足を踏み入れたら、無粋者の烙印を押されてしまう。
先輩として申し分ない態度で悠人を見る義樹に近づきながら、悠人はその先に視線を向ける。エリカはまだ義樹を見つめている。鳳茉里はそんな2人を見つめて、まだ後方に佇んでいた。彼女のお付きと思われる女性たちも、呆気に取られたように状況を見守っているだけだ。
(俺は、どうしたら?)
一瞬思って、だけど悠人は、流れに逆らうのをやめた。自分に目を向けたエリカの手をとって、額に捧げるみたいなお辞儀をする。義樹がエリカを最重要人物として扱うなら、自分もそれに倣うだけだ。それでカンパニーの均衡が保たれるなら、それが最も重要なはずだから。
エリカに従う2人のアルバトール。その図式がきっちりと描かれるのを待って、義樹は声を上げた。
「さあ、撮影を始めよ!鳳さんも、こちらへ!」
呼ばれてようやく歩き出した鳳は、まだ混乱した表情をしていた。彼女がいた世界なら、きっと、彼女がトップとして振る舞うに相応しいお膳立てがあったはずだ。
4人で並び、カメラマンの指示でポーズを変えながら、悠人は感じた。
(これがプロの世界……)
これまでのルートヴィヒ役とは大きく違う世界。ポスターの出演者欄に小さく載るだけの写真を撮られるのとは変わった役割。作品の世界観を作る側に立ったことを実感する。
「戸塚アルバトール、もっとでて!もっと、もっとアルバトールを出して!」
カメラマンの指示には、混乱するしかない。出す?出る?何を?アルバトールを?アルバトールを出すって、どうやって……。
懸命に表情を作りながらチラッと義樹を盗み見ると、義樹は一切の現実を忘れたように、微笑みを浮かべて皇后を見下ろしている。それはまさしくアルバトールだった。いや、これがアルバトールなのだと信じ込まされた。きっと義樹がアルバトールだと言うなら、その隣で悠人がどんなに悠人なりのアルバトールになりきろうと、紛い物だと思われるに違いない。
(敵わない、義樹さんには……)
唇を噛み締めてから、悠人はまた表情を整える。アルバトールになろうとする。アルバトールであろうとする。そして、思う。
今は義樹さんに敵わなくても、いずれ肩を並べてみてせる。
それでもなお、伊織さんのモブでしかないとしても、スタートはきっとそこからだから……。
空港から都心に舞い戻った伊織は、自宅ではなく実家に足を向けた。実家といっても両親がいるわけではない。むしろ両親とは、一昨日ウィーンで会ってきた。
「お帰りなさいませ、伊織さん」
伊織が子供の頃から実家で家事を担ってくれている和江に迎えられて、伊織は「お土産」と紙袋を渡す。
「あら、まぁまぁ」
好きなチョコレートの紙袋を認めて、和江が笑顔を見せる。そして「義樹さんがお見えですよ」と、報告した。
「義樹くんが?」
「ええ。今日、お戻りだから、会うならこっちのお家だろうって」
「乗る飛行機まで伝えてないんだけど」
肩をすくめて、伊織はスーツケースも和江に任せた。そのまま2階に続く階段を上がり、階段を中心に左右に分かれた右翼の廊下を進む。自室に近づくにつれて、義樹が弾いていると思われるピアノの音が聞こえてきた。
モーツアルトの「キラキラ星変奏曲」。日本人の中には童謡と勘違いしている人もいるかもしれないが、後半の変奏部分は数々の技巧が散りばめれており、初心者では到底弾きこなすことができない曲だ。
レッスン室ではないので、伊織の自室の防音は甘い。それでも扉を開けると、廊下に響いていたのとは比べ物にならない音量が溢れ出した。
そっと扉を閉めて、演奏に夢中の義樹の邪魔をしないように彼を見守る。やがて「キラキラ星変奏曲」が終わると、そこから義樹は「皇后の恋」のプロローグを弾き始めた。
「お帰り〜、我が友〜」
替え歌で伊織を迎えて、義樹は唐突に演奏をやめる。
「ただいま」
言って、伊織は薄手のコートを脱ぐ。それをデスクに放ると、ピアノの蓋を閉じた義樹が「ポスター撮影、終わったぜ」と報告した。
「うん、聞いてるよ。僕は明日だ。ちょうどシアターオーバーの作品のプロフィール撮影があるから、そこに組み込んでもらった」
「お前、そんなに変わってないんだから前回のを使い回してもいいんじゃない?」
そんなことを言った義樹に「写真ぐらい新調させてくれよ。衣装は使い回しなんだから」と、伊織も冗談を返した。
「衣装と言えば、悠人さんがこれまでのアルバトールとは一風変わった衣装をお召しだった」
「へぇ、どんな?」
伊織が尋ねると同時に、ドアをノックする音。伊織が反応するよりも早く、義樹が大股で近づきドアを開けた。
「和江さん!おお、いい匂い」
「義樹さんの好きなコーヒーをお持ちしましたよ。それから、こちらは伊織さんのお土産です」
義樹が受け取ったトレーに、先ほど和江へのお土産として渡したチョコレートが載っているのを見て、伊織は眉を寄せる。
「和江さん、それは和江さんへのお土産なのに」
「いいじゃありませんか。私1人では、勿体無い」
和江はそういうと「ごゆっくり」と頭を下げて出ていった。
「さすがは和江さんだ。伊織のお土産を俺にも分けてくれるなんて。きっと伊織は俺のことなど頭になく、お土産なんてもらえないに違いないと、わかっていたんだな」
図星を指された伊織が憮然とするのを気にも止めず、義樹はサイドテーブルにトレーを置きつつチョコを一枚、口に放った。
「うん、うまい」
そしてコーヒーを一口。そして傍らのソファーに腰を下ろすと「全身、黒!」と言い放った。
「何が?」
「だから、悠人の衣装。シャツからバンツ、ローブまで黒だったのさ。これまでのアルバトールは、皇后の日記に記載されてる『朗らか』『誠実』を印象付けるために、明るめの色合いの衣装ばっかりだったろ。全身白の人もいたぐらいだ。俺はてっきり、悠人の衣装はそっち方向かと思っていたから、驚いたんだよ」
「そりゃまた、すごい方向だ」
頷きながら、伊織は義樹の斜向かいに腰を下ろす。
「それから、小路エリカvs鳳茉里の第一戦目は、小路エリカの圧勝」
「想像に難くないな。鳳さんも、いきなりゴングが鳴るとは思ってなかったろうけど」
「続いて第二戦目の井浦義樹vs戸塚悠人は……、あれは、俺の不戦勝かね。もう、悠人ときたら、オドオドビクビクと……」
「何したの、義樹くん……」
後輩を下した事実を楽しげに語る義樹に、伊織は呆れて続きを促す。
「特には、何も。いつも通り、その場で『真のアルバトールとは誰か』と、見せつけただけ」
「そりゃ真のアルバトールに『真のアルバトールとは誰か』なんて見せつけられたら、新参者のアルバトールは震えるしかないじゃないか。大人気ないよ、義樹くん」
「でも仮に、お前がその場にいても、お前は俺を止めないだろう?」
「まぁ、そりゃあね。Wキャストがバチバチやるなんて、作品にとっては良い兆候だから」
伊織が言うと、義樹は満足そうに頷く。
「とはいえ、撮影中の悠人の立て直しは見事だったぜ。カメラマンはいつものキース向井さんで『出せ出せ!』って馬鹿の一つ覚えみたいにしか言わなかったけど、ありゃ、乗せられたんだろうな。チラッと見てきたけど、『これが戸塚悠人のアルバトールか』って思える表情をしてた」
「そう……。悠人くんが…」
もう一年以上顔を見ていない後輩を思い出し、伊織はちょっと微笑む。母を不義に走らせたのは、父である皇帝の愛が足りなかったのだと、伊織を攻め立て憎しみをぶつけてきたルートヴィヒ役の悠人。あの荒々しさはルートヴィヒの青臭さにピッタリだったが、今度はその悠人が伊織の恋敵、皇帝から皇后を奪った憎い男として伊織の隣に立つ。
(そんな大人の顔ができるのか、ちょっと心配だけど)
普段の悠人からは想像もつかない。
「悠人がアルバトールに内定したって聞いた時は、単純に早いと思ったけど……。あいつはもしかしたら、そういう場を与えられて、大人の顔を覚えていくのかも知れないな……、なんてことを思って、俺もウカウカしていられないと思っている次第。同じアルバトールとして作品を引き上げてくれていた立石さんはいないし、みんなの前で『真のアルバトールは俺だ』と、やっちまったわけだし。稽古入りまで、基礎を見直そうかと思ってる」
義樹はそう言って、コーヒーをグーっと飲み干した。そんな義樹の様子を(珍しい)と思いつつ、発奮された様子に、伊織は好感を持った。
「えらいよ、義樹くん。それでこそ、『ミュージカル界の貴公子』だ」
「バーカ、そんなこと言っている場合か」
カップをソーサーに戻した義樹は、伊織から目を背けたまま呟く。
「もし悠人のアルバトールが盛況で、定着することになったら……、お前にアルバトールは2度と巡ってこない。わかってるのか?」
不意を突かれて、伊織は息を呑む。だけど次の瞬間、いつもの穏やかさで伊織らしいセリフを口にしていた。
「僕は、ヨーゼフ一世こそ、僕に相応しいと思っているよ」
「相応しいかどうかじゃない、やりたいかどうか、だろ。目指したいかどうか、だろ」
「それは、考え方の違いじゃない?僕は、僕に相応しい役を与えられて感謝しているし、やりたい役をもぎ取ろうって考えは持たない主義だよ。もちろん、義樹くんみたいに『次はあれだ』「次はこれだ』と目標を定めて、そのために自分を磨くことは素晴らしいと思うけど、僕の伸び方は方向性が違うだけだよ。覚えているだろ?前回のヨーゼフ一世についてのコラムをさ」
「チッ」
伊織の謂わんとすることに思い当たって、義樹は舌打ちをする。前回の公演で、義樹のアルバトールはどの媒体においても絶賛を受けた。普段ミュージカルを取り上げもしない情報番組などでも報じられ「皇后の恋」は、業界ファンのみならず、一般人へもその認知が広がった。同時に、義樹の名前がこれまで以上に広く浸透したのも事実だ。
そうなることを見越して、義樹は舞台の仕事と並行してTVの仕事を受けていた。だから、それは義樹と義樹の事務所の戦略勝ちとも言える結果だった。
反面、伊織のヨーゼフ一世がメインで取り上げられたのは、一度だけ。だがそれは、業界人であれば誰もが一度は名前をあげてほしいと思う、とあるコラムだった。月に一度発行される業界誌のそのコラムには、普段であれば複数の作品と複数の演者の名前が上がる。
だがその時だけは、「皇后の恋」とヨーゼフ一世をやった伊織だけが取り上げられた。伊織のヨーゼフ一世に対する賛辞だけで、見開きのページが埋まっていた。伊織が演じた前の公演のヨーゼフ一世まで引き合いに出して、成川伊織がヨーゼフ一世を演じることで、どれほど成長したかが綴られていた。
義樹の情報番組の賛辞と伊織のコラムの賛辞。どちらにも価値はある。だけど間違いなくあの時、義樹は伊織を羨み、歯噛みした。
情報番組に流れた「皇后の恋」の義樹の映像を見て、伊織が歯噛みしたかは知らない。いや、「義樹くんはすごいな」と微笑んむ伊織が無理なく浮かんでくる。
「お前は、本当に嫌な奴だな。少なくとも俺がお前に言ってるのは、親切心からなんだぜ」
1年半前の雪辱を思い起こされた義樹が伊織を睨むと、伊織はやっぱり穏やかに微笑みながら口を開く。
「わかっているけど、押し付けられるのはちょっとね」
そう言って、途端に「あ!」と思い出したように手を打った。
「そう言えば、悠人くんにちゃんと贈ってくれた?僕が選んだ塩」
伊織のこういうところに、自分たちの友情は守られているのかも知れないと義樹は思う。だけど逆にいえば、伊織のこういうところにケムに巻かれて、伊織の本心も本音も知ることができないでいる。選択しようと思えば「今はその話じゃない!」と言うこともできるけれど、義樹は伊織に従うことを選ぶ。
相手は成川伊織だ。そうするしかない。
「『贈り手が伊織さんになると、塩もオシャレになるんすね』って言ってた」
「えー?何、その感想?ちゃんと敵に塩を贈ったんだって、伝えてくれたの?」
「お前、今『押し付けられる』で、岩塩のことを思い出したろ。押し付けた自覚があるんだろ、岩塩」
「まぁ、よほどの料理好きじゃない限り、扱いに困る代物だからね」
そう言って愉快そうに笑う伊織に、結局、義樹は呆れた表情を見せることで、話を切り上げた。
伊織が言った「ヨーゼフ一世が相応しい」という言葉を信じたという体を繕って。
期待をしていなかったか……。伊織は自分を顧みる。答えは出ない。
明確に言えるのは、その時点でアルバトール役は、伊織ではない、別の誰かのものだと感じていたと言うことだ。
義樹とWキャストでアルバトールを演じていた立石は、まだまだ気力も体力も、そして情熱も持ち合わせていたから。前回の公演の打ち上げの席でも、義樹と熱くアルバトールの解釈について議論していた。2人がほぼ、へべれけになりながら意見をぶつけ合うのを見ながら、立石が「次」として語るアルバトールを、伊織も見たいと思った。
だから、あの日、義樹がスマホを片手に楽屋に飛び込んできた時、義樹のいう「ヤバい」は、皇后役を射止めた役者のことか、ルートヴィヒの配役に関することだと、咄嗟に思った。義樹があの一言を言うまで、立石がアルバトールから退くなど夢にも思わなかったし、ましてや、その後任が悠人になるなんて想像もできなかった。
あの瞬間、自分は落胆したのだろうか?
