第四章 十一話 『起舞の扇』 下
土曜日の午前、静と大和を含む取材班一同は稗田先生に引率され、市立東雲資料館の門をくぐった。
外観はやや古びた平屋建ての建物だが、一歩中に足を踏み入れると、程よく冷房の効いた快適な空間に美しい木製の展示ケースが整然と並び、この地域の長い歴史を物語る貴重な古文書や工芸品が丁寧に配置されている。天井は意外に高く、自然光が柔らかく差し込んで展示品を優しく照らしていた。
「ここが”起舞の扇”か……」
大和が特別展示ケース越しに真剣に目を凝らす。中央の一段高くなった特別展示台に、金箔がきらめく美しい檜骨の扇が丁重に広げられていた。絹地には能楽の舞を描いた実に細やかな絵――人物の衣装の襞一つ一つも筆致も鮮やかで、数百年という長い時の流れを超えてなお強い存在感を放っているようだ。
「写真撮影は後できちんと許可をとるからね」
南が小声で念押しすると、稗田が安心したようにうんうんと頷いた。
「学芸員の藤堂先生にはもうお話を通してある。実物の資料写真は新聞にとって何よりの目玉になるからな。遠慮なく撮らせてもらおう」
そこへ、落ち着いた紺色の作務衣を着込んだ品のある中年の学芸員が静かに現れた。胸に付けられた名札には「藤堂」とあり、温厚そうな柔らかな笑みを湛えている。長年この道一筋に歩んできた専門家らしい、穏やかながらも深い知識を感じさせる佇まいだった。
「ようこそ、市立東雲資料館へ。本日は”起舞の扇”について、私の知る限りのことをお話しさせていただきます。どうぞよろしくお願いします」
一同が礼儀正しく軽く一礼すると、稗田が嬉しそうに満面の笑みを浮かべて紹介を始めた。
「こちらが藤堂先生です。この地域の歴史を十年以上にわたって研究してこられた、この分野の第一人者でいらっしゃいます。さあ皆さん、せっかくの機会ですから遠慮なくどんどん質問しなさい」
静が手元の取材用ノートをそっと開き、いつものように落ち着いた口調で、しかし的確に最初の質問を投げかけた。
「……この扇は”病退けの扇”という別名でも呼ばれていたと資料で読みました。その由来について、詳しく教えていただけないでしょうか?」
藤堂は嬉しそうに目を細め、専門家らしい丁寧さで答え始める。
「大変よく調べていらっしゃいますね。室町時代後期のこと、この地方では深刻な疫病が流行していました。そのとき、諸国を巡る旅の猿楽師がこの村を訪れ、村人たちを励まそうと舞台でこの扇を使って渾身の舞を披露したところ、不思議なことに病に伏していた村人たちが次第に快復していったという伝承が残されています。もちろん現代医学的な証明はありませんが、『舞には人の心を深く動かし、生きる力を与える不思議な力がある』と信じられ、その後も祈祷や地域の祭礼で大切に使われ続けてきたのです」
「おお、マジでパワーアイテムじゃないか!」
陽介が思わず興奮して声を上げ、大和と勢いよく拳を合わせる。その純粋な反応に、大和も苦笑いしながら応じた。
「……江戸時代に地域の旧家が長期間保管していたとありますが、どうしてこんなに良い状態で現代まで残ったのでしょうか」
静は感情を抑えた淡々とした調子で、しかし核心を突く次の問いを重ねる。
「それは本当に素晴らしい質問ですね」
藤堂は感心したように頷いた。
「当時の東雲村の名主を務めていた野原家が、代々この扇を”村の宝”“一族の誇り”として厳重に守り抜いたからなんです。火事や戦乱、そして明治維新の混乱で失われてしまう文化財が数多くある中で、ここまで完璧に近い状態で保存されて現代に伝えられたのは、まさに奇跡に近いことと言えるでしょう」
