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番外編『杉原劉の成り立ち』下

次の日。


ぼくたちは約束通り、少し離れた大きな公園に来ていた。市の端にある広い公園。


遊具もたくさんあって、池もあって、木々が生い茂っている。緑が綺麗だ


陽子さんが作ってくれたお弁当を持って、三人で走り回っていた。おにぎりと唐揚げと卵焼き。デザートにはイチゴも入っていた。レジャーシートと水筒。完璧なピクニックの準備。


「劉、鬼ごっこしよう!」

「うん」

「私も! 私が鬼ー!」

瑠衣ちゃんが元気に手を上げる。

小さな体で一生懸命走る姿が可愛い。


その時だった。

「八田京介君」

低い声が響いた。


冷たく、感情のない声。

振り返ると、二人の男が立っていた。木陰から現れたように、突然そこにいた。


一人は黒髪短髪の強面の大男。

筋肉質で、明らかに普通の人ではない雰囲気。


もう一人は——白い狐の面をつけた、高校生くらいの男の子。細身で、どこか不気味な佇まい。


その面の奥から、鋭い視線を感じる。


「……誰?」

京介が警戒した様子で尋ねる。

ぼくの手を握る京介の手に、力が入った。


「君の『力』が必要なんだ。組織にとって、君の能力は貴重だ」

狐面の男が、不気味な声で言った。

機械的で、でもどこか興味を含んだ声。


「京介!」

浩二さんが駆け寄ってくる。

瑠衣ちゃんを抱きかかえて、必死の形相で。


陽子も、三人を庇うように立ちはだかって空手の構えをとる。

その動きに一切の迷いはなかった。


腰を落とし、重心を安定させ、いつでも動ける体勢。


「子どもたちに何の用!」

陽子さんの声が、いつもと違って鋭い。

優しい祖母の顔ではなく、戦士の顔。


「邪魔をしないでいただきたい」

強面の男が一歩前に出る。


その動きだけで、圧倒的な威圧感。

「逃げて、京介! 劉くん、瑠衣を頼む!」


浩二さんが叫んだ。その声には、恐怖と決意が混じっていた。


陽子さんが強面の男に向かっていく。

ロングスカートにハイヒールと動きにくい装いだが子供たちの非常事態には関係ない。 

「はああッ!」


鋭い蹴りが強面の男の頬にあたる。

ヒールの踵により大きく傷を作る。


「っ!」

「わお」


強面の男の身体がわずかに揺れる。

不意を突かれたのか、瞳に一瞬だけ驚愕が灯る。


陽子は止まらない。

身軽に足の踏み替え、地を蹴り、拳を伸ばす。

狙いは顎。

男の体勢を崩すために。


だが――


「どけッ」


鈍い衝撃音。


「ぐっ!」


陽子さんの体が宙に浮き、芝生に叩きつけられる。

いくら芝生だろうと勢いよく叩きつけられればかなりの衝撃がある。

陽子の腕から血が流れる。


「陽子!」

浩二さんが叫ぶ。



「京ちゃん、逃げよう!」

ぼくは京介の手を掴んで走り出した。

心臓が激しく跳ね上がる。呼吸が荒くなる。

瑠衣ちゃんも必死についてくる。小さな足で、転びそうになりながら。


背後から、足音が追ってくる。規則正しく、確実に距離を詰めてくる音。

「ちょっと待ってよ、僕あまり体力に自信ないんだけど」

狐面の男の声が聞こえる。息を切らしながら、でも余裕を感じさせる声。遊んでいるような口調。

でも、足音は止まらない。むしろ近づいてくる。


「はぁ、はぁ……」

息が切れる。京介も必死で走っている。ぼくの手を強く握りしめて。瑠衣ちゃんの手も握って。

その時——

「!」

瑠衣ちゃんが、手を離した。バランスを崩して、よろめいて。

そして、車道に飛び出した。


「お嬢ちゃん、止まるんだ!」

狐面の男の大きな声が聞こえる。


でも、間に合わなかった。



車が——


ブレーキ音が響いた。

鈍い衝撃音。

瑠衣ちゃんに、


ーーーぶつかった。


「瑠衣!」

京介が叫んだ。声が裏返る。世界が止まったような感覚。

ぼくの体が固まった。


