第五章 十話 三場一幕Ⅴ
三人が飛び込んだ部屋は、想像以上に広かった。いや、それは正確な表現ではない。
彼らが一歩踏み入れた瞬間、空間そのものが歪み、膨張し、見る見るうちに広大な空間へと変貌を遂げたのだ。
振り返れば、確かにそこにあったはずの扉は跡形もなく消え失せ、代わりに果てしなく続く壁が広がっている。
つまり、帰り道は完全に断たれた。
部屋の中央に、天音の姿があった。
小さく身を丸め、膝を抱えて座り込んでいる。うなだれた頭からは、栗色の髪が床に垂れ下がっていた。
その華奢な身体の周囲を、無数の青白い光の粒が螺旋を描きながら浮遊している。
まるで彼女を外敵から守るように、あるいは逆に、彼女を世界から隔離し閉じ込めるように。
光の粒はゆっくりと回転を続け、時折、きらめくように明滅を繰り返していた。
「天音!!」
月夜の叫び声が、広間にこだました。
天音の肩がわずかに震えた。
細い指が膝をより強く抱きしめる。
しかし、彼女は顔を上げようとはしない。まるで月夜の声から逃れるように、さらに小さく縮こまるばかりだ。
「……来ないで」
か細い、しかし明確な拒絶の声が、広い部屋に虚しく響いた。
「私に……近づかないで」
その言葉が発せられたと同時に、まるで反応するかのように、部屋の四隅から黒い影が滲み出した。
ドロリと粘度の高い液体のように、壁の表面を這い、床を這い、じわじわと形を成していく。
「ケガレ……!」
美香が即座に戦闘態勢に入った。両足を肩幅に開き、重心を落とす。
影は徐々に輪郭を持ち始め、人型を成していく。
ゆっくりと、だが確実に立ち上がった。
一体、二体、三体、四体。いや、まだ増える。五体、六体……壁から、床から、天井からさえも、次々と這い出してくる。まるで無限に湧き出る悪夢のように。
「どんどんケガレが湧いてくる! キリがないわ!」
美香の声には、さすがに焦りの色が滲んでいた。
京介は一瞬の躊躇もなく、即座に結界を展開した。両手を前方に突き出す、淡い光の壁が三人を囲むように展開される。
「草薙、月夜を頼む! 僕がケガレを抑える!」
京介の声は決然としていたが、額には既に汗が浮かんでいる。
「無茶言わないで! 数が多すぎるわ!」
美香が叫び返す。その視線は素早く周囲のケガレの配置を確認していた。
「やるしかないだろ!」
京介は結界を先程の通路の時のように長方形のような形状に生成し、両手でしっかりと構えた。そして最も近くまで迫っていたケガレに向かって、全力で発射する。光の盾が空気を切り裂き、唸りを上げながら飛んでいく。
ケガレの巨大な腕が振り下ろされようとしていた。
だが、京介の結界の方が強力だった。光の杭がケガレの胴体に激突し、鈍い衝撃音とともに、黒い影を吹き飛ばす。
「……効いてる!」
京介は一瞬だけ安堵の表情を見せた。
だが、その僅かな隙を、別のケガレが見逃さなかった。背後から音もなく接近し、長い腕を振り上げる。
「八田君!!」
美香の鋭い警告の声が響いた。
次の瞬間、美香の身体が宙を舞った。
助走もつけずに跳び上がり、回転しながらケガレの頭部に横蹴りを叩き込む。
「えいっ!」
気合いとともに放たれた蹴りは見事に命中した。ケガレは吹っ飛ばされ、壁にベチャリと叩きつけられる。黒い粘液のような影が壁に張り付き、ゆっくりと滑り落ちていく。
「ケガレって物理も効くのね……」
美香は着地しながら、やや驚いたように呟いた。
拳を握り締め、改めて構えを取る。
その隙に京介は体勢を立て直した。荒い呼吸を整えながら、再び結界を展開する準備に入る。
「助かった!」
「まだまだ来るわよ!」
美香の声には焦りが隠せない。額に汗が滲み、頬を伝って流れ落ちる。彼女の視界の端では、新たなケガレが次々と湧き出し続けていた。
月夜は、そんな二人の必死の戦いを背に感じながら、天音へと歩み寄ろうとした。一歩、また一歩と、慎重に、だが確実に。
「天音……!」
しかし、青白い光の粒が突如として密度を増し、まるで強固な壁のように立ちはだかった。月夜の伸ばした手の先で、光の粒が激しく明滅し、警告を発している。
「来ないで……」
天音の声が、まるで自動的に再生されるかのように繰り返される。
「みんな……私のせいで……」
「私がいるから幸せが壊れる」
「私がいるから、大切な人が傷つく」
「違う!」
月夜が魂を込めて叫んだ。その声は、広間に響き渡り、一瞬だけケガレの動きさえも止めたように見えた。
