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第三章 十話 夏休みの終わり

 夏休みもあとわずか。家でごろごろしていた静は、兄の匠にからかわれていた。

「静、お前最近引きこもってるけど、夏休みの思い出作らなくていいのか?」

「……別に。宿題はちゃんと終わったし」

 そっけなく返したものの、心の中では少し寂しさを感じていた。お盆以降、街の探偵事務所での活動も依頼が少なくなり、特に友達と出かけることもなく、ただ日々が過ぎてしまったからだ。

事務所の探偵さんは「夏の終わりは人恋しくなるものです」なんてぼやいていたけど、まさにその通りかもしれない。

 ちなみに事務所に出入りしていることは兄には秘密だ。絶対面倒くさいことになる。

 すると近くにいた母がふと思い出したように言う。

「そういえば大和君、近所の祭りに行くって言ってたよ」

 その一言に、匠がにやりと笑う。

「だったら静から誘ってみれば? せっかくの夏なんだし」

「え、私が? ……というかなんでお母さんが大和君のこと知ってるの!?」

「この前、学校で顔合わせたでしょ? 昨日偶然スーパーで見つけて話しかけてみたのよ。『静と同じクラスよね』って。とても礼儀正しい子だったわ」

 母は得意げに続ける。

「なんだか大人しそうな子ね……静、勇気出してみなさいよ」

 

 半ば押されるように、静はスマホを取り出してメッセージを打った。我が母とは思えないほどの積極性だ。こういうところは兄の性格の元なのだろう。

 

『あのさ……祭り、一緒に行きませんか?』



 送信ボタンを押してから、心臓がやけに速くなった。しばらく既読がつかず、やっぱり変に思われたかな、と不安になった頃、短い返信が返ってきた。



『いいよ』



 あっさりした返事に拍子抜けしつつも、静は思わず口元を緩めた。



-----



 当日の夕方。母に着せられた薄紫の浴衣姿の静は、神社の鳥居前で待ち合わせていた。提灯の明かりが点り始め、太鼓の音が遠くから聞こえてくる。浴衣の帯がきつくて、歩くたびに少し息苦しさを感じた。

 

 ほどなくして、白いTシャツにジーンズというラフな格好の大和がやって来る。いつもより少し髪を整えているように見えた。



「……浴衣なんて着てきたのか」

「変? 慣れてないから、ちょっと恥ずかしいんだけど」

「別に。似合ってると思う」



 ぽつりと口にした大和の言葉に、静は思わず目を瞬かせる。

「……そ、そう? ありがとう」

 耳が少し赤くなるのを自覚しながら、二人は祭りの喧騒の中へと歩いて行った。



-----



 境内には色とりどりの屋台が立ち並び、子どもたちの笑い声と大人たちの話し声が混じり合っている。金魚すくいの前では小さな女の子が真剣な顔をしていて、焼きとうもろこしの香ばしい匂いが夜風に乗って漂ってくる。

 

 二人は屋台を順に回った。射的では大和が景品のぬいぐるみを狙ったが外れ、苦笑いを浮かべる。

「...こういうの下手なんだ」

「意外。なんか得意そうに見えたのに」

「……そう見える?」

「うん。落ち着いてるからかな」

 

 大和は少し照れたような顔をして、次の屋台へと歩いて行く。

 

 ヨーヨー釣りでは、静の糸がすぐに切れてしまった。

「あー、もう全然だめだ」

「持ち方が悪いんだ。……貸して」

 大和は道具を受け取ると、下からすっと差し入れるようにして一発でヨーヨーを釣り上げた。


「ほら」

「すごい……! ありがとう、大和くん」


 無邪気に笑った静を見て、大和は少しだけ視線を逸らした。普段は少し自信なさそうな彼女の、こんな表情を見るのは珍しい。なんだか眩しくて、どこを見ていいかわからなくなった。



 その後、二人は食べ物を買った。静は真っ赤なリンゴ飴、大和は焼きそばだ。人混みを避けて境内の隅にある石段に腰を下ろす。

 

