第四章 十一話 『起舞の扇』 上
余白探偵社は静まり返っていた。
このところ扉を開けても誰もいない。
机の上には今日の調査ファイルが相変わらず山積みになっているが、どこか手つかずの時間だけがぽつりと残されているような、不思議な空虚感が漂っている。
「しばらく、あなたたちも休みにしましょう。山の持ち主への聞き取りは私の方で進めておきます」
透が静かに告げて、静と大和に休息を与えた。
高校組が合同文化祭の準備に追われ、余白探偵社の活動は自然と縮小している。
しかし静と大和には、探偵社とは別の大事な任務が待っていた。
――市立東雲中学。
静も大和の通う中学では学年のプロジェクトで「郷土の歴史新聞」を作ることになり、班ごとに分かれて調査・取材・記事作成を行う大きな課題だった。完成した新聞は例の合同文化祭で展示される予定で、生徒たちにとっては夏休み明けの重要な行事となっている。
静と大和のペアに割り当てられたテーマは、なんと合同文化祭でも展示予定の市指定文化財「起舞の扇」だった。偶然にも探偵社の活動と重なる題材に、二人は運命めいたものを感じずにはいられなかった。
「……また、文化財か」
大和が肩をすくめる。
軽い皮肉が混じった声だが、その目には確実に好奇心の光が宿っている。
静も配られた資料の束をじっと見つめて小さく頷いた。いつものように淡々とした表情だが、その奥に秘められた知的好奇心は誰よりも深い。
「合同文化祭に展示されるってことは、美香さんたちも関わるはず……。しっかり調べておこう」
放課後の図書室。
西日が窓から斜めに差し込み、部屋の中に散らばった紙の縁を金色に染めている。机に積まれたコピーや古い記録の束が、これから始まる調査の貴重な素材として静かに輝いて見えた。
今日の指導に当たるのは、この二学期から赴任してきたばかりの数学教師だが、実は密かに地域史の熱心な研究者でもある稗田仁という男だ。丸メガネを指で押し上げ、ついさっきまで黒板に数式を書いていた彼は、歴史の話になると別人のように目を輝かせて声を張る。
「いいか、君たち! 今回君たちが担当するのは市指定文化財――『起舞の扇』だ! ただの古道具だと思うなよ。この扇には芸能と信仰、そして人々の日常がぎゅっと詰まっているんだ。まさに歴史の宝庫と言えるだろう!」
教室に集まった生徒たちの顔に驚きの表情が浮かぶ。普段の数学の授業では見せない稗田先生の情熱ぶりに、皆がちょっと戸惑いながらも興味を引かれている様子だった。
「おお、なんか格好いい話だな」と大和がつぶやけば、稗田はさらに身を乗り出して話を続けた。
「室町末期、戦乱の時代にな、猿楽や能の系譜を引く芸能者がこの扇を使って舞を披露したところ、病に伏していた者が次々と回復したり、沈んでいた村全体に活気が戻ったという不思議な伝承が残っているんだ。だから別名『病退けの扇』とも呼ばれているんだよ。単なる迷信かもしれないが、人々の心を動かす力があったのは間違いない」
稗田は黒板に扇の簡略図を器用に描き、その骨の一本一本に刻まれた繊細な模様や、絵絹に描かれた能楽の舞図を指でなぞるように説明していく。その話しぶりは数学の授業とは別人のように饒舌で、まるで考古学者が発掘品について語っているかのような熱量だった。
静は配られた資料をそっとめくり、いつものように淡々と、しかし正確に声に出して読み上げる。
「……『江戸初期には現在では野原家の旧家が当該扇を蔵に保管し、明治維新後の近代化の波を経て、昭和三十年代に至り市立資料館へ正式に寄贈された』と記載されています。保存状態は極めて良好とのことです」
「そう、それだ!」稗田が机をパンとひとたたきする。「檜の骨組みに金箔を丁寧に施し、絹地には当時の能や猿楽の舞姿が色鮮やかに描かれている。工芸品としても美術史的価値が極めて高い逸品だ。戦国時代から江戸、明治、大正、昭和の激動の時代を生き延びて現代まで残ったのは、まさに奇跡的なことなんだよ」
陽介が目をキラキラと輝かせて大和の肩を勢いよく叩く。
「なあ、これって文化祭で本物を展示するんだろ? 新聞に『病退けの扇、ついに公開!』って大見出しで書いたら、絶対みんなの注目集まるぞ」
「むしろ見出しは『起舞の扇に秘められた謎』とか、ミステリー風にするのはどうかな?」と大和が応じれば、机の周りに軽やかな興奮が波紋のように広がっていく。
南はいつものようにカメラを首から腕にぶら下げ、軽く鼻で笑いながらも冷静に状況を見つめている。
「どうせ詳しい調査は静ちゃんが頑張ってくれるんでしょ。私は写真撮影を担当するだけだから、現場でインパクトのある良い絵を撮らせてもらうわ」
森川沙耶はきちんとノートを整理しながら、いつものように落ち着いた口調で発言した。
「まずは手持ちの資料を精査して、信頼できる一次情報をしっかりと洗い出しましょう。古文書の出典や寄贈に関する記録を詳細に確認するのが最優先です。推測や憶測で記事を書くわけにはいきませんから」
稗田は満足そうに顔をほころばせ、学者然とした口調で話を締めくくる。
「扇の一振りが人々を元気づけるというのは、単なる迷信や都市伝説の類いではない。芸能の持つ”見る者の心を深く動かす力”と、人々の切実な祈りが結びついた、重要な文化的現象なんだ。君たちの記事では、ぜひその『祈りと芸能の融合』という視点を軸にまとめてほしい。それこそが現代の私たちにとって最も大切なメッセージになるはずだ」
大和は配られた新聞作成の詳細な工程表を取り出し、ページを一枚一枚めくりながら手順を入念に確認する。
「よし、まずは市立資料館の学芸員さんに直接インタビューするのが一番だな。一次資料の正確な所在や保存状態の詳細確認、それから写真撮影の許可をちゃんともらおう。来週の月曜日には見学の段取りをつけるぜ」
役割分担も自然な流れで決まっていった。稗田が黒板にチョークでざっと書き出していく。
- 稗田仁先生:歴史的解説・全体指導監督
- 新田静:文献調査・メイン記事執筆
- 大和樹:現地調査統括・まとめ
- 森川沙耶:資料の事前調査・補足記事作成
- 岡部陽介:現地調査サポート・取材補助
- 佐久間南:写真撮影・新聞全体のレイアウト担当
「それじゃあ、来週の資料館見学で一気に本格的な取材を進めよう」稗田が宣言すると、生徒たちが一斉にノートを閉じた。
静は淡々とペン先を休めるが、窓の外の美しい夕陽に照らされた資料の束を見つめる目は真剣そのものだった。大和は相変わらず陽気にふるまっているが、その目の奥には探求すべき謎を発見した時の、あの独特な興奮の光がはっきりと宿っている。