わからない。
一時の騒ぎの後、伊織はカバンに入れっぱなしだったスマホに届いたメールで、自分が今回もヨーゼフ一世を演じることを知った。その瞬間から、伊織は間違いなく、前回を超えるヨーゼフ一世に思いを馳せた。それを実現させるための準備に動き出した。
今だって、間違いなく与えられた役に情熱を感じている。
「それでいい」が占める心のどこかから「本当にそれでいいのか」という声が聞こえる気がするのは、きっと、義樹が放った言葉の衝撃が尾を引いているからだ。
『悠人のアルバトールが定着したら、もう2度と、伊織にアルバトールは巡ってこない』
それは事実だ。悠人は若い。続けようと思えば20年でも、アルバトールを演じられる年齢だ。その間、伊織はアルバトールから遠ざかり続ける。
「これでいい」
伊織は口に出してみた。今、自分がアルバトールをやりたいと望んでもいないのに、やれないことを嘆くのはおかしな話だ。
きっと、これでいい。
これで、間違いはないはずだ。
これが間違いないことを、ヨーゼフ一世に没頭することで、必ず証明してみせる。
初日の幕が、開くまでに……。
稽古が始まって一週間。
ヨーゼフ一世に没頭することで、自身の正しさを証明すると誓った伊織は、そんな誓いを覚えていられないほどの事態に陥っていた。
のちに義樹が「モブイチの乱」と名付けた珍事によって、カンパニーは大混乱の様相を呈していたのだ。
役名もないたった1人の出演者によって、その事態は引き起こされた。
そのモブ1は、通常のオーディションを経てカンパニーに迎えられた。経歴には、悠人と同じく2.5次元の舞台がズラリと並んでいたが、悠人との違いは彼が名門の音大卒であったことだ。だからと言って、誰かに対してそれをひけらかすことはなかった。当たり前だ、周りのほとんどが名門の音大卒、あるいは院卒なのだから。
彼が凄かったのは、とにかく目立つチャンスを逃さないところだ。皇后とアルバトールが手と手を取って逃避行した先の村の村人に扮した時には、その長閑な風景で穏やかな愛に身を委ねる主役2人の真ん前に立ち、ワンフレーズだけ与えられていたその節を、朗々と歌い上げた。また、コーラスとして歌う際には、なんとも言えない癖をつけて歌う。音は全く外れていない。だが、それではコーラスにならない。
即、クビとなるところであるが、もっとすごいことが起きる。彼が、この舞台のスポンサー企業の重役の息子であることが判明したのだ。
製作陣はもちろん、注意はする。だが、クビにするのは憚られる。こう着状態ではあったが、稽古をしないわけにはいかない。
主役2人の前に立てば「下がれ」と指示する。彼は下がる。そしてまた出てくる。主役の2人はイライラする。演出家のこめかみにも青筋が立つ。癖の強い歌が始まればストップがかかる。注意をされる。だが、また癖のある歌い方を続行する。伴奏者の方がリズムを狂わされて、一旦休憩。
その上、若い演者にありがちといえばありがちだが、「俺の芸術性」という持論を展開してくる。とはいえ、モブ1は今年30歳。年齢的にも立場的にも「俺の芸術性」など片腹痛い話だが、それを内省できるぐらいなら、この事態を引き起こしはしないだろう。
あろうことかモブ1は、その「俺の芸術性」に「この舞台をよりよくするために」という持論を追加して、伊織相手にぶっ放し始めた。その時点で、スポンサー企業の重役の息子であることは周知の事実であったため、「うるせぇ、この青二歳!クビになりてぇのか!」なんて胸ぐらを掴むわけにもいかないし、そもそも伊織はそんなキャラを持ち合わせてはいない。
これまでカンパニーに参加した悠人をはじめとする後輩たちに接したように、まずは相手の話を聞いて……というスタンスで向き合ったところ、「伊織さんはわかってくれる!」と、モブ1は誤解をした。以降、どんなに伊織が諌めようとも「伊織さんはわかってくれている!」「伊織さんだけが、俺の芸術性を理解できる」「伊織さんだけが俺のレベルに達している」という、意味不明の三段論法で、「成川伊織だけが理解できる俺の芸術性=なんかすげぇ」という、厄介な自信まで持つに至った。
それでも伊織は善戦した方だと、義樹は思っている。
少なくともモブ1は、長閑な逃避行の際には主役の2人の顔が見える程度まで傍に避けるようになったし、コーラスの際にも癖ツヨから、癖アリぐらいまで歌い方は改善されたのだから。
だからと言って、許されるわけがない。
小路エリカは何故かモブ1の改善要求を伊織に求めるし、鳳茉里のお付きの女性陣はモブ1の不満を伊織にぶつける。その上、伊織が稽古している以外の時間は、モブ1がその後ろをついて回る。
稽古に入って一週間で、伊織は見るからにやつれていた。
「成川くん、感心だなぁ」
伊織とWキャストで皇帝を演じる染谷一松が、完全に他人事の口調で感想を漏らす。それに「そっすね」と頷きながら、悠人は、演出助手と難しい顔で立ち話をしている伊織を見据えていた。
このモブ1の乱に巻き込まれてから、伊織は伊織らしさを完全に失っている。誰に対しても卒なく接していたはずなのに、その卒のない成川伊織というものは、実は仮面だったのだと感じられた。
役を演じている時ぐらいしか乱れないはずの髪が、乱れている。これまで誰が目の前にいてもガラス玉のように光を吸い込み続けて相手の像を映さなかったはずの瞳に、今は、不機嫌な小路エリカや怒り狂う鳳茉里のお付きの女性やモブ1の姿が刻まれているような気がする。
実際のところ、モブ1が視界に入った瞬間や小路エリカの姿が視界の端に映った瞬間、鳳茉里のお付きの女性たちが壁のように彼の視界を遮った瞬間、「あ、見えてるんだな」と思わずにはいられないほど、伊織の気配は緊張を孕む。
その事に気づいて、悠人は、この上なく不快になった。少なくとも今、伊織にとってモブでない者たちがいる。存在を認知され、あまつさえその存在に伊織がなんらかの感情(この場合、ポジティブな感情ではないこと明白だが)を持っているいう事実が悠人を不快にさせる。
自分でも驚くほど強烈な不快感だった。
「おやぁ、無表情王子と名高い悠人でも、この騒ぎにはお怒りかね」
首にかけたタオルで汗を拭きながら、義樹が近寄ってきた。
「そりゃ、まぁ……。稽古になってるんだか、どうなんだかって感じですからね」
(伊織さんが)と、心の中で付け加える。悠人が知る限り、伊織が演出家に自身のシーンの稽古をつけてもらったのは、初日だけだ。
「副座長、これはそろそろ、君の出番じゃないのかね」
のんびりした口調で染谷がいうのに、「ほら、出番だってよ、悠人」と、義樹が顎をしゃくる。
「え?」
「『え?』じゃないでしょう。お前だって、アルバトールなんだ。二番手なんだから、副座長だろう。可哀想な三番手の伊織くんを助けてあげなくちゃ」
「可哀想な三番手とは、よく言ってくれたもんだな」
染谷のツッコミに、義樹はハッとした。染谷もヨーゼフ一世を演じるのだ。伊織と同じく三番手である。
「いや、三番手が可哀想ってことじゃないでしょ、染谷さん」
「どうだか。そりゃ、二番手のアルバトールに比べたら、三番手なんて可哀想な存在かもしれないよなぁ!」
「いじめないでくださいよ、染谷さん」
参った、降参!というポーズをとってから、義樹は「収拾が難しいんすよねぇ」と、つぶやく。
「スポンサーの重役の息子だって?オーディションもそれで?」
「いや、オーディションは普通に通過したらしいですよ。聞いての通り、歌は歌えてる。ただ、ちょっと、変なだけで……」
「だいぶ変だと思うがな」
そういうと、染谷は「よっこらせー」と言いながら立ち上がった。
「戸塚くん、別部屋で個人レッスンしよう。当分、現場は動きそうもない」
「あ、はい!」
染谷に続いて悠人が立ち上がると「染谷さんの個人レッスンなんて、贅沢だぞ、悠人」と、義樹が笑う。染谷は、義樹や伊織が卒業した大学で教授も務めているのだ。
「台本はもう、入っているかい?」
レッスン室に入った染谷は、ピアノではなくテーブルの椅子に腰掛ける。
「あ、はい。これまでの公演の間に、ほぼ、覚えきっています」
歌わされるのかと思って悠人が立ったままでいると、「かけて」と染谷は向かい側の席を示す。
「はい」
悠人が座ると、染谷は「実際のところ、アルバトールは存在したと思うかい?」と、尋ねてきた。
「多分、いたと思います」
「なぜ?」
「えっと、いなかったら、皇后はあんな熱烈な恋文を書かなかったと思うので」
「では、アルバトールとは、何者かな?職業は何で、皇后とはどこで出会った?」
矢継ぎ早の染谷の質問に、悠人は自分がこれまでに描いてきたアルバトール像を思い浮かべる。
「アルバトールは、芸人だったんじゃないかと思います。吟遊詩人的な。宮廷の晩餐会で出し物をする事になって、そこで皇后に見そめられたんじゃないかと」
「なるほど。出し物をして、皇后に見そめられたと。今はスマホがあるが、2人はどうやって逢瀬を重ねたんだろうね。皇后が座る上座と吟遊詩人が芸を披露する場所とじゃ、だいぶ距離が離れている」
「やっぱり、定番の、侍女による手引きですかね。そういう描写を、映画とかで見たことがあります」
「確かに、あり得そうな話だ。アルバトールのことだから、その侍女とも気の利いた会話なんかを交わすんだろう」
「ええ、イメージ通りです。アルバトールは誰に対しても朗らかで、仮に危うく誰かに見咎められそうになっても、軽いジョークなんかを言ってうやむやにしてしまう。そして、相手が誤魔化されて首を傾げながら去っていくのを笑って見送って、そして、愛する皇后の元に……」
不意に、悠人は言葉に詰まった。染谷は、その理由を知っているかのように尋ねてくる。
「今、誰を思い浮かべた?」
「……義樹さんです」
具体的なアルバトールのイメージを語っていくうちに、悠人の中で、それは義樹の像になった。フリルをふんだんにあしらった白いシャツに濃いシルバーのボトム、そして白のローブを身につけた義樹が、いや、アルバトールが、見咎められそうになりながらも機転を効かせて追求を躱し、愛しい女性の元に駆け出していく姿がありありと浮かんだ。
「井浦のアルバトールは、お手本みたいなアルバトールだからね。彼のアルバトールを倣うところから始めるのは決して悪くない。だけど、お手本みたいと言っても、あのアルバトールは誰でもできるアルバトールじゃないんだ。むしろ、お手本という言い方が違ったかもしれないなぁ。井浦くんが作り上げたアルバトールに、観客は最も酔いしれた。その結果、井浦のアルバトールが、正しいアルバトール像になったんだ。ちなみに、戸塚くんは、これまでの歴代のアルバトールを全て見たかい?」
「はい。立石さん以前は、映像で、ですけど……」
「けっこう。率直に、どうだった?」
「正直、義樹さんのアルバトールの印象が強いので、どの人のアルバトールも違和感がありました。皆さん、個性が出ていたというか……。わかりやすかったのはやっぱり、立石さんかな。義樹さんよりも誠実さが強く出ていたのと、義樹さんはちょっと甘い雰囲気がするのに、立石さんは時々、悲壮な感じが垣間見れて……」
話しているうちに、悠人は夢中になった。これまでアルバトールを演じてきた人たちが、アルバトールをどう捉えて演じてきたのか……。あまりにも強い印象の義樹のアルバトールばかりに注目してきたけれど、それぞれのアルバトールの印象を紐解くと、今まで「こうだ!」と思い込んでいたアルバトールの別の側面が見えてくる気がする。
