第五章 十話 三場一幕 Ⅲ
月夜は、必要最低限の言葉だけを選ぶように、ひとつひとつ慎重に語り始めた。
その声はわずかに震える
過去を引きずり出すたびに胸に刺さる痛みに耐えているのが、鈍感な京介の目にも明らかだった。
言葉を紡ぐごとに、彼女の喉が小さく引きつり、視線はどこか遠くを見つめていた。
まるで、記憶の底から浮かび上がる光景を、もう一度目の当たりにしているかのように。
まとめると、こうだ。
十年前——。
彼女たちの家は一見すると旧家のように見えたが、実態は金で取り繕った脆い虚飾の城だった。
由緒ある家柄と自称しながら、その根は浅く、歴史など存在しない。ただ、成り上がりの富と見栄だけが、家の輪郭を形作っていた。
そして、表面を取り繕う裏で、黒い噂が常につきまとっていた。金の出所を問う者はいなかったが、皆が薄々感づいていた。
何か、触れてはいけないものがあるのだと。
母は浪費家で、派手な装飾に身を包み、夜毎の宴に明け暮れていた。
ブランド物で飾り立てた体は、まるで虚栄心そのものの形をしているようだった。
高価な宝石をちりばめたドレス、海外から取り寄せた香水、美容にかける費用は家計を圧迫するほどだった。
娘たちを見る眼差しには温もりがなく、まるで高価な花瓶を眺めるような、冷たい距離感があった。いや、花瓶ならまだ愛でる心があるかもしれない。彼女が娘たちを見るとき、そこにあったのは「価値」への値踏みだけだった。
父はもっと露骨だ。
表向きは慈善家を名乗り、裏では法外な利子で困窮者から搾り取る男。
視線の奥にはいつも金の計算だけが宿り、家族の存在すら金額で測っているようだった。
彼にとって、娘は投資先であり、資産だった。
感情など、損得の前では意味を持たない。
冷徹なまでの合理性が、家の空気を凍てつかせていた。
そんな家庭で、双子の姉妹・月夜と天音の扱いには露骨な線引きがあった。
月夜は「暗くて扱いづらい子」。
天音は「明るくて可愛い子」。
食卓でも、来客の前でも、影のように比較され、月夜は常に「劣る側」に置かれた。
「どうしてあなたはそうなの」「天音を見習いなさい」そんな言葉が、日常のように投げつけられた。
彼女は次第に感情を表に出すことをやめ、声も小さくなっていった。心の扉を閉ざすことで、傷つくことを避けようとしたのだ。
——それでも、天音だけは違った。
「お姉ちゃんは悪くないよ」と、いつも月夜の手を握ってくれた。
唯一の味方だった。
天音は、どんなときも月夜の側にいた。親が冷たい言葉を浴びせれば、そっと寄り添い、笑顔を見せてくれた。その笑顔だけが、月夜にとっての光だった。
だが、その均衡はある日、唐突に崩れた。
天音に”音”の力が宿っていると父が知った瞬間、
その目の色が変わった。
獲物を見つけた、獣の目——。
表では平然と取り繕い、裏では金で能力者を買い漁る連中に、天音の情報を売り始めた。
娘を「商品」として扱うことに、一切のためらいもない。取引の相手は、表社会の裏側で蠢く者たち。
能力者を欲する組織。人身売買の斡旋業者。
闇のオークションに流す仲介人。
父は、そのすべてに声をかけた。
そして父は、本当に天音を売った。
契約書にサインする手は微塵も震えず、
泣き叫ぶ天音に母は「みっともない」と吐き捨てた。
月夜の悲鳴も、涙も、何もかもが無視された。部屋の隅で蹲る月夜を、父は一瞥もしなかった。ただ、札束の束を数えるだけ。母は、新しい宝飾品のカタログを眺めていた。
その瞬間、月夜は迷わなかった。
「一人にはさせない」
ただそれだけを胸に、天音と同じ檻の中へ入った。
どれほどの地獄が待っていようとも、妹を独りで泣かせるくらいなら——と。
買い取った組織の男が、月夜を見て訝しげに眉をひそめた。しかし、父は平然と言い放った。「二人セットなら、値引きしてもいい」
そう。
姉妹の命すら、値引き交渉の材料だった。
語り終えた月夜の顔は、青白く、今にも崩れ落ちそうだった。
「……最低ね」
美香が小さく吐き捨てた。
その拳は強く握られ、爪が掌に食い込むほどだ。
怒りと悲しみが混ざった声だった。
声は震え、彼女自身も涙を堪えているのが分かる。
その声に、月夜の肩がかすかに震える。
「……ありがとうございます」
怒ってくれる人がいる。
ただそれだけで、胸の奥にずっと沈んでいた重石が、少しだけ外れた。誰かが、自分たちのために怒ってくれる。それは、月夜にとって初めての経験だった。
「私たちを”買った”組織は、能力者を育成する施設を運営していました。表向きは孤児院。でも実際は……能力者を兵器として育てるための場所です」
空気が、冷たく沈む。
「訓練は厳しいものではなく、ただの拷問に近かった。従わなければ罰。成果が出なければ食事も無し。子供たちは皆、笑い方すら忘れていきました……力を使えば、褒められるのではなく、もっと酷使される。それだけでした」
月夜の声は、今にも消えそうに小さかった。呼吸すらままならないように、言葉が途切れ途切れになる。
「能力者には、ケガレを引き寄せる性質があります。お二人にも……分かりますよね?」
美香と京介が息を呑む。
