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番外編『杉原劉の成り立ち』上

遊園地から帰宅途中、透の運転する車の中で、ふと杉原劉は目が覚めた。窓の外を見ると、見慣れた景色が流れている。助手席からは透の穏やかな運転音だけが聞こえ、車内には静寂が広がっていた。


隣を見ると、幼馴染の八田京介が腕を組んで眠りに着いていた。少し開いた口元、規則正しい寝息。変わらない寝顔だ。


ほんとに、この幼馴染は寝るのが好きだ。


劉は昔と変わらない寝顔の京介を見て、不安になった。

(俺は京ちゃんをしっかり守れてるのかな)

今日の遊園地での出来事が脳裏をよぎる。

天音や月夜と遊び、仲良くなり、あわよくばこちらに情報を提供してもらいたいと考えていた。だが、観覧車を降りた後の美香たちの反応を見ると、あまり結果は芳しくなかったようだ。距離を感じた。

それでも、無意味ではない。少なくとも二人と一日関わり、多少は人となりを知れた。焦りは禁物だ。


(もう少し時間をかけて、じっくりと)


本音を言えば、京ちゃんをこれ以上、危ない橋を渡らせたくない。石塔であの狐面と傷の男に接触した時は、肝が冷えた。


京ちゃんが何かを思い出しかけているような表情を浮かべた時、劉の心臓は激しく跳ね上がった。


記憶が戻れば、真実を知る。

あの日の恐怖を、喪失を、すべてを。


(京ちゃんは俺が守るから、あの時みたいには絶対にしない)


劉は静かに目を閉じた。そして、あの日のことを思い出す。


すべてが始まった、あの夏の日のことを。

俺たちの日常が止まってしまったあの運命の夏を。


ーーーー


緑の匂いがする場所

ぼくは、この家が好きだった。


八田家の庭は、いつも緑の匂いがした。

夏の陽射しが眩しくて、セミの声がうるさくて、でもそれが心地よかった。


「劉くん、お茶入れたわよー」

縁側から、陽子さんの優しい声が聞こえる。

麦わら帽子をかぶった浩二さんが庭の隅で何かの手入れをしている、大きな背中。時折聞こえる鼻歌。丁寧に植物を扱う手つき。その姿を見ているだけで、ぼくは安心した。


「劉ー! こっちこっち!」

京介が手を振りながら走ってくる。Tシャツの裾が風になびき、素足の足音が芝生を踏む。その後ろを、小さな瑠衣ちゃんがよちよちとついて回っている。

「おにーちゃん、まってー!」

小さな手を一生懸命伸ばして、懸命に兄を追いかける姿が愛らしい。


「瑠衣、危ないぞー」

京介が妹を気遣いながら、ぼくの手を引く。その手は汗ばんでいて、でも力強くて温かかった。


「なぁ劉、今日はあの木に登ろうぜ!」

「うん」

ぼくは短く答えた。

言葉は少なかったけれど、京介はいつも笑ってくれた。それ以上を求めず、それで十分だと言ってくれる。

 

ーーーー


ぼくには、もともと家族がいなかった。

正確には、いたのかもしれない。でも、覚えていない。物心ついた時には施設にいた。

施設で育ったぼくにとって、「家族」という概念は、本で読む物語の中にしかなかった。テレビで見る温かい食卓も、誕生日を祝ってくれる両親も、すべて遠い世界の出来事だった。


他の子たちは、日曜日になると誰かが迎えに来る。でも、ぼくには来ない。面会室から聞こえる嬉しそうな声。「ママ!」「パパ!」という叫び声。それを遠くから聞きながら、ぼくは図書室で本を読んでいた。

それが当たり前だと思っていた。寂しいとも思わなかった。


感情を表に出すのも苦手だった。

他の子たちが騒いでいても、ぼくはいつも隅で本を読んでいた。先生たちは「大人しくていい子」と言ってくれたけれど、それは褒め言葉ではなく、ただの事実だった。ぼくは感情の出し方がわからなかっただけだ。

そんなぼくに、声をかけてくれたのが京介だった。

「おれの友達になってよ!」


屈託なく笑う京介の顔を、ぼくは今でも覚えている。太陽みたいに明るい笑顔。差し出された小さな手。少し汚れた半ズボンと、擦りむいた膝。

友達って、なんだろう?


