第四章 二話 夜の神社
夜。
人影もまばらな郊外の神社。
鬱蒼とした森の中にひっそりと建つ拝殿は、昼間でさえ参拝者は少なく、夜ともなれば人の気配は完全に絶える。
空気は湿り気を帯び、蝉の声すら止んだ境内に、ただ虫の羽音と風に揺れる木々のざわめきが響いていた。
京介、美香、透の三人は、鳥居の横にある古い石垣の陰に身を潜めていた。
石は苔むし、触れるとひやりと冷たい。夏の夜気の中で、妙に肌寒く感じられた。
「……ここが狙われるって?」
京介が小声で尋ねる。
透は頷き、拝殿を指さした。
「この神社には”磐笛”という古代の石笛が奉納されています。表向きは民俗資料ですが……その音色には、周囲の空気を震わせる不思議な力があると伝えられています」
「音を操る……そういう力に結びつくかもしれない、というわけね」
美香が眉をひそめる。
透は口をつぐみ、ただじっと闇を見つめていた。
その沈黙を切り裂くように、砂利を踏みしめる規則正しい足音が境内に響いた。
拝殿の前に現れたのは、黒い防弾ベストに身を包んだ数人の男女。
全員が無線機を耳に当て、目線だけで互いに意思を交わしながら、無駄のない動きで配置につく。
「……軍人、みたいだな」
京介が息をのむ。
その中心に、一際目立つ男が立っていた。
白い手袋をはめ、手際よく鍵を開けると、静かに拝殿の扉が押し開かれる。
中に入った二人がライトをかざし、慎重に木製の箱を運び出す。
箱の表面には古い文字が刻まれ、光を反射して青白く揺らめくように見えた。
(あれが……磐笛か)
京介は心臓が早鐘を打つのを感じた。冷や汗が背中を伝い、喉が渇く。
美香も目を細め、低く呟いた。
「……本当に盗む気ね。『保護』という建前はどこに行ったのかしら」
透は苦い顔をしながら、言葉を吐き出す。
「これが委員会のやり方です。力に繋がりそうなものは、すべて囲い込む。持ち主の意思も、地域の信仰も、一切無視して」
拝殿の前で部下に指示を飛ばしていた男が、周囲を確認するように振り返った。
鋭い目つきで闇を睨み、獲物を狩る獣そのものの表情。
左頬に走る古い傷跡が、冷酷さを際立たせている。
京介は思わず息を止めた。
(見つかったか……!?)
だが幸いにも、男は別の方向へ視線を送り、無線で何かを告げただけだった。
やがて箱は車に積み込まれ、静かにエンジンがかかる。
黒いワゴンが闇に消えていくまで、三人はただ黙ってその場に伏せ続けた。
……残されたのは、静まり返った神社と夜の虫の声だけ。
「……見ましたね」
透が静かに口を開いた。
「これが現実です。委員会は『守る』のではなく、『奪う』。能力者と同じ――いえ、それ以上に危険な存在です。」
「……ただの盗賊と変わらない」
京介が吐き捨てるように言うと、美香はゆっくりと立ち上がり月を見上げた。
「思ったより、根が深そうね。……でも、だからこそ知れて良かった」
透は二人の顔を見回し、短く告げる。
「これ以上関わるかどうか、判断するのはあなた方です。ただし――相当な覚悟が必要になります」
その時。
闇の奥で、ひときわ小さな気配が動いた。
木陰に潜む二つの人影。
ひとりは冷静に双眼鏡を構え、もうひとりは胸元で拳をぎゅっと握りしめていた。
「……やっぱり委員会のやり方、ひどいのよ」
小さく漏らした天音の声に、姉の月夜が低く囁いた。
「静かにしなさい。今、私たちがすべきは侵入者の監視だけよ」
手元の小型端末に、『対象者の行動確認完了』と短いメッセージを打ち込む月夜。
彼女たちの存在に、京介たちはまだ気づいていなかった。
余白探偵事務所の会議室
普段、事務所で集まるが今回は少し奥の部屋で話している。
元は古びた雑居ビルの一室だったが、今は草薙家の出資によって内装が一新されていた。
壁は白く塗り直され、重厚なカーテンが窓にかかり、書棚には革張りの背表紙が並んでいる。
それでも隅に残る古い木の香りと、僅かな埃っぽさは隠しきれず、室内に特有の落ち着きを与えていた。
京介と美香は、アンティーク調のテーブルを挟んで向かい合っていた。
ランプの柔らかい光が、紅茶の表面を金色に照らしている。
「……草薙」
京介は口火を切った。
「あれのこと、どう考えてる」
美香はカップを指で支え、口に含む前に香りを確かめてから、ようやく答えた。
「そうね……八田くん。あれを見て何も感じないなんて無理よ。でも、私たちがどうにかできる相手ではないのも確か」
京介は唇を噛む。
昨夜の光景が、網膜に焼き付いたまま離れない。
(俺はただ……隠れて見ていただけだ)
その無力感は、幼いころ祖父母の家で過ごした孤独な日々を呼び覚ます。
暗い部屋の隅で膝を抱え、穴だらけの記憶に無意識に怯えた日々――。
「でも……見た以上は放っておけない」
京介は拳を握り、声を震わせた。
「瑠衣のこともあるし、能力者が委員会に怯えて暮らすなんて――絶対に間違ってる」
美香はカップを置き、真っ直ぐに彼を見つめる。
その眼差しは、草薙家の娘としての誇りと、若さゆえの迷いとが複雑に交じり合っていた。
頭の片隅に、屋敷の広間に掛けられていた古い屏風の記憶がよぎる。
そこには、かつて草薙家の先祖が妖を退けたとされる戦いの場面が描かれていた。
――「草薙の者たるならば、背を向けるな」
祖父の言葉が、今なお耳に残っている。
「やっぱり、そう言うと思ったわ」
美香は静かに微笑む。
「八田くんが戦うなら、わたくしも一緒に戦う。ただし――」
「ただし?」
「命を落とす覚悟くらいはしておいて。そうでないと、あまりに危ない相手よ」
その声には、普段の優雅さにはない重みがあった。
京介はしばらく黙った後、小さくうなずく。
「……分かったよ、草薙」
美香はようやく微笑みを取り戻す。
「それでこそ八田くんね」
透が横から咳払いをして口を挟む。
「では、次に狙われる場所を調べましょう。
ただし――あなた方の動きも、すでに誰かに監視されているかもしれませんよ」
その言葉に二人は思わず顔を見合わせる。
(監視……?)