「天音は、その性質が特に強いんです。まるで、街灯に群がる蛾のように。ケガレが群がってくる。だから……施設では、天音を”囮”として使おうとした」
「それで、こうなったのね」
美香の問いに、月夜は苦しげに頷いた。
「はい。今の天音は、自分の力を……どうにもできていません。私が天音を守れなかったせいで……もっと強ければ、あんな風に——」
「違う」
美香がきっぱりと遮る。
「悪いのはあなたじゃない。悪いのは、子どもを売った親と……子どもを兵器にした連中よ。あなたは、ただ妹を守ろうとした。それ以上でも、それ以下でもない」
月夜は息を呑んだまま言葉を失う。
「それにね」
美香はそっと月夜の肩に手を置いた。温かい手のひらが、凍えた心にじんわりと染み込む。
「今度は守れる。今度こそ、天音さんを助け出せばいい。そのために私たちがいるんでしょう? 一人じゃない。今度は、みんなで行こう」
月夜は顔を上げた。
涙が滲み、震えながらも——その瞳には確かな光が宿っていた。
「……はい」
かすかだが、自分の意思で紡いだ声だった。
そして、月夜は初めて——希望という感情を、胸に抱いた。
「では、行こう。と言っても……どう動くべきか」
京介が屋敷を見据えながら呟く。古びた洋館は、闇に沈んでいる。窓ガラスは曇り、内側からの光は一切ない。
「この屋敷のどこかに天音がいる。恐らく——ここが空間の核だ。この異空間の中心に、彼女がいる」
一同は重い扉へ向かう。
触れた瞬間、冷たい風が吹き抜けた。
まるで過去の亡霊が、肺の奥にまで入り込むような冷
気だった。扉は軋みながら、ゆっくりと開いていく。
――――
一方その頃。
「ーーー!」
透は狐面の男を、近くに転がっていたビニール紐で手足ごと拘束し、服に残った”記憶”を読み取って状況を探っていた。服の繊維に染み込んだ過去の映像が、透の脳裏に流れ込んでくる。
「……なるほど、そういうことですか。」
落ち着いていられるのは、劉が必死に傷の男を抑えているおかげだ。もし劉がいなければ、今頃透は――考えたくもない結末が待っていた。
「まずいですね……劉くんが押されてる。加勢しないと」
透が顔を上げると、目の前では火花散るような殴り合いが続いていた。劉の額からは汗が滴り落ちている。
「……はぁ、はぁ」
「多少武道をかじってるみたいだが、俺には届かないぞ。甘いんだよ、坊主」
傷男の声は落ち着いているが、その瞳には鋭い殺気が宿っている。戦いを楽しんでいるようにすら見える。
劉は拳を握り直し、小さく息を吐く。体力の限界が近い。それでも、退くわけにはいかない。
「……まだまだ」
「気に入らねぇ目だ。俺の頬に傷つけやがった、あの女にそっくりだ」
「それは最高級の褒め言葉だね。」
「“型”だけでどうにかなる相手じゃねぇぞ、坊主」
次の瞬間、傷男の姿がかき消えた。
「っ……!」
背後から風を裂く音。
振り向いた時には、蹴りが迫っていた。
劉は腕で受け流すが、衝撃が肩を抜ける。骨が軋む感覚に、顔が歪む。
「ぐ……っ!」
「お前、力はある。だが——読みが甘ぇ!」
拳の連打。
石畳が拳圧に揺れる。
劉は紙一重でかわし続けるが、相手の速度は常識の域を超えていた。まるで、映像を早送りしているかのような動き。
頬をかすめた拳が、皮膚を裂く。鮮血が飛び散り、視界の端が赤く染まる。
それでも——劉の目は折れない。
(……ここで倒れたら、京ちゃんたちが——)
劉の瞳に再び火が灯る。足は震えているが、まだ立てる。まだ、戦える。
「……っ、まだ……終わらない!」
ふらつきながらも踏み込む。
傷男がわずかに目を見開いた——その時。
――ゴンッ!!
「ガッ!?」
傷男の頭に鋭い衝撃が落ちた。鈍い音が響き、男の体がよろめく。
劉と透が同時に固まる。
淡いグレーのエプロン姿の中年女性——如月千代が、片手にフライパンを構え、鬼の形相で立っていた。そのフライパンには、まだ湯気が立っている。料理の途中だったのだろうか。
「店前で営業妨害よ!!」
「店員さん!?」「おばさん!?」
「お姉さんとお呼び!!」
透へのツッコミは容赦ない。
フライパンが、もう一度振り上げられる。
「ぐ……営業停止命令を出したはずだが」
「オーナーの許可なしに止められるわけないでしょう! この店は、私が守るの!」
「はあ……ここには一般人はいないのか?」
「とっとと立ち退いてくださいまし! そこのお二人にも、やっていただきたいことがありますの!」
「そうはいかねぇ!」
傷男が吠え、構え直す。
千代も重心を落とした。エプロン姿のまま、まるで武道家のような構え。
「俺がいるって——忘れないでよ!」
背後から劉の踵落とし。全体重を乗せた一撃が、空気を切り裂く。
「ちっ!」
傷男が舌打ちし、三対一の膠着状態に入る。
だが、その表情には余裕が残っている。
その時——。
——わぁあああ!
遠くから声。何かが近づいてくる。
透が顔を上げる。
「こ、この声は……」
——うわああああ!!
どんどん大きくなる。足音が、地響きのように迫ってくる。
「た、助けてぇーー!!」
大和と静が木箱を抱えて全力疾走で飛び込んでくる。二人とも顔面蒼白で、息も絶え絶えだ。
その後ろには、黒服の男が二人。
「マジですか……」
状況は、さらにカオスを極めていく——。




