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諦めた僕と諦めないお嬢様の話  作者:
第五章

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第五章 十話 三場一幕 II

「ここからは早く出たほうがいいわね。八田君の結界のこともあるけど……それ以上に、ここは私と相性が悪い」


美香の声はいつになく低く沈んでいた。顔色も悪い。普段の彼女からは想像できないほど、その表情には疲労の色が濃く滲んでいた。


ケガレが作り出したこの密室は、負の感情が何層にも沈殿している”澱み”の空間だった。怨念、憎悪、絶望――それらが空気そのものに溶け込んでいる。感情をエネルギーに変換して身体能力を強化する美香にとって、この負の感情は毒そのものだ。浄化されていない感情の濁流が、全身をじわじわと蝕んでくる。まるで泥水の中を泳いでいるような息苦しさが、彼女の身体を内側から侵食していた。


「八田君、結界を……強引に閉じることはできない?」


美香の問いかけに、八田は眉間に深い皺を寄せた。


「無茶言うなよ。主導権、完全に奪われてるんだ。こっちの操作がほとんど効かない。新しく別の結界を張り直すことなら……まあ、できなくはないけど、強度は期待するな。せいぜい数分持つかどうかってところだ」


八田の声には珍しく焦りが滲んでいた。


主戦力の二人が揃って弱体化している。

状況は、最悪の一言だった。


まるで盤上の重要な駒を次々と奪われていくような、じわじわとした絶望感が場を支配していた。


「……お二人とも。すみません」


月夜は周囲を睨むように見回した。

その瞳には、何か言葉にできない複雑な感情が渦巻いている。


悔しそうに眉を寄せたあと、こちらに向き直って深々と頭を下げた。その仕草には、単なる謝罪以上の重みがあった。


「月夜さん、この景色……ひょっとして心当たりがあるんじゃない? お願い、教えてくれない?」


美香の問いかけは優しかったが、同時に急を要するものでもあった。一刻も早く、この状況を打開する手がかりが必要だった。


「ここは……私と天音が、小さい頃に住んでいた家です」


月夜の声は震えていた。過去の記憶が、今この瞬間に鮮明に蘇ってきているのだろう。


「住んでた? あれに?」


京介が指さした先には、重厚な西洋建築の大きな屋敷があった。三階建ての堂々たる建物で、壁には細かな金の紋様が散りばめられ、窓枠には精巧な彫刻が施されている。一見すると豪奢そのもの。しかし、どこか肌にざらりと纏わりつくような不気味さも漂っている。


