第五章 幕間
これは京介が長い昏睡状態から目を覚ます、ほんの少し前の出来事。
草薙家の広大な屋敷の一室。
そこには見るからに高級な医療設備が整えられていた。京介の腕には点滴が繋がれ、身に纏うのは上質な生地で仕立てられた入院着。
そして彼が寝ているのは、まるで高級ホテルのスイートルームにあるような、ふかふかとした弾力性のあるベッドだった。
しかし、その身体的な快適さとは裏腹に、京介の意識は今、まったく別の場所を漂っていた。
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真っ暗な空間。
いや、「暗い」という表現すら正確ではないかもしれない。光も闇も、上も下も、全てが曖昧に溶け合った、境界のない世界。
京介の意識はその中に浮かんでいた。
ここが何処なのか——
わからない。
いつからここにいるのか——
わからない。
何故自分がここにいるのか——
それもすらもわからない。
思考はまるで霧の中を手探りで進むように、ぼんやりとしていて輪郭がはっきりしない。
記憶も感覚も、掴もうとすればするほど煙のように指の間からすり抜けていく。
だが不思議なことに、恐怖はなかった。
むしろそこには、言葉にできない安心感があった。どこか懐かしく、暖かく、体はふわふわと浮遊しているような感覚。
まるで母親の胎内で、羊水に包まれているような——そんな原初的な安らぎが、京介の意識を優しく包み込んでいた。
時間の感覚もない。ただ漂っている。
それだけで十分だった。
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「そろそろ起きないとだよ、寝坊助さん」
突然、声が聞こえた。
小さな女の子の声だ。子供特有の甲高い、透き通るような声色。
しかし何故だろう——その声には、幼さに似合わない不思議な落ち着きが感じられた。まるで、長い長い時を生きてきた者だけが持つような、深い静けさが声の奥底に潜んでいるようだった。
京介は答えようとしたが、声が出ない。いや、そもそも自分に口があるのかどうかも定かではなかった。
「ほらほら、待ってくれてる人がいるよ」
再び、その声。今度は少しだけ近くから聞こえた気がした。
——僕を待ってる人?
ぼんやりとした意識の中で、京介は考えようとする。
——誰だろう。おばあちゃん?おじいちゃん?それとも劉?
顔が浮かんでは消える。温かい記憶の断片。
——あと、あと…
もう一人。確かに、もう一人誰かいた気がする。
とても大切な誰か。
でもどうにも頭がはっきりしない。靄がかかったように、その人の姿が見えてこない。
それよりも——
——お前は誰なんだ?
声は聞こえる。確かに聞こえている。
でも姿が見えない。
この暗闇の中、いったいどこにいるのだろう。
「もー、仕方ないなー」
その声には、困ったような、でもどこか楽しそうな響きがあった。まるで頑固な弟を起こす姉のような、そんな親しみのある口調。
——え?
次の瞬間、京介は驚いた。
暗闇の中から、突然、小さな手が伸びてきたのだ。そしてその手が、京介の手を——いや、手と呼べるかどうかも曖昧な、意識だけの存在である京介の何かを——ぎゅっと掴んだ。
丸みのある、子供特有の柔らかな手。
ぷにぷにとした、温かな感触。それは確かに実在する手の感触だった。
引っ張られる。
優しく、でも確かな力で、前へ前へと導かれる。
「ほら、あっちだよ」
少女の声がして、何かを指さす気配がした。
京介は——もはや京介と呼べるのかも分からない、この意識の塊は——その方向へ視線を向けた。
そこには——
真っ黒だったはずの空間の中に、いつの間にか、まばゆい光の大玉ができていた。
それは太陽のように、いや太陽以上に明るく、しかし不思議と目を痛めることのない、柔らかな光。温かく、優しく、まるで京介を呼んでいるかのように輝いていた。
——あれは?
言葉にならない疑問が浮かぶ。
京介は思わず振り向いた。手を引いてくれている相手を、声の主を、この不思議な少女を見たくて。
光のおかげで——
あの大きな光球が放つ柔らかな光のおかげで、今まで見えなかったものが、うっすらと見えるようになっていた。
そこに立っていたのは、一人の少女だった。
小さな、かなり幼い少女。
ふわりとした髪が、光の中で淡く輝いている。その表情は優しく、どこか懐かしく、
そして——
微笑んでいた。
満面の、本当に幸せそうな笑顔で、少女は京介を見つめていた。
そしてその唇が動く。
「じゃあね、いってらっしゃい——お兄ちゃん」
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この話で第五章が完結となります。
次回からは第六章「日常編」をお届けします。
次章が最終章となります。
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