第五章 三話 絶望と後悔
「……大丈夫か?」
京介が心配そうに小さく呟いたが、劉はもう後には引けない雰囲気になっていた。
ライトニング・ストライクの乗り場まで歩く間、劉の足取りは明らかに重くなっていく。
近づくにつれて、乗客の絶叫がより大きく、よりリアルに聞こえてくるのだ。時折、コースターが急降下する瞬間の「ギャアアア!」という叫び声が、劉の決意を揺るがせる。
「杉原くん、本当に無理なら言ってね?」
美香が心配そうに声をかけた。
「大丈夫だよ。これくらい……」
劉が強がって答えた、まさにその瞬間——目の前のジェットコースターが猛スピードで急降下し、乗客の凄まじい絶叫が響き渡った。
その音量は、まるで恐怖そのものが形になったかのようだ。
「……」
劉の顔がさらに青くなる。
もはや血の気が完全に引いていた。
「杉原君、引き返すなら今ですよ♪」
天音が後ろから、どこか楽しそうに声をかけた。彼女は透と一緒に、少し離れたベンチに座って待っている。その表情には、劉の反応を観察する余裕すら感じられた。
「乗るよ、乗る!」
劉が振り返って強く言った。完全に意地になっている。
引くに引けない状況を自ら作り出してしまったのだ。
「ふふ、杉原君って案外子供っぽいところありますね」
天音が微笑む。その笑顔は優しいが、どこか面白がっている雰囲気も漂っていた。
「……意外だ」
京介が小さく呟く。
「八田君、どうしたの?」
美香が不思議そうに尋ねた。
「いや、劉がこんな強がるの初めてだなって」
幼馴染ならではの感想だ普段の劉なら、こういう時は素直に降参するタイプなのだ。
「確かにねぇ」
美香が何かを察したように、意味ありげにニヤニヤしていた。
列に並んで約三十分。待ち時間の間、劉は何度も深呼吸を繰り返していた。ようやく順番が回ってきた時には、彼の顔は既に覚悟を決めた戦士のようになっていた。
「さあ、乗りましょう!」
美香が嬉しそうに先頭を歩く。その足取りは軽やかで、まるでピクニックにでも行くかのようだ。
座席は三列で、二人ずつ座る形式だった。赤と青のシートが交互に並び、それぞれに安全バーが取り付けられている。
「じゃあ、私と天音さんが前、大和君と静ちゃんが真ん中ね」
美香がてきぱきと指示を出す。
「それじゃあ、俺と京ちゃんが最後尾だね」
劉が自然な流れで京介の隣に座った。その動きには、どこか安心を求めるような雰囲気があった。
「……京ちゃん」
劉が小さく呼びかける。
「ん?」
「死ぬときは一緒だよ」
劉が真剣な顔で言った。
「縁起でもないこと言うな!」
京介が呆れたように突っ込む。
「大丈夫、京ちゃん。怖かったら俺の手、握っていいからさ」
「握らねえよ!」
京介が即座に否定した。
二人のやり取りを聞いて、前の席の美香がくすくすと笑っている。その肩が小刻みに揺れていた。
「それでは、安全バーを下ろします」
係員の明るい声とともに、肩を固定する安全バーががっちりと下りてくる。重厚な音とともに、ロックがかかった。もう逃げられない。
「あぁ……」
劉が小さく声を漏らした。その声には、絶望と恐怖が入り混じっていた。
「発車しまーす!」
明るい係員の声とともに、ジェットコースターがゆっくりと動き出した。最初はゆっくりと、カタカタと機械的な音を立てながら上昇していく。周囲の景色が徐々に小さくなっていくのが見える。
「うわぁ、景色がきれい!」
静の明るい声が聞こえる。
「あ、あそこに観覧車が見える」
大和も楽しそうに周囲を見回していた。
二人は完全にこの状況を楽しんでいる。
しかし、最後尾に座る劉の顔からはどんどん血の気が引いていく。上昇するにつれて、地面との距離が恐ろしいほど開いていくのが分かる。
「大丈夫か?」
京介が心配そうに横を見る。
「だ、大丈夫……」
劉が震える声で答えた。
その手は既に安全バーを強く握りしめている。
そして——頂上に到着した。
