第三章 七話 アイスを求めて
真夏の昼下がり、午後二時。
探偵事務所――と言えば聞こえはいいが、実際は古びたビルの三階の一室に過ぎない。
改装はしたものの基本設備は築三十年のまま。窓を全開にしても生ぬるい空気が流れ込むだけで、年季の入ったクーラーからは不気味な唸り声と共に熱風しか出てこない。
「……あっつい」
京介が机に突っ伏した。机の上には夏休みの課題がうんざりするほど山積みになっている。数学のワークブック、読書感想文の原稿用紙、自由研究のテーマ用紙――どれも手つかずのままだ。
向かい側では大和が渋い顔をして同じく課題と睨めっこしている。こちらもペンが全く進んでいない。
別の机では透が何らかの書類をまとめているが、その手元にも汗の雫が落ちそうになっている。
部屋の隅では扇風機が懸命に回っているが、ただ熱い空気をかき混ぜているだけで、むしろ風切り音が暑苦しさを増幅させていた。
「うわぁ、京介くん完全に干からびたカエルになってるじゃない」
美香が涼しい顔で言い放つ。彼女だけは何故か汗一つかいていない。
「もしくは、真夏のアスファルトで潰れてるミミズだな」
劉が追い打ちをかける。こちらも平然としている。
「貴様ら……来て早々人を動物扱いするな」
京介が顔だけ上げて抗議するが、力が入っていない。
「でも確かに、今日は特別暑いですね」
大和が額の汗を拭いながら同意した。
「気象庁の発表だと、今日の最高気温は三十八度の予想でしたから」
透が淡々と付け加える。
「サウナかよ……」
京介が再び机に突っ伏した瞬間――。
ガチャリ。
ドアを開けて、静がコンビニの袋を両手にぶら下げて入ってきた。彼女の頬は少し赤く、額には汗が浮いている。
「みんなにアイス買ってきたよー!」
その言葉が事務所に響いた途端、空気が一変した。
「おおっ! 女神降臨だ!」
京介が勢いよく顔を上げる。
「ナイス判断!」
劉が親指を立てる。透も珍しく口元に笑みを浮かべ、大和は目を輝かせた。
「静ちゃん、ありがとう!」
美香も嬉しそうに立ち上がる。
「外、すっごく暑くて大変だでした。コンビニのお姉さんも『今日はアイスがよく売れますね』って言ってたよ」
静が袋から取り出したのは、色とりどりの棒アイスが数本。ガリガリ君、あずきバー、チョコモナカジャンボ――どれも見るからに美味しそうだ。
だが、京介が袋を覗き込んで数えてみると――。
「……あれ? 五本しかない?」
京介の声が微妙に震えた。
ここにいるのは京介、美香、劉、透、大和、そして買ってきた静の六人。
静の顔がさっと青ざめる。
「あ……」
「一本足りないじゃん!」
大和が絶望的な声を上げた。
「買って来てくれた静ちゃんは確定として……」
美香が冷静に状況を整理する。
「……誰か一人、食べられない」
事務所に重苦しい沈黙が流れた。エアコンの唸り声だけが妙に大きく響く。
次の瞬間――
「ジャンケンだ!」
「いや、体力勝負だ!」
「知恵比べでしょ!」
「くじ引きが一番公平よ!」
四人が同時に叫び、事務所が一気に騒然となった。
「ちょっと待てよ、なんで俺たちが争わなきゃならないんだ」
京介が手を振る。
「そうです。静さんがもう一本買いに行けば――」
透の提案に、静が首を横に振る。
「さっきコンビニで最後の四本だったの。店員さんが『アイスは午前中で売り切れちゃって』って」
「マジかよ……」
劉が天を仰ぐ。
「他のコンビニは?」
「この暑さだから、きっとどこも同じよ」
美香が現実的な意見を述べる。
「じゃあ、やっぱり四人で決めるしかないのね」
静が申し訳なさそうに呟く。
「静は悪くないよ。買ってきてくれただけでも感謝だから」
大和がフォローする。
「そうです。では、公正な方法で決めましょう」
透が口を開いた。
「いーや! こんな時こそ武の勝負だ! 腕相撲で決めよう!」
劉が腕をぐるぐる回しながら主張する。
「はぁ? それって単に劉が有利なだけじゃん! 不公平だ!」
京介が即座に抗議した。
「私たちは頭脳で勝負するべきね。例えば数学の問題を解くスピードとか」
美香が知的な提案をする。
「それこそ美香さんに有利すぎる……」
大和がぼそりと呟く。
「じゃあくじ引きが一番フェアでしょ」
京介が再び主張するが――。
「でも、くじって作る人が細工できるじゃない」
美香が疑いの目を向ける。
「僕を信用しろよ!」
「こういう場合の八田君は信用ならないから言ってるのよ」
二人が言い合いを始める。
「もう、ジャンケンでいいじゃないか」
劉が割って入った。
「ジャンケンが一番公正だ。誰にも有利不利はない」
「それもそうですね」
透が同意する。
「……仕方ない、ジャンケンで決めよう」
京介が渋々承諾した。
「最初はグー!」
五人の拳が宙に舞う。静は蚊帳の外で、ハラハラしながら見守っている。
「ジャンケン――」
その瞬間、美香の目がチラリと透の方を向いた。透が小さく頷く。
そして――。
「ポン!」
京介はグー、劉はチョキ、大和はパー、美香はパー。
「あ、あいこ!」
