五部 十話 三場一幕 I
透と劉は全速力で走っていた。アスファルトを蹴る靴音が、冬の空気を切り裂くように響く。
事務所からカフェまでは徒歩で十五分ほどの距離。
車を取りに行くより、走った方が早い。
そう判断した透の決断は正しかったはずだ——美香たちに先を越されなければ、の話だが。
「……あの二人は、本っ当に人の話を聞きませんね!」
息を切らせながら、透は悪態をつく。肺が悲鳴を上げ、喉の奥が焼けるように痛い。それでも足を止めるわけにはいかなかった。
だが、その表情の裏に浮かぶのは焦りや苛立ちだけではなく、ある種の理解と諦念だった。
結局のところ、真っ先に現場へ駆けつけ、最も的確に対処できるのは——あの二人なのだ。
美香の身体強化と京介の結界。
その組み合わせは、いかなる緊急事態においても最優の初動対応となりうる。だからこそ透も、心のどこかで彼らの行動を認めていた。
少し前。月夜からの一本の電話が、事務所の空気を一変させた。
それまで和やかだった雰囲気が、スマホを取った透の表情の変化とともに凍りついた。
透は京介のスマホを握ったまま、真剣な眼差しで応対している。
「そうですか。……では——ええ、すぐに向かいます」
その声音に、ただならぬ緊張を感じた美香と京介は顔を見合わせた。透の表情から察するに、事態は軽くない。月夜が直接連絡してくるということは、それだけで異常事態を意味していた。
次の瞬間、美香は何の前触れもなく事務所の窓を大きく開け放った。冬の冷たい風が一気に室内に流れ込む。
「な、なにして……うわっ!」
カーテンが激しく翻り、驚いた透が振り向く。その視界に飛び込んできたのは、すでに窓辺に立ち、行動を開始する美香の姿だった。
美香は窓辺に立つと、京介を軽々と抱き上げた。まるで羽毛のような軽さで。
「八田君、行くわよ!」
「美香さん⁈」
言うが早いか、美香はお姫様抱っこのまま二階の窓から飛び出した。透が制止の声を上げる間もない。重力を無視したかのような跳躍は、まさに人間離れしていた。
「待ちなさい! まだ状況を——」
その叫びは虚しく空を切った。
美香はバッタのような跳躍力で路地を縫うように飛び回り、建物の屋根を軽々と飛び越え、あっという間に姿を消した。京介を抱えたまま、まるで重さなど感じていないかのように。
「ああ!もう!仕方ありません、私も行きます! あなたたちは危ないから待機してなさい! 」
透はスーツの上着を脱ぎ捨て、ネクタイを緩めながら階段を駆け下りる。
「二人とも、よろしくね!」
劉も続いて飛び出す。その動きは空手部で鍛えた俊敏さに満ちていた。階段を下る二人の足音が、ドタドタと響いて遠ざかっていった。
残された大和と静は、呆然としたまま取り残される。開け放たれた窓から冷たい風が吹き込み、カーテンがまだ揺れていた。
「……え、行っちゃった」
大和が呟く。状況が理解できないまま、ただ口を開けて見送るしかなかった。
「……ねえ、私たち、どうする?」
静が問いかける。しかし答えは返ってこない。答えのない空気だけが、事務所に漂っていた。二人は顔を見合わせ、どうすべきか迷っていた。
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「透さん、もう少しペース上げられますか?」
涼しい顔で言う劉。さすが空手部、体力には自信があるらしい。呼吸も乱れていないし、額に汗一つかいていない。
「無理です。三十路の体力の衰えを舐めないでください……はぁ、はぁ……」
透は苦笑しながらも足を止めない。額に汗を浮かべ、息は荒いが、意地で走り続ける。プライドが、ここで止まることを許さなかった。
「早くしないと、あの子たち、追いかけてきますよ」
「……君も一緒に残ってくれても、よかったんですよ。僕は三人全員に待機をお願いしたはずなんですが」
透は不満そうに言う。なぜ誰も自分の指示を聞かないのか。
「お断りです。京ちゃんと草薙さんが行ったのに、僕だけ行かない道理はありません。それに、戦力は多い方がいいでしょう?」
劉の言葉には、仲間を見捨てられないという強い意志が込められていた。
透は息を整えながら、前方の角を指さした。目的地はもうすぐのはずだ。
「はぁ……はぁ……さて、そろそろ店が見える頃です。僕の指示に——」
「そこまでだ」
低く、張り詰めた声が透の言葉を遮った。
それは威圧感に満ちた、明らかな敵意を帯びた声だった。
透は顔を上げる。
劉も即座に足を止め、真剣な表情で前を見据えた。空手の構えを取る準備をしている。
「……なんなんですか、皆さん。なんで僕の話を最後まで聞かないんですか?」
透は疲労と苛立ちの混じった声で呟く。
「いやぁ〜今のは俺じゃないし〜」
劉が小さく肩をすくめる。
その軽口がかえって緊張を際立たせた。敵が近くにいる。それは二人とも理解していた。
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一方その頃。
透に「待機」を命じられていた静と大和は、沈黙のまま事務所に残っていた。窓は開けっ放しで、冷たい風が入り込んでいたが、二人とも閉めようともしない。
やがて静が、決意を固めたように立ち上がる。
「……やっぱり、行こう」
「場所、わからないんだけど」
大和が現実的な問題を指摘する。確かに、どこへ向かえばいいのかわからない。
「スマホで近くのカフェ調べよう。手当たり次第、当たってみる」
静が素早くスマホを取り出し、検索を始める。検索結果に出たのは、半径五百メートル以内のカフェが五店舗。それほど多くはない。
二人は顔を見合わせ、無言で頷くと、意を決して外へ飛び出した。待機命令など、もはや関係なかった。仲間が危険な目に遭っているかもしれないのに、じっとしていられるはずがない。
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その頃——。
結界に飲み込まれた月夜、美香、京介の三人は、奇妙な光景の中にいた。
足元の感触が現実ではなく、ふわふわとした不安定なもの。まるで雲の上を歩いているような、あるいは水面を歩いているような不確かさ。重力の感覚すら曖昧だった。
「ここは……」
月夜が呟く。周囲を見回すが、理解できない光景が広がっている。
目の前に広がっていたのは、どこか懐かしい庭と屋敷。それは月夜の記憶の中にある、幼い頃の実家の風景だった。幼い天音と月夜が遊ぶ姿が、淡く透けるように見えていた。まるで古いフィルムを再生しているかのように。
「これは……お化け鏡の時みたいな異空間?」
美香は冷静に予想を立てる。
「たぶんな。僕の結界を乗っ取って僕らを閉じ込めてる。結界を張り続けてる感覚がしてしんどい……」
京介が静かに答える。
その声には疲労の色が滲んでいた。
自分の結界を逆手に取られているのは、精神的にも肉体的にも負担が大きい。
月夜は息を呑む。目の前の景色はあまりに鮮明で、まるで夢の中の現実のようだった。いや、もしかしたらこれは夢なのかもしれない。
だが、そう思いたくても、足元の感触と、美香と京介の存在が、これが紛れもない現実であることを告げていた。
「なんて…趣味が悪いのかしら」
月夜は静かに言った。