「天音のせいなんかじゃない! 天音は何も悪くない!悪くないの!」
「……お姉ちゃん……」
天音がようやく、ゆっくりと顔を上げた。
その瞳には涙が溢れ、頬を伝って流れている。苦痛と後悔と絶望が混ざり合った表情。それでも、その瞳の奥には、まだ僅かな希望の光が残っていた。
「でももう私……もう、どうしたらいいのか……わからないの……」
声は震え、途切れ途切れだった。
月夜は青白い光の壁に手を伸ばした。指先が光に触れた瞬間、灼熱の痛みが走る。まるで炎に直接触れているかのような熱さ。皮膚が焼けるような感覚に、思わず顔を歪めた。
それでも、月夜は手を引かなかった。むしろ、より強く壁を押した。
「わからなくていい! 一人で全部背負い込まなくていいの!」
「でも……!」
「一緒に考えよう! だから……こっちに来て!」
月夜の手が、光の壁をさらに強く押した。痛みに耐えながら、必死に押し続ける。じわじわと、ほんの少しだけ、壁が揺らぎ始めた。光の粒の動きが乱れ、螺旋の軌道が歪む。
その時――
京介が三体目のケガレを結界で押し込んだ。だが、その動きには明らかに疲労が見え始めていた。
「くそ……キリがない……!」
息が上がり、エネルギーの消耗も激しい。
それでも手を止めることはできない。
美香も体術でケガレを次々と退けていたが、彼女もまた限界が近づいていた。蹴りの一撃一撃は重く、正確だったが、その動きは徐々に鈍くなっている。
二人とも、息が上がり、汗が全身を覆っていた。
ケガレの数は減るどころか、むしろ増え続けていた。倒しても倒しても、新たな影が湧き出してくる。
「月夜、早く……!」
京介が、必死の思いで叫んだ。
月夜は痛みを堪えながら、光の壁を押し続ける。手のひらは既に赤く腫れ上がり、水膨れができ始めていた。それでも、止まるわけにはいかない。
「天音! 私の声、聞こえてる!? 一緒に帰ろう! お願い!!」
天音の瞳に、わずかに、しかし確かに光が宿った。希望の光が。
「……お姉ちゃん……本当に……?」
その声には、信じたいという切実な願いが込められていた。
「本当よ! だから……!」
光の壁が、ゆっくりと、しかし確実に薄れ始めた。青白い粒の密度が下がり、透明度が増していく。
月夜が壁にスルリと手を入れることができた。その勢いのまま、彼女は天音を強く抱きしめた。温かさと安心感を伝えるように。
「天音!」
「お、姉ちゃん…」
天音は月夜の胸に顔を埋め、堰を切ったように泣き始めた。
「よしよし、天音は泣き虫ね」
「でも、わからないの…わからないよ」
嗚咽混じりの声。
「何がわからないの?」
月夜は優しく天音の頭を撫でながら尋ねた。
「ここからの出方が……わからないの」
天音は涙目で、震える声で答えた。
「天音…」
月夜が天音をより強く抱きしめようとした
その瞬間――
ゴゴゴゴゴ……
低く、不気味な音とともに、屋敷全体が激しく揺れ始めた。
「な、何!?」
美香が叫ぶ。
「どうなって――」
京介も動揺を隠せない。
「天音!」
「っ!」
バリ、バリバリバリッ……
空間そのものにヒビが入り始めた。まるでガラスが割れるように、現実の表面に亀裂が走る。
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劉と傷男の戦いは、長い膠着状態に入っていた。
劉の持ち前のセンスと観察力で傷男の動きのパターンに慣れてきたのか、あるいは傷男のスタミナや集中力が切れてきたのか、はたまたその両方なのか。互いに決定打を欠いたまま、消耗戦の様相を呈していた。
傷男の動きは単調だった。
しかし、その分だけ無駄がまったくない。
研ぎ澄まされた刃のように、一撃一撃が重く、鋭い。避けるだけで精一杯だ。
反撃に転じる余裕など、劉にはなかった。
「……お前、なかなかやるな」
傷男が低く、感情の読めない声で呟いた。
「あなたに褒められても嬉しくないですけどね!」
劉は荒い呼吸を整えながら、慎重に距離を取る。
足の裏が痛み、全身の筋肉が悲鳴を上げていた。
一方で――
千代はフライパンを振るい、黒服の一人を壁際に追い詰めていた。その動きはただのカフェの店員とは思えないほど洗練されており、一撃一撃に無駄がない。
「アンタたち、何が目的なのよ!」
フライパンを構えたまま、千代は鋭く問い詰める。
「……」
黒服は無表情のまま、何も答えようとはしない。まるで感情というものを持たない人形のように。
「答えなさいよ!!」
ゴンッ!!