京介と劉が同時に声を上げる。大和と美香が勝ち残った。
「もう一回!」
「ジャンケン――ポン!」
大和はグー、美香はチョキ。
「やったー! 私の勝ち!」
美香が両手を上げて勝利のポーズを取る。
「おい草薙、まさか……」
劉が疑いの目を向けた。
「あら、勝ちは勝ちよ。能力で相手の動きを先読みしても、ルール違反じゃないでしょ?」
美香がしれっと白状する。
「能力チートじゃねーか!!」
京介と劉が同時にツッコんだ。
「ずるい!」
大和も抗議する。
「でも、能力を使っちゃダメなんて最初に決めてなかったじゃない」
美香が涼しい顔で言い返す。
「それは屁理屈だろ!」
「屁理屈も理屈よ」
美香がアイスの袋に手を伸ばす。
結局、美香がチョコモナカジャンボを選び、静がガリガリ君を手に取った。
「うー、アイス食べたかった……」
京介が机に突っ伏しながら呟く。
「くっ、俺の勝利のアイスが……」
劉も悔しそうに拳を握る。
「運も実力のうちって言いますけど……」
大和がため息をつく。
「まあ、次回は最初にルールを決めましょう」
透が慰めるように言った。
「……不正の味がする」
京介が呟きながら、美香がアイスを頬張る様子を横目で見る。
「美味しい♪」
美香が幸せそうにアイスを舐めている。
「ちょっと罪悪感があるけど……でも美味しいものは美味しいのよね」
「聞こえてるぞ……」
劉がぼそりと呟く。
そんな中、ふと透が口を開いた。
「そういえば、皆さん宿題はどの程度進んでいるのですか?」
その一言に、大和の動きが完全に止まった。
「あ……」
京介も顔色を変える。
「やべ、全然やってない……」
「私もまだ手つかずだわ」
美香がアイスを舐めながら白状する。
「お前らは?」
京介が劉と透を見る。
「俺? 終わったよ」
劉が何でもないように答える。
「マジで? どこにあるんだ?」
「カバンの中だけど」
「了解」
そう言い放つと、京介は素早く劉のカバンに飛びかかった。
「あ、こら、勝手に人のカバン漁るな!」
劉が慌てて京介を止めようとするが、京介の方が一枚上手だった。
「あった! 数学のワークブック!」
「返せよ!」
「ちょっと写させてもらうだけだから」
「ダメだ! 自分でやれ!」
二人が事務所の中で追いかけっこを始める。
「僕にも写させて!」
大和が静に懇願するように頼み込む。
「ダメです。自分の力でやりなさい」
静がきっぱりと断る。
「そんな冷たいこと言わないで! 親友だろ?」
「親友だからこそダメなんです」
「うう……」
大和が涙目になる。
京介と劉が格闘し、大和が静に懇願し続ける中、透はふとテレビから流れてくるニュースに耳を傾けた。
『続いてのニュースです。市内ではここ数日、文化財の盗難事件が相次いで発生しています。昨日は市内の古い神社から江戸時代の仏像が、一昨日は廃寺から室町時代の掛け軸が盗まれました。警察では同一犯による犯行の可能性が高いとして――』
透の表情が一瞬だけ硬くなった。
「……文化財の盗難、か」
頭をよぎるのは、以前関わった事件のこと。旧校舎から消えた古い鏡の件だった。あの事件も結局、真相は謎のままだった。
「ん? 真上さん、何か言いました?」
大和が聞き返す。
「いえ……なんでもありません」
透が首を振る。
気づけば他の面々はアイスや宿題の話に夢中で、ニュースの内容など全く耳に入っていないらしい。京介と劉は相変わらず取っ組み合いを続けているし、美香は優雅にアイスを味わい、静は大和の懇願を聞き流している。
透は小さくため息をついた。平和な日常も大切だが、街のどこかで起きている事件も気になる。
しかし、今はこの暑さと子供たちの騒がしさの中で、そんな心配も遠く感じられた。
やがて時間が経ち、気づけば袋の中に残っていた二本のアイスは完全に溶けてしまっていた。あずきバーとソーダ味のアイスが混じり合い、袋の中で奇怪な色合いのスープと化している。
「うわー……せっかくのアイスが……」
京介が袋を覗き込んで絶句する。
「完全に水たまりになってる……」
劉も肩を落とす。
「もったいない」
大和が涙ぐむ。
「二本も無駄になっちゃった」
静が申し訳なさそうに呟く。
そんな中、透がぽつりと口を開いた。
「……冷凍庫に入れておけば良かったですね」
その一言に、事務所が一瞬静まり返る。
そして――。
「なんでいままで気づかなかったんだろう…」
「すぐ食べるつもりだったからなぁ」
大和が珍しくしょんぼりする。
「まあ、今度から気をつけよう」
静が苦笑いしながらフォローした。
「しかし、暑いな……」
京介が再び机に突っ伏す。
「宿題も進まないし……」
大和も諦め顔だ。
「明日はもっと暑くなる予報ですよ」
透が天気予報を思い出しながら言う。
「げ、マジで?」
「エアコン、修理に出した方がいいかもしれませんね」
「金かかるなあ……」
劉がうんざりする。
「でも、このままじゃ熱中症になっちゃうよ」
静が心配そうに言った。
そんな彼らを見下ろように、壊れたエアコンが不気味な唸り声を上げ続けていた。




