第三章 六話 鏡の行方
夏休みの真っ盛りを告げるように、蝉の声が耳にまとわりついていた。
窓の外は平和そのものだが、京介の胸にはまだあの夜の記憶が重く沈んでいる。
お盆の怪異騒ぎから一週間が経った午後。
宿題に向かっていた京介のもとに、美香から一本の電話が入った。
『京介くん、ちょっと時間ある? あの神社の神主さんから連絡があったの。例の鏡、もう無いって』
「……無い?」
あの忌まわしい鏡は資料室に据え付けられていたはずだ。
あの夜、確かにそこにあった――はずなのに。
『そう。お祓いのときに話したでしょ? 資料室の大きな鏡。神主さんが封印しようと廃校舎へ行ったら、跡形もなかったらしいの』
冗談を言うときの軽さはなく、緊張が声に混じっていた。
嫌な予感が這い上がる。だが「逃げたい」とは、もう言えなかった。今は状況を共有できる仲間がいる。
「わかった。行こう」
こうして学校の許可を取り、京介・美香・透の三人で廃校舎を調べに行くことになった。
劉は空手の試合で不在。心強い戦力がいないのは心細いが、今回は中学生コンビには声をかけなかった。静はきっと心配してついて来きそうだか、余計な心配はさせたくなかった。
――
廃校舎の鉄扉の前。
鍵を取り出す神主の隣で、美香が呟いた。
「なんだか……あの日の匂いがする」
重い鍵が開く音が外壁に反響する。
内部は真昼でも薄暗く、湿気とほこりの匂いが鼻を刺した。ひやりとした空気に背筋が粟立つ。
資料室の扉を開けた瞬間、京介は息をのんだ。
そこにあるはずの大鏡が、本当に消えていた。代わりに、床に淡い円形の跡が残っている。水滴ではなく、手を近づけると冷気が指先を撫でた。
「……消えたってこと?」
「いや、これは……」
透が中央へ進み、目を閉じる。彼は「物の記憶を視る」力を持つ。だが数分の沈黙の後、額に汗を浮かべて呟いた。
「モヤがかかっている……旧校舎全体が完全に遮断されています。意図的に“見せないように”されている」
「誰かが隠してる?」
「おそらくは」
それ以上は語らず、透は唇を噛んだ。能力を封じられたことが彼にとって衝撃なのは明らかだった。
京介は冷たい跡を見つめながら考える。
鏡が消えた。
それも記憶すら覆い隠すような手段で。
――誰が、何のために?
「皆様、ご覧ください」
神主が木箱を開ける。中には、あのビー玉のような欠片が収められていた。
「これは“封印玉”。念や穢れ、怨霊を閉じ込めるもので、結界の要石としても用いられてきました」
「結界……?」
神主は頷いた。
「八田さん。あの日、光の壁を張って身を守ったと伺いました。今も使用可能ですか? 一度、見せていただきたい」
「……え?」
京介は思わず身を固くする。神主にそこまで話した覚えはない。戸惑う彼を見て、美香が申し訳なさそうに口を開いた。
「ごめん、八田くん。私と透さんのほうから事前に話したの。言わないと、私たちが生き延びた理由が説明できなかったから……」
京介は黙ってうなずき、深呼吸をした。
両手を宙にかざすと、光の膜がふわりと広がり、身体を包み込む。月光のように揺らめくそれを見て、透が息を漏らした。
「……これは、美しいですね」
「私も好き。きれい」美香が同意する。
むず痒さを覚えながらも、京介は光を保った。
神主は神妙に言う。
「やはり……これは防御ではなく“対象を隔離する結界術”に近い」
「隔離……?」
「結界は発動者と対象を結びつける作用を持ちます。あの鏡が京介さんに執着したのは、あなたを“出口”と認識したからかもしれません」
京介の背筋が冷たくなる。
――自分が、あの怪異の出口にされかけていた?
しかし神主は柔らかく笑った。
「ご安心ください。危険な反応はありませんし、この欠片もお祓い済みです。当面は問題ないでしょう」
言葉は安堵を与えたが、同時に彼は続けた。
「ただし。鏡が持ち去られたということは、それを必要とする人物がいるということ。封印されていたのには理由があったはずです。用心なさってください」
――
帰り道。
昼下がりの街路樹の影を歩きながら、透が言った。
「完全に終わったとは思わないほうがいいですが……すぐに何か起こるわけでもなさそうです」
「なら、ちょっとは休めそうね」美香が肩の力を抜く。
京介も深く息を吐き、空を仰いだ。
夏雲がゆっくり流れていく。あの数日の緊張がようやく遠ざかっていく――そんな錯覚が胸を撫でる。
けれど、握った拳の中にはまだ冷たい感覚が残っている気がしてならなかった。




