第五章 十一話 休息と看病
京介と天音が倒れてから、二日が過ぎていた。
あの恐ろしい屋敷から脱出した直後、ボロボロになったカフェの個室で二人は力尽きるように意識を失った。京介は『結界』の過剰使用による反動。
天音はケガレに取り憑かれたことによる衰弱。
どちらも命に別状はないと医師は告げたが、意識が戻る気配はなかった。
美香は即座に判断を下した。
「二人とも、うちで預かるわ」
その言葉に、月夜は思わず顔を上げた。
「で、でも……」
「遠慮しないで。信用できる専属医を呼ぶから、ちゃんと診てもらいましょう」
美香の声は優しくも、有無を言わせぬ強さがあった。月夜はその温かさに、思わず涙ぐみそうになるのを堪えた。
こうして京介と天音は草薙家の客室に運び込まれた。
隣り合わせの二部屋はどちらも広々としていて、清潔で、まるで高級ホテルのスイートルームのような設備が整っていた。柔らかな間接照明が部屋を包み、窓からは手入れの行き届いた庭園が見える。
専属医の診断結果は「急激な体力の低下による一時的な昏睡状態」。明確な後遺症や臓器への異常はなく、十分な休養と点滴で時間が経てば回復すると告げられた。ただし、いつ目を覚ますかは本人の回復力次第だという。
月夜は天音の枕元に付きっきりで、昼夜を問わず看病を続けた。冷たいタオルを何度も交換し、包帯の巻かれた小さな手を握りながら、天音が目を覚ますその瞬間を、ずっと待ち続けていた。
妹の寝顔は穏やかで、まるで深い眠りについているだけのようにも見える。それでも月夜は祈り続けた。
どうか、無事に目を覚ましてと。
ーーーー
余白探偵社のメンバーも、美香の招待で草薙家に滞在することになった。
目の前に広がるのは、まるで美術館のような広大なリビングルーム。天井は高く、シャンデリアが煌めき、壁には本物の絵画が飾られている。大理石の床は磨き上げられ、重厚なソファセットが配置されている。
「お邪魔しまーす……って、うわぁ」
大和と静も、目を丸くして辺りを見回している。
大和は「これ、テレビで見るお金持ちの家だ」と呟き、静は緊張した面持ちで姿勢を正していた。
「あの、本当にいいんですか? こんな立派なお家に……」
千代が恐縮した様子で美香に尋ねた。普段は気丈な彼女も、さすがにこの豪邸を前にしては気後れしているようだった。
「もちろんよ。部屋はいくらでもあるから、ゆっくりしていってちょうだい」
美香は笑顔で答えた。
「でも、やっぱり申し訳が……」
「遠慮なんてしないで。それに……」
美香は後ろに目線を移した。
「まったく、年甲斐もなく何をしているのやら」
低く渋い声が割り込んだ。後ろには、執事服をきちんと着込んだ老紳士――如月源一郎が立っていた。
背筋は伸び、白髪が整えられたその姿は、まさに完璧な執事の体現だった。
「千代」
「げっ……なんでいんのよ、アンタ」
千代の表情が一瞬で険しくなる。
「自分の勤務先にいて何が悪い。草薙家から”カフェのオーナーを任された”と聞けば安心したものだが……お前、フライパン片手に暴れていたらしいな? いつまでレディースの総長気分なんだ?」
源一郎の言葉には呆れと心配が混ざっていた。
「うっさい! お嬢のピンチだったから動いただけでしょ!」
千代は頬を膨らませて反論する。その姿は、かつてのレディース総長というより、拗ねた妹のようだった。
会って三秒で口論を始める二人。
大和と静があわあわしている。
大和は「あの、落ち着いて……」と止めに入ろうとするが、二人の迫力に押されて言葉が出ない。
だが、その光景を見慣れている美香は「はいはい、通常運転ね」といった顔をするだけだった。むしろ微笑ましそうに見守っている。
源一郎は「まったく」と肩をすくめつつ、次の標的を探すように周囲を見回す。
「ところで、透はどこに行った?」
「透さんなら、杉原君と一緒に八田君のご実家へ説明に行ってるわ。さすがに連続欠席は学校から連絡が行くもの。事情を話さないと混乱するしね」
美香が答えると、源一郎はふっと表情を引き締めた。
「なるほど。そういうことでしたか。……お嬢様の判断はいつも的確でございます」
執事としての態度に戻った源一郎の隣で、千代は半眼で「何その切り替え」とでも言いたげにジト目を向ける。源一郎の豹変ぶりは今に始まったことではないが、やはり毎回納得がいかないらしい。
「でも、劉君も酷い怪我でしたが大丈夫でしょうか」
千代が心配そうに尋ねる。外傷だけ見れば、医者が顔を顰めるほど劉の傷は重かった。肩から腕にかけての裂傷、肋骨のひび、全身に広がる無数の打撲。
普通なら動ける状態ではない――はずなのに、当の本人はなぜかいつも通り元気だった。それどころか「大丈夫です、このくらい」と笑っていたという。
「うーん、私も心配だったんだけど杉原君が説明に行くのが一番手取り早いのよね。透さんも初対面らしいし、私もご挨拶したかったんだけどね」
美香は残念そうに呟く。
本当は自分も同行したかったのだが、二人の看病があるため屋敷を離れるわけにはいかなかった。
「お嬢様はお疲れでしょう。夕食まで少しお部屋で休まれては?」
源一郎の言葉に配慮がにじむ。
「私は大丈夫よ……少し八田君の様子を見てくるわね。大和君と静ちゃんをお願い」
「かしこまりました」
源一郎は深々と一礼した。
ーーーー
大きなベッドの上に、点滴が繋がれた入院着姿の京介が寝ていた。ちなみに入院着は以前美香の両親が検査入院する際に特注した高級品だ。
京介が生涯着る服の値段を合わせても足元に及ばないだろう。それほどまでに上質な生地で仕立てられている。
「八田君……」
美香は小さく呟いた。
京介が倒れた時は肝が冷えた。
何せ手が氷のように冷たかったのだ。あの時の感触を思い出すだけで、今でも胸が締め付けられる。
考えてみれば当然なのだ。自分たち能力者は、何故かこういった怪異と相性がすこぶる悪い。
おそらく能力と当人の精神性がリンクしているからだと美香は考えている。美香の正義感、京介の防衛本能、天音の誰かに伝えたい声……透はまた別枠なのだが。
ともかくケガレはそういった心に干渉してくるのだ。精神の奥底に潜む感情や願望を餌に、能力者の力を喰らい、歪め、利用する。
そして、京介は結界ごと飲み込まれ、あまつさえ利用され、エネルギーを消費し続けた。
その後も屋敷の中でめいっぱい結界を使用していた。美香の能力が感情をエネルギーにするなら、京介や天音のエネルギー源は?