「これが、ルートヴィヒ役とアルバトールの違いだな。ルートヴィヒは、役というか役割が明確だろう。父親である皇帝を責めて、妻の不義という衝撃に疲弊した皇帝をさらに追い詰める役割だ。紐解けば追い詰める理由は色々あるのかもしれない。母を幸せにできなった父への恨みなのか、この機に乗じて、父親を精神的に追い詰めて退位させたいという目論見なのか。ただ、仮に後者だったとしても、ストーリーが下剋上に変わるわけじゃない。それなら、セリフや歌詞にあるがまま、その役を全うした方が、シンプルだしルートヴィヒらしいわけだ。だが、アルバトールは違う。面白いのは、君の解釈と君の感情と、君のこれまでの経験で、君のアルバトールが作れるというところだ。役者の醍醐味だな」
「なるほど……」
頷いた悠人は、思わずぎゅっと両手を握った。これが役者の醍醐味……、これが面白さ……。
これまでだって、役作りはしてきた。実在の人物なら、その人生をくまなく調べ、その時折の感情を想像したり、移ろいを予想したりして。原作があれば読み込んで、台本から見えてこないものを拾い集める。台本しかなければ、そのセリフの意味をいくつもいくつも考えて、自分が心から口にできるセリフになるまで、役の本心を追いかけてきた。
だけど、染谷が示してくれたアルバトールの可能性がはどうだろう。もしかしたら、これまで存在しなかったアルバトールを、悠人がこの世に生み出せるかもしれないのだ。
「面白い……」
思わず漏れた悠人の呟きに、染谷は我意を得たりという顔で笑う。戸塚悠人は優秀だ。飲み込みの早さから、役者としの資質の高さがうかがえる。
その上、この美貌に、この若さ。これはきっと、本当にこれまでにないアルバトールになるかもしれない。ということは、そのアルバトールの影に苛まれる皇帝役である自分にも、新たな刺激になるはずだ。
「そうだ、戸塚くん。けして答えは出さなくていいけれど、考えてみてほしいことがある」
興奮を滲ませた悠人に、染谷は1本の指を突き出す。
「一つ目は、アルバトールは本当に皇后を愛していたか」
「……それこそ、ストーリーが崩壊しませんか?アルバトールが、皇后を愛していなかったら」
不審げに眉を寄せた悠人に「金目的だったかもしれんだろう。それに、君の年齢を基準にして、20も30も年上の女に惚れるなんて、あるか?」と、染谷は身もふたもない言い方をする。
「亡くなった時、皇后は、まだ若いですよね」
「ルートヴィヒが18歳ぐらいだろう?20歳で産んだとしたら、38だ。アルバトールが20歳だったら、ほぼ20の年の差だろう?」
「時代背景からすると、16歳ぐらいで産んだと思ってました」
「それでも、34か。君が今、22歳だろう?34歳の女性と、恋愛するか?」
「あー……」
確かにそれはちょっと難しいかもしれないと、悠人は思う。勝手な想像で、皇后には大変失礼だけれど……。
「もう一つは、アルバトールは本当に人間だったのか」
「え?」
突拍子もない染谷の言葉に、悠人は思わず声を漏らす。確かに「アルバトールは実在したか」は作品のテーマではあるが……。
「人間じゃなかったら、なんです?お化けとか?」
「なくはないだろう。歌舞伎にだって、幽霊と夫婦だった話はある」
「じゃあ、皇后は呪われてたに近いじゃないすか」
「まぁ、それを呪いと考えるか、愛と考えるかは、また、考え方によるな」
「えー?」
ケムに巻かれたような気分になって、悠人は眉を寄せる。「結局、愛ですか?」と問うと、「それは君しだい」と、染谷は肩をすくめた。
なんだか、禅問答を仕掛けられた気分になる。
だけど、答えが出ないにもかかわらず、悠人の気持ちはなぜか高揚していた。
その日はかろうじて、半立ち稽古は行われた。それでも例のモブ1がやらかすシーンが飛ばされたのは、演出が「心穏やかに稽古を終えたい」と願った結果だろう。
その後、悠人は個人的に歌唱指導を受けた。いつもならある意味、難なく歌えた歌がしっくりこなかった。今まで迷わず追いかけられていた「アルバトールらしさ」に、悠人が疑問を持ったせいだ。
それでも、悠人の心は沸々と泡立っていた。「ここから、新しいアルバトールを生み出す」。ワクワクとした気分が先に立って、気持ちさえ浮き足立っている。
アルバトールの歌を歌いながら、悠人は稽古場を後にして控室に向かう。主役級の出演者の荷物置き場兼、着替え場所として男女別に用意されている部屋だ。稽古終わりから3時間が経っていたから誰もいないだろうとノックもせずにドアを開けると、中央の長机に突っ伏す背中を見つけた。
「……」
伊織だ。辛うじて着替えは終えたらしい。開いた台本に額をくっつけて、伊織は寝息を立てていた。
これは起こすべきなのか、そっとしておくべきなのか。迷った後、悠人は静かに上下する伊織の背中にそっと手を置いた。
「伊織さん」
途端にピクッと、伊織の体が跳ねた。そして、ゆっくり額を台本から上げた。その首が、これまたゆっくり右を向いて……、声をかけたのが悠人だと気づいたのか、体にこもった力がわずかに抜けた。
「悠人くんか……」
そして伊織は長いため息を吐く。
「寝てた」
「ですね」
悠人は手にしていた譜面や台本を自分のバッグにしまいながら、悠人は頷く。
「稽古場、まだ誰かいるみたい?」
伸びをしながら伊織が尋ねてくる。
「松本はいなかったですよ。っていうか、明かりも落とされてました」
きっと伊織が気にしたはモブ1だろうと思い悠人がそう答えると、伊織は「そう」と言いながら、何度か小刻みに頷いた。
「追いかけまわされて、伊織さんも大変すね」
「追いかけ回されているだけなら、まだ、いいんだけどね……」
「は?」
思わず悠人は伊織に顔を向ける。途端に伊織は慌てたように前髪を直し始めた。そして「ほら、松本くんって、こう、ずっと喋ってるじゃない?だから、ちょっとキツイというか、僕も考えなきゃならないことはあるから」と、伊織は言ったけれど……。
(あの野郎……)
さっきまで高揚で満たされていた悠人の気持ちが、急激に冷えていく。まさかと思うが、あのモブ野郎は、こともあろうに伊織に妙な懸想をしているんじゃ……。
台本をバッグに詰めたまま自分を見下ろす悠人の視線に気づき、顔を上げた伊織は、その悠人の形相にギョッとした。
「違う違う!本当に、そういうことじゃなくて、本当に、追いかけ回され過ぎて、消化不良を起こしてるというか、そういう話だよ!」
瞬時に悠人の考えを理解した伊織は慌てて否定する。実のところ、モブ1の妙に距離が近いところや、なんとなく2人きりになろうとしているんじゃないかと感じるような態度に、そこはかとない危機感を持ってはいたけれど、決定的な何かがあったわけではない。
否定しても、すごい目力で自分を凝視する悠人に、伊織は「まぁ、そういうことだから」と話を切り上げる。
「だから、僕も帰ろうかな」
何が「だから」か自分でもわからなかったが、伊織は慌てて立ち上がる。額の下敷きにしていた台本を閉じて、隣の椅子に置いてあるバッグにしまい、バッグを肩にかけて。
「それじゃ」と挨拶をしようと悠人を振り返るのと、悠人が口を開いたのは同時だった。
「送ります」
「え?」
「タクシー、今、呼んだので、送ります」
そう言うと、悠人はバッグを肩に担ぐ。そして無表情に伊織の横を通り越した。伊織は咄嗟に、悠人を振り返える。
悠人はドアを開けて廊下に出ると、伊織を振り返った。
「行きますよ、伊織さん」
そこで伊織が思ったのは、(悠人くんは、本当に僕に話しかけてたのか)という、少し間抜けな事実確認だ。だって、伊織にとっては意外なことだったのだ。悠人が、能動的に伊織に関わってくることも、「送る」という言葉も。
「あ、うん」
誘われるままに悠人の後を追いかけながら、伊織は奇妙な感覚に襲われる。自分の前を歩く男は、本当に自分の知っている悠人なのかと。
悠人は過去2回、公演を共にしている。その間、もちろん稽古も一緒にしたし、舞台という世界における所作について指導したこともある。稽古終わりや舞台終わりに食事に行ったことだって、ある。
(ああ、そうか……)
そのどんな時も、悠人と伊織の間には、誰かがいた。稽古場での休憩中に2人で話している時も、食事の席でも。特にプライベートの食事会の時には、必ず義樹がいた。伊織にとって悠人は、誰かと一緒に自分の前にいる人であり、ある意味、伊織の友人の義樹の後輩という位置付けだった気がする。
(17歳だったなぁ……)
そんなことを、感慨深く思ってしまう。見るからに場違いな顔をして、初めての顔合わせにやってきた悠人の、幼いぐらいの表情さえ思いだす。伊織が和ませようとした挨拶に、棒立ちになってしまったことも。
あれから4年。息子役だった悠人は、恋敵役として今回の公演を迎える。
(背中も変わるはずだ)
身長は変わっていないはずなのに、なんとなく大きくなったように感じる。ルートヴィヒ役にさえ息切れして丸まっていた線の細い背中を軽く叩きながら、「大丈夫、大丈夫」と宥めてやった時とは、漂う空気がまるで別人だ。
前回の舞台から、まだ、2年に満たない時間しか経っていないのに。
悠人を見て「ウカウカしていられない」と言った義樹は正しい。一足飛びに大人になって、その勢いで想像もつかない成長を遂げる年頃だ。
無言のままエレベーターに乗り、地下の搬入口に出る。悠人が言った通り、タクシーが1台「迎車」の文字を光らせて待機していた。
とはいえ、悠人に送ってもらうのは憚られる。というか、タクシーぐらい伊織だって簡単に呼べる。
タクシーに向かう悠人に「悠人くん、僕、自分でタクシー呼ぶから大丈夫だよ」と声をかけると、悠人はピタリと足を止めた。
「それ待ってる間に、あいつが来ますよ」
「…‥それは、困る」
神出鬼没なモブ1のことを避ける選択肢を取るなら、悠人の言葉に従う一択だ。
悠人はもう、伊織の選択をわかっているかのように、ドアを開けたタクシーの前で待っている。
「じゃあ、お願いしようかな」
小さく誘った悠人の手に従って、伊織はタクシーに乗り込んだ。後から乗り込んだ悠人が「どこまで送ればいいですか?」と、尋ねてきた。
伊織が自宅の住所を告げると、悠人は住所を入力するよう運転手に指示した。そのまま車両は走り出す。
「そう言えば、岩塩、ありがとうございました」
「え?……ああ、あれね。食べてみた?」
悠人が唐突に口にした「岩塩」は、義樹に託した「敵に塩を送る」の「塩」のことだ。伊織の実家で家事を担ってくれている和江が、いつだったか誰かからの「頂き物だ」と言って、天ぷら塩として出してくれたことがあって、それ以来、伊織の自宅にも常備している。おろしたばかりのその岩塩は、とにかく風味が豊かで、何に使っても美味しい。
伊織が尋ねると、悠人はちょっと眉を寄せた。
「あれ、食うんすか?」
「うん、食用だよ」
頷きながら、食用じゃない岩塩もあるのだろうかと思いながら伊織が答えると、悠人はますます眉を寄せる。
「塊でしたよ」
「それをおろし金で削るんだ」
「えぇ?」
伊織の回答は、悠人にとって意外過ぎたらしい。悠人はまだ疑いの眼差しを向けてくる。その表情が幼くて、伊織は思わず苦笑した。
「なんすか?」
笑っている伊織に、悠人が少し突っかかってくる。
「いや、せっかく敵に塩を送ったのに、食べてもらわなきゃ、しょうがないじゃないかと思っただけ」
「……なんか、風呂に入れたりするのかと思ってたんすよ」
不貞腐れた口調で悠人が言う。
「ああ、確かに。そういう使い方もあるよね。塩だから、魔除けみたいに使う人もいるらしいよ」
「だったら、伊織さんが持ち歩いた方がいいんじゃないすか?松本の魔除けに。返しましょうか?」