「……僕、リンゴ飴って食べたことないかも」

「そうなの? さっき買えばよかったのに」

「リンゴまるまる一つは食べきれない気がする」

「意外といけるもんだよ。一口食べてみる?」

 

 静がリンゴ飴を差し出すと、大和は一瞬躊躇してから小さく齧った。

「……甘い」

「でしょ? 懐かしい味だよね」

「懐かしい……かな。よくわからないけど」

 

 大和の表情が少し曇る。静は何か聞いてはいけないことを口にしてしまったような気がして、慌てて話題を変えた。



-----



 やがて空が完全に暗くなり、花火の時間が近づく。人々が境内の開けた場所に集まり始めた。

 

「……花火、こんな近くで見るの初めて」

「僕も。祭りに来ること自体、あまりなかった」

 

 大和の声に少し寂しさが混じっているのを、静は敏感に察した。

 

「どうして?」

「……父さんが単身赴任で、母さんが一人だから。こういう場所に来ると、他の家族を見て母さんが寂しそうにするから」

 静は胸が少し締め付けられるような気持ちになった。

「そっか。じゃあ今日は、お互いに初めての夏祭りだね」

 静がぽつりと呟くと、大和は少し間を置いて頷いた。

「……そうだな」

 最初の花火が夜空に大きく咲いた。オレンジ色の光が二人の顔を照らし、続いて青や緑の花火が連続して上がる。派手な音と光に包まれながらも、不思議と落ち着いた空気が二人の間に漂っていた。

 

 静は横目で大和を見る。花火を見上げる彼の横顔は、いつもより穏やかに見えた。普段学校では見せない、少しだけ子どもっぽい表情。

 

「大和」

「ん?」

「今度、お母さんも一緒に何かできたらいいね」

 大和は驚いたような顔をして静を見た。そして小さく笑う。

「……静はやさしいな」

「そんなことない。ただ思っただけ」

 最後の大きな花火が夜空いっぱいに広がった時、静は確かに感じていた。これは特別な夜なのだと。

----


 帰り道。提灯の灯りが遠ざかっていく。浴衣の帯が緩んできて歩きにくいが、なんだか名残惜しい気持ちだった。

「誘ってよかったなって、思ってる」

 静がぽつりと言った。

「……僕も。来てよかった。久しぶりに楽しかった」

 大和は少し照れくさそうに答えた。

 

「また、今度も……」

「うん」

 

 短い返事だったが、その声に迷いはなかった。

 二人の背後で、祭りの音が徐々に小さくなっていく。

祭りから三日後の始業式。静は朝から少しそわそわしていた。

 

 あの夜以来、大和とはメッセージのやりとりを少ししている。といっても「宿題終わった?」「うん」程度の短い会話だが、それでも静にとっては大きな変化だった。

 

 支度をしながら鏡を見る。いつもと同じ顔なのに、なんだか違って見えるような気がした。

「静、早く食べなさい。遅刻するわよ」

「うん、今行く」

 

 母は静の様子を見て、くすりと笑った。

「祭り、楽しかったのね」

「……まあ、普通に」

「大和君はどうだった?」

「普通」

「そう。また今度、うちにも遊びに来てもらいなさい。お夕飯でも一緒にどうかしら」

 

 静は顔が熱くなるのを感じた。母の提案は嬉しいような恥ずかしいような、複雑な気持ちだった。



-----



 始業式を終えたばかりの教室は、夏休みの話題で賑やかだった。隣の席の美穂は海へ行った話で盛り上がっていて、前の席の田中君はキャンプの写真をみんなに見せている。

「静も何かした? どこか行った?」

 美穂が話しかけてきた。

「うーん、特に遠くは……」

 

 静は自分の机でお弁当箱を広げながら、少しだけ居心地の悪さを感じていた。こういうとき、どう会話に混ざればいいのか、いまだによくわからない。祭りのことを話すのも、なんだか照れくさい。

 

 ふと視線を上げると、教室の隅に座る大和と目が合った。彼は机に突っ伏したまま、おにぎりを片手にしている。いつものように一人だが、なんだか以前より親しみやすく見えた。



