第五章 九話 助けて 中
余白探偵社の事務所。窓から差し込む午後の光が、わずかに埃の舞う空気を柔らかく照らしている。
ソファには、美香がうつ伏せになって寝転んでいた。クッションに顔を埋め、もぞもぞと身じろぎするたびに、ポニーテールが力なく垂れて揺れる。
「うーーー……」
か細い唸り声がソファの隙間から漏れる。遊園地から帰ってきた翌日から、ずっとこの調子が続いていた。まるで魂が抜けてしまったかのように、彼女は一日中この姿勢を保っている。
「おい、座れないんだが」
京介が隣で腕を組み、やや困惑気味に眉をひそめる。美香は返事の代わりに、さらに深く顔をクッションに埋め込んだ。まるで現実から逃避するかのように。
「うーーーー」
唸り声が、わずかに大きくなった。
「草薙さん、どうしたの? 遊園地の次の日からずっと元気ないよね」
劉が心配そうに、ソファの方へ身を乗り出して覗き込む。その優しい声に反応したのか、美香の唸りは一段と音量を上げた。
「うーーーー!!」
「お、反応が強くなったぞ」
劉が驚いたように目を丸くする。
「……思い出したんだろう」
京介がぼそりとつぶやいた。その言い方には、何かを知っているような含みがある。
大和が眉をひそめて尋ねた。
「八田さん、何か知ってるんですか?」
「僕の口からは何も」
京介は視線をそらし、そっけなく答える。(まあ、あれを口にしたら余計に拗らせるだろうな……)と、内心でため息をついた。
「美香さーん、お菓子食べます?」
静が気を利かせて、ポッキーの箱を開けながら一本を差し出した。甘いチョコレートの匂いが、事務所の空気に混ざる。
クッションの奥から、美香のわずかに見える目だけが動いた。ポッキーをじっと見つめている。そして――
「……はむ」
小動物のように、ポッキーの先端に口を伸ばして噛み取った。
「た、食べた!」
静がぱっと表情を明るくする。少なくとも、食欲はまだ生きているらしい。それだけでも救いだった。
「い、樹君もやってみて!」
「えぇ……」
静に背中を押され、大和も渋々ポッキーを一本取り出す。差し出されたそれを、美香は目でじっと追い――
「はむ」
器用に口だけを動かして、ポッキーの先端を噛み切った。まるで動物園で動物に餌をやっているかのような光景である。
「わぁ! 楽しそう! 俺もやる!」
劉がノリノリで仲間に加わってくる。
「はむ」
美香は同じように、劉の持つポッキーも受け取った。
「おー、食べた食べた。京ちゃんもやってごらんよ、面白いから」
「えぇ……」
京介は明らかに乗り気ではない表情を浮かべる。
「ほら! 八田さんも是非!」
静がポッキーを手渡してくる。どうやら全員を巻き込むつもりらしい。
「はぁ……ほら、これ食べて元気出せ」
京介は観念したように、膝をついて屈み込みながらポッキーをかざした。近距離で見ると、美香の頬はほんのり赤く染まっており、瞳は潤んで見える。何かに傷ついたような、繊細な表情だった。
じっと見つめ返してくるその様子には、どこか野生動物じみた警戒心が孕まれていた。
「な、なんだよ。早く食えよ」
じー……。
美香は京介を見つめたまま、まったく動かない。その視線は、何かを訴えかけるようでもあり、拒絶しているようでもある。そして――
ぷいっ。
無言で顔をそらし、再びクッションに顔を埋めた。
「なんでだよ」
京介が脱力してぼやくと、静が「せっかく心を開きかけたのに……」としょんぼりと肩を落とす。まるで野生動物の信頼を得ようとして失敗した飼育員のような表情だった。
そんな中、部屋の隅でカサカサと紙の音がした。
「……何を、しているんですか?」
書類整理をしていた透が振り返る。その表情には、呆れと困惑が混ざっていた。
視線の先には、ポッキーを構えたまま固まっている京介と、うつ伏せのまま動かない美香の姿がある。
「僕も、もうわかんないです……」
京介が諦めたように肩を落として言う。透は小さくため息をついた。
「はぁ……そんなところに寝転んで、淑女が聞いて呆れますよ」
「……」
無言。反応なし。美香は微動だにしない。
だが次の瞬間――透の口から、ある名前が発せられた。
「教育係、笹野麻耶」
「!」びくっ。
美香の体が、明らかに震えた。
「マナー講師、サリー・ショッテ」
「!!」びくびくっ。
さらに大きく震える。その反応は、まるで天敵の名前を聞いたかのようだった。
