第五章 九話 助けて 上
同じ頃。
山から離れた街中の小さなカフェで、月夜と天音の双子姉妹がテーブルに向かい合って座っていた。
店の奥の方の席――席と席が木製の仕切りで区切られ、客のプライバシーが守られている空間だ。
後ろめたいことを抱えた人間が過ごすにはピッタリの場所。
「ねえ、遊園地のこと、まだ気にしてるの?」
月夜がアイスコーヒーを飲みながら尋ねた。
彼女の声には、妹を気遣う優しさが滲んでいる。
「うん……あの日、すごく感情的になって、美香さんに酷いこと言っちゃった」
天音が小さく頷く。
その表情には、明らかな後悔の色が浮かんでいた。
「…別に気にしてないと思うわよ。」
月夜は優しく微笑んだ
「…あの時、美香さんから変な感じがしたの」
天音が、まるで秘密を打ち明けるように小さな声で言った。
「変な感じ、って?」
月夜が心配そうに身を乗り出す。テーブルの上で、二人の手が触れ合った。
「嫌なものじゃないんだけど……暖かくて、安心できて、優しくて強い音だった。その音を聴いたら、一緒に居たいと思っちゃって……怖くなったの。そんなのダメなのに」
天音の声は震えていた。まるで禁じられた感情を抱いてしまったことを告白するかのように。
「天音…」
月夜の胸が締め付けられた。できれば妹にこんな思いさせたくない。でも私たちの首には、彼らの首輪がかかっている。組織の命令に逆らえば、どうなるか――
「お姉ちゃん、そんな顔しないで。私、大丈夫だから」
天音が無理に笑顔を作る。でもその笑顔は、月夜の心をさらに痛めつけた。
天音が言葉を探すように視線を彷徨わせる。
「それにあの時、私――」
その瞬間だった。
――ヒュゥゥゥゥゥ……
天音の耳に、遠くから微かに歪んだ笛の音が聞こえた気がした。
「……っ!」
天音が突然、頭を抱える。
その動きは激しく、まるで頭蓋骨を割られるような痛みを感じているかのようだった。
「天音!?」
月夜が驚いて立ち上がる。椅子が倒れそうになり、ガタンと音を立てた。
天音の呼吸が荒くなる。
額に冷や汗が浮かび、顔が青ざめていく。
まるで生気が吸い取られていくかのように、その顔色は真っ白に変わっていった。
「お姉ちゃん……なんか、おかしい……」
彼女の声は震えていた。
まるで何かに怯えているように。
「大丈夫、落ち着いて! 深呼吸して!」
月夜が妹の肩を掴む。
天音の体は小刻みに震えていた。
天音は必死に息を整えようとするが――
その瞳が――
一瞬、黒く染まった。
「……!」
月夜の息が止まった。
心臓が激しく打ち、耳鳴りがする。
まるで時間が止まったかのような感覚に襲われた。
月夜は妹の手を強く握る。その手は冷たく、まるで氷のようだった。
(何かが、起きてる――)
ブブブ、ブブブ……
そのとき、月夜のスマホが震えた。
スマホの画面には『狐男』と表示されている。月夜の全身に悪寒が走った。
月夜はすぐに出た。
「やぁ、月夜ちゃん。天音はどうしてる?」
電話口から、いつもの軽薄な声。聞くだけで吐き気がする。まるで全てを知っているかのような、余裕のある声だ。
「た、助けてください。天音が、天音が突然苦しんで…」
月夜は声を絞り出した。こんな奴に頭を下げたくない。でも今は――妹のためなら、神だろが悪魔だろうが縋り付いてやる。
「…ああ、やっぱりそっちに行ったか」
「はぁ?」
電話口から聞こえたふざけた言葉に、月夜は耳を疑った。
「この前ちょっと話したでしょ、石塔のケガレを一掃するプラン」
男の声は、まるで天気の話でもするかのように軽かった。
知ってるも何も、月夜と天音が必要な道具である『起舞の扇子』を集めるための橋渡しをしたのだ。
警備の情報を教えられ、文化祭の詳細をリークされ、あまつさえコイツの独断で愛しい妹を窃盗犯として扱わされた。
忘れるものか。
「今、それがなんの関係が」
「そのプラン、失敗したんだよ」
「!」
月夜の顔から血の気が引いた。
「想像以上にケガレの放出が早かった。扇子で消しきる前に封印が解かれてね。まあ、想定外のアクシデントってやつさ」
「まさか」
月夜の顔が青くなる。嫌な予感が、確信に変わっていく。
男が少し間を置いて、冷たく告げた。
「そのケガレが天音を『宿り主』に選んだ。被害が出る前に『対処』しないといけない」
月夜の手からスマホが滑り落ちそうになった。指先の感覚が消えていく。
「嘘……」
「嘘じゃないよ。天音は特にケガレを引き寄せやすい性質なのは知ってるでしょ? だから僕らも彼女を使ってるんだし」
男の声は、まるで道具の性能について語るかのように淡々としていた。
「……っ!」
「二人は今、どこにいる」
月夜は震える指で、通話を切った。
ピッ。
「はぁ……はぁ……」
荒い息を吐きながら、月夜は天音を見た。
妹は、まるで悪夢に苛まれているかのように、苦しげに呼吸している。
(どうしよう、どうしよう、どうしたら……!)
