四部 一四話 レッツ文化祭! 上
早乙女女子学園の校庭は、まるで色とりどりの人の波が寄せては返すように波打っていた。叢雲高校の生徒たち、中高一貫の早乙女生に叢雲生、そして外部から足を運んだ家族連れや近隣住民まで含めれば、校内は優に数千人規模の賑わいを見せている。
メインストリートに並べられた長机には、安っぽいビニール製のテーブルクロスが初夏の風にはためき、手書きの看板が所狭しと林立している。焼きそばやたこ焼きを作る揚げ物の油が弾ける音、綿菓子やクレープの甘い香り、生徒たちの弾ける笑い声と「いらっしゃいませー!」という元気な呼び込みの声が空中で複雑に絡み合い、夏を思わせる昼前の熱気がじんわりと肌にまとわりつく。遠くからは軽音楽部の演奏らしい音楽も聞こえてきて、祭りらしい雰囲気を一層盛り上げている。
月夜と京介は、それぞれ自分たちのクラスの模擬店に駆り出されていた。京介は揚げ物コーナーで、黙々とポテトフライと揚げ団子を揚げる係を任されている。最初こそ油の温度調節に戸惑ったものの、手順を一度覚えてしまえば、あとは単調な反復作業だ。やたらとハイテンションで張り切るクラスメイトたちの「頑張ろー!」「売り上げ目標達成するぞー!」という声が背景音となって流れる中、京介の頭の中だけは淡々としている。
油の中でポテトがじゅうじゅうと音を立てるのを見つめながら、彼は時折視線を上げて校庭の様子を眺めた。色とりどりの服を着た人々が行き交い、誰もが楽しそうに笑っている。こういう賑やかな空間が苦手というわけではないが、どこか一歩引いたところから観察している自分がいる。
「八田君!」
昼前、息を切らして現れたのは美香だった。演劇部の練習を抜けて、わざわざ顔を出しに来たらしい。普段から明るい美香だが、文化祭の高揚感も相まって、いつも以上に元気に見える。場違いなほど眩しい笑顔で屋台を覗き込んでくる。
「ちゃんと頑張ってるのね。すごく手際良いじゃない。……あ、それでポテトをひとつお願いします」
「お客さんかよ。てか、レジは向こうだから」
「だって、八田君が作ったやつが食べたいんだもん。美味しそうに揚げてるから」
そんな風に言われて、京介は少し照れ臭く感じた。
誤魔化すように無愛想に「はいよ」と言いながらも、いつもより丁寧に揚げたポテトを紙皿に盛る。美香が嬉しそうに「ありがと!」と言って、紙皿を持って人ごみに消えていくのを見送る間もなく、次の客が列を作って待っている。
忙しさに紛れて作業を続けていると、ふと視界の端に見慣れた制服の色が映った。顔を上げると、月夜が僕の前にそっと立っているのに気づく。彼女はいつものように控えめな表情で、少し遠慮がちに口を開いた。
「午後の時間、空いていますでしょうか?」
その問いかけには、どこか期待と不安が混じったような響きがあった。
「?午後は草薙に付き合わされることになってるけど」
京介のぶっきらぼうな返事に、月夜は少しだけ目を伏せて、小さく「そうですか」と言った。
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午後
劉は今日はクラスメイトたちと校内を回る予定があるらしく、朝のうちに軽く挨拶を交わしただけで別れていた。静や大和、透は部活動の関係で今日は来られないと連絡があったが、明日の演劇部の発表には必ず駆けつけると約束してくれていた。
まず最初に向かったのは、草薙のクラスが出店しているクレープ屋台だった。行列ができるほどの人気ぶりで、十分ほど待ってようやく順番が回ってくる。
「クレープ食べましょ!どれにする?」
美香は迷った末にチョコバナナクレープを選び、京介はクリームブリュレクレープを注文した。出来上がったクレープは、素人の学生が作ったとは思えないほど見た目も美しく、生地の焼き加減も完璧だ。聞けば、近所の専門店のシェフにレクチャーを受けたのだという。さすがお嬢様学校、こういうところでも本格的なものを用意するのだなと、京介は改めて自分たちとは住む世界が違うのだと実感した。
