第五章 十二話 『傲慢お嬢様とバリアの少年』Ⅱ
閉じ込められて三日目の朝。
美香は目覚まし時計を見た。
午前6時50分。もうすぐ朝食の時間だ。
窓の外はすでに明るく、蝉の声が賑やかに響いている。きっと今日も暑い一日になるのだろう。近所の公園では、子供たちがラジオ体操に集まっているはずだ。
美香は少し羨ましくなった。自分もあの輪の中に入りたい。でも、今はそれよりも脱走だ。
「……今日こそ」
美香は小さく呟いた。ベッドから起き上がり、パジャマのままストレッチを始める。
短い手足をめいっぱい伸ばす。
過去二日間、何度も脱走を試みたが、すべて失敗に終わっていた。使用人たちも警戒を強めている。
でも、今日は違う。
美香には新しい作戦があった。
それは、「油断を誘う」こと。
これまでは、ドアが開いた瞬間に飛び出していた。
だから、使用人たちも身構えていた。
でも今日は、まず油断させる。そして、一番警戒が緩んだ瞬間に動く。
午前7時ちょうど。コンコンとノックの音。
「美香お嬢様、朝食をお持ちしました」
いつもの使用人の声。美香はその声を聞いて、相手の感情を探った。少しの緊張と、警戒心。やはり、今日も脱走を警戒している。
美香はベッドの上で答えた。
「……どうぞ」
わざと眠そうな、力のない声で。演技だ。
扉が開き、二人の使用人が入ってくる。
一人が銀のトレイを持ち、もう一人が警戒するように後ろに立っている。美香は二人の感情を読み取った。前の使用人は安心しつつある。後ろの使用人はまだ少し警戒している。
「おはようございます、お嬢様」
「おはよう……」
美香は大きなあくびをした。
寝起きを装うのだ。パジャマ姿のまま、髪も乱れたままで、眠そうに目を擦る。わざとふらふらとベッドから降りて、テーブルへ向かう振りをする。
使用人たちが少しだけ警戒を緩めた。
今朝の美香は、いつもより大人しそうに見える。
もしかしたら、三日間の閉じ込めが効果を発揮し始めたのかもしれない。
そんな期待が、使用人たちの心に芽生え始めていた。テーブルに朝食が並べられる。
焼きたてのトースト、スクランブルエッグ、新鮮なサラダ、そしてオレンジジュース。
香ばしい匂いが部屋に広がる。美香のお腹が鳴りそうになったが、ぐっと我慢した。
「ごゆっくりどうぞ」
使用人が扉の方へ向かう。
もう一人も続く。二人とも、背中を向けた。
その瞬間——
美香が動いた。
ベッドから飛び降りる。
裸足のまま、全速力で扉へ。計算通りだ。使用人たちが油断した、まさにこの瞬間。
「お嬢様!」
使用人が振り返るが、美香は能力を発動させていた。周囲の感情——驚き、焦り、困惑——それらを読み取り、エネルギーに変換する。
体が軽くなる。反応速度が上がる。
世界がゆっくりと動いているように感じられる。
美香は二人の使用人の間をすり抜けた。
まるで風のように。
「お待ちください!」
廊下に飛び出す。
右か左か——美香は一瞬で判断した。
右の廊下には別の使用人の気配がある。左なら、しばらくは誰もいない。左の階段を駆け下りる。
「美香お嬢様!」
後ろから追いかけてくる足音。でも、美香は止まらない。階段を三段飛ばしで駆け下りる。
危ない、と頭の片隅では思ったが、今はそんなこと気にしていられない。
一階に降り、玄関へ。
「お嬢様、お待ちください!」
執事の如月の声が響く。
如月は玄関の方から走ってくる。
でも、美香はすでに玄関を飛び出していた。
如月の驚きの感情が、美香の背中に当たる。
夏の朝の空気が、美香の顔に当たる。
むっとする暑さの中にも、わずかな爽やかさが残っている。朝露が芝生に光っている。
「やった……!」
美香は思わず笑顔になった。成功だ。
ついに脱走に成功した。
そして、走った。広大な敷地を抜け、門へ。
庭の木々が左右に流れていく。噴水の水音が聞こえる。鳥のさえずりが聞こえる。
全てが新鮮で、美香の心を高揚させた。
幸い、門は開いていた。朝の通勤のために開けられていたのだろう。門番が驚いた顔でこちらを見ているが、美香は構わず駆け抜けた。