月夜の頭は真っ白だった。思考が回らない。どうすればいいのか、何をすればいいのか、全く分からない。
(なんで、よりにもよって天音が……!)
そのとき、背後に人の気配を感じた。
「!」
月夜は反射的に振り返る。
そこに立っていたのは――組織の人間ではなかった。
「お客様! 大丈夫ですか!?」
淡いグレーのエプロン姿をした中年女性が、慌てた様子で駆け寄ってきた。品のある物腰だが、その表情には心配の色が浮かんでいる。
女性は天音の様子を一目見て、顔色を変えた。
「これは……! 呼吸が浅すぎます。すぐに救急車を――」
「待って!」
月夜が女性の腕を掴んだ。
その力は、女性が驚くほど強かった。
「天音に触らないで!」
「で、ですが! このままでは命に関わります!」
「これは病気じゃないんです! 持病みたいなもので……すぐにお暇しますから……!」
月夜は必死だった。救急車なんて呼ばれたら、組織に居場所を知られる。
そうなれば、天音は――
「こんな状態の方を放り出すなんてできません!」
女性は毅然と言った。
その声には、譲れない何かがあった。
「うちの個室で休んでください。人目につかない場所があります。お得意様専用の個室ですが、今は誰も使っていません」
「そんな……まず、あなたは誰なんですか!」
月夜が警戒心を露わにする。見ず知らずの人間を、今は信用できない。
「私は『草薙グループ』よりこのカフェのオーナーを任されております、如月千代と申します」
女性は、落ち着いた口調で名乗った。
「草薙グループ……!?」
月夜は息を呑んだ。
草薙美香の家のグループだ。手広くやっているとは聞いていたが、こんな街中のカフェまで……こんな偶然があるのか?
「さあ、早く」
千代は、驚くべき手際で天音を抱き上げた。
その動きは慣れたもので、まるで何度も人を運んだことがあるかのようだった。体格の良い女性ではないのに、天音を軽々と抱えている。
「お姉さんは、もしお迎えに来ていただける方がいらっしゃったら、ご連絡を。それと、念のため救急車の手配も――」
「救急車は結構です!」
月夜は強く言った。
そう言って千代は、天音を抱えたまま店の奥へ向かっていく。
「えっ、ちょ、ちょっと……!」
月夜は慌てて後を追った。
店の奥、分厚いカーテンの先にある重たい木のドアを開けると、豪華な個室だった足元の分厚いカーペットが足音を吸い込み、壁には金の額に入った油絵が並んでいる。椅子は革張り、テーブルは艶のあるマホガニー
個室に運ばれた天音は、柔らかいソファに横たえられた。
千代が毛布をかけ、額に冷たいタオルを置く。その動作は丁寧で、まるで自分の娘を看病するかのようだった。
「しばらく様子を見ましょう。もし悪化するようなら、やはり病院に――」
「大丈夫です! 本当に……」
月夜は必死に頭を下げた。
千代はじっと月夜を見つめた。
その目は優しいが、同時に全てを見透かすような鋭さも持っていた。
そして静かに頷いた。
「……わかりました。何か事情がおありなのでしょう。ですが、妹さんの命に関わるようなら、私も黙ってはいられません。その時は、あなたの意思に関わらず救急車を呼びます」
そう言い残し、千代は部屋を出ていった。
一人残された月夜は、スマホを握りしめた。
(迎えに来てくれる人……)
いるわけがない。
両親とは縁を切ってる。
組織は敵だ。
彼らは天音を「対処」すると言った。それが何を意味するのか、考えたくもない。
友人なんて……
月夜は連絡先を眺めた。
ほとんど空っぽのリスト。組織の監視下にある私たちには、友人を作る自由さえなかった。
そして――
一つの名前に、目が止まった。
『八田京介』
(……でも、彼を巻き込むわけには……)
月夜の指が震える。
ソファで苦しむ天音を見て、そして再びスマホを見た。
天音の呼吸は、さらに浅くなっている。顔色も、さらに悪くなっていた。
(ごめん……ごめんなさい……八田君……)
月夜は、震える指で通話ボタンを押した。




