第三章 八話 ちょっと遅めの里帰り 下
食卓には湯気を立てる豆腐ハンバーグと夏野菜の煮浸し、冷奴、手作りの漬物が並んでいた。さらに色とりどりのサラダや味噌汁も加わり、豪華な夕食となっている。祖母の愛情がこもった懐かしい味に箸が進むはずなのに、京介の心は落ち着かなかった。
劉は相変わらず自然体で、祖母と冗談を交わし、浩二の昔話に相槌を打っている。今日の畑の様子や近所の出来事など、他愛のない話題が食卓を彩っている。けれど、京介の耳には遠く蝉の声ばかりが響いていた。
「京介、あまり食べていないようだけど、大丈夫?」陽子が心配そうに声をかける。
「あ、はい。美味しいです」
京介は慌てて箸を動かした。しかし豆腐ハンバーグが口の中でぱさついて、うまく飲み込めない。胃が重く、いつもなら大好きなはずの味も分からなかった。
夕食を終えて片付けが済むと、四人は居間に集まった。いつもならテレビを見ながらゆったりと過ごす時間だったが、今夜は違った。
テレビは消されたまま、重い静寂が部屋を支配している。陽子は真剣な表情で二人の前に座った。普段の厳しさとは異なる、どこか緊張した面持ちだった。浩二も同様に、いつもの優しい笑顔は消え、深刻な表情を浮かべている。
「京介。これから話すことは、とても大切なことよ」陽子の声が震えていた。
「僕らも辛いんだけどね」浩二も深刻な面持ちで頷く。
「でも、君には知る権利があると思うんだ」
京介の心臓が、いやに大きな音を立てていた。手のひらに汗が滲む。劉も普段の軽やかさを失い、真剣な表情で聞き入っている。
「……何の話?」京介の声は震えていた。
部屋の空気が一気に張り詰める。祖父母が隠してきた何かが、いま語られようとしている。
そのとき、沈黙を破ったのは意外にも劉だった。
「実は……」
いつも軽やかな声を持つ彼が、まるで重い石を抱え込むように、低く抑えた調子で言葉を吐き出した。
「京ちゃんの記憶は、ある人たちに消されてるんだ」
「え?」
京介の頭が真っ白になった。言葉の意味が理解できない。
「消されてるって……何それ。意味分からない」
「京介。あなたには……妹がいたのよ」
陽子が震え声で口を開いた。
「小さくて、可愛らしい、あなたを慕ってやまない妹が」
「嘘でしょ?」
京介は立ち上がった。めまいがして、足がふらつく。
「そんなの嘘だよ。だって僕、一人っ子だよ。ずっと一人っ子だもん」
「京ちゃん……」劉が心配そうに手を伸ばす。
「違う!嘘だ!」
京介は劉の手を振り払った。息が荒くなり、胸が苦しい。
「なんで今になって……なんで今さらそんなこと言うんだよ!」
「京介、落ち着いて」浩二が立ち上がって京介に近づこうとしたが、京介は後ずさりした。
「嘘だよね?劉、冗談だよね?」
京介の声が裏返る。劉は辛そうに首を横に振った。
「……本当なんだ。名前は八田瑠衣。君より二つ年下で……」
「やめて」
京介は耳を塞いだ。しかし劉の声は止まらない。
「君と僕と、瑠衣の三人でよく一緒に遊んだんだ。川で水遊びして、秘密基地を作って……。瑠衣はすぐ転んで泣いちゃうから、いつも君が手を繋いであげてた」
京介の手が震え始めた。劉の言葉が、心の奥の何かに触れている。
「『お兄ちゃん、待って』って、いつも君の後を追いかけてた。君も瑠衣が大好きで、お小遣いでキャンディ買ってあげたり……」
「やめてよ……」
京介の声がかすれた。頭の奥で、ぼんやりとした映像が浮かんでは消える。小さな手の温もり、甘いキャンディの香り、無邪気な笑い声。
「どうして……どうして僕だけ覚えてないんだよ」
京介はその場にへたり込んだ。膝が震えて立っていられない。
陽子が京介の隣にそっと座り、肩を抱いた。
「あの日のことを話すわ」陽子の声は涙で震えていた。「瑠衣が道路に飛び出したの。車が来ていて……京介、あなたはとっさに不思議な力を使った。空気が歪んで、透明な壁のようなものが現れたの」
「力って……」
「でも間に合わなかった」浩二の声が重く響く。「瑠衣は……」
「やめて!」京介は叫んだ。「もう聞きたくない!」
部屋に重い沈黙が落ちた。京介の荒い息遣いだけが響いている。
しばらくして、劉が静かに口を開いた。
「その後、能力管理委員会って組織が来て、君の記憶を消したんだ。危険な能力だからって」
「僕の……お父さんとお母さんも?」
「うん」劉は辛そうに頷いた。「みんなの記憶が変えられて……君の両親は瑠衣を失った悲しみに耐えられなくなって」
京介は膝を抱えて丸くなった。すべてが崩れ落ちていくような感覚だった。
真実を知った夜、京介は部屋に戻っても眠れなかった。
布団にもぐり込んでも、体は火照って汗ばんでいる。天井の木目を見つめても、目を閉じれば瑠衣らしき女の子の笑顔が浮かんでは消え、胸が締めつけられる。風鈴の音が時折響いて、神経を逆撫でするように感じられた。
「瑠衣……」
その名前を小さく呟くと、不思議な既視感に包まれる。きっと何度も呼んだことがあるのだろう。寝る前のおやすみも、朝の「おはよう」も。それなのに、顔が思い出せない。
