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第四章 一二話  プチハプニング

体育館裏の倉庫で、演劇班の衣装づくりが佳境を迎えていた。窓から差し込む夕日が、散らかった布地や糸くずを琥珀色に染めている。

 王女役のドレスを中心に、華やかな布や飾りが机いっぱいに広がっている。深紅のベルベット、金の刺繍糸、そして真珠のような小さなビーズが、まるで宝石箱をひっくり返したように煌めいていた。


「……なんであの子が主役なのよ」

「先生の推薦だから仕方ないって言っても、ねぇ」

「演技の実力で選ばれたわけじゃないし」

「正直、私たちの方がよっぽど上手だと思うけど」


 衣装係の数人の女子が、針を持ちながら小声で囁き合う。彼女たちの手は動いているものの、視線は常に一点に注がれていた。その視線の先には、美香があった。

 彼女はそんな悪意のこもった声に気づかず、無邪気に袖の布を広げて鏡の前で動きを確かめている。足音を響かせながら、まるで本番の舞台にいるかのように軽やかにステップを踏んでいた。


「これなら舞台でも動きやすそう! スピンもできるし……あとは裾をもう少し短くすれば、階段のシーンでも引っかからないで大丈夫かな?」


 屈託のない笑顔を見せる美香の姿に、女子たちは唇を噛み、視線を交わした。


 その直後、机の端に置かれていた絵の具の瓶が――まるで偶然を装うかのように――机から滑り落ちた。


 ――ばしゃっ。


 鮮やかな赤色が、白い布の胸元に美しくない花を咲かせるように広がった。まるで血のように生々しい色彩が、せっかくの美しいドレスを台無しにしていく。


「きゃっ……!? な、なにこれ!」

「ごめん、手が滑っちゃって……! 本当にごめんなさい!」


 女子の一人が慌てたように声を上げる。だが、慌てふためく演技の裏で、かすかに目を逸らす様子に、故意だったのか疑わしい空気が漂う。

他の女子たちも「大変!」「どうしよう」と口では心配そうに言いながら、どこか他人事のような冷たい視線を向けていた。


 美香は真っ青になりながらも、パニックに陥ることなくすぐに布を手で押さえた。

「大丈夫、大丈夫! 私が直すから! まだ時間はあるし、なんとかなるよ!」


 そう言って慌てて裁縫箱を掴むが、動揺で手が震えているせいか、慣れない手つきで針と糸を扱ううちに、糸は絡まり、布地はさらに歪んでいく。焦れば焦るほど、状況は悪化していく一方だった。


「美香さん、ちょっと待って!」

 劉がおっとりとした口調ながらも確実な手つきで手を伸ばし、針を受け取る。

「それ以上やると、本当に取り返しがつかなくなるよ。深呼吸して、落ち着いて」


「でも、私のせいで……みんなが一生懸命作ってくれたのに」

「違いますよ、美香さんのせいじゃない」

 天音がきっぱりと遮った。


「縫い直しとアレンジなら、私がやります。絶対に元通り以上になりますから。ほら、見ててください」


 丁寧に絡まった糸を解き、傷んだ部分を見極めながら布をなだめるように整えていく。その手つきは母親が子供の怪我を手当てするように優しく、確実だった。

 天音は「ここにレースを足せばごまかせる」「この部分をビーズで飾れば逆にアクセントになる」と次々に提案し、赤い染みを逆に活かすデザインを考え出した。彼女の創造力は、ピンチを大きなチャンスに変えようとしていた。


 二時間後――


「ほら、美香さん。どうですか、前よりもずっと華やかになりましたよ」

「わぁ……すごい! こんなに綺麗になるなんて! 前のよりずっと、ずっと素敵!」


 目を輝かせる美香の姿に、衣装係の女子たちは苦虫を噛み潰したような顔をした。彼女たちの企みは完全に裏目に出てしまったのだ。

「……あんなの、ただの偶然よ」

「どうせ本番で失敗するに決まってる」

「調子に乗らないでほしいわ」


 小声で毒を吐き捨てる彼女たちの影は、夕闇と共にまだくすぶり続けていた。


-----


京介・月夜サイド


そのころ、校内の別の場所では――

 京介と月夜のクラスが出すのは、軽食の出店だった。教室は既に模擬店の準備で大忙しの状況になっている。

 メニューはフライドポテトと揚げ団子。手軽で持ち運びやすく、なおかつお腹にたまる定番人気メニューを狙ったのだ。油の匂いが既に教室に漂い始め、文化祭本番への期待感を高めている。

 教室の中には模擬店仕様に作り変えられた看板や、クラスメイトが丁寧に書いた手書きのメニュー表、机には明日の本番に向けた材料がきちんと分類されて並べ直されている。


 そして今、最も注目を集めているのが、学校の入口を飾るためにクラスメイトがデザインした大きな壁画だった。


 キャンバスの上には、揚げたてのポテトが山盛りのバスケットに積まれ、湯気が立ち上る様子が描かれている。黄金色に輝くポテトの一本一本まで丁寧に描写され、見ているだけでお腹が空いてきそうなリアルさだった。

 その隣には、串に刺さった団子がきつね色に輝き、表面の照り具合まで完璧に再現されている――そんな美味しそうなイラストを背景に、季節の花々が控えめに、しかし美しく囲むように描かれている。


「でもさ、やっぱりもっと派手にしたほうがいいよ!」

「お祭りなんだから、もっとカラフルなほうが映えるって!」

「インスタにアップしたときに、いいね!がたくさんもらえそうじゃない?」

「背景ももっとポップにして、キラキラ感を出そうよ!」


 女子たちが塗りかけの壁画の前で口々に意見を言う。彼女たちの提案は悪意があるわけではないが、月夜の芸術的なセンスとは明らかに方向性が違っていた。

 月夜は筆を止め、いつものように静かな口調で、しかし譲れない想いを込めて答える。

「……料理が主役です。派手にしすぎると、食べ物の色が引き立たない。お客さんが最初に見るべきなのは、美味しそうな料理でしょう?」


「そんな細かいこと言わなくてもいいでしょ!」

「理屈っぽいなあ、月夜ちゃんは」

「せっかくならもっとインスタ映えするやつにしたいんだよ!」

「みんなが楽しくなるような、明るい感じにしようよ!」


 空気がきな臭くなったその時、偶然通りかかった京介が足を止める。普段なら素通りするところだが、なぜか今日は壁画に視線を向けた。

 じっと見つめること数秒、そしてぼそりと一言。

「……充分うまそうに見えるけど。ポテトも団子も。これなら俺でも買いたくなる」


 その予想外の一言に、クラス全体の空気が一瞬止まる。

 女子たちは「え……」「八田君が?」と戸惑い、月夜は驚いたように顔を上げた。そして、ほんの少しだけ表情を緩めた。


「やはり、八田君もそう思います? この色合いで、食べ物が美味しそうに見えますよね?」

「ま、客は食い物目当てで来るんだし。無駄に色増やして台無しにするより、今のままで十分だろ。変にいじって失敗するよりはさ」


 京介はそう言い残し、いつものように無表情で歩き去っていった。

 残された月夜は、心の中で小さな安堵を感じながら再び筆を動かす。今度は、さらに自信を持って。


「……ありがとう、八田君」


 小さくつぶやいた月夜の声は、賑やかな教室の中で誰にも聞こえることはなかった。しかし、彼女の筆先には確実に力が宿っていた。

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