第三章 四話 学校の七不思議 6
翌朝――。
京介はほとんど眠れないまま、まぶたの重さを引きずって目を覚ました。頭の奥がまだ霞に覆われたようにぼんやりしている。それでも、右手に残る冷たい感触だけはやけに鮮明だった。
枕元のジーンズを手に取り、ポケットを探る。指先に触れたのは、ひび割れたビー玉。
昨夜、あの世界から持ち帰ったものだ。
禍々しい感情はもうほとんど失われ、くすんだガラス片にしか見えない。
けれど――理由もなく、素手で長く持っていたくなかった。手のひらにじっとりと残る冷たさが、また体温を奪っていくような気がした。
午前十時。
京介と美香は、町外れの古びた神社へ向かっていた。夏の陽射しが照りつける中、木々の隙間から見えた朱色の鳥居は、苔むして色褪せ、ところどころ剥がれている。参道の石畳はひび割れ、落ち葉や枯れ枝が風に揺れていた。
「……ここ、本当に大丈夫なのか?」
半信半疑の声を漏らす京介。
だが境内に足を踏み入れた瞬間、その不信感はすっと消えた。そこには街の喧騒とはまるで別世界の、澄んだ空気と静けさが広がっていた。蝉の声すら、ここでは遠くでささやくように聞こえる。
「ここね、ちゃんとお祓いをしてくれるところよ。草薙家が昔からお世話になってるの」
美香はそう言って、迷いなく石段を登っていく。
京介は頷きながらも、無意識に周囲を何度も振り返った。背後に、あの影が立っている――そんな錯覚が、どうしても拭えなかった。
社務所の引き戸を開けると、白髪混じりの神主が柔らかな笑みを浮かべて現れた。
「おや、草薙さん、お久しぶりです……そちらの方は?」
「友達です。ちょっと変なものを拾ってしまって……」
美香が簡潔に事情を説明する。
神主は黙って頷き、京介の手元の包みに視線を落とした。
「見せていただけますか」
京介が布をめくると、神主の目が細くなった。
「……これは、まさか封印玉?」
「封印玉?」
美香が聞き返す。
「ええ。昔、このあたりで起きた事件の際、何らかの念や穢れを封じ込めるために作られた道具です」
神主は深刻な口調で、玉の割れ目をなぞった。
「……壊れていますね。封じていたものが漏れ出している可能性があります」
京介の右腕に目をやり、痣があった位置を確認すると、神主はわずかに首を傾げた。
「……印が刻まれていた痕跡があります。害はなさそうですが、念のためお祓いをしましょう」
⸻
神主は半紙に墨で複雑な文字を描き、ビー玉の上にそっと置いた。拝殿に案内され、二人は正座で座る。香の匂いが漂う中、神主は祝詞を唱え始めた。
「――南無八幡大菩薩……」
低く響く声とともに、風もないのに半紙がわずかに揺れる。玉の周囲に集まっていた何かが、音もなく剥がれ落ちていくような感覚があった。
やがて祝詞が終わり、神主は玉を布に包み直すと、二人の肩に塩をぱらりと振りかけた。塩粒が頬をかすめた瞬間、昨夜からまとわりついていた重い気分が、ふっと抜け落ちた気がした。
⸻
「……終わりました。これで、もう心配はないでしょう」
神主の穏やかな声に、京介は深く息をつく。
社務所を出ると、蝉の声がやけに鮮やかに響き渡った。京介は夕陽に染まり始めた空を見上げ、ぽつりとつぶやく。
「……終わったんだよな」
美香は横で笑みを浮かべ、軽く頷く。
「終わったよ。たぶんね」
「感謝してる。草薙がいなかったら……僕、きっとあっちの世界に行ってた」
「そんなことさせないわよ。八田君は私の大切な友達なんだから」
その言葉に、京介は小さく笑い返す。
「でも、もうこういうのは二度と勘弁」
「うん、私も軽はずみにこういうことしないようにする……」
夕暮れの中、二人の影が長く伸び、一番星が静かに瞬き始めていた。
⸻
後日――。
美香の依頼を受け、神主が例の資料室の鏡の様子を見に行った。しかし、そこにはもう鏡は存在しなかった。まるで最初から何もなかったかのように、壁はただの白い板張りになっていた。
神主はしばし無言でその場に立ち尽くし、やがて小さくため息をついた。
風鈴の音が、廊下の奥でひとりでに揺れていた。




