第五章 十三話 『おはよう』
月夜と京介が昏睡状態に入ってから3日後の朝。冬の静寂が支配する部屋の中で、わずかな変化があった。
天音のまぶたが、かすかに動いた。
「……ん……」
小さな呻き声が、静かな部屋に響いた。
「天音!」
月夜が即座に顔を近づけた。
3日間ほとんど眠らずに妹を見守り続けた結果、目の下には深いクマができている。
それでも、その瞳は希望の光で輝いていた。
天音はゆっくりと目を開けた。焦点の定まらない視線が、ぼんやりと天井を見つめ、やがて隣にいる月夜の顔を捉える。
「……お姉ちゃん……?」
かすれた声。長い眠りから覚めたばかりの、弱々しい声だった。喉が乾いているのか、言葉を紡ぐのにも苦労しているようだ。
「そうだよ、天音。わかる? 」
月夜は妹の手を取りながら、慎重に問いかけた。優しく、しかし確認するように。
「……ここ、どこ……?」
天音は弱々しい声で尋ねた。視線がゆっくりと部屋の中を巡る。見慣れない天井、見慣れない家具、見慣れない窓のカーテン。
自分がどこにいるのか理解できず、不安が徐々に表情に浮かんでいった。
「美香さんのお宅、草薙家よ。あの後、八田君と天音が倒れちゃって……それで、保護してもらったの……」
月夜ができるだけ穏やかに、ゆっくりと説明した。すると、天音の表情がみるみる曇っていった。記憶が少しずつ蘇ってくるのだろう。あの日の出来事が、断片的に頭に浮かび上がってくる。美香の顔、京介の顔、そして――自分がしでかした事。
「……そっか……私……あの時……」
「大丈夫、もう大丈夫だから」
月夜は天音の手をぎゅっと握った。
温かい。
生きている、生命の温もり。
3日前、氷のように冷たくなっていた妹の手が、今はこうして温かい。血が通い、脈が打っている。それだけで、月夜は涙が出そうになった。何度も何度も、この手が冷たくなるのではないかと怖くて、確かめずにはいられなかった3日間だった。
「……ごめんね、心配かけて」
天音の目に、涙が滲んだ。
月夜の顔を見ていると、自分がどれだけ姉を苦しめたのかが伝わってくる。
「謝らなくていいの。無事でよかった。それだけで充分なの」
月夜は優しく微笑んだ。その笑顔には、安堵と喜びが混ざり合っていた。
天音はゆっくりと身体を起こした。まだ少しふらつくが、動けないほどではない。筋肉が固まっているような感覚があるものの、なんとか座ることができた。
窓の外を見ると、穏やかな朝の光が差し込んでいた。冬の朝特有の、澄んだ空気を感じさせる光だ。
しばらく沈黙が続いた。
天音は膝の上で拳を握りしめていた。爪が手のひらに食い込むほど、強く。
やがて、天音が震える声で口を開いた。
「……私、あの人たちに……ひどいこと言った。あんな失礼な事したのに……」
月夜は何も言わず、ただ天音の言葉を待った。急かさず、遮らず、ただ妹が自分の言葉を見つけるのを見守った。
「美香さん……京介君……みんな、私を助けようとしてくれたのに……」
涙が頬を伝って落ちた。温かい涙。それは後悔と、そして何か別の感情が混ざり合った涙だった。
「私、拒絶して……傷つけて…あんなに酷いこと……」
声が詰まる。あの時の情景が、鮮明に蘇ってくる。
美香の困惑した表情、京介の悲しそうな目。
優しさを拒絶し、善意を踏みにじった自分。
すべてが心に突き刺さった。
涙が頬を伝って落ちた。一粒、また一粒と、止めどなく溢れてくる。
「天音……」
月夜が優しく名前を呼ぶ。
「どうしよう……どう謝ったら……どんな顔して会えばいいの……」
声が詰まる。天音は顔を覆って泣き始めた。肩が小刻みに震えている。
月夜は天音を優しく抱きしめた。
「大丈夫。みんな、わかってくれてるよ」
「でも……」
「私ね、二人に話したの。両親のこと、組織に連れて行かれた事。そしたらね、なんて言ったと思う?」
天音が顔を上げる。涙で濡れた顔で、月夜を見つめた。
月夜は少し目を細めて、あの時の美香の言葉を思い出した。
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「はい。今の天音は、自分の力を……どうにもできていません。私が天音を守れなかったせいで……もっと強ければ、あんな風に——」
月夜の声が震えた。自分を責める言葉が、次々と溢れ出そうになる。
「違う」
美香がきっぱりと遮った。
「悪いのはあなたじゃない。悪いのは、子どもを売った親と……子どもを兵器にした連中よ。あなたは、ただ妹を守ろうとした。それ以上でも、それ以下でもない」
月夜は息を呑んだまま言葉を失った。美香の言葉は、優しくも力強く、月夜の心に響いた。
「それにね」
美香はそっと月夜の肩に手を置いた。温かい手のひらが、凍えた心にじんわりと染み込む。まるで春の日差しのように。
「今度は守れる。今度こそ、天音さんを助け出せばいい。そのために私たちがいるんでしょう? 一人じゃない。今度は、みんなで行こう」