苛立ちを込めたフライパンが、再び炸裂した。鈍い衝撃音が路地裏に響き渡る。
「あなた本当強すぎません?」
透が思わず呟いた。
その声には驚きと、そして僅かな畏敬の念が込められていた。
透は黒服のもう一人を牽制し続けている。
道端に落ちていた石を拾い、投げ、持ち前の観察眼で相手の動きを読み、隙を突く。
直接的な戦闘力はないが、その機転と洞察力で戦況を支えていた。
だが、相手も徐々に透の戦法に慣れてきた。
石を避ける動きがスムーズになり、フェイントにも引っかからなくなってきている。
「……小賢しい真似を」
黒服が低く呟き、透に向かって一気に距離を詰めてきた。
「っ!」
透は咄嗟に身を引いた。背中が壁に当たる。これ以上は下がれない。
だが、黒服の長い腕が、避けきれない速度で伸びてくる。
その瞬間――
「させるか!」
劉が飛び込んできた。
傷男を一瞬だけ振り切り、透を庇うように割り込む。その動きは、もはや限界を超えた意志の力だけで動いているようだった。
「劉さん!?」
「真上さんに触るな!」
劉は黒服の腕を掴み、全体重を乗せて投げ飛ばした。黒服は地面に叩きつけられ、低い呻き声を上げる。
「……やった……?」
劉が安堵の息を吐いた、まさにその時――
ドスッ。
鈍い音とともに、傷男の拳が劉の脇腹に深々と突き刺さった。
「がっ……!?」
劉の目が見開かれ、口から空気が漏れる。
痛みで思考が真っ白になった。
「隙だらけだ」
傷男の冷たい、感情のない声。
劉の身体は吹き飛ばされ、壁に激しく叩きつけられた。背中から衝撃が走り、意識が遠のきそうになる。
「劉さん!!」
透が悲痛な叫びを上げる。
千代も振り返った。
「劉君!」
だが、その一瞬の隙を、千代が相手にしていた黒服が見逃さなかった。素早く動き、千代に接近する。
「くっ……!」
千代は咄嗟にフライパンを構えたが、黒服は冷静に千代の動きを読み切っていた。
鋭い蹴りがフライパンを直撃し、千代の手から武器が弾き飛ばされる。フライパンは空中で回転し、カランカランと音を立てて地面に落ちた。
「っ……!」
素手になった千代は、下手に動けば隙を突かれると悟り、その場で構えを取る。
「千代さん!!」
透が駆け寄ろうとした瞬間、地面に叩きつけられていたはずのもう一人の黒服が立ち上がり、透の前に立ちはだかった。
「……終わりだ」
傷男がゆっくりと、まるで獲物を追い詰める獣のように歩み寄る。その表情には、勝利を確信した冷徹さが浮かんでいた。
劉は壁に背を預けたまま、必死に立ち上がろうとしている。腕が震え、足に力が入らない。それでも、諦めるわけにはいかない。
千代も睨みを利かせ続けるが、武器を失った今、選択肢は限られている。
透は一人、黒服二人と傷男に囲まれた。逃げ道はない。
「……これは、マズいですね……」
透は状況を冷静に分析しながらも、苦笑いを浮かべた。その笑みには、諦めと、そして僅かな諦めない意志が混在していた。
その時――
「残念ながら、そこまでだね」
突如として、場違いなほど軽い声が響いた。
全員の視線が声の方向に向く。
そこには、拘束していたはずの狐面が、悠然と立っていた。
「……どういうことだ?」
傷男が警戒心を露わにして問う。
「派手に動きすぎたね。上からすぐに撤退するようにとお達しだよ」
狐面は軽い調子で言った。だが、その仮面の奥の表情は誰にも読めない。
「『音』とケガレはどうする」
傷男の声は低く、抑制されていた。