「ご心配ありがとう。だけど、自宅に常備してるから、大丈夫」
「逆に心配すね、効果が見えない」
「確かに。食べてるからダメなのかな。やっぱり持ち歩いた方がいいのかも」
「そうっすね。譜面と台本と岩塩携帯で稽古場入ったらいいですよ」
悠人の言葉に、自分が譜面と台本と岩塩を持ち歩く様子を想像し、伊織は思わず笑い声を上げた。かっこ悪いことこの上ない。
ひとしきり笑ってから、それにしても……と、伊織は思う。悠人はこんな男だっただろうか。伊織の中の悠人のイメージは、やっぱりもっと幼い感じだった。会話をしていても、話をするのは伊織だけで、悠人はそれを一言も聞き漏らすまいと真剣な顔をしながら「はい」と頷き続けるようなコミュニケーションをとっていた気がする。
この4年の間、2回の公演の間中、そんな感じだったはずだ。だけど今の悠人には、伊織に対する……と、いうか、大人に対する余裕が感じられる。
前回の公演以降、悠人がどんな仕事に携わっていたのか、伊織はほとんど把握していない。たまに義樹が「同じ現場だった」と悠人との再会を報告してくれることはあったが、どんな仕事だったのかを根掘り葉掘り聞いたりしなかったし。それに正直にいうと、伊織は、そこまで悠人に関心を持っていなかったのだ。
舞台の世界には、多くの人が足を踏み入れる。だけど、それを生業とできる人は一握りだ。特に悠人のように若い役者は、例え舞台を何度踏んでもある日を境に姿を消す者が大半。今は以前に比べて商業劇やミュージカルの本数が格段に増えているとはいえ、全ての役者が役にありつけるわけではない。幸運にも役を選られたとしても、その頻度によっては、舞台以外で生活費を稼ぐ必要が出てくる。
そして若い役者には度々、訪れるのだ。「このまま続けるか否か」を迷うタイミングが。例えば高校を卒業し大学進学が選択肢として浮かぶ時、20歳という節目、22歳や23歳で、自分と同じ年代の人たちが「社会人」として働き始めるタイミング。それを押して役者を続けたとしても、個人のタイミングで迷う時はいくつもある。
出演作品がグランドミュージカルであっても、それが続く保証は無い。だから……。
戸塚悠人という役者の才能はわかっていながら、伊織は戸塚悠人自身に関心を持てなかった。伊織にとって悠人も、いつ消えてもおかしくない、今、この時だけの共演者の1人だったからだ。
(この子は続くかもしれないな)
そう思う。いや、続いて欲しいと思う。
だから、伊織は珍しいことを思いついた。
「ご馳走するよ、岩塩」
「え?」
悠人が怪訝そうな表情を見せる。
「今日、この後、予定がないなら。岩塩を食べる方法を教えてあげるよ」
「マジで?」
「マジで。そんなに取り扱いが難しいものじゃないから」
言いながら、伊織は自宅の冷蔵庫の中身を思い浮かべていた。
「伊織さんて、本当に料理できたんですね」
ワイングラスを指で触りながら、悠人が言う。伊織は「失礼だな」と苦笑した。
「恋敵に岩塩を贈ったうえに、レクチャーまでしたんだぞ、僕は」
それどころか、料理もほとんど伊織の独壇場だった。悠人は伊織の想像を超えて、料理ができなかったのだ。
普段はほとんど外食か宅配か、現場の弁当だという。でも、考えてみれば伊織も20代はそんな食生活だった。
「伊織さん、よく自炊する気になりましたね。その気になれば、毎日だって外食できるでしょう?」
「まぁ、そうだけど。一般論を言うようだが、本当に飽きるんだよ。30を超えると、食事のために外に出るのも億劫になるしねぇ」
「ちょっと、何言っているかわかんない」
「……そのうちわかるようになるよ、おじさんになればね」
伊織がそう言うから、悠人は思い出す。伊織は義樹より一つ年下だから、今年で34歳のはずだ。
(アルバトールと皇后ぐらいか、俺と伊織さんの年齢差って)
そんなことを考えた。
だけど、染谷と話していた時に思い描いた皇后のイメージよりも、伊織は格段に若いと思う。見た目は伊織自身が言うような「おじさん」では、決してない。童顔なのも相まって、まだ「お兄さん」の方が似合う。
(でも確かに、もっとなんか、大人な人だと思ってたな)
だから、遠い人だと感じていた。悠人を構ってくれる義樹の友人という位置付けで。伊織よりも義樹の方が道化を演じることが多い。伊織はそれを見守ったり嗜めたりする役割を担うから、より一層、大人に見えていた。
(それに、人を見ているようで見てない人だったし……)
伊織と向き合っていると、何かを見透かされているような気がするのに、悠人の中にある何かは彼の琴線に触れていないことが如実に分かった。それは悠人に限った話ではない。伊織にとって大抵の人は、そういう相手でしかないと、伊織の空気感が伝えてくるのだ。
だけど、今、目の前にいる伊織は違う。今回の稽古が始まってからも、ずっと違う。他人の存在に、こんなにも振り回される人なのだと、真逆の印象を感じる。
(それが、あのモブのせいだと思うと、ホント、腹たつ)
4年の時間をかけて、悠人がやっとここまで来たというのに、あのモブ野郎は、傍若無人に伊織を乱している。その事実が(あいつは実は、伊織さん振り回すほどの大物なのではないか)なんて思わせてくるから、腹が立つ。
悠人の向かい側で、伊織が食器を手に立ち上がる。悠人が続けて立ち上がると「いいよ、座ってて」と、伊織は言った。
「いや、洗うぐらいは、俺が」
食事を作ってもらって食べさせてもらって、片付けもしないのはいただけない。
「洗浄機に入れるだけだから」
伊織はそう言うと、さっさと食器を下げていく。そしてワインの入った自分のグラスもカウンターキッチンに置くと、「チーズ好きかい?」と、尋ねてきた。
「たまに聞かれて思うんですけど、『チーズが好き!』って、あります?」
「何だって?」
冷蔵庫を開けかけた伊織が、驚きの表情を浮かべて振り返る。
「会食とかで聞かれたことがあるんですけど、俺、『チーズが好き』っていう感覚がわかんないんですよね。肉が好きか聞かれたら『好き』なんですけど、チーズって付け合わせだから、好きも何もないっていうか……」
「それは、美味しいチーズとまだ出会っていない証拠だな」
言うと伊織は、冷蔵庫から透明なパッケージを取り出す。そして小さく歌を口ずさみながら、食器棚から皿を取り出した。
(アルバトールの、『愛しい刻』だ……)
密やかに聞こえてくる歌声を、悠人は固唾を呑んで追いかける。伊織がアルバトールの歌を歌うのを聴くのは初めてだ。
早朝に、目覚めたアルバトールが、隣で眠る皇后を思って歌う歌。まだ太陽が低くて、皇后の寝顔がよく見えない。だけど、日が高くなれば、愛しい寝顔を置いていかなければならない。
陽の光よ、早く昇れ。だけど昇るな。そんな相反する願いを呟ける、この瞬間が愛おしい。
今日の歌唱練習で、悠人が迷いを感じた曲の一つだ。もしもアルバトールが皇后を愛していないとしたら、彼は何を思ってこの歌を歌ったのか。もしもアルバトールが人でないなら、この曲の意味はなんなのか。そして、世の中の人は、こんな思いを持つことが本当にあるのか。
正直、悠人には経験のない感情だ。過去に恋人がいたことはあるが、思い返しても、寝顔を眺めた記憶もない。
(伊織さんなら、どう歌うんだろう……)
伊織は歌を口ずさむのをやめて、ワインを一口飲んだ。そしてグラスと皿を持って、テーブルに戻ってくる。『愛しい刻』は、軽やかな鼻歌になっていた。
「食べてごらん、チーズ付きのオススメだから」
そう言ってテーブルに皿を置いた伊織に、悠人は尋ねた。
「伊織さんは、アルバトールをやりたいと思います?」
その瞬間、伊織の口元から微笑みが消えた。悠人はその瞬間を目の当たりにしてギクリとする。
だけど、伊織の声は朗らかに答えた。
「僕は、ヨーゼフ一世が僕に相応しいと思ってるから」
「そう……すか」
頷いた悠人の正面に座り直した伊織は「さ、食べてごらん」と、笑顔を見せる。その表情には、先ほど悠人が固まった不穏な気配は、一切浮かんでいない。
だから、あれは、ただの悠人の勘違いかもしれない。伊織はテーブルに皿を置く瞬間に何かに気を取られて、それで表情が変わっただけかもしれない。
そう思おうと思えば、思えた。だけど悠人は気づいていた。
さっきまで、間違いなく伊織の瞳には自分が浮かんでいたのに、今はもう、伊織の瞳はガラス玉みたいに光を吸い込むばかりだ。
(失敗した……)
悠人は固まったまま、伊織を凝視する。今日は、これまでの隔たりが嘘みたいに伊織のそばにいれたのに。間違いなく、伊織の中の何かに触れることができたと、実感していたのに……。
だけど不思議なことに、真逆の言葉も浮かんでくるのだ。失敗じゃない、むしろ成功だ。伊織の嘘に気づけているのだから。それぐらい近い距離にいるのだから……。
2人の間で、時が止まった。伊織は作り物の笑顔を貼り付け続け、悠人は、そんな伊織を見つめ返す。
先に均衡を破ったのは伊織だった。
「そうだ。もう一つ、あったんだ……」
そんなことを呟いて悠人から顔を背けて席を立つ。キッチンに戻る伊織を、悠人は咄嗟に追いかけた。
ダメだ。絶対にダメだ。
伊織が手を伸ばした冷蔵庫を開けさせたら、伊織は「もう一つ、あったんだ」という呟きに相応しい正解を取り出して、この瞬間の全部をうやむやにしてしまう。
伊織が嘘の笑顔を浮かべていることも、それに悠人が気づいていることも、無かったことにしてしまう。
ちゃんと伊織に知らしめなければ。悠人は伊織の嘘に気づいている。
それに気づくぐらい、近くにいるのだと。
「伊織さんっ!」
伊織の背中越しに腕を伸ばして、悠人は伊織の手を「バン!」と冷蔵庫に押し付けた。
「痛っ!な、何?」
悲痛な叫びを上げた伊織が、片手を囚われた状態で身を捩り悠人を振り返った。至近距離にある伊織の瞳に、自分が映っていることに気づいた悠人は、誘われるみたいに近づいていく。
「悠人、くん?」
事態を理解していない伊織の呟きが、ちょっと間抜けでおかしい。悠人の手は自然に伊織の頬を包み、そのまま呆けたみたいに開いている伊織の唇に口付けた。
もう一度、伊織が不思議そうに「悠人くん」と呟く。その呟きは、悠人の唇の上で淡く消える。そして、大人だと思っていた伊織の唇は、小さく震え出した。その震えが、全身に広がっていくのがわかる。
悠人が体を離すと、伊織は呆然とした表情で悠人を見上げていた。その瞳にも自分が映っていることで、悠人は理解する。心が凪いでいる。伊織の瞳がガラス玉になってしまわなかったことで、ほっとしている。そして、それを確かめられたこの距離に感謝さえしている。
「帰ります。チーズは、また、今度」
悠人の言葉に伊織が「へ……?」と間抜けな声を出す。悠人はそれに構わず、テーブルに戻ってスマホと自分のバックを手にした。
家に帰って考えたい。作品のこと、アルバトールのこと、自分がどうアルバトールを作り上げるか。そしてもちろん、伊織のことも。
伊織が正気に戻ったのは、悠人が出ていったドアが閉まる音が響いた後だった。
「え、えーっ?」
起こった事態を反芻する。
キスされた。間違いなく、悠人にキスされた。間違いなく、キスされた。
(酔った勢いとか、ノリとか……?いや、いやいやいや、いやいやいや……)
そんなに酔ったかと言えば、飲んだ量なんて、2人でフルボトルの半分ぐらいだ。多分、伊織の方が飲んでいるし、酔っている。悠人は顔色だって変わってなかったし、普段と様子が変わったということもなかったはずだ。
だとすると、何か衝動的に悠人がキスしたくなるような話でもしていたか……?