校庭に出るやいなや、草薙は京介の腕を掴んで引っ張り始める。
「座る場所を探しましょ!人が多すぎて立って食べるのも大変よ」
やっと見つけた座る場所は、校舎の裏手にある芝生の一角だった。大きな桜の木が程よい木陰を作り、そよ風が頬を撫でて心地よい。ベンチ代わりの段ボールに腰を下ろすと、メイン会場の喧騒が少し和らいで、ほっと一息つける。
行列に並んでいる間に聞こえてきた周囲の楽しそうな笑い声や、クレープを焼く際に立ち上る焦げた砂糖の甘い香りを思い出していると、なんだか落ち着かない気分になってくる。普段なら一人で静かに過ごすのが好みなのに、こうして美香と一緒にいると、時間の流れ方が違って感じられる。
買ったクレープを彼女は得意げに京介に突き出す。
「半分こしましょ。ほら、あーん」
その無邪気な提案に、京介は反射的に身を引いた。
「いらない」
「遠慮しちゃダメよ!私のチョコバナナ、すっごく美味しいから」
「もがっ」
そう言いながら、美香は有無を言わせずクリームたっぷりの一口分を京介の口に押し込んで来る。仕方なくひと口かじると、濃厚なチョコレートとバナナの甘さが口いっぱいに広がって、思わず顔に熱が上がる。人前でこんな真似をされるなんて恥ずかしすぎる。
美香は京介の困った表情を見て、嬉しそうに声を立てて笑った。人混みの熱気だけじゃない、なんというか、胸の奥がじんわりと温かくなるような感覚がある。これが友情というものなのか、京介にはよくわからなかった。
「次、どこに行こうかしら」
草薙は小さな文化祭のマップを広げて、色々な場所を指でなぞりながら検討している。教室での展示、屋外の出店、体育館でのイベントなど、選択肢は山ほどある。地図の上で指がふと止まると、美香は「あ」っと声を上げて動きが固まった。
「旧校舎にお化け屋敷があるみたいね。『消えた鏡をさがせ』っていうタイトル」
その言葉を聞いた瞬間、京介は即座に首を振った。旧校舎と聞くと、あのお盆の夜に見た古い鏡のことが鮮明に思い出される。あの時の苦い記憶、胸が締めつけられるような恐怖感が蘇ってきて、背筋がぞくりと寒くなる。
「やめよう」
「でも、ミステリー要素が追加されてて面白そうじゃない?それに、みんなが頑張って準備したんでしょうし…」
草薙は苦笑いを浮かべながらも、どこか興味深そうな表情を見せる。
よく学校側が許可を出したものだと京介は内心驚く。
「一応、お祓いは済んでるからね」と美香が軽く付け加えたが、聞いているこちらとしては背中に薄く冷たいものを感じずにはいられなかった。
気を取り直して、次に向かったのはゲームコーナーだった。射的や輪投げ、魚すくいなどの昔ながらの縁日ゲームが並んでいて、小さな子どもたちと女子生徒たちで大いに賑わっている。
草薙が射的にチャレンジすることになり、店番の生徒から軽いコルク銃を受け取る。狙いを定めて撃ってみるものの、弾は的を大きく外しまくってしまう。
「うぅ…全然当たらない。思ってたより難しいのね」
「下手だな」
「うるさい!八田君なら上手にできるの?やってみてよ!」
半ば挑戦的な美香の言葉に、仕方なく京介が銃を受け取る。軽く狙いを定めて引き金を引くと、弾は思いのほか素直に的を射抜いた。しかし、景品のぬいぐるみはびくともしない。
「これ、重りがついてたり、接着剤でくっついてるパターンだろ」
「夢のないこと言わないでよ。学生の文化祭なんだから、そんなインチキはしてないわよ」
残りの弾を込めて再び撃つと、今度は小さなマスコット人形がコロッと台から落ちた。無造作にそれを拾って美香に差し出すと、彼女は大げさに「ありがと!」と目を輝かせて受け取った。そんな純粋に喜ぶ姿を見ていると、こちらまで嬉しくなってくる。