「……大和君、そこで食べてるの?」

「ん。……そうだけど」

「じゃあ、私もそっち行っていい?」

「……別に」



 返事がぶっきらぼうなのはいつも通り。でも、拒まれている感じはしなかった。静は弁当を持って、大和の机の隣に腰を下ろした。

 

 美穂が驚いたような顔をしているのが見えたが、静は気にしないことにした。



「夏休み、どうだった?」

「別に。……普通」

「だよね。私も、特別なことはあんまりなかったけど……」



 言葉を切って、静はふっと笑った。

「祭りに行ったのは楽しかったな」

「……ああ」



 大和は短く答える。その表情はあまり変わらないけれど、静にはどこか柔らかく見えた。あの夜の穏やかな横顔を思い出す。



「ヨーヨー、まだ部屋にあるよ。机の上に飾ってる」

「僕も。本棚の横にぶら下げてる」

「え、ほんと? 同じだね」

「……母さんが、綺麗な色だから飾っておけって」

 

 大和がお母さんの話をするのは珍しい。静は少し嬉しくなった。

 

「お母さん、優しいんだね」

「まあ……そうかな」

 

 二人は顔を見合わせて、少しだけ笑った。周りの喧騒から切り離されたような、静かな空気がそこに流れる。

 そのとき、美穂がひょいと覗き込んできた。

「あれ? 静、大和君と一緒にご飯食べてるの?」

「うん。……なんか話しやすいんだよ」


 静がさらりと答えると、美穂は目を丸くして「へぇー」と意味ありげに笑って戻っていった。今度は田中君も興味深そうにこちらを見ている。

 

 大和は少し眉をひそめ、声を潜める。

「……余計なこと言わなくていい」

「え、別にいいじゃん。事実だもん」

「……」


 純粋な静はその言葉に大和と口をつぐむ。

静はそんな大和の素直じゃない態度は、不思議と嫌いになれない。



-----



昼休みが終わり、午後の授業が始まる。静は窓の外を見ながら、あの祭りの夜のことを思い返していた。

花火を見上げる大和の横顔。お母さんのことを話す時の少し寂しそうな表情。

「君はやさしいな」と言った時の小さな笑顔。

恋なのかどうかはよくわからない

でも、彼のことをもっと知りたいと思うようになった。


放課後、校門で大和と一緒になった。

「お疲れ様」

「……ん。お疲れ」

「今度の土曜日、お母さんがお夕飯一緒にどうかって言ってるんだけど……」


静は勇気を出して切り出した。

「え?」

「大和のお母さんも、もしよかったら一緒に。うちのお母さんが、お一人で大変でしょうから、って」


大和は驚いたような顔をして、それから少し考え込んだ。

「……聞いてみる」

「うん。無理だったら全然大丈夫だから」

「いや……多分、お母さんも喜ぶと思う」

大和の表情が、ふっと緩んだ。あの夜の花火の時と同じような、穏やかな顔だった。



「あ、そうだ。大和君知ってる?今学期から赴任してきた先生のことを」

「ああ、確か隣のクラスの担任が急に変わったんだって?数学だからうちのクラスにも来るよ」

「すごくイケメンって、人だかりができてたよ。女子の熱量すごいね」

「お前も女子だろ」



-----



家に帰る道すがら、静は小さく鼻歌を歌っていた。

夏祭りの夜に感じた居心地の良さが、こうして学校でも続いている。それどころか、もっと深いところで繋がっているような気がした。

大和の家族のこと、彼の普段見せない表情のこと、一緒にいる時の自然な空気のこと。全部が新鮮で、特別だった。

夕日が住宅街を染めていく。静はゆっくりと家路についた。ヨーヨーを見るのが、今日も楽しみだった。


この話で第三部が完結となります。

次回からは第四部「新学期編」をお届けします。

感想・評価・ブックマークをいただけると、とても励みになります。

また、次回以降の改善の参考にもさせていただきますので、ぜひお聞かせください。


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