冷蔵庫に背中を預けた状態で思い返してみたが、悠人の迫力の美貌が迫ってきた以前のことが、霞がかかったように思い出せない。その悠人が目を伏せた時、どうでもいいが(まつ毛長いなぁ)と思ったことは、思い出せるのに。
「ちょっと、勘弁してほしい……」
ただでさえ問題の多い現場だ。その現場に、悠人も毎日やってくる。理由もわからずキスをしてきた男と毎日、どんな顔をして顔を合わせろと?
その上、悠人は帰りしなに、なんて言った?「チーズは、また今度」だと?
「いきなりキスしてくる人なんて、怖くて家にあげられるか!」
怒りに似た感情が湧いてきて、伊織は勢い良く体を起こす。途端に目に入ったダイニングテーブルで、さっきまで本当に楽しく会話を交わしていたはずの悠人と自分が思い出された。
(本当に、久々に楽しかったのに……)
そして、悠人とはこれから、仲良くしていけるかもしれないと期待もしていたのに。
「なんで、キスなんてしたんだ……」
理由も言い訳もしないで帰ってしまうなんて、ひどすぎる。もし「ノリで」とか「勢いで」と言ってくれていたら、その言い訳を信じられたし、万が一「好きです」などと言われたら、丁重にお断りだってできた。
いずれにしても、終わったハプニングとして処理できたはずなのだ。
だけど、悠人はただ、帰って行った。だから伊織は考えずにはいられない。
どうしてキスなんてされたんだろう。
あの直前、僕らは、何を話していたんだっけ……?
タクシーに乗り込んで、悠人はシートに深く腰掛けた。途端に深いため息が漏れる。無意識に、伊織の唇に触れた自分の唇に指で触れた。
男性にキスをしたのなんて初めてだ。あんな衝動的に誰かに迫ったことも、多分ない。あまりにも自分でも意外な行動だったから、適当なことを言って伊織の家から出てきてしまった。
「カッコわる……」
漏れた呟きで、自分が、伊織の前でカッコよくありたかったんだと気づく。義樹の前で大人ぶりたいのとは、似ているけれどちょっと違う。義樹の前で大人ぶりたいのは、義樹が子供扱いしてくるから、それに対抗しているだけだ。
伊織は、そんなことはしない。むしろ、そんな距離にすらいなかった。だけど今日、ひょんなきっかけで近づいたら、どんどん、どんどん、距離を感じなくなった。
伊織の傍にいる。その事実に、悠人は間違いなく高揚していた。嬉しかった。伊織が自分を見てくれたから。
その勢いで……、と言えば、そうなのかもしれない。伊織が見せた嘘を真実にしたくないという衝動も加わった。自分は、伊織の嘘に誤魔化されはしないと、そう、伝えたかった。
悠人はまた、指先で自分の唇に触れる。「おじさんになるとね」と、伊織は自分を評していたけれど、そのおじさんとしたキスに嫌悪感はない。むしろ……。
(続けていたら、どうなっただろう)
触れるだけのキスだったから、伊織の唇の震えを強く感じられた。あの震えごと捕まえて、吸いとってしまったら……。
タクシーが強めのブレーキで止まったのを感じて、悠人は瞑っていた目を開けた。「危ねぇなぁ」と、運転手が前の車に悪態をついた。
(危ねぇのは、俺だ……)
このまま想像をめぐらしていたら、どんなことになっていたか、わかったもんじゃない。
悠人の想像の中で、伊織が、どんなことになっていたか、本当に、わかったもんじゃない。
「伊織くん、日に日に小動物化していくわね」
エリカが呆れたように義樹に言った。
「わかってるなら、ちょっとは優しくしてやってくださいよ。エリカさん、当たり強いよ?」
「だって、あのモブ郎が懐いているの、伊織くんだけじゃない。彼が甘やかしてるのが原因でしょう」
「うーん、懐くっていうか、うーん…」
エリカの謂わんとすることは、わからないでもない。稽古が始まって数日で、モブ郎ことモブ1に対して、演者の全てが関わり合いを避けるようになった。並の神経だったらその時点で萎縮するところだが、モブ1は気にする様子もなく、自分の話を聞いてくれる伊織にまとわりついている。
それを不憫に思った周囲の者たちが伊織を呼んでモブ1と引き離してみるのだが、モブ1は他に話をしてくれる人もいないので、伊織のそばでちゃっかり会話に混じろうとしてくる。苛立った相手が「君は向こうに行ってくれ」と言っても、半歩下がってお付きの人みたいに会話が終わるのを待っているのだから、伊織も相手も気もそぞろになってしまう。
結果として伊織に関わる人間も極端に減った。
何よりもここは大人が集う現場だ。対処は本人がするべきで、周りがサポートすることではない。
つまり、エリカのいう「甘やかしている」というのが、稽古場の総意なのだ。
(これはそろそろ、なんとかしないと)
いくらなんでも、二週間も引きずる話ではないはずだ。稽古期間は1ヶ月半しかない。その3分の1が過ぎた。もはやモブ1がその場にいるだけで、現場の雰囲気がささくれ立つまでになっている。本来であれば、もう、制作サイドが動いていてもおかしくないが、スポンサーの重役の息子ということで「なんとか穏便に」というスタンスを変えてはいない。
(どうしたもんかなぁ)
義樹は腕組みして、眉間にシワを寄せた。
ピリピリした現場と少し離れた控室で、伊織はバサバサと鞄を漁っていた。
(ああ、もう!こんな時に限って、譜面を間違えるなんて!)
人によるが、伊織は半立ち稽古の段階でも譜面を持っていたいタイプだ。歌はちゃんと入っているが、今回は歌い方を変えるつもりで細かなメモを残している。それも頭には入っているけれど、言うなれば、お守りのような感覚で、手にしていたいのだ。
本来であれば、昨夜の時点でちゃんと鞄に仕舞われていたはずの譜面だ。だけど、悠人のキスのことを考えていたせいで、鞄の中身を確認せずにきてしまった。昨夜、自宅についた時に、中身をデスクに出したかどうかも、定かではない。
(ああ、もう!)
本当に、今回の現場は散々だ。稽古場では姿が見えない伊織を探してモブ1がウロウロしているだろう。それみんなが冷ややかな目で見ているはずだ。その上、年若い後輩にキスなんてされて、狼狽えてしまっている。
「どうしたんすか」
背後から声をかけられて、伊織は反射的に「譜面がなくて……」と答える。その瞬間、声の主が悠人だと気づいたが、それと、伊織の背中に体温が触れたのは同時だった。
「この棚の上のじゃ、なくて?」
伊織の背後から伸びた手が、棚から譜面を取って差し出してくる。それは紛れもなく、伊織の譜面だった。
「あ、そうだ!昨日、ぐったり疲れて、そこにとりあえず置いた気が……」
譜面を受け取り安堵した途端、悠人の体温は伊織から離れた。そっと振り向くと、悠人はバックから出したスマホで、どこかへ電話をかけ始めている。
その横顔を見た途端、伊織は、自分の顔が赤くなるのを感じた。視線に気づいたらしい悠人が伊織に顔を向ける気配を感じ、慌てて「ありがと!」と叫んで、控え室を飛び出した。
走るほどの距離でもない廊下を、伊織は全力で駆ける。
そうしないと、何か余計な物思いが、追いついてきそうな気がした。
明日が休みの日ということで、稽古は遅くまで続けられた。例の長閑な村のシーンは阿吽の呼吸で見送られ、コーラスも散々ではあったものの、なんとか立ち稽古で大方を終えられて、稽古場は久しぶりに明るい雰囲気を取り戻してた。
その空気を、ぶち壊す輩がいる。
「伊織さん、飲みにいきましょうってば!」
モブ1が張り上げる声に、帰り支度をしている面々が眉を顰める。稽古終わりに乾杯は、決して悪いことではない。だけどそれをモブ1が言っていることで、なんだか皆がうんざりした気分になってしまうのだ。
「僕はこの後、仕事が、あるから」
「え?この時間すよ!断る言い訳にしても、雑じゃないですか!」
そんなやり取りに、(断られてるのはわかってるのか)と、思わず義樹は感心する。そして、感心している場合じゃないことに気づいて、腰を上げた。
その横を、誰かが通り過ぎていく。
「伊織さん、タクシー待たせてるんで、いきましょう」
その発言の主を振り返り、伊織は唖然とする。悠人が、伊織の鞄もコートも手にして、立っていた。
(行く?行くって、どこに……)
そんな伊織の驚きを意にも介さず、悠人は伊織のそばにツカツカ寄ると、伊織の腕を取った。
「遅れるんで、急ぎましょう」
「あ、え?あ……」
引きずられるようにして、伊織は悠人の後を追う。エレベーターに乗り込んだ途端、悠人は伊織の腕を離した。
代わりに、鞄とコートを渡される。
荷捌きには、昨日と同様に「迎車」マークが点灯したタクシーが待っていた。伊織を先に乗せて乗り込んだ悠人は「1人、六本木の交差点で降ります」と、運転手に告げた。
「伊織さんは、自宅ですか?」
「あ、うん」
「じゃあ、そのあとは、西麻布の方に」
「承知しました」
どうやら悠人は、途中で降りるつもりらしい。自宅まで来られたらどうしようかと思っていた伊織は、安心と同時に、なんだか勢いを削がれたような気分にもなる。
昨日のキスがどういうつもりか、聞くなら、今がチャンスだ。だけどタクシーの中で話すわけにもいかない。それならまた、自宅に招くということに……。
(いや、部屋でなくても、エントランスという手もあるし)
そう思ったけど、伊織はすぐに考えを打ち消した。エントランスが広く、打ち合わせ用のテーブルやソファーがあるとはいえ、カウンターにはコンシェルジュがいる。聞き耳を立てているとは思わないが、男同士でキスの話など……。
それに、聞かなきゃならないのは、それだけじゃない。今こうして、2人でタクシーに乗っていることもだ。確かにモブ1に誘われて困っていたとは言え、強く拒否れば済む話だ。なんなら、これまでの2週間も、そうやって逃げ回ってきた。こうして、悠人に庇ってもらうような話ではない。
なのに、悠人は動いた。そのことに、何かの意味を感じてしまう。キスのことも含めれば、きっとそういう話だと……。
(いや、あるか?本当に?)