美香は迷わず外へ飛び出した。
「お嬢様——!」
遠くから如月の声が聞こえる。
でも、もう捕まらない。
美香は自由だ。
美香は住宅街を走り抜けた。
裸足だったが、気にしなかった。
自由の感覚が、すべてを上回っていた。
アスファルトの熱さも、小石の痛さも、今の美香には気にならなかった。
早朝の街は静かだった。たまに通勤する大人や、ラジオ体操に向かう子供たちとすれ違う。美香は彼らの間を縫うように走った。
「あの子、裸足だよ」という声が聞こえたが、振り返らなかった。
朝日が建物の間から差し込み、美香の影を長く伸ばす。空気はまだ涼しく、走るには心地よかった。でも、すぐに暑くなるだろう。
夏の朝は、あっという間に灼熱に変わる。
でも、すぐに問題が生じた。
「……どっちだろう」
美香は立ち止まった。知らない場所に来てしまったのだ。見渡せば、似たような家が立ち並んでいる。どの道も同じように見える。
屋敷から出ることばかり考えていて、どこに行くかは考えていなかった。周りを見回すが、見覚えのある景色はない。
いつも車で移動していたから、歩いてこの辺りに来たことがなかった。
「まあ、いいか」
美香は適当な方向に歩き始めた。とにかく、屋敷から遠く離れることが大事だ。
捕まらないように。でも、次第に不安が芽生え始めた。本当に、このままで大丈夫だろうか。
気づけば、美香は森の中にいた。
住宅街を抜け、公園を通り過ぎ、気づいたら木々に囲まれた場所に入り込んでいた。
小さな森というか、雑木林のような場所だ。
木漏れ日が地面に斑点を作り、虫の声が聞こえる。
「……あれ?」
美香は周りを見回した。
どこから来たのか、どっちに行けば戻れるのか、分からなくなっていた。木々はどれも似たように見える。道も、どれが本当の道なのか判別できない。
「……迷子?」
まさか、と美香は首を振った。でも、どう見ても迷子だった。お嬢様の美香が、迷子になるなんて。こんなことは初めてだった。
木漏れ日が美香の足元に斑点を作っている。
蝉の声がさらに大きく聞こえる。鳥のさえずりも聞こえる。風が木々を揺らし、葉擦れの音がする。
「どうしよう……」
美香は少し不安になってきた。お腹も空いてきた。朝食を食べずに飛び出したから。喉も渇いてきた。裸足の足も、少し痛くなってきた。
その時、前方から声が聞こえた。
「えい! ふん!ぬー!」
子供の声だ。
誰かがいる。美香は安堵した。
道を聞けるかもしれない。
美香は声のする方へ歩いて行った。
木々の間を抜けると、小さな空き地があった。そこに、一人の男の子がいた。
年齢は美香と同じか少し下のように感じた。
少し寝癖のある黒髪に、大きな目。
紺色の半袖、茶色の短パンを着ている。
小柄な男の子だった。
彼はまるで何かの修行をしているようだった。
両手を前に突き出し、集中した表情で何かを唱えている。
「バリア……展、開……!」
男の子の周りに、薄い光の膜のようなものが現れた。透明に近いが、わずかにキラキラと輝いている。
まるでシャボン玉のような、不思議な光。
「すごい……」
美香は思わず声を出した。
能力者だ。
自分以外の能力者を見るのは初めてだった。
男の子が驚いて振り向いた。
バリアがすぐに消える。まるで泡が弾けるように、音もなく消えた。
「だ、誰だ?!」
男の子は警戒した表情で美香を見た。
「それ、あなたも能力者なの? 名前は?」
美香は興奮して詰め寄った。
自分と同じ能力者には初めて会った。
こんな偶然があるなんて。
「お、俺は……八田京介」
京介は緊張した様子でだが胸張って堂々と答えた。
見知らぬ女の子が突然現れたのだから、無理もない。しかも、美香はパジャマ姿で裸足だった。どう見ても普通の状況ではない。
(変な子だ)
「京介くんって言うのね。今、バリアって言ってた? 能力者なの?」
「え、う、うん……最近、使えるようになって……」
京介は恥ずかしそうに答えた。
