第三章 九話 余白探偵社
「――と、いうことが昨日あった」
京介は話を締めくくり、ひと息ついた。
「へぇ、そう。そんなことがあったのね」
向かいの席で紅茶を口にした美香は、気取った調子で笑う。
「いきなりアポなしでレディの部屋に来たから、身構えちゃったじゃない」
「? お前なら誰でもすぐボコれるだろ」
「失礼ね」
美香はむっとした顔をしたが、口元の笑みは隠し切れていない。
京介は祖父母宅から帰宅したその足で、美香の家を訪れていた。隣の部屋に住んでいることは知っていたが、入るのはこれが初めてだ。同じ間取りとは思えないほど、室内は整然としている。家具や小物の配置にも気が配られ、淡い色合いのカーテン、壁際の本棚、さりげなく置かれたアロマランプ――どれも京介の殺風景な部屋にはないものだった。
テーブルの上には、湯気の立つ紅茶。銘柄は分からないが、鼻に抜ける香りは柔らかく上品だ。
「まぁ、あのお化け鏡のときの幻影の謎は解消できたわね」
美香は優雅にカップを揺らしながら言った。
そう――あの怪異の夜、美香と京介は鏡に引き込まれ、そこで瑠衣の幻影を見た。彼女は詳しくは聞いてこなかったが、きっと気になっていたに違いない。
「それで、瑠衣ちゃんのことを聞いて、その能力で人を守りたいってなったのね。ふふ……私がヒーロー活動に誘ったころのあなたとは大違いね」
「うっせ。お前の登場の仕方が悪すぎるんだよ」
京介は思わず苦笑しながらも、あの日を思い出す。
あの飛び降り自殺を試みた日――。
あの頃の自分は、抜け殻のように過ごしていた。祖父母宅にいた間はまだよかった。しかし一人暮らしを始めてからは生活が崩れた。夜更かしばかり、毎日コンビニ飯。たまに劉が構ってくれたが、高校に入ってからは生活リズムも合わず、会う機会も減った。学校のクラスメイトはガラが悪く、教室も居場所とは言えなかった。
そんな毎日、ふと強烈な虚無感に襲われ――「消えたい」と本気で思うようになった。
「……あの頃は本気だったんだけどなぁ」
京介は自嘲気味に呟く。ほんの二、三か月前のことなのに、ずいぶん昔のことのように感じられる。
「今は物騒な願望がなくなったようで何より」
美香はニヤニヤと笑う。挑発するようなその顔に、京介はむっとした。
「で……能力管理委員会ってなんだ」
本題を切り出す。わざわざ土産まで買ってきて美香の部屋に来たのは、このことを聞きたかったからだ。
美香は京介と同じ能力者で、しかもかなりの家柄らしい。何かを知っていても不思議ではない。
「……そっち方面は透の方が詳しいわよ? なんたって隠しながら探偵業をしてたんだから」
美香はすぐに話をかわす。これも予想していたことだ。重要なことを少しでも先延ばしにする――それは彼女の悪癖だった。
しかし京介は引かない。
「草薙が知ってることだけでいい。今、教えてくれ」
真剣な目で見据える。言葉を濁しても、このまま帰るつもりはない。
「うう〜……」
美香は顔を赤くして唸った。どうにも話したくなさそうだ。
それでも、観念したように神妙な顔に変わる。
「……分かったわ。簡単に言うと――能力管理委員会は、能力っていう非科学的な存在を世間から隠すことを目的に活動している、非公式の組織よ」
紅茶の表面に映る美香の横顔は、どこか冷ややかで、それでいて真剣だった。
京介は息を呑む。
ただの都市伝説や噂話ではなく、現実に動いている何か。瑠衣の死や、自分や両親の記憶の操作にも関わっていたその存在――
「非公式の……組織?」
京介は眉をひそめた。言葉の意味を頭の中で転がしながら、紅茶に伸ばした手を止める。
美香はカップを置き、少し身を乗り出すようにして言った。
「そう。正式な法律や制度に基づいたものじゃない。けれど裏ではかなりの力を持ってる。『能力管理委員会』って名前を使ってるけど、実際は政府機関でも何でもなくて……一種の調整役。能力者が暴走したり、表に出すぎたりしたときに、ひっそり介入して”処理”する」
「処理……」
京介はその響きに背筋を冷たくした。
「もちろん、表向きは”保護”ってことになってるわよ?」
美香は肩をすくめてみせる。
「けど、実際に保護された人がどうなったかなんて、誰も知らない。瑠衣ちゃんの件みたいに記憶を消されることもあるし、存在ごと社会から消されることだってある。あなたの記憶――瑠衣ちゃんのことも、きっと委員会が関わってる」
京介の胸に、ずしりとした痛みが走る。
記憶を奪われ、真実を遠ざけられていたのは、自分を守るためだったのか。それとも――都合の悪い事実を隠すためだったのか。
「……なんでそんな組織が黙認されてんだよ。政府とか警察は何してんだ」
「逆よ」
美香は真っ直ぐ京介を見た。