「今度、お二人をこちらにお呼びしましょうか? 皆さんのマナー向上のために」
「勘弁してください!!」
美香は跳ねるように上体を起こし、背筋をピンと伸ばした。さっきまでの無気力な様子はどこへやら、完璧に近い正座の姿勢である。その素早さは、まるで別人のようだった。
透は満足げに頷き、再び書類へ視線を戻した。
「……草薙さん、教育係の名前に異常反応するんだね」
劉がぼそっとつぶやく。その声には、新しい発見をした時の驚きが含まれていた。
京介が笑いをこらえながら、「劉、覚えておこう。これがコイツの弱点だ」とスマホを取り出す。
「やめなさい!」
美香が慌てて叫ぶ。
その表情には、羞恥と怒りが混ざっていた。
笑い声が事務所に広がる。午後の日差しが少しずつ傾き始め、ほんの少しだけ穏やかな空気が戻ってきた。
「それで、美香さん。どうしてそんなはぐれスライムみたいに溶けてたんですか?」
静が、おそるおそる話の軌道を修正した。
相変わらず美香はソファの上に正座したまま、目線を落としている。その肩が、かすかに震えているのが見えた。
「……れた」
「え?」
静が首を傾げる。小さすぎる声が、まるでクッションの奥に吸い込まれるように消えていった。
「振られた」
「「えぇーー!?」」
一瞬で、事務所の空気が凍りついた。京介以外の全員が、まるで爆弾が落ちたかのような顔で硬直する。書類を整理していた透までもが、手にしていた紙束を中途半端な位置で止め、ゆっくりと顔を上げた。
「……」
沈黙が落ちる。だが、なぜかその沈黙の中で、全員の視線が一斉に京介へと向けられた。
「……なぜこっちを見る」
京介が眉をひそめる。その口調には、明らかに「やましいことなど何もない」という苛立ちがにじんでいた。
しかし、劉は腕を組みながら真面目な顔で言った。
「だって、『振られた』って……そういうの、普通は相手がいるよね? まさか観覧車に? いや、でも天音さんと月夜さんも一緒のゴンドラだったし……どういうシチュエーション?」
「はっ! まさか!」
静が突然、はっとしたように声を上げる。顔を真っ赤に染めて、目をキラキラと輝かせている。
「な、何、どうしたの静?」
大和がたじろぐ。静の突然の興奮に、戸惑いを隠せない様子だ。
静は両手をぶんぶんと振って、大和を手招きした。
「耳、耳貸して樹君!」
「え、あ、うん……?」
大和が静に近づくと、静は興奮気味に顔を寄せて、小声で語り始めた。
「つまり、こういうことだよ!」
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場所は夕暮れの観覧車。西日が赤く射し込み、ゴンドラの窓ガラスに淡いオレンジ色の光が滲んでいる。
四人乗りの座席には、なぜか三対一という異様な配置――女性三人と、京介一人だけ。
空気は重く、張り詰めた沈黙が支配している。揺れるゴンドラの中で、まるで時が止まったかのような緊張感が漂っていた。
「八田君、好きよ。付き合ってほしい」
美香が先陣を切って、まっすぐに告白する。その声には、勇気と覚悟、そしてどこか切なさが混ざっていた。顔は真っ赤に染まっているが、目はしっかりと京介を見つめている。
「わ、私もです! 八田さんは私の冤罪を晴らそうと動いてくれた恩人です! 絶対に幸せにします!」
続くように、天音が胸に手を当てて宣言する。真っ赤な顔で、必死にまっすぐ見つめている。その目には、強い決意が宿っていた。
「お二人と八田君では、テンションの差がありすぎて毎日が大変ですよ。私と一緒に、静かで穏やかな幸せを築きましょう」
最後に月夜が、落ち着いた声で口説きにかかる。その言葉の一つひとつが、妙に大人びて聞こえた。まるで大人の女性が男性を誘うかのような、色気さえ感じられる口調だった。
「「「さあ、選んで」」」
三方向から同時に視線が突き刺さる。京介の背筋が、凍りつく音を立てた。
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「って感じだったんだよ! きっと!!」
静が鼻息を荒くして立ち上がる。清楚でおとなしい印象の彼女は、今や完全にどこかの実況系配信者のようなテンションになっていた。
「静、時に聞くが……最近ハマってるゲームか漫画、あるか?」
大和が冷静に、しかしわずかに疲れた声で尋ねる。
「『ドキッ! ハーレム王の学園生活』っていうブラウザゲームにハマってるの! 今度URL送るね!」
