第三章 四話 学校の七不思議 5
「これ、まずいよな」
「まずいどころじゃないわよ」
美香の声には、普段の快活さが欠片もなく、恐怖が滲んでいた。
玉から放たれる光は徐々に強くなり、二人の周囲に淡い膜のような光を作り始める。
それは、校舎内で見た結界と酷似していた。
「八田君、その玉を――」
美香が手を伸ばした瞬間、玉はふわりと京介の手から浮き上がった。宙に浮かぶガラス玉を中心に、光の膜は急速に広がっていく。
そして――
気づけば、二人は再び、あの異質な空気に包まれていた。
「嘘でしょ……」
視界に広がるのは、ついさっきまで歩いていた住宅街ではない。薄暗い廊下、剥がれかけたペンキの壁、足元に広がる埃まみれのリノリウム。
鼻に刺さる、古い建物特有の湿った匂い。
「戻された……」
京介が低く呟く。
「もう……意味わかんねぇ」
美香は青ざめ、京介は頭を抱える。
手元の玉は消えていたが、その不快な存在感だけは皮膚に張り付いて離れない。
「このビー玉を返せば、なんとかなったり……」
「しないでしょうね。たぶんそれは”印”。獲物が逃げないようにマーキングしたのよ」
美香は京介の腕を指差した。
「その腕の痕も同じだと思う」
「……お前にはついてないのに」
そう――腕の痕もビー玉のマーキングも、京介にしか施されていない。狙われているのは、明らかに京介だ。
「僕と一緒にいたから、巻き込んで……」
「それは違う!」
美香は強く否定する。
「第一、私が連れてきたのが問題なのよ。本当にごめんなさい」
深々と頭を下げ、そして顔を上げた時、その目はまっすぐに京介を射抜いていた。
「そのかわり、絶対に私が守るから」
どうにも京介は、この目が苦手だ。視線を逸らし、頭をかきながら言う。
「……あー、どうすれば出られるか、わかるのか」
「こういうのは核を壊せばいいってのがセオリーよね」
「あの部屋に戻るのか……」
京介は深く息を吸い、両手を宙にかざす。
頭の中で強く念じた――自分と美香を、何があっても守れるように。
次の瞬間、二人の周囲に淡い光が生まれ、やがて厚みを増して壁のようなバリアへと変わった。
「さっきから使いっぱなしだけど、大丈夫?」
美香が心配そうに問う。
「何があるかわかんないしな」
「……守られてるのは私の方ね」
そう呟き、美香は前を向く。
二人は、あの鏡のある部屋へと足を踏み出した。
埃の匂いがこもる廊下を進む。足音はやけに響き、反響して遠くまで伸びていく。結界の淡い光が、二人の足元だけをぼんやり照らし、外の闇を押し返していた。
耳を澄ませると、どこか遠くから、何かを引きずる音が聞こえる。
ず……ず……ず……と、乾いた床を擦るような音。
二人は思わず足を止め、呼吸を浅くした。音は、確実に近づいてくる。
「来る……」
美香が呟いた瞬間、廊下の奥の闇がゆらりと動いた。まるで影が形を持ったかのように、黒い輪郭が壁から剥がれ出し、床を這い寄ってくる。
「バリア、強くして」
美香の声に、京介はすぐ念を込めた。光の壁が一層濃くなり、影が触れた途端、じゅっと焦げるような音を立てた。
だが影は怯むどころか、壁の外側で形を変え始めた。細長い指のような突起が伸び、ガラスをなぞるようにバリアを撫でる。
「……中まで入ってこないな」
京介が呟く。
「たぶん、この印があるから様子を見てるだけよ」
美香の視線は、京介の腕の痕へ向いていた。
影はしばらく結界の外でうごめき、やがて壁際の闇に溶けるように消えていった。その後も、廊下の奥から低い風の音だけが続く。
「……早く終わらせよう」
美香の声には、決意と焦りが混ざっていた。
二人は再び歩き出す。遠くに、ぼんやりと白い光が見え始める。あの鏡のある部屋だ。
「……ここだな」