一瞬の静寂。世界が止まったような感覚。眼下には遊園地全体が見渡せ、その先には街並みまで広がっている。美しい景色だが、劉にとってはそれどころではない。
「それでは皆さん、お楽しみください!」
スピーカーから陽気な声が流れた直後——
「うわああああああああ!」
垂直落下が始まった。劉の絶叫が秋空に響き渡る。風が顔を叩き、体が浮き上がるような感覚に襲われる。
「きゃははは! 最高!」
美香の楽しそうな声が風に乗って聞こえてくる。
「これは確かにすごいですね!」
天音も興奮している様子だ。普段の落ち着いた彼女からは想像できないほどのテンションだ。
「いやああああああ!」
相変わらず劉は叫び続けている。その声は恐怖と驚きが完全に混ざり合っていた。
「おお、劉、見てみろ、いい景色だぞ」
京介が余裕を見せながら隣に声をかける。
「無理いいいいいい!」
劉は完全に目を閉じていた。両手で安全バーを握る力は、もはや限界まで達している。
コースターは急カーブを曲がり、もう一度小さな落下を経て、最後の大きなループに入る。体が一瞬逆さまになり、劉の叫び声がさらに高まった。
約二分間の絶叫の後、ジェットコースターはゆっくりと減速し、停止した。エンジン音が静まり、ようやく地に足がついた安心感が戻ってくる。
「お疲れ様でしたー!」
係員の明るい声が響く。
「はぁ……はぁ……」
劉はぐったりとしていた。ふわふわの茶髪は風でぐちゃぐちゃになり、顔は真っ青だ。まるで幽霊を見たかのような表情をしている。
「杉原くん、大丈夫?」
美香が心配そうに振り返った。
「……生きてる……かな……」
劉がかすれた声で答える。
「あはは、お疲れ様」
京介が劉の肩を優しく叩いた。その手には、労いの気持ちが込められている。
降り場に戻ると、透と月夜が待っていた。二人は座ったまま、スマホを見ながらのんびりと過ごしていたようだ。
「おかえりなさい。どうでした?」
透が興味深そうに尋ねる。
「最高でした!」
美香が目を輝かせて答えた。その表情には、まだ興奮の余韻が残っている。
「杉原君も随分楽しめたようですね。こちらまで聞こえてくるいい悲鳴でしたよ」
月夜が劉を見て、いい気味だと言わんばかりに声をかけた。その目には明らかな笑みが浮かんでいる。
「……俺はもう、しばらくいい……」
劉がベンチに崩れ落ちるように座る。体全体から力が抜けていた。
「よしよし、頑張ったな」
京介が劉の頭を優しく撫でた。その仕草は、まるで小さな子供をあやすようだ。
「子供扱いしないで……」
劉が弱々しく抗議する。
「でも、ちゃんと最後まで乗れたね。えらいよ」
美香が優しく微笑みかけた。その笑顔には、本当に感心している様子が表れている。
「草薙さんまで子供扱い……」
劉が項垂れた。しかし、その表情にはどこか満足げな雰囲気も漂っていた。
「さて、次はどうしましょうか」
透がマップを広げながら言った。
「杉原君の体調が回復するまで、少しゆっくりしたアトラクションにしませんか?」
月夜が配慮のある提案をした。
「そうですね。じゃあ、あのメリーゴーラウンドとか?」
静が近くの、クラシックな装飾が美しいメリーゴーラウンドを指差す。優雅な音楽が聞こえてきて、先ほどの絶叫マシンとは対照的な穏やかさだ。
「賛成。私、あの白い馬に乗りたい」
美香が嬉しそうに言った。子供のような無邪気さで、既に乗りたい馬を決めている。
「それじゃあ、劉が回復したら向かおう」
京介がまとめるように言った。
「……あと五分、五分だけちょうだい……」
劉が懇願するように言った。まだ顔色は完全には戻っていない。
その様子を見て、みんなが温かく笑う。誰もが劉の頑張りを認め、そして彼の弱音も優しく受け入れていた。
秋晴れの空の下、暖かな日差しが八人を包み込む。遠くからは子供たちの笑い声が聞こえ、近くの売店からは甘い香りが漂ってくる。八人の楽しい一日は、まだ始まったばかりだった。