「もしかして月夜たちって……草薙並みの富豪?」


京介の驚きは無理もなかった。この屋敷の規模は、並大抵の資産家のものではない。


「……ごめんなさい。布都家なんて、私は聞いたことないわ」


美香が首を横に振る。


「大丈夫ですよ。もう、とっくに没落してますから」


月夜は心底どうでもいいといった調子で、肩をすくめてみせた。その表情には、過去への執着も未練も感じられない。

まるで他人事のようだ。


「“もう”って……?」


京介が疑問を口にする。


「これからお話します。全部」


月夜の瞳に、覚悟の光が宿った。


-----


一方その頃。


カフェに着く直前の細い路地で、劉と透は思わぬ足止めを食らっていた。路地は両側をビルに挟まれ、薄暗い。日が差し込まず、冷たい空気が淀んでいる場所だった。


二人の前に立ちはだかったのは、狐面の男と、左頬に深い傷のある男。二人とも黒いコートを着込み、明らかに只者ではない雰囲気を醸し出していた。


「これから先は民間人はお断りだ」


傷の男が吐き捨てるように言う。その声には、交渉の余地など微塵も感じられない強硬さがあった。


「道理でこの辺りだけ人の気配がないわけですね。“人払い”は相変わらずお得意で」


透は呼吸を整え、平静を装って応答した。内心では警戒心を最大限に高めながら、表面上は冷静さを保つ。それが透の戦い方だった。


「この先のカフェにいる”迷子”を確保できれば、こちらも即座に立ち去ります。通してもらえませんか」


透の言葉は丁寧だったが、その奥には譲れない意志が込められていた。


「ざぁんねん。だけどさぁ、その迷子、俺らの目的でもあるんだよねぇ。なぜか三体まとめて自ら檻を作って入ってくれてて、まあ助かったよ」


狐面の男が愉快そうに肩を揺らす。その余裕のある態度が、劉の神経を逆撫でした。


「二人を……どうする気ですか」


透の声が一段低くなる。


「今度は”連れて行く”」


狐面の声は冬の空気を通って、骨に染みるほど冷たかった。その言葉の意味するところを理解した瞬間、劉の中で何かが弾けた。


「……っ!」


劉は歯を食いしばった。もう我慢は限界だ、と身体が吼える。親友を――京介をまた傷つけられることだけは、絶対に許せない。


次の瞬間、まるで猪のような勢いで狐面へ突っ込んでいった。


劉の蹴りが狐面の間合いへ


――今だに陽子には敵わないが、迷いなく踏み込む。


一切の躊躇なく、ただ前へ。


「おっとぉ!」


狐面は紙一重で後ろへ飛び退く。しかし、その余裕の表情には少しだけ驚きの色が混じっていた。


「デジャヴってやつだねぇ。悪いけど、そこの人みたいにはならないよ」


狐面は挑発するように言うが、その足さばきにはすでに防御の意識が見え始めていた。


「ぐっ……はぁっ!」


劉は息を切らしつつ、絶え間なく空手の型を繰り出す。


中段突き、上段回し蹴り、膝蹴り――


一つ一つの技が、寸分の隙もなく連携していく。


その速度は目にも止まらぬほどで、狐面の軸足がついにぐらりと揺らいだ。連続攻撃の圧力に、ついに体勢を維持できなくなったのだ。


「ちょっ……速い! テンポが速いって!!」


狐面は僅かに体勢を崩す。

その一瞬の隙を、劉は逃さなかった。


拳が、鋭い弾丸のように相手の鳩尾を撃ち抜く。

全体重を乗せた一撃が、狐面の呼吸を完全に止めた。


「ぐ……っ!」


その悲鳴を最後まで上げさせず、劉は近くの大きなゴミ箱を掴んで――中身ごと、狐面へと無造作に被せた。躊躇も容赦もない。ただ確実に、相手の戦闘能力を奪うための行動だった。


深いゴミ箱は狐面の肘のあたりまでずっぽりと覆い、そのまま足払い。狐面は情けない音を立てて転倒し、完全に無力化された。ゴミ箱の中でもがく音だけが、静かな路地に響いた。


「……ふぅ」


劉は荒い息を整えながら、手を払った。


「意外と容赦ないですね……」


透が呆れとも感心ともつかない表情を向ける。普段の劉からは想像できない、この戦闘時の冷徹さに少なからず驚いていた。


「はぁ……」


残った傷の男は、仲間の有り様を見て額を押さえた。その表情には諦めと、わずかな苛立ちが混じっていた。


「次は、あんただ」


劉は再び、空手の構えを取る。両手を腰の位置に構え、重心を低く落とす。基本に忠実な、しかし隙のない構えだった。


空気が一瞬で鋭く張り詰めた。透も身構える。

二対一とはいえ、油断はできない相手だと直感していた。


-----


そのころ。


大和と静の中学生ペアは、別の場所で動いていた。


二人は手分けして複数のカフェを回っていたが、なかなか目的の場所を見つけられずにいた。


「ここも違う……」


カフェの中は満員で、笑い声や皿の音が響いている。温かいコーヒーの香りが漂い、穏やかな午後の空気が流れていた。


人が死にかけているとは、とても見えなかった。

平和そのものの光景が、逆に焦りを掻き立てる。


「五店舗中、四つ外したな」


大和が苦々しく呟く。


「私たち、運が悪すぎるよ……」


静も肩を落とした。しかし、ここで諦めるわけにはいかない。


「とりあえず最後の店に向かおう。ここから近い。スマホだと徒歩三分だって」


大和がスマホの地図アプリを確認しながら言う。


大和と静は小走りで店へ向かった。商店街の賑やかな通りを抜け、少し奥まった路地へと入っていく。


その途中――。


「あ、あれ……?」


静がきょろきょろと周囲を見渡し、足を止めた。その表情に、不安の色が浮かぶ。


「どうした、静」


大和も立ち止まり、静の視線を追う。


「気のせい……だと思うんだけど。この辺り……人、いなくない?」


大和も周囲に目を向ける。


確かに、おかしい。


先ほどまでの道と違い、ここだけぽっかり穴が開いたように”無人”だった。店のシャッターは閉まり、道行く人の姿も見えない。平日ならまだしも、今日は休日。人が全くいないはずがない。まるで時間が止まったような、不自然な静寂が辺りを包んでいた。


「……っ! 静、こっち!」


「え?」


大和は静の腕を引き、道端の電柱の影に隠れる。その動きは素早く、迷いがなかった。


静は突然抱き寄せられ、驚きに胸が跳ねた。


大和の服から柔軟剤の優しい香りがふわりと漂う。

顔が近い。あまりに近すぎて、静の心臓は早鐘を打ち始めた。


「見ろ、あそこ。黒いワゴン車……人が二人乗ってる」


大和が小声で囁く。その息遣いが耳に触れて、静は思わず身体を硬くした。


「!」


静も視線を向ける。


無人の道に不自然に停まるワゴン。

窓にはスモークが貼られ、中の様子は見えない。


ただそれだけなのに、背筋がぞくりとするほど異質だった。まるでこの空間だけが、別世界に切り取られたような違和感があった。


「出てきた!」


車から男が二人、慌てた様子でどこかへ走り去っていく。その足取りは急いでいて、何か緊急の用事があるようだった。


「……行ったな」


大和が確認してから、二人は電柱の影から出た。


静が後部座席を覗いた瞬間――声をあげた。


「ねぇ! こ、これ!」


静の指先の先には、豪華な木箱があった。漆塗りの立派な箱で、金の留め金が施されている。その中には『石笛』と『起舞の扇子』が丁寧に並べられていた。どちらも、盗まれたと報告されていたものだ。


「これ……盗まれたやつだ! ってことは、さっきの奴らは……」


大和が考え込んだその時、

静が車の扉にそっと手をかけ――


ガチャ。


「……へ?」


「え、開いちゃった……」


二人は顔を見合わせ、凍りついた。まさか鍵がかかっていないとは。しかし、この幸運は同時に、危険の予兆でもあった。相手がすぐに戻ってくる可能性が高い。


「どうする……?」


静が囁く。


大和は一瞬迷ったが、すぐに決断した。


「持って行こう」


二人は慌てて木箱を取り出した。


予想以上に重い。しかし、今は一刻を争う。


遠くから足音が聞こえ始めていた。


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