目の前には、半開きの扉。扉を押し開けると、あの巨大な鏡が鎮座していた。枠はひび割れ、鏡面は曇り、ところどころに黒い染みが広がっている。
鏡に向けて一歩歩いてみる。
すると、また世界が一変した。真っ白な空間だ。
「草薙!」
京介は焦って後ろを見ると美香がいない。
「隔離された?」
バリアも何故か先程よりうまく発動できない。発動しても数秒で解除される。
「ん?……はあ⁈」
バリアを発動するためかざした手をよく見ると、手がプニプニだ。指が短く、全体的に丸い。自分の身体をよく見てみると半袖、短パンを着ている。
今日着ていたのは白のTシャツとジーパンだ。
半袖は着ていたが色が違う。だいたいこの年で外に短パンで出るなんて考えられない。
「子供になってる」
服装的に4、5歳くらいだ。アルバムで見た覚えがある。
「お兄ちゃん」
声が聞こえると、それに合わせたように世界が色づく。公園だ。昔住んでた家の近くにある。
「もー、なんで探しに来てくれないの?」
「え?」
「お兄ちゃん鬼なのに!りゅーくんもまち疲れてるよ」
「きょーちゃん、どうしたの?おなか痛い?」
少年と少女が声をかけてくる。
少年の方はおそらく劉だ。さすがにわかるし面影もある。だが問題はこの僕をお兄ちゃんと呼ぶ少女だ。顔がよく見えない。姿がぼんやりしている。
わからない。
知らない。
謎の焦りと冷や汗が止まらない。
呼吸の仕方もわからなくなってくる。
「なんでしっかり見てなかったの!」
「あの子が――でお前がなんで生きてんだ!」
大人の怒号が聞こえる。
過呼吸になる。息ができず、うまく思考がまとまらない。
「息しないと」
すると後ろから思いっきり手を引かれた。振り返ると黒髪の少女が京介の腕を引いていた。初めて見る女の子だが、だがこの子はわかる。
美香だ。
「八田君、帰ろ」
そう微笑む。
「うん」
自然とそう返し、美香の方へ行く。
すると元のあの真っ暗な空間に戻った。
覚醒すると資料室で二人とも寝ていた、周りは黒い靄に囲まれている。
「バリア!」
バリアが解けてしまっていることに気がつき、再び展開しようとする。
しかし――
「大丈夫みたいよ」
美香に制止された。
「私たち今までバリアなしで寝ていたみたいだけど何ともないわ。それにバリア張ったままだと鏡を壊せない」
すると美香は足に力を込め、一気に鏡の前まで行き腕に力を込める。
「これで終わり!」
そう言い放ち繰り出された拳はすごいスピードで鏡を砕く。普通の鏡のように割れた。あまりに簡単に砕け、拍子抜けだ。
京介と美香は、ビー玉に飛ばされる前の住宅街にいた。
「戻ってきた?」
「戻ってきたな」
「「よかったー」」
二人は安堵してその場にへたり込む。
「これ、調べられるか?」
京介は手の中のものを見せる。中にはひび割れたビー玉があった。先程まであった禍々しさは全くない。
「よくわからないけど、明日にでも神社に持っていきましょう」
「僕らもお祓いしてもらった方がいいかもな」
夜風が頬を撫でる。普通の、穏やかな風だった。
京介は割れたガラス玉を見つめながら、さっき見た幻覚のことを考えていた。
あの少女は誰だったのだろう。なぜ自分は彼女のことを覚えていないのだろう。
そして、なぜ美香だけが自分を現実に引き戻すことができたのだろう。
「八田君」
美香の声に顔を上げると、彼女は心配そうに京介を見つめていた。
「さっき、何か見たもののことでしょ?」
「……覚えてない記憶、みたいなものを」
「話したくないなら無理しなくていいよ。でも……」
美香は少し迷うように口ごもり、それから続けた。
「もし辛くなったら、一人で抱え込まないで」
京介は小さく頷いた。ガラス玉の欠片が、街灯の光を受けて最後の輝きを見せている。
明日、神社に行こう。そしてこの奇妙な一夜に、きちんと終止符を打とう。
二人は並んで、静かな夜道を歩いていった。




