第三章 八話 ちょっと遅めの里帰り 上
「京ちゃん、そのリュック重そうだね」
夏休み最後の帰省を告げる電車の中で、劉が隣席の友人を見て首をかしげた。京介の膝の上に置かれたリュックは石でも詰め込んだようにパンパンに膨らんでいる。肩紐が食い込むほどの重さに、京介は時折顔をしかめながらも大切そうに抱えていた。
「ああ、これ?」京介は苦笑いを浮かべてリュックの表面を軽く叩いた。「夏休みの宿題とか、お土産とか……それに、大事なものも入ってる」
最後の言葉だけ、なぜかひどく小さかった。
「俺のなんてこれだけだぜ」劉は肩のボディバッグを指差す。「着替えと歯ブラシくらい。どうせ向こうで何でも揃うだろ?おじいちゃんもおばあちゃんも用意周到だし」
「そうだけどさ……」
京介は曖昧に頷き、車窓に視線を移した。緑の稲穂が風に揺れている。自分の住む街から電車で三十分ほどの距離なのに、今日は妙に長く感じられた。
車窓には夏の終わりの風景が広がっていた。眩しい日差しは少し和らぎ、空には入道雲と秋雲が混在している。夏の終わりの匂いがガラス越しにも伝わってくるようで、どこか懐かしく、それでいて寂しかった。
「最近さ」京介がぽつりと口を開く。「昔のことを思い出そうとするんだ」
リュックを抱え直しながら、窓ガラスに映る自分の顔を見つめる。
「あまりはっきりしないんだけど……たぶん『妹』がいたんだと思う」
劉の手がわずかに震えた。しかし、すぐに膝の上で組み直す。
「妹?」劉の声が普段よりもほんの少しだけ低くなった。
「小さい頃の記憶が霞みたいで。でもときどき聞こえるんだ。笑い声とか、俺を呼ぶ声とか」京介は唇を噛んだ。「顔も名前も思い出せないのに、すごく大切だった気がして」
京介の手が無意識にリュックの表面を撫でている。その仕草には、失くしたものを探すような切なさがあった。
「だから最近、何でも持ち歩きたくなっちゃうんだ。写真とか古い物とか、何か手がかりになるかもって。また大切なものを忘れちゃいけないって思うと」
一瞬、劉の表情に深い影がよぎった。だがすぐにいつもの調子で肩をすくめる。
「京ちゃん、それ夏バテじゃない?この夏いろいろあったしさ」
しかしその笑顔は、どこか無理をしているように見えた。
「そうかな……」京介は力なく笑った。
電車は静かに速度を落とし、小さな田舎駅へと滑り込んでいく。車内アナウンスが響く中、京介は重いリュックを背負い直した。
「着いたね」
劉の声に、なぜか複雑な響きが混じっていた。
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改札を抜けると、懐かしい二つの顔が待っていた。
「京介〜!劉くんも〜!」
手を大きく振るのは祖父の八田浩二。ふわふわとした笑みを浮かべ、どこか子どものような無邪気さを漂わせている。麦わら帽子に半袖シャツ、日焼けした腕がいかにも夏らしい。その後ろで日傘を差しているのが祖母の八田陽子。背筋をまっすぐに伸ばして立ち、白いブラウスに紺のスカート、きちんと整えられた髪型が品格を感じさせる。
「おじいちゃん、おばあちゃん、ただいま」
京介が重いリュックを背負ったまま頭を下げると、陽子がすかさず指摘した。
「背筋が悪いわよ。もっとしゃんとしなさい。それにその荷物、随分重そうね。一体何を持ち歩いているの?」
「は、はい」京介は慌てて背を伸ばす。「えっと、夏休みの宿題とか……」
「まあまあ、陽子。久しぶりなんだから」浩二が穏やかに笑いながら取りなして、大きな手で京介の頭を優しく撫でた。「さあさあ、家に帰ろう。京介の好きな豆腐ハンバーグを作って待ってるからね。それから今年は特製のかき氷も用意したよ」
その言葉に京介の頬が少し緩んだ。しかし心のどこかで、今日は何か違うという予感が消えなかった。
「劉も久しぶりだね。また背が伸びたんじゃないか?」浩二は劉の肩を軽く叩いた。
「お久しぶりです。おじいちゃんこそ、元気そうで何よりです」
歩きながら、劉と浩二が小声で何かを話し合っている。京介は聞き取ろうとしたが、風の音に紛れてはっきりしない。ただ「今日、話す」という言葉だけが耳に届いた。
胸の奥に、漠然とした不安が広がっていく。
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祖父母の家は駅から歩いて十五分ほどの場所にある。庭には色鮮やかな朝顔がまだ咲いており、縁側には風鈴が涼やかな音を立てていた。築年数を重ねた木造の家屋だが、丁寧に手入れされており、どこか温かみのある佇まいを見せている。
玄関をくぐると、どこか懐かしい畳の匂いが鼻をかすめる。