浮かんだ疑問に、伊織は思わず(そうだよなぁ)と、同意する。これが同世代なら「あるかも」に振れるかもしれないが、相手は、悠人なのだ。
今が伸び盛りの20代。その上、高身長に「迫力の美貌」と称えられる顔面の持ち主。そういう空気は感じたことがないが、悠人が仮に根っからのゲイだったとしても、何が楽しくておじさんを選ぶかと、思えてきてしまう。
(僕が飛躍しすぎなのかも。何かこう、ジェネレーション違いで、僕には理解できない、何かこう、コミュニケーション的な……)
ああ、そうかもしれないなと、伊織は納得する。悠人が普段、どんな人たちと接しているか全くわからないが、そういう仲間内での挨拶を、伊織との間に誤って持ち込んだということも……。
(いや、流石にないか……)
仮に悠人たちの世代がそんなコミュニケーションをとる世代だとしたら、「フォーカスアップ現代」あたりで特集が組まれそうなものだ。
そうなると、あのキスは……。
伊織の思考がまた同じとことに立ち戻ったタイミングで「クッ」と、押さえた笑い声が響いた。思わずそちらに顔を向けると、たまに「ド」とか「魔」とかがつく「迫力の美貌」の持ち主が、伊織を見つめる目とぶち当たった。
口元を手の甲で覆っている。どうやら、笑いを堪えているらしい。
「何?」
本人が隣にいることも忘れて、悠人のことを考えていたことを見抜かれているんじゃないかと、バツが悪い。伊織がぶっきらぼうに尋ねると、悠人は「伊織さんて、結構表情がクルクル変わるんすね」と、呟いた。
「え?」
「今も。何考えてたのか知らないですけど、『困った』から『納得の答え!』に行き着いて、『でも待てよ』って感じでした」
当たらずとも遠からずな悠人の観察眼に伊織は「人の表情を読まないでくれるか」と、釘を刺す。
「いい趣味じゃないぞ」
「役者なんて、それができて一人前でしょ」
「まぁ、確かに」
悠人の言葉に同意しながら、伊織はちらりと悠人を見る。当の悠人は、言葉通り「伊織は実は表情クルクル変わる」という発見を面白がっているだけに見えた。
だから伊織は、不思議な気持ちになる。というか、自分の記憶を疑い出す。あのキスは、本当だったのだろうか……と、思ってしまう。
「そろそろ六本木交差点ですけど、どの辺りで止めます?」
突然、運転手が割り込んでくる。途端に悠人は表情を整えて「もう、後は止めやすいところで」と、指示をした。
やっぱり悠人は、先に降りるらしい。
「この後、仕事かい?」
伊織が尋ねると「この時間から?流石にないですよ」と悠人は笑う。
「じゃあ、家が、この辺?」
そう言えば、悠人の自宅を知らないことに気づいて伊織が追求すると、悠人は一瞬、口ごもった。だから気づいてしまう。自宅の方向が一緒だから伊織をタクシーに同乗させたわけはなくて……、モブ1を巻くためだけに、悠人は2人で所用があるフリをして、そのままタクシーに乗って来てしまったのだと。もしかしたら、自宅は反対方向という可能性もあるかもしれない。
「家は、まぁ、近くはないですけど。ちょっと、用事があるんで」
その言い訳を、伊織は受け入れる。そうでなければ、また「なぜ?」を考えなければならない。それに、言い訳と気づかずに信じる素振りを見せた方が、悠人への牽制にもなるだろう。
僕は、何も気づいていない。君は、僕の自宅と君の行き先が近いから、モブ1を巻くのに手を貸してくれたんだろ。それぐらいの親切心を、僕は享受する。心優しい後輩の心遣いとして。
やがてタクシーは減速し、路肩に停車した。ドアが開くと、リュックを手にした悠人は、長い手足を不器用に折り曲げてタクシーを降りた。
そして、車内を覗き込む。
「支払い、お願いします」
「それが目的で、僕と同乗したな」
やんちゃな後輩を叱るようなテンションで伊織は言う。悠人はそれには答えず、もう一言、言添えた。
「それから、俺にはもう、嘘は通用しないと思って」
言い終わると同時に、悠人はタクシーから離れた。ドアはパタンと閉まり、思わず悠人を見上げた伊織を乗せて、車両はゆっくりと走り出す。
悠人の言った嘘が何か、わかる気がする。悠人がモブ1を巻くために打った芝居もタクシーに同乗したことも、伊織がただの後輩の心遣いで片付けようとしたことだ。その勢いで、昨日のキスも何もかもを、「なんだかよくわからない後輩の戯れ」として片付けようとしていることに気づいて、牽制してきたのは悠人の方なのだ。
車両の多さにノロノロと徐行するタクシーの中で、伊織は眉間に皺を寄せる。まだ、悠人は降車した場所で車を見送っている気がする。用事があるならさっさと離れてしまうだろうけど、きっとそれは、嘘だろうから。
「お客さん、西麻布は、どの辺に?」
「あ、近くなったら、案内します」
運転手の質問に答えた刹那、伊織は誘惑に耐えきれず、後ろを振り返った。数台先の歩道に、やっぱり長身のシルエットが見える。悠人はもう、見えるはずもない伊織を見つめている。そのことを知らしめるために立っている。
(これは、あれか……。僕に、考えろってことなのか……)
キスの意味も、今日のこの小芝居のことも、そして悠人のことも……。
(考えて、そして……?)
きっと悠人は、考えるだけでは許してくれない。その結論を求めてくる。YESはあり得ないとして、NOであっても、そのNOを言わせようとしてくる。伊織が、できる限り穏便にことを済ませたいタイプであることを知っていながら、拒絶ならば拒絶を求めてくる。
(僕は今年、天冲殺か何かなのか)
伊織は思わず、盛大なため息をついた。
「ま、そうだろな」
伊織が乗ったタクシーが光の海に紛れていくのを見送った悠人は、踵を返す。先ほど通り過ぎた自宅マンションに戻るために、反対側に渡ってタクシーを拾うのだ。
昨日と同じシチュエーションだからといって、今日も自宅に招かれるなんて期待はしていない。むしろ、昨日と同じシチュエーションだったら、絶対に警戒されると分かっていた。
それでも自宅を通り過ぎてここまで乗ってきたのは、多分、少しでも伊織と一緒にいたかったからだ。その数分間で何が変わるわけじゃないけれど、それでも伊織といたかった。伊織に、慣れて欲しかった。悠人が傍にいるという状況に、慣れて欲しかった。
「って言うのと、やっぱり、期待か……」
あわよくば、という、文字通りの期待。ないと分かっていても、それでも湧いてくる期待。
「聞きたいことがあるんだ」と言って、伊織がまた、自宅に招いてくれるのではないかと。あの成川伊織に限って、絶対にないことは分かっていて、それでも期待してしまうんだから、始末が悪い。
昨日、家に帰ってから、染谷との会話をノートに書き出した。
①アルバトールは皇后を愛していたか。
②アルバトールは人間だったか。
染谷は「君が今、22歳だろう?34歳の女性と、恋愛するか?」と尋ねた。思い出した途端に、相手は伊織になった。34歳の伊織と恋愛ができるか……。わからないと思う。恋愛というのが、お互いに想い合うということなら、伊織がどんな相手に恋をするのか、皆目見当もつかないから。
だけど、伊織に恋ができるかと尋ねられたら、答えは明快にYESだった。その答えを導き出して、悠人自身「参ったな」と感じた。
伊織の瞳に映りたいという願い、伊織の傍にいると高揚する気持ち。衝動的にキスをした。そのどれをとっても、恋愛感情故だと思う。辛うじて伊織相手に妄想を膨らませていないのは、相手が男性だからと言うより、伊織が尊敬する先輩でもあるからで……。背徳感というか罪悪感というか、兎にも角にも「汚せない」存在だからだ。
それすら感情が飛び越えたら、途端に自分の思考は、彼に襲いかかる気がする。
そんな気持ちに気づいた翌日の今日は、全身から焦りを滲ませた伊織の背中を見つけた。そんな背中は伊織らしくなさ過ぎて、抱きしめたくなった。悠人の目線から見える位置に、伊織の譜面が置いてあって幸いだ。それを渡す口実で、体温だけ味わえた。
そして帰りは、いてもたってもいられなくて伊織をモブ1から奪還。
「で、今に至る……と」
考え事をしながら歩いていたら、そのまま自宅マンションに着いてしまった。明日が休日だからいいものの、肉体を酷使ししすぎるのは考えものだ。
自宅についた悠人は、機械的に宅配を注文すると、ソファーに座ってバッグから台本とノートを取り出した。
「皇后の恋」は、皇后崩御のシーンから始まる。麗しく、優しく、思慮深い。そして一途に皇帝を愛した皇后の人柄が偲ばれる中、皇后が記した日記が発見され、そこからアルバトールという男との目眩く愛の日々が描かれる。
その内容が徐々に詳らかにされる間に、皇帝は打ちひしがれ、皇太子はショックを受けるとともに父を責める。
アルバトールはいたと証言する者、皇后の日常生活を思えば、こんな恋愛などあり得ないと証言する者。皇后はやはり一途に皇帝を思っていたと話す者。皇后の寂しさを憂う者。
人々の絶望の中で、アルバトールと皇后だけは幸福な愛の日々にいる。それが真実かどうかは、最後まで明かされることはない。
「むしろ、皇后がアルバトールを愛していたかの方が、疑問だな」
人々がアルバトールの存在にショックを受けるぐらいなのだから、皇后は描写の通り、麗しく、優しく、思慮深く、一途に皇帝を愛していたのだろう。そんな皇后が、一介の吟遊詩人ごときを愛するだろうか。傍に、慈しみ深く気高く、聡明で、これまた皇后を愛した皇帝がいたというのに。
『皇后は、本当にアルバトールを愛していたか』
『皇后は、本当に皇帝を愛していたか』
時代を考えると、皇帝と皇后は政略結婚の可能性が高い。相手がどんなに素晴らしい人であろうと、恋や愛に感情が高まらないこともあるだろう。尊敬と家族としての情しか皇帝には持てなかったとしたら、若い吟遊詩人の華やかさに惹かれることもあるかも知れない。
「……いや、なんか、そういう皇后のイメージはないな。少なくとも、若い華やかな男ってだけでは、落とせなさそう」
ペンをノートに打ち付けながら、悠人は呟く。そう、アルバトールがどんなに皇后を愛したとしても、皇后が愛するに見合う男でなければ2人が恋に落ちることは難しい。
「愛するに見合う男、か……」
34歳の皇后に対して、若さは武器になるのだろうか。それは幼稚さや、お粗末さと同義語ではないのだろうか。年若い男に甘い言葉で囁かれたら「小坊主がマセたこと言ってるわ」と、お笑い種になりはしないだろうか。
そこに、何を足せば、皇后の愛を勝ち得るだろう。少なくとも、歌声の美しさだけではない気がする。
答えの出ない思考に悠人が侵され始めた頃、ちょうど良くインターフォンが鳴った。宅配の弁当が到着したのだ。
「助かった」
空腹を感じて勢いよく飛び上がり、悠人は応対してオートロックを解錠する。ふと、伊織は今日も自炊だろうかと考えた。
伊織は今、何をしているだろう。悠人と同じ台本を片手に、やっぱり役のことを考えているだろうか。
(会いたい、伊織さん……)
思わず浮かんだ想いに、本格的に重症だと、悠人はため息を吐く。
さっき別れたばかりなのに、もう、会いたい。明後日には稽古で会えるはずなのに、それでも、今、会いたい。今、伊織が何をしているか知りたくて、できれば傍で見ていたい。
そんな思いを持つことも、あるんだろうか。
皇后も、伊織も……。
休み明けの稽古場では、悠人がエリカと鳳をナンパしたと、まことしやかな噂が流れている。
それもそのはずだ。稽古場に揃って顔を出した皇后2人を前にして「若い男ってどうすか?」と声をかけたんだから。
「モブイチの乱」に一つ功績があったとしたら、エリカと鳳が「女同士の陰湿なライバル関係」ではなく「共闘関係」になったことだろう。2人ともモブ1には怒り心頭だし、同じストレスを抱えている。その解消のためにカラオケに行って、仲良くなったそうだ。
「若い男、いいわよ。むしろ私、今の推しはほぼ年下。まぁ、キラキラしてるからね、若いと」と、答えたのは、エリカ。
「そうですねぇ。いつの頃からか、好みって変わりますよね。若い人の頼りないところが、可愛く見えたりとか」というのは、鳳の弁。
「え、じゃあ、好みの男が身近に現れたら、小路さんも、旦那さんに隠れて浮気します?」
そう重ねて尋ねた悠人は、さすがにエリカに台本で叩かれた。ちなみにエリカの夫は同年代の俳優であり、鳳は独身である。
「推しだって言ってるじゃない。推しは、推しているという行為が楽しいんであって、本当の接触なんて求めないものなのよ」
「それでも、もし、その推しが口説いてきたら?」
悠人が食い下がるので、エリカも想像してみる。最近の推しはデビューしたてのアイドルグループのキラキラな彼だ。年齢は19歳。そんな彼が、もし、自分を口説いてきたら……。
「うーん、無理」
「なんで?」
「そういう対象として見てないからかなぁ。っていうか、美しさを愛でてるだけだから、そういう生々しいのはちょっと、違うのよね」
エリカは眉間に皺を寄せながら理由を述べる。やはり推しに対する気持ちは恋愛感情ではない。仮に自分が彼と同じ10代だったとしても、彼には憧れるだけで恋愛対象は別だっただろう。
「じゃあ、その推しにどんな要素が加わったら、恋愛する気になります?」
「うーん、別に推しに何かが足りないってことではないから、要素を付け加える必要はないんだけど。目的が違うんだし……」
「でも、熱烈に押されちゃったら、分かりませんよ、小路さん」
鳳の言葉に、エリカも「そうかもねぇ」と頷く。
「そもそも推しにそういうイメージがないから、安心して推せてるわけで。その彼が、普段と違う男の顔を見せたら、ちょっと冷静でいられないんじゃないかしら」
「あ、それはちょっとそそられるかも!」
「私も最近、二次元の推しがいるんですけど……、アニメからゲームになったら、ちょっとキャラクターの性格がオラオラになって、いいんですよ〜」
「え、それ、なんてアニメ?気になる!」
悠人そっちのけで鳳がハマっているアニメの話に2人が興じ始めたのを感じて、悠人は床に座り込んでいた腰を上げた。皇后2人の意見は、参考になったようでなっていないようで……。
(少なくとも推しっていうのは恋愛対象とは違うらしい)
仮にアルバトールが吟遊詩人で美しい容姿と歌声で皇后の目に留まったとして、推し活の一環として皇后がアルバトールを呼び出すとする。よくわからないけど、サロンとかで他のご婦人達と一緒に、アルバトールの容姿と歌を楽しもうという趣向だろう。
仮にそこでアルバトールが皇后に惚れたとしても、皇后と2人で会うチャンスは絶対に巡ってこない。またサロンで歌を披露できる機会が訪れるかも怪しいものだ。
(だとすると、チャンスはそう多くない。あるいは、よく物語にあるようにアルバトールが皇后の寝室に忍んでいく……?でも、俺の中の皇后のイメージは、それで絆される感じでもないんだよな)
そろそろ、アルバトール=吟遊詩人説は無理があると諦めるべきかもしれない。染谷と話した時からイメージのズレは感じていたけれど、皇后の愛を獲得する男性の職業としては相応しくないという思いが強くなる。
(そうなると、例えば皇后の身の回りにいる男性たちはどうだろう。侍従とか、あるいは皇帝の側近なんかも、皇后と親しい間柄なんじゃないかな)
王族の間近に控える人間として、教養も申し分なさそうだ。話が弾んで、長い時間を共有することもありそうだし……。
稽古場の入り口近くの椅子に腰掛けた悠人は、なんとはなしに稽古場を見回した。そして、伊織の姿を捉えて、無意識に彼を探していたことに気づく。
モブ1は制作サイドに呼ばれて稽古場にはいないらしく、伊織は珍しく義樹と雑談しているようだ。いつになくリラックスした様子で、長テーブルにおいた腕の上にダラッと上半身を預けている。義樹が話している内容に、時々言葉を挟みながら笑っている姿が、なんだか綺麗に見える。
アルバトールも、こんなふうに皇帝との会話に興じる皇后の姿を垣間見ることがあっただろうか。その時、彼は何を感じただろう。嫉妬か、愛おしさか……。今の自分と同じように、伊織が自分の隣であんな笑顔を見せてくれたらと、願っただろうか。
そう思いながら、義樹ほど伊織をリラックスもさせてあげられない自分を知っているから、身動きできなくて、ただ、見つめるしかできない自分を不甲斐なく感じたことも……?