その言葉の意味も、よくわからなかった。でも、京介の笑顔が嘘じゃないことはわかった。

そう思いながら、ぼくは小さく頷いた。


「劉くんも一緒がいい!」

京介が強く言ってくれた日、ぼくは初めて「友達の家」に行くことになった。それは施設の先生も驚くような提案だった。

通常、施設の子どもが外泊するには様々な手続きが必要だ。でも、京介は祖父母と一緒に熱心に施設と交渉してくれた。

ほぼ京介のゴリ押しだったが


施設の先生が心配そうに見送ってくれた。

「劉くん、何かあったらすぐに連絡するのよ」

「はい……」

ぼくは緊張で胸がいっぱいだった。

小さなリュックサックには、着替えと歯ブラシと、お気に入りの本が一冊。それだけが、ぼくの持ち物だった。


「ようこそ、劉くん」

玄関で迎えてくれた陽子さんの声は、とても優しかった。背が高くて、凛とした佇まいの女性。でも、その笑顔は太陽のように温かかった。


「さ、上がって。京介と同じ部屋でいいわよね?」

「は、はい……」

ぼくは小さく返事をした。玄関に並ぶ家族の靴。壁に飾られた写真。廊下から漂う夕食の匂い。すべてが新鮮で、少し怖かった。


浩二さんが優しそうに笑う。大きな体と日焼けした顔。働き者の手。

「よし! 京介、劉くんをちゃんと案内しておやり!」

「まかせろー!」

京介が得意げに胸を張る。


その姿が、ぼくにはまぶしかった。自信に満ちた表情。自分の居場所があるという安心感。それが羨ましくて、でも嫌いじゃなかった。


夕食の時間。


テーブルには、たくさんの料理が並んでいた。湯気の立つ味噌汁。焼き魚。煮物。色とりどりのおかず。施設の食事とは違う、家庭の味。


「劉くん、好き嫌いある?」

「いえ……」

「じゃあ、たくさん食べてね。育ち盛りなんだから」

陽子さんが優しく微笑む。その笑顔に、ぼくの緊張が少しほぐれた。


「いただきます」

みんなで声を揃えて言う。それだけで、なんだか温かい気持ちになった。一つのテーブルを囲むこと。同じものを食べること。それがこんなにも特別なことだとは知らなかった。


「劉、これうまいぞ!」

京介が唐揚げを頬張りながら言う。口の周りに油をつけて、子どもらしい表情で。瑠衣ちゃんがその真似をして、小さな口いっぱいに食べ物を詰め込む。


「こら、京介、瑠衣、ゆっくり食べなさい。喉に詰まらせたら大変でしょう」

陽子さんが笑いながら注意する。でも、その声には怒りはなく、愛情だけがあった。


この空間が、ぼくにはとても不思議だった。


これが、家族なんだ。


温かくて、賑やかで、少し騒がしくて。でも、それが心地よい。誰も一人じゃない。みんなが繋がっている。


そんな当たり前が、ぼくには奇跡のように思えた。


それから、ぼくは何度も八田家に泊まりに行くようになった。施設の先生も、ぼくの変化に気づいていた。少しずつ、表情が豊かになっていくぼくを。


ある日、三人で虫取りに行った。真夏の暑い日。青い空と白い雲。セミの声が耳をつんざくほど響いている。

「劉、これがセミだよ!」


京介が網を振り回しながら教えてくれる。木の幹に止まったアブラゼミを、慎重に、でも大胆に捕まえる。

「りゅうくん、みてみて!」

瑠衣ちゃんが小さな手に花を摘んで、ぼくに差し出してくれる。黄色い小さな花。名前は知らないけれど、とても綺麗だった。


「ありがとう」

ぼくが言うと、瑠衣ちゃんは嬉しそうに笑った。満面の笑み。屈託のない喜び。

「京ちゃんも、ありがとう!」

瑠衣ちゃんは京介の真似ばかりしていた。


京介が「ありがとう」と言えば、瑠衣ちゃんも「ありがとう」。京介が転んで膝を擦りむけば、瑠衣ちゃんが小さな絆創膏を持ってくる。

「痛いの痛いの飛んでけー!」


一生懸命に貼ってくれる瑠衣ちゃんの姿が、愛おしかった。小さな手が震えながらも、真剣に兄の怪我を治そうとする。その純粋な優しさに、ぼくの心が温かくなった。


「京介ー、劉くーん、ご飯よー!」

陽子さんの声が聞こえる。遠くから、でもはっきりと。


三人で走って家に戻ると、浩二さんが笑っていた。庭で水を撒きながら、汗を拭いながら。

「おう、たくさん遊んだか!」

「うん!」

京介が元気に答える。ぼくも小さく頷いた。言葉は少なくても、気持ちは伝わる。それがわかるようになっていた。


ある日、陽子さんが京介に空手を教えようとした。