布団を蹴飛ばして起き上がり、京介は部屋の中をうろうろと歩き回った。じっとしていられない。写真の木箱を取り出して、何度も何度も眺める。切り取られた写真の跡を指でなぞりながら、失われた記憶を手繰り寄せようとした。
時計の針は午前二時を回っている。
そのとき、障子の向こうから、そっと劉の気配がした。
「京ちゃん、起きてる?」
声は普段の明るさを失い、心配と戸惑いが混じっている。
「……起きてるよ」
京介の答えは、かすれて小さかった。戸が静かに開き、劉が浴衣姿のまま入ってきた。気まずそうに頭を掻きながら、京介のそばに腰を下ろす。
「眠れないよな」
劉は天井を見上げて深い吐息を漏らした。月明かりが障子を通して、二人の横顔を淡く照らしている。
「僕だって、あの日のことは一生忘れられない。もし僕がもっと早く気づいてれば、もし僕が君を止められてたらって、何度も考えたよ」
劉の声には、長い間抱えてきた後悔が滲んでいた。
「劉は悪くないよ」京介は涙声で呟いた。「悪いのは僕だ。力があったのに、守れなかった……」
「違うよ」劉が強い口調で遮る。「君はすごく頑張ったんだ。僕、覚えてるもん。あの時の君の顔」
劉は立ち上がって、部屋の隅にあった古いおもちゃ箱を開けた。中から小さなミニカーを取り出す。
「これ、覚えてる?」
京介は首を横に振る。しかし劉は続けた。
「瑠衣が大好きだった救急車のミニカー。『お兄ちゃんみたいに人を助ける』って言って、いつも持ち歩いてた。君がプレゼントしたんだよ」
京介は手を伸ばしてミニカーを受け取った。小さな車体は使い込まれて塗装が剥げている。手に取った瞬間、不思議な温かさが広がった。
「あの子ね、いつも君の真似してたの」
劉は微笑んだ。それは悲しみと懐かしさが混じった、複雑な表情だった。
「君が『ありがとう』って言うと、瑠衣も『ありがとう』って真似して。君が転んで膝を擦りむくと、瑠衣も心配して小さな絆創膏を持ってきたり」
京介の脳裏に、ぼんやりとした映像が浮かんだ。小さな手が差し出す絆創膏。「痛いの痛いの飛んでけー」と言いながら、一生懸命に貼ってくれる誰かの姿。
「僕……ちょっと思い出せそう」
京介は震える声で言った。涙がぽろぽろと頬を伝う。
「ゆっくりでいいよ」劉は優しく微笑んだ。「無理しなくていい」
二人の間に静かな時間が流れた。外の虫の音が、暖かく包み込むように響いている。
翌朝、京介は重い頭を上げて居間へ降りた。目は赤く腫れ、頬はこけていたが、表情にはかすかな決意の色が浮かんでいる。
「おはよう、京介」
浩二が心配そうに声をかけた。陽子は無言で温かい味噌汁を京介の前に置く。
「おはよう……」
京介は小さく答えて、味噌汁を一口飲んだ。温かさが体の芯まで染み渡る。
「おじいちゃん、おばあちゃん」
京介は顔を上げて、祖父母を見つめた。声はまだ震えているが、以前より芯が通っている。
「僕、逃げたくない」
陽子が驚いたように目を見開く。
「この力のこと、瑠衣のこと……全部から逃げるのはやめる。瑠衣を守れなかった僕だからこそ、これから誰かを守りたい」
浩二は黙って孫を見つめ、その成長した姿に深い感慨を覚えながら、ゆっくりと頷いた。
「そうか……。辛い真実を知ってもなお、前を向こうとする。それがお前の本当の強さだな、京介」
陽子は目に涙を浮かべ、京介の手をそっと包んだ。
「瑠衣も、きっと喜んでいるわ」
その温もりに、京介の心に小さな光が差し込んだ。
午後、京介は劉と共に裏山の小道を歩いた。風には確実に秋の気配が混じり始めている。道端には彼岸花が咲き始めていた。真っ赤な花びらが、夏の終わりを告げている。
「ここも、瑠衣と一緒に歩いたの?」
「うん。よく三人で探険ごっこしたよ。瑠衣は虫が苦手だったから、いつも君の後ろに隠れてた」
劉の言葉に、京介は立ち止まった。足元の小石を見つめながら、記憶の断片を手繰り寄せようとする。
「劉」
「うん?」
「瑠衣って……どんな子だった?」
劉は少し考えてから、穏やかに答えた。
「すごく優しい子だった。僕がいじめられてた時、君が助けてくれたでしょ?あの時瑠衣も一緒にいて、泣きながら『劉くんがかわいそう』って言ってくれたんだ」
京介の心に、暖かい何かが広がった。
「それから……」劉は微笑む。「君のことが大好きすぎて、君が風邪ひいた時は、自分で作ったお守りを持ってきてくれたりしてた。下手くそな折り紙の鶴だったけど」
「お守り……」
京介は呟いた。その時、微かな記憶がよみがえる。熱で苦しんでいる時に、小さな手がそっと額に触れてくれた感覚。「お兄ちゃん、元気になって」という、鈴のような声。
「少し……思い出せた」
京介は涙を拭いながら言った。それは悲しい涙ではなく、温かい涙だった。
「ゆっくりでいいんだ」劉は頷く。「瑠衣はずっと君の中にいる。君が誰かに優しくする時、きっと一緒にいるよ」
彼岸花の赤い花が風に揺れている。その花言葉は「思うはあなた一人」。
蝉の声が遠ざかり、風鈴がかすかに鳴った。その音は、悲しみを越えて歩き出す京介の背中を、静かに、優しく押しているように思えた。
夏が終わろうとしていた。