ここ数日で、伊織との距離を縮められたと思っている。同時に気持ちを押し付けるような行動もとっているから、警戒心を持たれているだろうと自覚している。
だけど、これまでみたいにモブみたいに扱われはしないだろうという、自信みたいなものも感じていた。
(アルバトール、お前ならどうする?)
仮にアルバトールが皇帝と皇后の表情を捉えられる距離にいる男だったとしたら、皇后と恋仲になった後も、こんなシーンにぶち当たることもあったかもしれない。
(ああ、だから……)
前回アルバトールを演じた立石は、全体的に悲壮感を漂わせていたのだ。自分に気持ちがあると分かっていても、公の場で認められた夫婦である2人の姿には抑えきれない嫉妬を感じただろうと、立石は思ったに違いない。
(俺は、どうする……?)
心に浮かんだ問いかけが、アルバトールの方向性なのか伊織に対するこれからなのかすら、悠人は分かっていなかった。
「悠人が皇后2人をナンパしたらしい」
コソコソっと囁いてきた義樹に、長机に突っ伏していた伊織は「なんだいそれ?」と顔を向けた。
「今、あっちで聞いてきた!どうやら『若い男はどうだ?』って売り込みかけているらしい」
「まさか」
突拍子もない義樹の報告に、伊織は苦笑する。
悠人のキャラからしてあり得ない。美貌と称される顔面に似合わず、真面目でちょっと地味な性格だ。これまで、カンパニーの内外を問わず、浮いた噂も悪い噂も聞いたこともない。もちろん、カンパニー以外の悠人の人間関係など知りはしないけれど、カンパニーでの仕事の取り組み方を見ていれば、外で浮つくこともないだろうと想像できる。
(それに彼は……)
不意に脳裏に過った考えを、伊織は慌てて押し留める。悠人はきっと、自分に想いを寄せている……なんて、伊織自身が認めるわけにはいかない。
「だよなぁ。役作りの参考意見でも聞いてるのかな。若いってだけで需要がありそうだけど……。10以上上の俺への当てつけか?」
義樹がブツブツと呟くのに、伊織は「そうかもね」と、頷くに留めた。
「この間、染谷さんが悠人に個人レッスンしててさ。それからなんか、迷い出しているみたいで、歌い方が定まってないんだよな。本番までに立て直せればいいけど」
「染谷先生が?」
「そ。あの先生のことだから、なんかいい影響を与えたんだろうと予想できて、俺はちょっと不愉快なわけ」
「なるほどね」
伊織自身、学生時代には染谷にずいぶん相談に乗ってもらった。役柄の解釈や、それをどう歌に生かしていくかということ。考えを深めれば深めるほど迷いは生じるけれど、答えが出れば自分の気持ちを歌に乗せやすくなる。その導き方で言えば、自身も役者として活動する染谷は、本当にいい影響を及ぼす。
「かといって、今の俺が『染谷先生、教えてください』ってわけにはいかない」
「聞けばいいじゃないか」
「ばーか。自分でそれができてこそのプロだろうがよ」
義樹のいうこともわかる。いちいち恩師に教えを乞うていては、自分自身の成長につながらない。
「もしかして、アルバトールの解釈に違和感でも出てきた?」
長い間同じ役をやっていると、そういうこともある。伊織が尋ねると「そういう訳ではないんだが……」と、義樹は首を振った。
「それはないけど、悠人がどんなアルバトールをぶつけて来るかは、恐怖だな」
「だろうね」
「『だろうね』って、お前もだろうが。悠人の絡み方一つで、お前の役にも影響が出るんだぞ」
「それこそ、それを受け止めてすり合わせできてこそ、プロでしょ」
伊織はそういうと、体を起こしかけた。だけど、また、長机においた腕に顔を押し付ける。
いつの間にか稽古場の斜向かいに座っていた悠人が、こちらを見ているのに気付いたからだ。体を起こしたら、悠人の視線とかち合いそうで……。
「そう言えば、お前、悠人となんか仕事するの?」
「え?」
「昨日、悠人がわざわざお前を迎えにきて、一緒に帰ったから。2人でコンサートでもやるのかって、話題になってた」
「いや、そういうんじゃないよ。多分、僕が松本くんに絡まれていたから、助け舟を出してくれたんだと思う。悠人くんの行き先が、僕んちの近所だったみたいで」
「ふーん」
納得したように頷いた義樹が、今度は「なんで悠人が、お前を助けるわけ?」と追求してくる。
「あまりにも松本くんが、ウザいから?」
「なんで疑問系なんだよ。カンパニーの人間関係にほぼ無関心な悠人がわざわざ動いてるんだぞ?それ相応の理由があるんじゃないかって、気にならないのか。例えば、悠人自身が松本とトラブってるとかで、伊織のことも気にしてるとか、あるかもしれないじゃないか」
「うん……、そうだね」
間違った当て推量をしている義樹に、伊織は曖昧に頷く。
だって、なんて聞けばいい?答えは分かっているのに……。分かっていて、わからないフリで誤魔化して、それすら悠人に見破られているのに……。
(それでも君は、僕を見てるのか……)
悠人の視線に気づいて、その視線に気づいていることを誤魔化して、義樹と他愛もない会話をしてい誤魔化している。そんな伊織に悠人が気づいているかは知らない。
でも、悠人は見ている、伊織のことを……。
周りに知られぬほどの密やかさで……。
稽古場に戻ってきたモブ1は、いつもより幾分テンションが落ちていた。流石に製作側からキツいことを言われたのだろう。伊織の周りもウロつかず、出番まで大人しく床に座っている。
演出家が入ると、立ち稽古が始まった。皇后は鳳、アルバトールは悠人、皇帝は伊織の座組だ。人が変わってもセリフや大まかな動きは変わらないから、誰と誰が組んでも稽古は成立する。
オープニングの皇后の葬儀のシーンは、速やかに進行した。皇后の日記が発見され、皇帝が中身に目を通す。その瞬間の皇帝の悲痛な気持ちを、伊織は難なく歌い上げた。皇太子役の役者も、愛する母の不義を知り動揺する姿を上手く演じた。
やがて皇后の日記に記された目眩く愛の日々が始まる。悠人の歌は音程こそ外さないものの、やはり迷いを感じさせた。鳳が助け舟を出すようにハモリの部分をリードする。だけど、悠人の歌は持ち直さない。
いつ演出家から「待った」がかかるかと、伊織はハラハラしながら見守った。悠人がここまでの迷いを見せると、染谷の指導云々以前に、何か、自分の態度が彼に影響しているのではないかと不安になる。
だが、演出家は何も言わなかった。そのまま場面は進み、例の長閑な村のシーンに差しかかった。
2人きりの逃避行。明るい日差しの中で寄り添える喜びをアルバトールと皇后が歌う。皇后が小川に足をつけて「冷たい」とはしゃぐ姿に、アルバトールは「この瞬間の愛は永遠」と歌い上げるのだ。
義樹のアルバトールは、ひたすら自信に溢れて朗らかに歌う。立石はまるで、永遠でないことを知っているかのように悲しさを滲ませていた。
悠人の歌は、2人でいるこの瞬間も、まるで皇后の愛を乞うているかのようだ。そう感じたのは、伊織だけではなかったらしい。演出家が視線を上げて悠人を見た。
その瞬間、モブ1が登場した。伊織や製作陣に言い含められたことが功を奏したのか、彼は2人の真ん前には立たなかったが、子供のようにはしゃぐ皇后の愛らしい歌も悠人の直向きさを感じさせる歌もかき消す勢いで、この景色の美しさを朗々と歌った。
「待った!」
途端に音楽が止まる。演出家は溜め息をつくと「ここは2人の幸福感の後押しをするフレーズだと、何度も言ったと思うけど。2人の歌に調和するような歌であって欲しいんだ」と、忍耐強く説明する。
「そのためにも、この歌い方がいいと……」
モブ1が演出家に反論する。そして、上手側にいる伊織に同意を求めるような視線を向けてきた。その視線を辿って、稽古場中の視線が伊織に集中する。
この場を納めるために、伊織がどう動くか、皆が見定めようとしている。けして増長させたわけではないが、伊織がモブ1を甘やかしたというのは、この場の総意だろう。伊織としては、ひたすら稽古場の雰囲気を悪くするまいという思いからの行動だったけれど、その結果がこれでは、伊織に事態を収集させる責任があると思われるのも仕方がない。
時々、こういうことは起こる。ある意味とばっちりだけれど、それでも伊織が取った行動の結果だから……。
こと、ここに至っては、モブ1を押さえ込むしかない。伊織はモブ1を理解していると誤解しているみたいだから、彼にとっては晴天の霹靂かもしれない。下手したら、恨まれるかもしれないけれど……。
伊織が「指導不足でした」と頭を下げようした瞬間、中央から悠人の声が上がった。
「俺の歌も不完全で……、すみませんでした!」
稽古場中が呆気に取られて、頭を下げた悠人に視線を戻す。演出家も虚をつかれた様子で押し黙ったが、頭を下げたままの悠人に脱力した。
「迷っているね」
「はい」
顔を上げた悠人が、頷く。演出家は悠人の顔をじっと見つめた後、「せめて稽古の時は、一本に絞りなさい」と言う。それに対しても悠人は「はい」と頷く。
「今後も同じことがあったら、君の責任だ」
演出家の言葉に、伊織はハッとした。この場で伊織に謝罪させなかったことで、モブ1は未だに自分の何が悪いのか分かっていないだろう。その事態を招いた悠人に、責任を取れと言っているのだ。
「ちょっ!」
伊織が前に進み出ようとしたのを、皇太子役の役者が押さえた。その間に悠人は「はい」と頷いてしまう。
「じゃあ、次のシーンから」
演出家の言葉で、稽古は進んでいく。
それ以降の稽古で、自分がちゃんと皇帝を演じられていたか、伊織は覚えていない。
悠人がアルバトールとして稽古を受けている間、別の部屋で発声を行なっていた義樹は、「ちょっと大変!」とレッスン室に飛び込んできたエリカからあらましを聞いて、「マジで?」と驚愕した。
「なんで悠人が!」
「わからないけど……、さっき稽古が終わって、悠人くん、控室に戻ったみたい」
「分かった。ありがと、知らせてくれて」
エリカと別れて、義樹は控室に向かう。悠人が何故モブ1を庇うのか、皆目見当もつかない。
左に曲がれば控室というT字路で、全力で疾走する伊織を見つけた。義樹など目に入らない様子で、目の前を駆け抜けていく。
その姿を見て、悠人が庇ったのは伊織の方かと、合点が入った。
ただ、理由はやっぱりわからない。
どうせなら伊織と一緒に理由を聞こうと追いかけた義樹は、ドアに手をかけた。途端に「どうしてあんなことした!」と、おおよそ成川伊織とは思えない怒声が聞こえてきて、義樹は思わず、ドアから一歩、後ずさってしまった。
「どうしてあんなことした!」
悠人に掴みかからんばかりになって伊織が怒鳴った時、悠人はちょっと笑った。だから伊織は、やっ気になって「笑ってる場合か」と、詰め寄ってしまう。
「伊織さんが好きだから」
不意に悠人が口にしたから……。伊織は思わず次の言葉を失った。
「でも、伊織さんに嫌な思いをしてほしくないって言うより、俺がそういう伊織さんを見たくなかっただけだから、気にしないで」
「気にするに、決まってるだろ……」