まだ完全にはコントロールできない。時々、勝手に消えてしまう。
「へえー! すごいじゃない!」
美香は目を輝かせた。同じ能力者だ。そして、自分より年下だ。
ということは——
「私もね、能力者なの! 他人の感情を読み取れるのよ!」
「感情を読み取る?」
京介は驚いた顔をした。
「本当よ! ねえ、今どんな気持ち?」
美香は能力を使った。
京介の感情が流れ込んでくる——驚き、緊張、そして少しの好奇心。
「えっとね、驚いてて、緊張してて、でもちょっと興味持ってるでしょ?」
「す、すごい……!」
美香は得意げに胸を張った。
風になびく髪を軽く払いながら、まるで何かを成し遂げた達成感に満ちた表情で京介を見下ろす。
「でしょ? 私、もう結構使いこなせるのよ。
京介くんは能力に目覚めたばかりなんでしょ?」
美香の声には自信が満ちていた。
「あ、ああ……一週間くらい前に……」
京介は気まずそうに視線を逸らした。
自分のバリアはまだ不安定で、さっきも美香の攻撃を防ぎきれずに揺らいでいた。
その差を突きつけられたようで、少し恥ずかしかった。
「じゃあ、私が先輩ね!」
美香はにっこりと笑った。
まるで花が開くような、無邪気で屈託のない笑顔だった。その笑顔には子供っぽさと、どこか高貴な雰囲気が混在していて、京介は思わず見とれてしまった。
「え、先輩……?」
京介は困惑した表情を浮かべた。
年齢は自分より上のように見えるけれど、何の先輩なのだろう。っと
「能力者としての先輩よ! 分からないことがあったら、何でも聞いて!」
美香は偉そうに腕を組み、胸を張った。実際、能力の使用歴では美香の方が圧倒的に長い。三ヶ月前に覚醒してから、ほぼ毎日のように能力を使っていた。
京介はつい最近目覚めたばかりだから、まだバリアを出すのも不安定なのだろう。
美香は自分の成長速度の速さに、密かな誇りを感じていた。
「あ、ありがとう……」
京介は戸惑いながらも、素直に礼を言った。その純朴な反応が、美香には新鮮だった。
屋敷で出会う大人たちは、いつも畏まって接してくる。同年代の子供と話す機会なんて、ほとんどなかったのだ。
美香は満足そうに頷いた。
先輩風を吹かせるのは気分が良い。こんな風に誰かを導く立場になるなんて、初めての経験だった。
その時——
ぐるるるる〜〜〜
美香のお腹が盛大に鳴った。
森の静寂を破るその音は、想像以上に大きく響いた。小鳥たちが驚いて飛び立つほどだ。
「……」
美香の顔が見る見るうちに真っ赤になった。
耳まで熱くなるのが分かる。さっきまでの得意げな表情は跡形もなく消え去り、今にも地面に穴を掘って埋まりたい気分だった。
「……お腹空いてるの?」
京介が心配そうに、しかしどこか微笑ましそうな表情で尋ねる。その優しい声が、美香の羞恥心をさらに刺激した。
「う、うん……朝ごはん食べてなくて……」
美香は恥ずかしそうに、小さな声で答えた。
実は昨夜の夕食も、ほとんど食べていなかった。屋敷から抜け出す計画に夢中で、食事どころではなかったのだ。
そして今朝は、明け方に目を覚ますとすぐ、誰にも気づかれないうちに屋敷を飛び出してしまった。
「そ、そうなんだ……」
京介は困った顔をした。
自分も何か持っているわけではない。おばあちゃんの作ってくれた朝ごはんは、とっくに消化されてしまっていた。
「ねえ、近くにお店とかない?」
美香が期待を込めた目で尋ねると、京介は少し考え込んだ。この辺りの地理は、彼の方がよく知っているはずだ。
「えっと……この森を抜けたところに、コンビニがあるけど」
京介は森の出口の方を指差した。
「コンビニ! 初めてだわ! 行きましょ!」
美香の目が輝いた。コンビニエンスストア——テレビや本でしか見たことがない、庶民の日常的な店。草薙家の令嬢である美香にとって、それは未知の世界への入り口のようなものだった。
「え、でも……俺、もう帰らないとおばあちゃんに叱られ……」