「政府も警察も、彼らに依存してるの。能力っていう得体の知れない現象を、彼らが”管理”してくれるなら、世間は安心できる。つまり、“見て見ぬふり”ってこと」
「……ふざけんな」
京介は拳を握った。紅茶の湯気が、怒りで熱を帯びる視界の中で揺れる。
美香はそんな京介の反応を静かに見つめ、やがて小さく笑った。
「だから言ったでしょ、透の方が詳しいって。あの人、表向きは探偵だけど……裏では委員会の動きを追い続けてるの。あなたが本気で知りたいなら、彼に会うべきよ」
「草薙、なにか隠してないか?」
「ふふ、鋭いわね」
美香は悪戯っぽく笑ったが、その瞳は笑っていなかった。
「正直に言えば、私も全部を知ってるわけじゃない。ただ、お父様が私のために調べてくれた必要最低限のことを、耳に入れたことがあるだけ。……だからこれ以上は透に聞いて。彼なら君に話すはず」
京介は立ち上がり、深く息を吐いた。
「分かった。透さんに会ってみる」
部屋を出ようとしたその時、美香の声が背中を追った。
「ねえ、八田君」
「なんだよ」
「あなたが”人を守りたい”って言ったのは、瑠衣ちゃんのためでしょ。でも――その先は、もっと大きなものと戦うことになるかもしれないわよ」
京介は少しだけ振り返り、真剣な眼差しを返す。
「それでも、逃げない」
その言葉に、美香は小さく息を吐き、微笑んだ。
「……ならいいわ。気をつけてね、ヒーローさん」
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ドアを閉めた瞬間、京介の心には新たな重さと同時に、不思議な高揚感が湧き上がっていた。
瑠衣の死の真相。能力を隠そうとする組織。
透が握っているであろう真実。
すべてを知るために――彼は歩みを進めるしかなかった。
「……おや、やはり来ましたか」
雑居ビル二階の探偵事務所。ドアを開けると、薄暗い室内から落ち着いた声が響いた。
古びた本棚、山積みの新聞記事、灰皿に消え残った煙草――空気には紙と煙の匂いが混じっている。
真上透が、穏やかな仕草で京介を迎えた。
「美香様から事前に連絡がありました。能力管理委員会についてお尋ねに来られたのでしょう」
透は指先で眼鏡を押し上げながら、椅子を示した。
「どうぞ、お掛けください。……ただし、これからお話しすることは、あなたの日常を確実に変えます。それを承知の上で聞かれますか?」
京介は少し息を飲んだが、真っ直ぐに頷いた。
「お願いします」
腰を下ろすと、透は机の引き出しからファイルを取り出した。
「能力管理委員会――通称でそう呼ばれていますが、正式名称は存在しません。実際には、複数の裏組織が寄り合って作られた”能力者対策ネットワーク”です。政府の外郭団体のように装っていますが、法的根拠はなく、責任の所在も不明です」
京介が眉をひそめる。
「……じゃあ、やっぱり違法組織ってことですか」
「完全に違法、というわけでもありません」
透は静かに首を振った。
「政府や警察は彼らを”黙認”しています。能力という得体の知れないものに、表の機関は対応できない。委員会が処理してくれるならば、都合がいい――そう考えられているのです」
「処理って……」
京介の喉が詰まる。
「委員会が言う”管理”とは、実際には”監視と排除”を意味します。制御不能と判断された能力者は処分され、利用価値がある者は囲い込まれる。記憶を消された方も少なくありません」
京介は拳を握った。瑠衣のこと、自分の記憶の空白が頭をよぎる。
「……透さん、どうしてそんなに詳しいんですか?」
京介が声を絞り出すように尋ねる。
透は一瞬だけ視線を伏せ、それからゆっくりと口を開いた。
「私の古い友人が、かつて委員会に所属していました。調査員として働き、内部の情報を幾度となく私に漏らしてくれたのです」
「内部の人間……?」
京介が目を見開く。
「はい。彼は職務に疑問を抱いていました。能力者を”人”ではなく”対象”として扱うやり方に。ですから、私は断片的にですが、多くの記録や証言を聞くことができました。その友人は……すでに委員会から離れ、行方をくらましていますが」
静かな声に、ほんの一瞬だけ哀愁が混じった。
京介は真剣な表情で透を見据える。
「……僕は知りたいんです。瑠衣のことも、自分のことも。全部。知らないままでいるのはもう嫌だ」
透は眼差しを細め、じっと京介を見返した。
「覚悟はできているのですね」
「はい」
京介の声は揺れなかった。
「……分かりました。では、近日中に委員会の”現場”を見せましょう。彼らがどのように能力者を扱っているのか、ご自身の目で確かめていただくのが一番です」
京介は強く唇を結んだ。
いよいよ――委員会の真実が、目の前に現れようとしていた。