「『放置で問題なし』とのことだよ。それよりここの状態の方が問題みたいでね」
狐面は周囲を見回し、路地裏の惨状を確認した。
傷男は一瞬躊躇したが、やがて明らかに不満そうに舌打ちをして後退した。
「……チッ。撤退だ」
その命令に、黒服たちも機械的に従い、傷男に続いて身を引いていく。
「……覚えておけ」
傷男は劉を鋭く睨みつけた。その視線には、次は容赦しないという明確な敵意が込められていた。そのまま、彼らは路地の闇へと消えて行った。
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大和と静は、息を切らしながら、ようやくカフェに辿り着いた。
「はぁ……はぁ……着いた……!」
大和は重たい木箱を抱えたまま、無人のカフェの入り口で膝をついた。
「大和君、大丈夫?」
静が心配そうに覗き込む。その表情にも疲労の色が濃い。
「だ、大丈夫……多分……」
大和は荒い息を整えながら、カフェの扉に手をかけた。しかし、その扉は見るも無惨にボロボロだった。塗装は剥がれ、木材は朽ち、ところどころに深い傷が走っている。
「どうしてこんなにボロボロなんだろう」
静が不思議そうに呟く。
「よし、入ろう……ってあれ?」
大和は扉を押した。しかし、扉は微動だにしない。
「え……? なんで?」
今度は引いてみる。それでもダメだ。押したり引いたり、何度も試みたが、扉はびくともしない。まるで壁の一部と化しているかのように。
「まさか……鍵がかかってる?」
「でも、美香さんたちは中にいるはずなのに……」
静も不安そうに扉を見つめる。その視線は、徐々に恐怖の色を帯びていった。
静はふと、大和の抱えている木箱に目をやった。
「ケガレ…」
呟くように言った。
「……え?」
大和も木箱を見下ろした。
箱の蓋が、まるで自らの意志を持つかのように、ゆっくりと開き始めている。
中には、二つの祭具が丁寧に納められていた。
一つは、石笛。古い石を削り出して作られた、素朴だが神秘的な笛。
もう一つは、起舞の扇子。以前見た通り優雅で、それでいて力強い雰囲気を纏った扇。
「これ……」
大和は恐る恐る石笛を手に取った。手に取った瞬間、不思議な温もりを感じる。
静も扇子を手に取る。見学の時には味わえなかった、絹の感触が、指先に優しく伝わってきた。
「……これの効果が本当なら?」
二人は顔を見合わせた。不安と、そして僅かな希望が入り混じった表情。
「でも、どうやって……?」
大和は石笛を口に当てた。冷たい石の感触が唇に触れる。
「わかんないけど……やってみる!」
意を決して、息を吹き込む。
澄んだ音色が響いた。
それは不思議な音だった。この世のものとは思えないほど透明で、純粋で、まるで風が歌っているような音。優しく、それでいて力強い。音色は空気を震わせ、波紋のように広がっていく。
扉が、わずかに揺れた。
「……効いてる?」
大和が驚きの声を上げる。
「!私も!」
静も扇子を開いた。檜の骨組みに金箔が丁寧に施され、絹地には当時の能や猿楽の舞姿が色鮮やかに描かれている。歴史を感じさせる、それでいて生命力に満ちた美しさだった。
静は深呼吸をし、扇子を優雅に振った。
風が起こった。
それは普通の風ではない。柔らかく、温かく、そして圧倒的に力強い風。まるで春の訪れを告げる風のように、全てを包み込み、浄化していく。
扉が、きしむ音を立てながら、ゆっくりと開き始めた。
朽ちた木材が軋み、悲鳴を上げる。
そして――
扉は完全に開いた。