翌日の昼休み。
チャイムが鳴り、教室はあっという間に空っぽになった。
湿気を含んだ空気が窓から流れ込み、京介は机に突っ伏したまま昨夜の光景を反芻する。
(……あれが国の機関、だって?)
黒い装備に身を固め、表情ひとつ変えずに磐笛を運び去った委員会の人間たち。
あの左頬に傷のある男の冷酷な眼差し。
「守る」どころか、ただの盗賊にしか見えなかった。
拳を握るが、同時に胸を締めつけるのはどうしようもない無力感だ。
小さく息を吐いたとき、不意に隣の席から視線を感じた。
「……何か?」
顔を上げた月夜の目が、真っ直ぐに射抜いてくる。
「いえ、別に」
「そう」
それきりかと思いきや、彼女は鞄から古びた洋書を取り出し、ページをめくり始めた。
細かい英文と人体図。
タイトルは見えるが全く解読できない。
「……お前、それ趣味で読んでるのか?」
問いかけると、月夜はかすかに口元を緩めた。
「ええ。……趣味ですわ」
「マジかよ」
「あなたは、“普通”がお好きですの?」
「は?」
唐突な問いに、京介は言葉を失う。
「大勢に紛れるのは安心でしょう。でも、退屈ではありませんこと?」
確かに京介は、目立たないことを選んできた。
けれど退屈を感じていたのも事実だ。
「……別に。僕は目立ちたくないだけだ」
「ふふ」
月夜は小さく笑い、視線を本へ戻した。
「でも、あなたは普通では終わらない方に見えますの」
「は?」
「直感ですわ。それに……」
月夜は一瞬だけ京介を見つめ、意味深に微笑む。
「昨夜はお疲れ様でした」
京介の血の気が引いた。
「……何の話だ?」
「さあ、何のことでしょうね」
それ以上は語らず、ただページをめくる音が続いた。
教室に残る夕陽が、彼女の横顔を朱に染め、冷たい笑みを浮かび上がらせていた。
その眼差しには、まるで「昨夜の現場のことを知っているぞ」と言いたげな含みが潜んでいた。
⸻
夕暮れの校舎。
中庭のベンチで、美香は水筒から紅茶を注ぎ、口に運んだ。
わずかに甘い香りが、昼間の緊張を解きほぐしていく。
だが頭の片隅には、昨夜の冷たい光景が張り付いたままだった。
――委員会。
――磐笛を持ち去る冷徹な部隊。
(お父様も言っていたわ……草薙家でも、あの連中に対抗できる保証はない。私を隠すので精一杯だと、それに私は当主ではないし、勝手に動けば一族に迷惑をかける。でも――)
背筋が冷たくなる。
だが同時に、京介の瞳に宿った怒りを思い出す。
無気力だった少年が、ようやく誰かを守ろうとしている。
その芽を摘ませるわけにはいかない。
「――あ、美香さん!」
駆け寄ってきたのは天音だった。
小走りでスカートを揺らし、少し息を弾ませながら隣に腰を下ろす。
「布都さん。もうお帰りになったかと思ったわ」
「その……美香さんとお話ししたくて」
「あら、嬉しい。どうぞお座りになって」
紅茶を注ぎながら、彼女を観察する。
天音の瞳は澄み、言葉のひとつひとつに全力で耳を傾けている。
「布都さん、学校は慣れた? 二日目で大変でしょう」
「はい……でも、美香さんが声をかけてくださったから、安心できました」
「まあ、あんなの普通よ」
「いえ、本当に。助けられました」
頬を染め、両手をぎゅっと握りしめる仕草。
あまりに素直で、美香は微笑まずにいられなかった。
(……本当に裏表がないのかしら)
だが次の瞬間、天音は声を潜めて言った。
「でも……美香さんは”普通”ではありませんわ」
「え?」
「お話していると、不思議と安心するんです。……まるで前から知っていた人みたいで」
真剣な瞳に嘘はない。
だが、その奥にほんのかすかな影が揺らぐのを、美香は見逃さなかった。
「……光栄ね」
美香はやわらかく微笑む。
「えへへ」
無邪気に笑う天音。けれど、その笑みの奥に、何かを探し続ける影が潜んでいる。
天音が小さく呟く。
「美香さんも、きっと”特別”な方ですのね。お姉ちゃんがそう言ってました」
「お姉様? あなた、お姉さんがいるの?」
「はい。とっても頼りになるのです。昨日の夜、美香さんたちをお見かけして『あの人たちからは、普通とは違う香りがする』って」
美香の背筋に、ひやりとした感覚が走った。
夕焼けに染まる天音の瞳に吸い寄せられる。
愛らしい笑顔の裏に隠された、もう一つの顔を確かに感じ取っていた。




