二部 三話 内気な少女 前編
恒例になりつつある、土曜日のヒーロークラブ活動が終わったあと。
草薙美香は屋敷に戻り、制服を脱いでリラックスできる服に着替えると、リビングに向かった。
窓の外では、庭の手入れを終えた執事・如月が、作業用のグローブを外してゆっくりと室内へ入ってくる。
彼は美香が物心ついたころから草薙家に仕えている、古株の一人だ。
その口ぶりや仕草からは、使用人という立場以上に、美香の成長を見守ってきた“家族に近い何か”の気配も感じられる。
「お帰りなさいませ、お嬢様。今回の活動はいかがでしたか?」
「今回は上場だったわ。でも、やってみて気づけたこともある。困っている人って、そう簡単には見つからないのよね」
美香は疲れを感じさせる笑みを浮かべながら、椅子に腰を下ろす。
如月はよく冷えたアイスティーをテーブルに置いた。最近は日差しが強く、涼しい飲み物が特にありがたく感じる季節だ。
「それが自然かと。人は、自分の弱みを簡単には口に出しません。特に、見ず知らずの他人には」
「……だからこそ、誰かが気づいてあげなきゃいけないのよね」
そう呟きながら、美香はアイスティーのグラスを両手で包む。そしてふと、思い出したように顔を上げる。
「ねえ、如月。あなたの息子さんに探偵してた人、いたわよね?」
「ええ。末の息子が、若い頃にそういう“お遊び”に熱中しておりましたね。今ではそれすらやめて……定職にも就かず、ふらふらと……。――失礼いたしました、お嬢様。このような愚痴のような話を」
「いいのよ。むしろちょうどよかったわ」
美香はにやりと笑う。
「その“浮浪息子”に、ヒーロー活動を手伝ってもらいたいの。連絡、取れそう?」
「それはそれは……あれを使っていただけるのなら、いかようにでも。もし粗相をいたしましたら、この如月までお知らせください」
「ありがとう、如月」
こうして本人不在のまま、話は着々と進んでいった。
***
学校のお昼休み。
特進クラスに所属する杉原劉は、授業を終えたタイミングで、クラスメイトの新田匠に声をかけられた。
新田匠は、背が高く、整った顔立ちをした男子だった。無造作に流した黒髪と、いつも眠そうな目元が印象的で、一見するとやる気のないようにも見えるが、成績は学年トップを争うほどで、教師からの信頼も厚い。
話しかけるときの口調もどこか軽く、冗談めかした調子で場の空気を和ませるのがうまいタイプだ。
京介流に言えば、“陽の者”というやつだ。
「なあ杉原。この前、駅前で見かけたんだけど……なんかヒーロー活動してるんだって?」
「え? ああ……うん。相談ごとなら、一応聞くけど」
劉は一瞬、構えた。からかいや皮肉かと思ったのだ。
普通、「僕、ヒーロー活動してるんだ」なんて言えば、子ども扱いされるのがオチだ。
だが、新田の表情は真剣だった。
「妹が最近さ、スマホばっか見ててさ。なんかずっとそわそわしてるんだよ。会話してても上の空っていうか……」
「直接聞いたら?」
「聞いたよ。でも『なんでもない』って。……でも、あいつ、昔からそうなんだ。強がって、何でも一人で抱え込むタイプでさ」
少し困ったように、照れたように、匠は言葉を続ける。
「……だから、あんたらみたいな外部の人に話せるなら、それが一番いいんじゃないかと思って」
「……わかった。一度、事務所に来てもらえるかな。今週の土曜、午後なら時間あると思う」
「助かるよ。ちゃんと話してみる」
***
土曜日。いつものようにヒーロークラブの活動日に、兄妹がやってきた。
匠の中学一年の妹・新田静は、兄とは対照的に、小柄で華奢な愛らしい印象の少女だった。肩までの黒髪は整ったストレートで、前髪が目にかかるほど長い。制服のスカートの裾を指先でそっと握りしめ、落ち着かない様子で兄の隣にぴったりとくっついて座っている。
目元は兄に似ているが、どこか怯えたような伏し目がちのまなざしが、その幼さと人見知りの性格を物語っていた。声をかけられても、びくっと肩を揺らすほど緊張しており、部屋の中の雰囲気を探るように、時おり小さく視線を動かすだけ。
「無理に話さなくてもいい。でも、何か困ってることがあるなら、少しだけでも教えてくれない?」
美香が優しく声をかける。
少しの沈黙のあと、静がポツリと話し始めた。
「……学校で、誰かに写真を撮られてる気がして。シャッター音とか、視線とか……。最近は外でも感じるようになって……でも証拠がなくて。友達にも話したけど、みんな『気のせいだよ』って……」
静はおびえながらそう答えた。
「盗撮、かもしれないってことね?」
京介が眉をひそめる。美香も表情を曇らせてうなずいた。
「それは怖いわね。それに証拠がないのは、厄介ね……」
「放課後に現場を見に行ってみましょう。もしかしたら何か分かるかもしれない」
美香はそう提案する。
しかし、京介たちは高校生。そう簡単に部外者が中学校に入り、調査できる立場ではない。
「とりあえず、静ちゃんの護衛をしましょう」
***
「遅いわよ、矢田君」
「これでも授業終わったら急いできたんだよ」
次の月曜の放課後。美香と京介は妹が通う中学の近くで張り込みをした。
劉と匠は学校で授業を受けている真っ最中だろう
静が無事家に着くまで遠くから見守り、不審な人がいないか見張る
通学路を中心に、周囲の様子を観察する。
静が家についても、特に怪しい人物の姿は見えない。
それらしい動きも、音もない。
これだと京介たちのほうがストーカーだ
「それらしい奴はいないな……」
「やっぱり、素人の目じゃ見つけるのは無理なのかもね…せめて学校にいるときに護衛出来たら
いいのだけど。」
夕方の風が少しだけ涼しさを運んでくる中、美香が京介にぽつりと漏らす。
「……こういうのって、やっぱり私たちだけじゃ手に負えないのかもしれない。素人の目じゃ事件は探せない」
京介が無言で頷いた。
「じゃあ、どうするつもりだ?」
少し考えてから、美香は肩をすくめ、苦笑いを浮かべた。
「――やっぱり、“探偵”が必要ね。私、推理なんてできないもの」
どこか、頼ることを悔しがるようなその声に、京介は視線を向けた。
だが、何も言わずにうなずく。それが今の、最善の答えだった。
「で…探偵って、連絡取れたのか?もう1週間くらいたったが」
京介は、そう思わずにはいられなかった。現実は、そんなにうまく回らないはずだ。けれど、美香は静かに笑った。
「手配はしているのだけど、…ちょっとごねてるみたいだけど」
「……え?」
「ちょっと変わった人だけど、優秀よ。私が言えば動いてくれると思う」