言葉の勢いを削がれてしまう。思わず俯いた伊織は、次の瞬間、悠人の腕の中に囲われていた。
「ちょっ!何するっ……」
抗ったけれど、ガッチリした悠人の腕から抜け出すのは難しそうだ。
「ご褒美ってことで、1分、抱きしめさせて」
「ほめてないよっ!」
「じゃあ、お礼ってことで、1分」
実際、感謝はしている。伊織は諦めのため息を吐くと、暴れるのをやめた。伊織がおとなしくなると、悠人も腕の力を抜く。
そっと頭を引き寄せられて、伊織は悠人の肩に額を預けた。
「白川さん、怒ってました?」
悠人の穏やかな声が頭上から降ってくる。
「笑ってたよ」
伊織の口調はぶっきらぼうになった。稽古終わりに演出の白川のところに改めて謝罪にいくと、白川は「悠人は面白いな」と笑っていた。
「反抗されたくせに、変なオヤジだなぁ……」
悠人の感想に、伊織は眉間に皺を寄せる。
「演出家をオヤジ呼ばわりしない!それに、白川さんだからこそ許してくれたんだよ。プライドの高い方だったら、どうなっていたことか」
「例えば?」
「反抗した途端に、即刻クビだってあり得るんだから」
「そんな演出家だったら、松本はもうクビになってるでしょ」
「ああ言えばこう言うんだから……」
呆れて、伊織は頭を起こす。頬に、悠人の唇が触れるのを感じた。そのまま、また、伊織の頭は引き戻される。
1分なんてとうに過ぎている。それを分かっているのに、伊織はまた額を悠人の肩に預けた。
自分の気持ちが、よくわからない。
「松本くんのこと、どうする?」
責任はもう、伊織から悠人に移ってしまっている。伊織が尋ねても「どうしようかなぁ」と、悠人ははぐらかす。
「なんなら、やっぱり、僕が」
「伊織さんは、奴を甘やかすからダメっす」
「僕だって、甘やかしてるわけじゃ!」
顔を上げて伊織が反論すると、悠人の唇が迫ってきた。理性のどこかで、受け止めてはいけないと、信号が点滅する。咄嗟に伊織が顔を背けると、それにも気づかなかったような穏やかさで、また悠人の唇が頬に触れた。
(あ……)
愛しむみたいな口付けに、伊織の心がキリッと軋む。その軋みが、伊織を本当に覚醒させた。
「もう1分、経ったろ」
そう言って悠人を押しやると、さして抵抗もせず悠人は離れる。あまりにもあっさりしていて、伊織が肩透かしを食ったと感じてしまうぐらい、悠人は静かに離れていった。
「本当に、どうするんだ。松本くんのこと」
沈黙が怖くて、伊織は話を振り返す。
「タイマンすかねぇ」
「……真面目に!」
「はい」
悠人の返事は、笑いを含んでいる。そして壁の時計を見上げると、「そろそろ再開ですね」と呟いた。
「じゃ、俺、先に行くんで」
「……うん」
頷いた伊織の肩を叩きかけて、悠人はそれを堪える。それは何か、相応しくない気がしたから。だからそのまま、伊織の傍を通り過ぎた。
(役者やってて良かったぁっ!)
正直、余裕の態度は演技だ。伊織を抱きしめると決めた瞬間、指先が病気かと思うぐらい震えて、焦った。
このドアから外に出たら、その場にしゃがみ込みたいぐらい緊張している。伊織がすぐに出てくるだろうから、それはできないけれど。
そんなことを考えながらドアを開けて一歩外に出た悠人は、その場にしゃがみ込めない理由を、もう一つ見つけた。
義樹が、壁にもたれて立っている。そのなんとも言えない表情で、会話が丸聞こえだったのは明白だ。
悠人が廊下に出て歩き出すと、義樹は心得たもので無言で着いてきた。
そして、控室から十分に距離をとったところで「イマノ、ナニ?」と、片言で尋ねてくる。ミュージカル界の貴公子も、想定外の事態にテンパっているようだ。
「だから、松本をどうするかって、話……」
「いやいや、違うだろ!違うよな?いや、そうかもしれないけど、もっと他に、あるよな?」
「盗み聞きしてたんでしょ。お察しの通りすよ」
「それがわからないから、聞いてんだろうが」
ヒソヒソ声で義樹が食い下がる。悠人は、稽古場の前でピタリと足を止めた。
「義樹さん」
いつになく真剣な声で、悠人が義樹を呼ぶ。そして、真っ直ぐ前を向いたまま、告げた。
「伊織さんに、余計なこと言ったら、許さないから」
悠人の声が、最初から最後まで真剣なものだから、義樹は思わず、聞いてしまった。
「本気、なのか?」
不意に、悠人が肩越しに義樹を振り返る。その見返り方があまりに綺麗だったから、義樹は思わず息を呑んだ。
「俺ごときが、冗談で伊織さんに近づけると思う?」
そう言い残して、悠人は稽古場に戻っていく。
(本気ってこと?っていうか、いつから?なんで?っていうか、あいつ、あんな顔、もってたのか?)
悠人がどうやら伊織を好きらしいという青天の霹靂と同時に、義樹に危機感がせり上がる。
大人の男の顔だと感じた。これまでの公演でも、この稽古期間中でも、一度も見たことのない悠人の表情。この年頃の男は、ちょっとした出来事で大きく変化する。悠人が、あんな表情を身につけるように、変わっていく……。
(これは、本当にウカウカしてられない)
まだ、歌に迷いが見える悠人。アルバトールを掴みきれていないことは明白だけど、彼が芯を定めた時、自分を超えるアルバトールを生み出すんじゃないかと、義樹は恐怖した。
稽古場に戻った悠人は、製作スタッフの星井を見つけて話しかけた。
「星井さん、ちょっと聞いてもいいですか」
「何?」
「松本さんて、結局、制作側ではどういう扱いになってます?」
悠人の質問に、星井は「ああ」と頷いてから「ごめんね」と謝ってきた。
「こっちでなんとかしなきゃならない事なのに、伊織さんに任せっぱなしにした上に、君まで巻き込んで」
「あ、いえ。余計なことしたのは、俺なんで」
星井は腕を組むと、思案げな表情を浮かべる。
「考えられるオプションは、3つかなぁ。彼が反省して変わるか、誰かにこき下ろされて自ら降りるか、クビか」
「こき下ろされたぐらいで、降ります?」
「わかんない。もう、現時点で謎だよ、彼」
どうしようもないという表情で、星井は首を振った。
「白川さんはああ言ってたけど、君が何かする必要はないよ。だいたい彼、君より10ぐらい年上だろ?手に余るって」
「でも、降りない上に、クビにしたら問題になるってなら、反省してもらうしかないですよね。事務所の人とか、ついて来ないんですか?」
「最初の頃来てたけど、最近はさっぱりだな。期待されてないのか、肩身が狭いのか。マネージャーさんも、結構言ってくれたみたいなんだけどね」
「そうですか。松本さん、役者歴長いですよね。これまでも、作品はだいぶこなしてるって」
「そう聞いてはいるけど……。「皇后の恋」が人気作品だから、爪痕残そうとしてから回っている感じなのかも」
「いずれにしても、君に責任はないから」と言って、星井は製作スタッフたちのテーブルに戻っていった。
悠人は腑に落ちない気分になる。他の現場でもこの調子だったら、オーディションにすら呼ばれなくなるはずだ。さっき星井が言った説もあり得そうだが、それだけではない気がする。
(松本が、自らを顧みる方法……)
考えて。悠人は、一つ思いついた。
稽古が終わると、伊織はそそくさと控室に戻った。荷物を取ったら、即、帰ろう。そんな気合いをにじませて。
今日は、悠人に乗せられて抱きしめられて。稽古中は忘れていられたけれど、これで帰りも「行きますよ」なんてタクシーに乗せられてしまっては、どんな顔をしたらいいかわかったもんじゃない。
それに、モブ1の奇襲も怖い。
荷物と一緒にコートも持ち、羽織る暇も惜しんで控室を出ようとした瞬間。ドアが開いて、悠人が顔を覗かせた。
「伊織さん」
「な、何?」
ギクリとして立ち止まった伊織に、「今日は松本、追いかけて来ないんで、落ち着いて帰ってもらって大丈夫です」と、悠人が言う。
「な、んで?」
悠人が何か言い聞かせたのだろうか。伊織が尋ねると、悠人は肩をすくめた。
「若手で居残り練習するんです」
「へぇ」
意外な答えだったが、伊織は頷く。
悠人は「じゃ、また明日」と言い残すと、軽快な足音を立てて廊下を走っていった。
「若手で、居残り、ねぇ……」
確かに稽古場に残って練習をしてから帰る人はいる。だけど、皆それぞれ家庭や仕事があるから、大勢で残ってというのは珍しい。伊織はこの後用事もないし、居残ろうと思えば居残れるが、「若手で」と言われると、帰るしかない。と、いうか、練習なら自宅の防音室でできる。
「っていうか、松本くんだって、若手じゃないだろう。僕と4つ5つしか違わないじゃないか」
独り言を呟いて、伊織はバックをテーブルに置くと改めてコートを羽織った。
エレベーターに向かう途中で、稽古場の前を行き過ぎる。扉は閉じられていたが、中から楽しげな声が聞こえてきた。
「青春だね」
自分にはあまりなかった時間だ。たくさんの仲間と居残り練習の思い出なんて、学生時代まで遡らないと思い出せない。その学生時代もプロとして活動をしていたから、自分が悠人のいう「若手」を経験したかも定かではない。
エレベーターが到着すると、中から義樹が降りてきた。
「お疲れ。お先に」
挨拶をして伊織が乗り込もうとしたら、「伊織」と、義樹に呼び止められた。
「何?」
振り向いて尋ねると、義樹は何かを言い淀んでいる風だったが、「やっぱり、いいや」と言って「お疲れ」と去って行こうとした。
「何?なんだよ!」
伊織が呼び止めても、後ろ手に手を振って去っていく。
「なんだろう」
エレベーターに乗り込みながら、伊織は呟く。だけど、エレベーターが1Fに着く頃には、そんな義樹のことも忘れていた。
守衛さんに挨拶をして、裏口から外に出る。稽古場に入った時より、肌寒くなってた。
稽古場から路地をいくと、大通りに出る。帰るには、遅くも早くもない時間だった。だけど、誰かを呼び出して食事をするには遅い時間だ。それに今、わざわざ呼び出して会いたい相手も思いつかない。
なんとなく人の流れに乗って、歩道を歩く。みんな、前や下を向いて歩いていたり、隣を歩く人の顔を見ていたりで、伊織に目を向ける人はいない。
(悠人くんは、見られたりするのかな)
ドラマや映画にも出演しているのだから、世の中の人に知られているんだろう。熱烈なファンもいるのかもしれない。
なのに、こともあろうに悠人は、何故か自分のことを好きらしい。抱きしめることを「ご褒美」という程度には……。
温かかった、悠人の腕の中は。額を預けた肩も、頬を掠めた唇も。そう言えば、顔をあげた時、また、キスされそうに……。
(何を思い出してるんだ!)
伊織は無意識に歩調を上げる。きゅっと唇を噛み締めて、前をしっかり見て歩き出した。
風がコートの中に吹き込んできて、寒さが強くなる。(ああ、寒いからだ)と、伊織は理由づけた。悠人の抱擁を思い出したのは、その体温の温かさを思い出したのは、今、寒くて、そして自分が1人だからだ。
わざわざ会いたい人も、話したい人もいないけれど。
もし今、悠人が「帰りましょう」と言ったら、ついていくかもしれない。
食事ぐらいなら……、だけど……。