南はカメラを器用に構えながら、プロの写真家らしい鋭い観察眼で呟く。
「この金箔の美しい輝き……写真だとどうしても実物の持つオーラまでは伝わりにくいのが悩ましいところよね。でも最高の角度を見つけて撮影してみせるわ」
森川沙耶が横から控えめながらも的確な質問を投げかける。
「あの……記事として新聞にまとめるとしたら、読者に興味を持ってもらえる見出しはあるでしょうか?」
藤堂は少し考え込み、やがて学芸員らしい深い洞察を込めて穏やかに答える。
「“病退け”や”祈りの舞”といった神秘的な伝承を前面に出せば、確実に読者の目を引くでしょう。しかし同時に、芸能や信仰を通じて”人が人を励まし支え合う力”の大切さを現代の人々に伝えることも、とても意義深いことだと思います。歴史を学ぶ真の価値は、過去と現在をつなぐ普遍的なメッセージを見つけることにあるのですから」
稗田は感動したように大きく頷き、両手を胸の前で組む。
「そうだ、まさにその通りなんだ! 君たちの新聞には、ただ単なる歴史の紹介記事ではなく、“現代を生きる私たちの心に響く物語”をしっかりと盛り込みなさい! それこそが本物の学習の成果というものだ!」
静は黙々と丁寧にメモを走らせ、大和と陽介は「これ、取材記事としてめちゃくちゃ面白そうだな!」と盛り上がり、南は様々な撮影角度を試しながら「文化祭で注目される見出しも考えなくちゃ」と口にする。
こうして市指定文化財「起舞の扇」の歴史を追う本格的な取材は、単なる学校の課題を超えて、仲間たちの知的好奇心と情熱を深く刺激する、意義深い活動へと大きく変貌していった。
夕暮れ時の静かな住宅街を、静と大和が肩を並べて歩いていた。市立資料館での充実した取材を終え、二人の鞄には藤堂学芸員からいただいたコピー資料や詳細な取材メモがぎっしりと詰まっている。
「……すごかったな、藤堂さんのお話」
大和が心から感心したような口調で言う。
「ただの古い扇子かと思っていたら、病気を治したとか、村の宝として代々守られてきたとか。ああいう話を聞くと、なんだかすごくワクワクするよな」
静は歩きながらも熱心にノートを見返し、いつものように控えめに頷いた。
「うん。……“芸能と祈りの力で人を元気づける”って、とてもいい言葉だと思った。記事に絶対使いたい」
「記事を書くときは間違いなくそこを中心に据えるだろ?」
「……うん、たぶんそうすると思う」
静の返事は相変わらず淡々としているが、その瞳には確実に楽しげな光が揺らめいている。大和にはそれがよく分かった。
「じゃあ僕は見出しを考える係に専念しようかな。“病退けの扇、奇跡の舞で村人救済”とか、“室町の秘宝、現代に蘇る祈りの力”とか!」
大和は腕を大げさに広げ、歩道の真ん中で舞踊の真似事をして見せた。しかし通りかかった自転車の人に遠慮なくベルを鳴らされ、慌てて道の端に避ける羽目になる。
「わっ、ごめんなさい!」
その一連の慌てぶりを見て、静は思わず小さく、しかし心から楽しそうに笑ってしまった。その珍しい笑い声に気づいた大和は、ちょっと驚いたような表情で彼女を振り返り、少し照れたように頭をぽりぽりとかいた。
「なんか、今日の取材で静もいつもよりちょっと楽しそうに見えたよ」
「え……そうかな?」
「うん、間違いない」
静は鞄の紐をきゅっと握り直し、少しだけ歩調を落として考え込んだ。
「……記事にまとめるのは、きっととても大変だと思う。でも……なんだか、やりがいはありそう」
「文化祭で展示されるんだし、八田さんたち高校組にもぜひ見てもらおうよ」
「うん、そうだね」