京介は遠慮がちに、視線を泳がせながら言った。見知らぬ女の子——しかも、どう見ても普通じゃない雰囲気の——についていくのは、やはり不安だった。
それに、おばあちゃんとの約束の時間も近づいている。
「大丈夫よ! すぐだから! ね、お願い!」
美香は京介の両手を掴んだ。
その手は驚くほど柔らかく、でも力強かった。
美香の大きな瞳が、懇願するように京介を見つめる。
「わっ!」
京介は驚いた。
こんなに近くで女の子の顔を見るのは初めてで、心臓が急に速く打ち始めた。
美香の肌は陶器のように白く、睫毛が長い。
高貴な雰囲気を纏っているのに、今は子供のように無邪気な笑顔を浮かべている。
「ほら、行くわよ!」
「ちょ、ちょっと……!」
美香の力強い引っ張りに、京介は抗えなかった。
こうして、二人は森を抜けてコンビニへ向かうことになった。
森を抜けると、すぐに住宅街に出た。
整然と並ぶ家々、舗装された道路、電柱と電線。美香にとっては、それらすべてが新鮮な光景だった。草薙家の広大な敷地とは全く違う、密集した人々の生活空間。
そして、その角に——
「あった!」
美香は嬉しそうに声を上げ、駆け出した。
裸足のまま走る美香の後ろ姿を見て、京介は慌てて「あ、危ないぞ!」と声をかけたが、美香はもう止まらなかった。
京介は仕方なく、息を切らせながらついていく。
自動ドアが音もなく開き、涼しい空気が二人を包み込んだ。
エアコンの効いた店内は、夏の暑さに晒されていた体には天国のように心地よかった。美香は思わず「わあ……」と感嘆の声を漏らした。
「いらっしゃいませー」
店員の無気力な、マニュアル通りの声が響く。カウンターの向こうでは、若い男性店員がスマートフォンを見ながら退屈そうにしていた。
美香は店内を見回した。
きらきらと光る蛍光灯の下に、色とりどりの商品が整然と並んでいる。おにぎり、パン、お弁当、サンドイッチ……屋敷で見る高級な食材とは違う、庶民的でカラフルなパッケージの食べ物たち。
その全てが、美香には宝物のように見えた。
「どれにしようかな〜」
美香は悩み始めた。おにぎりコーナーの前で立ち止まり、一つ一つを手に取っては眺める。梅、鮭、ツナマヨ、明太子……種類の多さに目を輝かせた。次にパンコーナーへ移動し、サンドイッチコーナーへと進む。
まるで美術館を見て回るように、丁寧に商品を眺めていく。
京介は入口近くで立っていた。両手を前で組み、そわそわとした様子で美香を見守っている。時計を気にするように、何度も窓の外を見た。早く帰りたいという気持ちが、その表情から明らかだった。
「京介くんも何か選びなさいよ」
美香は振り返って、にっこりと笑いかけた。
「え、いや、俺は……」
京介は遠慮がちに手を振った。お小遣いは限られているし、もうすぐ帰らなければならない。
「いいから、いいから!」
美香は京介の手首を掴み、商品棚の前まで引っ張った。その力強さに、京介は驚いた。見た目は華奢なのに、意外と力がある。
「う、うん……」
京介は仕方なく、一番安そうなおにぎりを一つ手に取った。ツナマヨおにぎり、108円。値札を確認してから、そっとカゴに入れる。
「私はこれと、これと……あ、これも!」
美香は次々と商品を手に取った。手が小さいのに、器用に何個も抱えている。
おにぎり二つ——鮭と梅——、それから卵サンドイッチ、そしてデザートに大きなプリン。さらに冷蔵庫を開けて、オレンジジュースのペットボトルを取り出した。
両腕いっぱいに商品を抱えて、満足そうに笑っている。
「た、たくさん……」
京介は目を丸くした。
その量は、明らかに子供が一人で食べる量を超えている。
「お腹空いてるんだもん!」
美香は得意げに言った。
そして、少し照れくさそうに付け加える。
「それに、こんなに好きなものを選べるなんて、初めてなの」
その言葉の意味を、京介は完全には理解できなかった。
でも、美香が本当に楽しそうにしているのは分かった。
そして、二人はレジへと向かった。