「京介、ちょっとこっち来なさい」

「えー、やだー! 痛いもん!」

京介が逃げ回る。庭を右往左往して、木の陰に隠れて。

陽子さんは若い頃、空手の達人だったらしい。黒帯を持っていて、大会でも活躍していたと浩二さんが教えてくれた。

「逃げるな! 男なら強くならなきゃ! 大切な人を守れないわよ!」

「劉、助けてー!」

京介がぼくの後ろに隠れる。ぼくは思わず笑ってしまった。声を出して笑うなんて、いつぶりだろう。


陽子さんも笑っていた。でも、その目は真剣だった。「強さ」について、何か深い想いがあるような表情。


ある日のこと。

ぼくたちは庭の大きな木に登っていた。樹齢何十年という立派な木。太い幹と広がる枝。

「劉、もっと上まで行けるぞ! 上からの景色、すっげーんだ!」

京介が先に登っていく。身軽に、恐れることなく。ぼくもその後を追った。

でも、足を滑らせた。

「あっ!」


体が宙に浮く。重力に引っ張られる感覚。時間がゆっくりと流れた。

「劉!」

京介が咄嗟に手を伸ばした。その瞬間——

空気が歪んだ。


透明な何かが、ぼくの体を受け止めた。まるで、目に見えない壁のように。柔らかく、でも確かな感触。クッションのようでもあり、水のようでもあり。

「え……?」


ぼくは地面に無事に降り立った。膝が少し震えている。京介も驚いた顔をしている。瞳を見開いて、自分の手を見つめて。

「今の……なんだ?」

「わかんない……」


京介が自分の手を見つめる。両手を握ったり開いたり。何かを確かめるように。

「でも、劉が落ちた時、グワッと来たんだ。体の中から、何かが出た感じ。おれ、ちょーのうりょくしゃなのかな!」

「すごい! すごい!」


ぼくは思わず声を上げた。胸が高鳴る。京介が、特別な力を持っているなんて。

「いいか、劉。このことは二人だけの秘密だぞ。このパワーで、二人でヒーローになるんだ! 悪い奴をやっつけて、困ってる人を助けるんだ!」


京介がキラキラした目で言う。子どもらしい夢。純粋な正義感。ぼくは強く頷いた。

「うん、京ちゃんと一緒なら!」

初めて、自分から「京ちゃん」と呼んだ。それまでは「京介」と呼んでいたのに、自然と愛称が出た。


次の日からしばらく、二人は「能力の訓練」と称して遊んだ。庭の隅で、人目を避けながら。

でも、バリアは不安定だった。望んで出る時もあれば、どんなに力んでも出ない時もあった。集中すると出やすい。でも、焦ると出ない。京介が何かを強く願った時、誰かを守りたいと思った時に、力は発動するようだった。

「エネルギー不足か?」

京介が真剣な顔で言う。テレビで見たアニメの真似をして。


「もっと修行が必要だな! 滝に打たれるとか!」

「それは無理だよ……」

ぼくが苦笑する。二人で笑い合った。

そんな二人を、瑠衣ちゃんが拗ねたように見ていた。頬を膨らませて、小さな手を腰に当てて。


「もう! 最近いつも二人で遊んでる! 私も二人と遊ぶ! 私だけ仲間はずれ!」

「分かった分かった、明日は一緒に遊ぼう。な?」

京介があたふたして答える。困った顔で頭を掻いて。

「じゃあ、明日は少し離れた広い公園に行こう。陽子に弁当を作ってもらってね。ピクニックだ」

浩二さんが提案した。新聞を読みながら、さりげなく。


「やったー!」

瑠衣ちゃんが嬉しそうに跳ねる。両手を上げて、くるくると回って。その笑顔を見て、ぼくたちも笑った。


庭で遊ぶぼくたち三人を、陽子さんと浩二さんが縁側から眺めていた。麦茶を飲みながら、穏やかな表情で。でも、陽子さんの顔が急に曇った。


「……?」


遠くから、誰かの視線を感じたのだ。

妙な気配。

確かにそこにあるのにないようなそんな気配。

陽子の目が、本能的に周囲を警戒する。

かつての空手家としての勘。


「陽子、どうした?」


浩二さんが心配そうに尋ねる。

妻の変化に気づいて。


「……なんでもないよ」


陽子さんは笑顔を作ったけれど、その目は不安に揺れていた。何かが近づいている。

そんな予感がした。


ぼくは、その時まだ何も知らなかった。

この平和な日々が、もうすぐ終わることを。大切なものが奪われようとしていることを。


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