人混みの中を歩いていると、唐突に美香が京介の手をぎゅっと掴んだ。人波に押されて離ればなれになりそうになったのだ。
「……離せ」
「やだ、迷子にならないでよ。こんなに人が多いんだもの」
握られた手から伝わってくる温度が、いつもより身近に感じられて、妙に意識がそちらに向いてしまう。京介はすぐに腕を引こうとしたが、美香は軽やかに引っ張ってくるだけで、まるで小さな子どもみたいに無邪気だ。こんなささいなことで動揺している自分が滑稽だと思いながらも、手のひらに残る彼女の体温の感触はしばらく消えそうにない。
途中で、中学組の展示コーナーを覗いてみることにした。すぐとなりの扇子の展示にはすごい人だかりができていた。静たちが制作した壁新聞は、他の出し物に比べて情報量が圧倒的に多く、丁寧な取材活動の成果がはっきりと見て取れる。見出しの切り口の鋭さや、インタビューのまとめ方の巧みさに、草薙は感心したようにページを一枚一枚めくっていく。
「静ちゃんたちの新聞、本当にすごいわね。まるでプロの記者が作ったみたい。さすが、探偵社の調査係だわ」
「この扇子の記事、文化祭期間中にそこに展示されてるやつの特集だな。そういえば草薙、展示品の警備当番はどうだった?」
美香は警備当番が割り当てられたのは午前中の早い時間帯で、開場と同時に押し寄せた見学者の整理に追われて大変だったと説明する。京介はその話を聞きながら、新聞に載っている古い扇子の写真に視線を落とした。素人目で見ても優雅な造りで、確実に人の目を引く魅力を持っている。細部に刻まれた繊細な装飾が、歴史的価値のある展示品としての説得力を十分に備えていた。
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日が暮れると、昼間の喧騒が嘘のように落ち着いて、校庭全体が穏やかな夜の雰囲気に包まれる。色とりどりの提灯が灯され、校舎の周りにはイルミネーションが美しく点灯して、辺り一面を柔らかく縁取っている。遠くのステージからは、軽音楽部によるフォークソングの生演奏が夜風に溶け込んで聞こえてくる。出店の温かな灯りが風に揺れて、生徒たちの楽しそうな笑い声がふわりと夜空に漂っていく。
昼間の熱気とは打って変わって、今度は涼しい夜風が頬を撫でて心地よい。人混みも幾分か落ち着いて、ゆっくりと校内を歩き回ることができる。夜店の灯りに照らされた美香の横顔が、いつもより大人っぽく見える。
しばらく黙って歩いていると、草薙がぽつりと小さな声でつぶやいた。
「来年も一緒に、こうして文化祭を見て回れるかしら……」
その言葉には、どこか不安げな響きが含まれていた。進路のこと、将来のこと、まだ決まっていないことばかりだが、確実に時は流れている。
京介はすぐには答えられずに視線を逸らす。街灯の淡い光の下で、美香の横顔が少しだけ影になって見えた。何と答えればいいのか、適切な言葉が見つからない。素直に「うん、そうだな」と言ってしまえば、それだけで彼女の不安は軽くなるのかもしれない。けれど、そんな簡単に口にできる約束ではない気がした。来年のことなど、誰にもわからないのだから。
それでも―京介は心のどこかで、認めたくないような気持ちを抱えながら、そっと思ってしまった。
こんな風に過ごす時間は、悪くない、と。
言葉には出さずに、京介はその場の静けさと、美香の不安げな横顔と、手のひらにまだ残っている彼女の体温の記憶を大切に胸の奥にしまい込んだ。文化祭の一日が終わりに近づくころ、胸の中に小さな、でも確かな何かが残っているのに気づく。それは決して嫌なものではなく、むしろちょっとだけ大事にしておきたい、宝物のような感情のように思えた。
夜風が二人の間を吹き抜けて、遠くから聞こえる音楽と笑い声が、この瞬間を特別なものにしていた。明日はまた文化祭の二日目が始まる。美香の演劇もある。きっと今日とはまた違った一日になるだろう。