「遠慮しとく。というか、その有害ゲームは今すぐアンインストールしておけ」
「えぇー!? ひどい!」
静が両手を広げて残念そうに嘆く。
その隣で大和が「残念なのはこっちだよ……」と小声でため息をついた。
一方、劉は腕を組みながら小声で「でも、あり得なくはないよね……」とぶつぶつ呟いている。
透は透で、書類を手に持ったまま動かず、固まっていた。
まるで信じていた何かが音を立てて崩れたかのような表情だった。
事務所の空気は、完全にカオスである。
「あの……みんな、勘違いが激しすぎるんだけど!」
美香が両手をばたばたさせながら叫ぶ。頬を真っ赤にして、涙目で必死に否定する姿は、逆に誤解を加速させていた。
「もう、さっさと白状しちまえ。僕の名誉のためにも」
京介がぼそっと言うと、全員の視線が再び美香へと集中した。彼女の顔はさらに真っ赤に染まり、声にならない悲鳴をあげる。
「〜〜〜〜っ!!」
美香は観念したように、深呼吸をしてから話し始めた。
「実はね…」
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〜お嬢様説明中〜
「と、言うわけで勧誘は失敗しました。」
美香がしょぼんと答える。
「え、でも三人ともゴンドラから出てからもお土産選びや車で話してませんでした?」
大和が純粋な疑問を問う
「大和、いいことを教えてやる女子は強かなんだ、一見笑顔でも腹の内は真っ黒なんだぞ」
「ひえ」
「「ごほん」」
「二人とも話の腰をおらないでくれます?」
「話、戻すわね?」
静と美香がとてもいい笑顔で男子二人を諭す。
「でも、意外だね。天音さんの方が、拒否反応が強いなんて」
劉が首を傾げる。
「……トラウマでも、あるのかしら」
美香がぽつりと呟いた。
トン。
少し静かになった事務所に、紙の束を整える音が響く。
「人のトラウマなんて、探るものではないですよ」
透が、落ち着いた声で言った。
「断られたのなら、シンプルに相手のことを知るのが一番です」
「?要は同じじゃないの? 要は、断る理由を探るんだから」
美香が尋ねる。
「まったく違います」
透はきっぱりと答えた。
「『トラウマ』を探るのと、相手の『人となり』を知るのでは、根本的に違います。トラウマを探るのは、相手の傷を無理やりこじ開けるようなもの。でも、人となりを知るのは、相手を理解しようとする姿勢です。まずはお互いの信頼関係を築いていくのが、確実な方法です」
透の言葉には、説得力があった。
「まあ、今すぐどうにかしなくてもいいんじゃないか? あいつらの目的は、僕と草薙なんだから。どこかに行くことはないだろう」
京介が、やや投げやりに言う。
「八田君……それ、あまりフォローになってないわよ……」
美香がため息をつく。
「それに……んあ?」
京介が何かに気づいたように、ズボンのポケットを探ってスマホを取り出す。
ブブブ―ブブブ―ブブブ。
京介の黒いケースに包まれたスマホが、震えている。画面を見て、京介は驚いたような顔をした。
「京ちゃんに電話? 珍しいね。詐欺?」
「噂をすれば……月夜からだ」
「!!」
全員の空気が、一瞬で変わった。
「何ぼーっとしてるの、早く出なさいよ」
美香が急かす。
「京ちゃん、ここで! ここで出て、そしてスピーカーにして」
劉が興奮気味に言う。
「ええ、なんでだよ」
「八田さん! 誠意を見せましょう!」
静が目を輝かせる。
「静、ちょっと黙ってような」
大和がうんざりしたように言うと、劉がさっと京介のスマホを操作した。
「えい!」
「ああ、おい!」
電話が繋がってしまった。
「も、もしもし?」
京介が慌てて応答する。
『八田さん、お願いします! 助けてください!』
「!」
電話の向こうから、切羽詰まった声が聞こえてきた。
「つ、月夜?! どうした?」
『天音が、天音が!』
「落ち着けって!」
『天音が死んじゃう!』
「はぁ?!」
京介の顔色が変わる。
事務所の全員も、緊張した表情で電話の声に耳を傾けた。
「八田君、代わってください」
後ろから透が冷静な声で話しかける。
京介はスマホを透に手渡した。
「月夜さん、天音さんはどういう状態なんですか?」
透が落ち着いた声で尋ねる。
『天音が……ケガレに乗っ取られて……』
「! お二人は今、どこに?」
透の表情が、わずかに強張った。