「半年ぶりなのに……」
京介の中で、子どもの頃にここで過ごした夏の記憶がぼんやりと浮かび上がった。セミの鳴き声、スイカの甘い香り、縁側で聞いた花火の音。しかしその記憶には空白がある。思い出せそうで思い出せない、パズルのピースが欠けているようなもどかしさ。
縁側を見つめていると、ふと小さな足音が聞こえたような気がした。白いサンダルを履いた小さな足音。しかし振り返ってもそこには誰もいない。
「京介?どうしたの?」
陽子の心配そうな声に、京介は慌てて首を振った。
「あ、何でもない」
「さあ、荷物を置いて手を洗いなさい」
陽子はテキパキと指示を出し、すぐさま台所へ立った。
「劉くん、少し手伝ってくれる?」
「もちろん」
劉はためらいもなくエプロンを受け取り、包丁を手にする。慣れた様子で野菜を刻み始める手つきは、確かに料理に慣れ親しんだものだった。
「ほう、なかなか筋がいいね」陽子は目を細めて劉の手元を眺める。「やはり私の弟子だけのことはあるわ」
「ありがとうございます、師匠」劉は嬉しそうに返した。
「それに比べてあの孫は……」
陽子のぼやきを聞きながら、浩二はソファでくつろぎモードに入っている京介の隣に腰を下ろした。重いリュックを下ろした京介は、ほっと一息ついている。
「まあまあ、得意不得意は誰にでもあるさ」
そう言って、小さな封筒を京介の手に渡した。
「お小遣いだよ」
「おじいちゃん、いつもありがとう」
京介は封筒を両手で受け取り、少し照れたように笑った。
「いいんだよ。……それより京介」
浩二は声を落とし、京介の顔をじっと見つめた。
「最近どうだい?学校は楽しいか?友達とはうまくいってるか?」
京介は一瞬言葉に詰まったが、やがて小さく頷いた。
「楽しいよ。いろんな人と会ったし……友達もできた。劉もいるし、事務所の人たちも優しくて」
「でも?」
浩二は孫の表情から何かを読み取っていた。
「……どこか不安なんだ。最近、昔のことを思い出せそうになって。でもうまく思い出せなくて。今まで気にならなかったのに、どうしてか急に。まるで大切な何かを忘れてしまっているような、誰かを忘れてしまっているような」
京介の言葉に、浩二の手がわずかに震えた。台所からこちらを振り返った陽子と、浩二の視線がぶつかる。無言のやり取りの後、陽子は包丁を置いて深呼吸をした。
「京介」
陽子の声がいつもの小言とも叱責とも違う重さを帯びる。
「夕食の後、大事なお話があるの。心の準備をしておきなさい」
その響きには、もう逃げられない何かを背負わせる覚悟があった。京介は息を呑んだ。胸の奥で不安が形を変えて膨らんでいく。
台所からは豆腐ハンバーグの良い匂いが漂ってきている。劉が器用に野菜を炒める音、陽子が味付けを確認する小さなつぶやき、浩二が新聞をめくる音。いつもと変わらない夕方の風景なのに、今日は何かが決定的に違っていた。
「俺、ちょっと荷物の整理してくる」
京介は重いリュックを手に取り、二階へ向かった。子どもの頃に使っていた部屋は、そのまま残されている。小さなベッド、勉強机、本棚に並ぶ懐かしい絵本や図鑑たち。
ベッドに腰を下ろし、京介はリュックのファスナーをゆっくりと開けた。中には確かに夏休みの宿題のプリントや祖父母たちへのお土産が入っている。
しかし一番奥には、小さな木箱があった。
開けると、数枚の古い写真が出てきた。自分が幼い頃の写真だが、そのほとんどに違和感がある。集合写真で誰かが切り取られたような跡、家族写真なのに空いている場所、手だけが写り込んでいる不自然な構図。
「やっぱり、誰かいたんだ……」
京介はつぶやいた。写真を一枚一枚確認していくと、一枚だけ、小さな女の子の後ろ姿が写っているものがあった。白いワンピースを着て、髪を二つに結んでいる。顔は見えないが、なぜか胸が温かくなった。
下から陽子の声が響く。
「京介、夕食よ〜」
「今行く」
京介は写真を大切にしまい、リュックを閉じた。階段を降りながら、今夜明かされるであろう真実への不安と期待が入り混じった食卓には、湯気を立てる豆腐ハンバーグと夏野菜の煮浸し、冷ややっこ、手作りの漬物が並んでいた。さらに色とりどりのサラダや味噌汁も加わり、豪華な夕食となっていた。
しかし、京介は複雑な気持ちが胸を占めていた。
「さあ、食べましょう」
陽子の声が合図となり、静かな夕食が始まった。しかし京介の頭の中では、木箱の中の写真の記憶がぐるぐると回り続けていた。
重いリュックの中で大切にしまってきた記憶の欠片たちが、今夜ようやく形を成そうとしている。それが嬉しいものなのか、悲しいものなのかは、まだ分からなかった。