美香の声には、確かな決意が込められていた。それは単なる同情や憐れみではなく、本当に天音を救いたいという強い意志だった。
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「なんて、まるで自分のことのように苦しそうに言ったのよ?」
月夜はおかしいでしょ、と嬉しそうに言った。その表情には、美香という人への深い信頼が浮かんでいた。
「会ったばかりの私たちのために、あんなに真剣に考えてくれて。八田君も同じだった。天音のことを、本当に心配してくれてた」
天音は目を見開いた。信じられないという表情で。
「もう一度、あの人たちに会いに行こう」
月夜の声は穏やかだが、確信に満ちていた。
「ちゃんと話そう。お礼も言おう。それで、天音の気持ちも伝えよう。謝りたいって、ちゃんと伝えよう」
天音は月夜の胸で、しばらく泣き続けた。温かい涙が、止まらなかった。
やがて、涙が収まった頃。
天音は顔を上げ、赤く腫れた目で月夜を見つめた。
「……うん」
小さく、しかし決意を込めて頷いた。
「会いに行く。ちゃんと、話す。ちゃんと、謝る」
月夜は満面の笑みで頷き返した。
「ん、いい子」
そう言って、月夜は天音の頭を優しく撫でた。まるで幼い頃のように。
窓の外では、冬の朝日がゆっくりと昇り始めていた。長い夜が明け、新しい朝が訪れようとしていた。
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コンコンとノックの音。
「……八田君、入るわね」
美香が静かに扉を開け、部屋に入った。
手には果物の盛られた籠を持っている。
リンゴ、ミカン、バナナ。
病人の栄養補給に良いものを選んできた。
ベッドの上で、京介は静かに眠り続けていた。穏やかな寝顔。時折、小さく寝息を立てている。美香はこの三日間、何度もこの部屋を訪れた。
まるで眠り姫を見守る騎士のように。
「……本当に、無茶するんだから」
独り言のよう慈しむようにに呟く。
「あんな状態の天音さんを助けるために、自分まで倒れちゃうなんて……でも……ありがとう。あなたがいてくれて、本当に助かった」
「本当に……ありがとう」
その時――
京介のまぶたが、ゆっくりと開いた。
「……ん……」
「あ……」
美香は思わず身を乗り出した。
京介は天井を見つめ、それから視線を動かして美香を捉えた。
「……草薙……?」
かすれた声。
「おはよう、八田君」
美香は安堵の笑みを浮かべた。
「……ここは……?」
「私の実家よ。あの後、三日間眠ってたの」
「三日……」
京介はゆっくりと身体を起こした。
美香が慌てて支える。
「無理しないで」
「……ありがとう」
京介は頭を振り、意識を覚醒させようとした。
「天音は……? 月夜は?」
「天音さんは今朝、目を覚ましたわ。月夜さんが付き添ってる。二人とも無事よ」
「……そっか……よかった……」
京介は心底安堵したように息を吐いた。
美香は立ち上がり、窓を開けた。
爽やかな風が部屋に流れ込む。
「……草薙」
「なに?」
「僕……結局、あまり役に立てなかった」
京介は自嘲気味に笑った。
「そんなことないわ」
美香は振り返り、真剣な表情で言った。
「八田君がいなかったら、天音さんを助けられなかった。月夜さんも、私も、みんな八田君を頼りにしてたのよ」
「……」
「だから……お帰り、八田君」
美香は優しく微笑んだ。
京介は少し照れくさそうに笑い返した。
「……ただいま、草薙」
二人の間に、穏やかな空気が流れた。
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廊下に、二つの小さな影が立っていた。
月夜と天音。
二人は、京介の部屋の扉の前で立ち止まっていた。
「……お姉ちゃん、やっぱり怖い」
天音が震える声で言った。
「大丈夫だよ。一緒だから」
月夜は天音の手を握った。
「……うん」
天音は深呼吸をした。
そして、勇気を振り絞って、扉をノックした。
コンコン。
「はい、どうぞ」
中から美香の声が聞こえた。
扉がゆっくりと開く。
部屋の中では、京介がベッドに腰掛けりんごをモグモグし、美香が椅子に座っていた。
二人の視線が、扉の前の姉妹に向けられる。
「……あの……」
天音が震える声で口を開いた。
月夜が優しく天音の背中を押した。
「……私……」
天音は一歩、部屋の中に踏み込んだ。
そして――
深く、深く頭を下げた。
「……本当に……ごめんなさい……」
涙声だった。
「そして……ありがとうございました……」
静寂が部屋を満たした。
やがて、京介が優しく笑った。
「謝らなくていいよ」
美香も微笑んだ。
「本当に。無事でよかった」
天音は顔を上げた。涙で濡れた顔に、笑顔が浮かんでいた。
月夜も一緒に部屋に入り、四人は穏やかな時間を過ごし始めた。