何が起きたのか、理解できなかった。頭が真っ白になる。

「こんなの……聞いてない……」

狐面の男が呟く。

その声に、初めて動揺が混じった。


「この騒ぎで子供を誘拐なんて無理だ。とりあえず——」

そう言って、狐面の男は京介に触れた。

額に、そっと手を当てた。


その瞬間。

京介は、人形のように動かなくなった。

そして、糸が切れたように、地面に倒れた。

「京ちゃん!」

ぼくは叫んだ。喉が裂けそうなほど。


「いけない! 事故を間近で見てしまったショックで貧血になったんだ! 大丈夫かい?」

狐面の男は、しゃがみ込んで京介を介抱するかのように支えた。周囲の人々に向けて、心配そうな演技。

完璧な芝居。


「京ちゃんから離れろ!」

ぼくは必死に狐面の男を押した。

でも、全く動かない。力の差が絶対的。


「大丈夫だよ、ちゃんとよくなるからねぇ〜」

そして、ぼくにだけ聞こえる声で、小声で言った。

「記憶を消せば、あれは使えなくなる。覚えておくんだよ。」

「!」

ぼくは息を呑んだ。


その言葉の意味が、徐々に理解できた。

絶望が、心を侵食していく。

救急車が到着した。サイレンの音。


人だかり。騒然とする現場。

瑠衣ちゃんが運ばれ、京介も一緒に運ばれていった。担架に乗せられた小さな体。


怪我をしていた陽子さんが同伴し、浩二さんとぼくは後から病院に向かった。タクシーの中で、浩二さんは何度も拳を握りしめていた。悔しさと無力感。


ぼくも同じだった。



そのあとは、いろいろ忙しかった。


警察の事情聴取。何度も何度も同じことを聞かれた。あの男たちの顔。服装。話した内容。

でも、狐面の男の最後の言葉は言えなかった。


誰も信じないだろうから。

施設の人との話し合い。心配そうな先生たちの顔。


カウンセラーとのお話。

「トラウマ」という言葉を何度も聞いた。


でも、一番ショックだったのは——

「京ちゃん?」

病室で、ぼくは京介に声をかけた。白いシーツ。

消毒液の匂い。機械音。


「…………」


京介は、ぼくをぼんやりと見ていた。

「京介君、この子、わかる?」

医者が尋ねる。白衣の男性。優しい声だけど、その質問が残酷だった。


「……わかんない」

京介が小さく首を振る。

ぼくの心臓が、止まりそうになった。


事件のショックか、狐面の男のせいか。京介は、記憶を失っていた。

ぼくのことも、一緒に過ごした日々も、何もかも。


「ぼくのせいで……」

病院の廊下で、ぼくは呟いた。

「ぼくのせいで……」

もし、ぼくがいなければ。もし、ぼくが八田家に行かなければ。

京介は、あんな目に遭わなかった。

瑠衣ちゃんも——

「劉くん」


浩二さんが、ぼくの肩に手を置いた。

「劉くんのせいじゃない」

「でも……!」

「劉くんがいなかったら、京介は今頃もっと寂しい思いをしていたよ」

腕に包帯を巻いた陽子さんが、優しく微笑んだ。


「劉くんがいないと、京介はひとりぼっちになってしまう。これからも、一緒にいてあげて」

「……はい」

ぼくは、かすれた声で答えた。

病室で、ぼくは京介の寝顔を見つめていた。

ぼくは弱い。大切な人を守れない。


でも——だからこそ。

「京ちゃんだけは、絶対に守る」

ぼくは静かに呟いた。

「この人だけは、何があっても失いたくない」

胸の奥で、何かが固く結ばれていくのを感じた。

それは決意という名の、小さくて強い光だった。


ーーーー


そのあと、俺は陽子さんに頼んで空手を教えてもらった。


強くなりたかった。

もう二度と、大切な人を失いたくなかった。


夏休みの時、京ちゃんに話したことは、陽子さんや浩二さんと相談して少しぼかすことにした。


京ちゃんがあの組織を恨んで、憎しみだけで生きてしまわないように。


俺は、京ちゃんを守る。


何があっても。


それが、俺の生きる理由だから。

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