美香が商品を次々とカウンターに置いていく。プラスチックの音が軽快に響く。店員が面倒くさそうにスマートフォンをポケットにしまい、商品をスキャンし始めた。
ピッ、ピッ、ピッ——
機械音が規則正しく響く。
「えー、合計で……985円になります」
店員が無表情に告げた。
美香はにっこりと笑って——
そして、固まった。
笑顔のまま、完全に動きを止めた。まるで時間が止まったかのように。
「……あれ?」
美香は自分の体を確認し始めた。パジャマ——薄いピンク色の、可愛らしい柄のパジャマ。そして裸足。汚れた足の裏。
ポケット、なし。
お財布、なし。
お金——
なし。
「……」
美香の顔が見る見るうちに青ざめていった。
血の気が引くというのは、こういうことを言うのだろう。さっきまでの高揚感が、一気に消え去った。
「お、お客様?」
店員が不思議そうに、そして少し警戒した様子で美香を見ている。怪しい客だと思われているのは明らかだった。
「あの……お金……」
美香は小さな声で、消え入りそうに言った。喉が渇いて、声がうまく出ない。
「え?」
店員が眉をひそめた。
「お金、持ってない……」
「はあ?」
店員の声が冷たくなった。
呆れたような、軽蔑したような表情で美香を見下ろす。「お金持ってないのに、商品選んだんですか?」
美香は焦った。どうしよう。お金がない。
でも、お腹は空いている。そして何より、この恥ずかしさに耐えられない。屋敷では考えられないような状況だった。
「ちょ、ちょっと待って! お金、絶対あるはず! どこかに!」
美香は必死にパジャマのあちこちを探し始めた。胸元、袖口、裾——でも、もちろん何も出てこない。そもそも、このパジャマにポケットはないのだ。
「お客様、お金がないなら買えませんよ」
店員が冷たく、事務的に言った。まるで何度も同じような客を見てきたかのような、慣れた対応だった。
「い、いや! 待って! 私、草薙家の……!」
美香は必死に訴えた。
草薙の名前を出せば、何とかなるはず。
いつもそうだった。
「はいはい、草薙さんね。で、お金は?」
店員は全く信じていない様子だった。
むしろ、馬鹿にしたような笑みを浮かべている。パジャマ姿で裸足の少女が、名家の令嬢だなんて信じられるはずがなかった。
美香の目に、じわりと涙が浮かんできた。
お腹が空いているのに、お金がない。
そして、信じてもらえない。
屋敷では当然のように扱われていた「草薙」という名前が、ここでは何の意味も持たない。初めて味わう、無力感。挫折感。
こんなことは、人生で初めてだった。
今まで、欲しいものは何でも手に入った。
お金のことなんて、考えたこともなかった。
執事や使用人が全て用意してくれて、自分は選ぶだけでよかった。
「いやー! 欲しいのー!」
美香は思わず、子供のように駄々をこね始めた。カウンターを両手で叩き、涙声で訴える。自分でも、みっともないと分かっていた。
でも、どうすればいいのか分からなかった。
「お客様、困ります。他のお客様の迷惑になりますので……」
店員が困惑した表情を浮かべる。そして、奥に向かって「店長ー!」と呼びかけた。
京介も困っていた。どうすればいいのか分からない。美香を助けたい気持ちはある。
でも、どうやって?
「はぁ……じゃあ……」
京介はズボンのポケットから小さなバリバリ財布を取り出した。
茶色く色褪せた、子供用の小さな財布。
中には、おばあちゃんからもらった今月のお小遣いが入っている。
「え……?」
美香は涙目で、京介を見上げた。
濡れた睫毛がきらきらと光っている。
「これで……足りるかな……」
京介は財布を開き、中身を確認した。
手が震えている。500円玉が一つ、100円玉が三つ、10円玉が五つ。
丁寧に数えて——合計850円。
「う!た、足りない……」
京介の顔が曇った。135円足りない。その事実が、重く心にのしかかる。
「あー、もう!」
美香は悔しそうに叫んだ。
拳を握りしめ、唇を噛む。涙がこぼれそうになるのを、必死にこらえていた。