「生命力……」
美香は歯を食いしばりながら呟いた。
なにが絶対守るだ。守られているのは私じゃないか。
自分は何もできなかった。
ただ、京介と天音が命を削って戦っているのを見ているだけだった。その無力感が、美香の心を苛む。
しかし草薙美香は諦めない。
次に私は何ができる。改善点を探せ。
できることを増やせ。二人を守る術を考えろ。
決して諦めない。それは彼女の美しい精神性であり、同時に彼女の恐ろしい一面でもある。一度決めたことは、どんな困難があろうとも貫き通す。
その執念は時に周囲を驚かせ、時に自分自身をも追い詰める。
「美香さん」
「あ、月夜さん」
いつの間にか部屋に入っていた月夜に、美香はいつもの笑顔で答える。
「八田さんの容態はいかがですか?」
月夜は心配そうに聞く。その声には疲労が滲んでいた。
「問題ないわよ。まだ目覚めてないけど、お医者様の話だと体力が回復したら目を覚ますって」
「そう、ですか。よかったです」
月夜はほっと息をついた。
「それに……うん、ちゃんと暖かい」
美香は京介の手に触れる。その手は意外にも美香よりも大きくしっかりしていて、とても暖かかった。生命の温もりがそこにある。それだけで、美香は安心できた。
「月夜さん、あまり寝れてないでしょう? 天音さんの看病は私に任せて少し休んで?」
美香が優しく声をかける。
「……それは貴女でしょう。あの日から『一睡もしてない』じゃないですか」
月夜の言葉に、美香は一瞬だけ驚いた表情を見せた。
「バレちゃった?」
美香は舌を出してあざとく笑った。
「……能力ですか? あまり、良い使い方とは思えませんが」
月夜は口ごもりながら話す。
おそらく気まずいのだろう。こうなったのは自分たちが巻き込んだのが原因だと考えているのだろう。その責任感が、月夜の心を重くしている。
しかし、それでも美香を止めようとするのは彼女の優しさからだろう。
「このくらいどうってことないわ。それに心配で寝れなくて、こっちの方がちょうどいいの」
美香は本心から言った。眠れないなら、せめて二人の傍にいたい。それが今の彼女にできることだった。
「……心配で寝れないのはお互い様ですね」
月夜も小さく笑った。
「夕食までまだ時間があるわね。なにかお話する? ガールズトーク」
美香が提案すると、月夜は少し考えてから口を開いた。
「それでは、美香さんのお話を聞かせていただけますか? 私の話はつまらないですから」
「私の?」
「ええ、そこの眠り王子に聴かれたくないお話などはいかがですか?」
月夜の言葉に、美香は一瞬固まった。
「眠り王子って」
美香は苦笑いする。
「あら、貴女にとってはそうでしょう?」
月夜の視線が、ベッドに横たわる京介に向けられる。
「うーと、あの、観覧車の時の話よね」
美香の頬がほんのり赤くなる。
「ええ、ちらちらに八田さんの顔を確認してましたし、話も妙に抽象的で逆に気になりましたよ。まぁ当人はまったく気づいてませんでしたけど」
月夜の言葉に、美香は思わず顔を覆った。
「うぅ〜、安心したけど複雑だわ」
「この男に遠回しの好意はおすすめしませんね。それで? お聞かせくださいますの? 無理にとは言いませんが」
月夜の穏やかな笑みに、美香は観念したように頷いた。
「恥ずかしいけど、まぁいっか。夕食まで私の部屋でお話ししましょ」
二人は静かに部屋を出た。廊下を歩きながら、美香は少しだけ振り返る。眠り続ける京介の姿を確認してから、また前を向いた。
「早く目を覚まして……」
小さく呟いた言葉は、誰にも聞こえなかった。




