第三章 四話 学校の七不思議 4
校舎内―――
京介と美香は、淡く揺らめく光の壁に守られながら、慎重に廊下を進んでいた。資料室を出たときに飲み込まれた完全な闇は消え去り、ここはただの薄暗がりに見えるはずだった。
だが、息を吸い込んだ瞬間にわかった。
空気が、違う。
色でも温度でもない、言葉にしづらい「異質さ」が肺の奥まで染み込んでくる。長年閉ざされた部屋の淀んだ匂いにも似ているが、もっと生温く、皮膚の下を這うような感覚だった。
足音が、やけに大きく響く。
光の壁に反射して返ってくる音は、なぜか一拍遅れて耳に届き、その隙間に別の足音が混じっているように思えた。まるで、自分たちの後ろを誰かが同じ歩幅でついてきているような――そんな錯覚が拭えない。
「八田君、振り返っちゃダメよ」
美香が低く、切迫した声で言った。
「……なんで?」
声を抑えて問うと、美香は視線を前から逸らさずに答える。
「ついてきてる。この空間の『ナニカ』が。好奇心で振り返ったりしたら、バリアごと引きずり込まれるわよ」
冗談めいた声色ではなかった。
京介は無言で唾を飲み込み、前だけを見つめて歩き続けた。背中に、じわじわと重みのようなものがのしかかってくる。まるで誰かが手を伸ばして、あと少しで肩を掴める位置まで来ているかのようだ。
やがて薄暗い先に階段が浮かび上がってきた。
そのときだった――バリアの外から、はっきりと囁き声が届いた。
**──みつけた。**
ぞわり、と皮膚が総毛立つ。
女の子の声にも、しわがれた老婆の声にも聞こえる、不気味な響きだった。同時に、背筋を冷たい指でなぞられたような感覚が走る。
「……急いで」
美香の声に、今まで以上の緊迫感が滲んでいた。
二人は階段を駆け下りる。
けれど数段目を踏み出したとき、京介は妙な違和感に気づいた。
「……なあ、草薙。僕たち、さっきより上にいないか?」
言いながら顔を上げた瞬間、美香の顔がさっと青ざめた。そして、ゆっくりと振り返る。
そこにあったのは――
「……まさか……」
資料室の扉。
さっき確かに出てきた場所が、目の前にあった。階段を降りたはずなのに、いつの間にか戻されている。まるで校舎全体が回転し、同じ場所をぐるぐると巡らされているかのようだった。
「ループしてる……この空間、出口を隠してるのよ」
美香が低く呟く。
「じゃあ、どうする?」
「……一か八かだけど」
美香が京介を見据えた。
「八田君の能力、どのくらい強くできる?」
京介は手のひらを見つめる。
淡い光が揺らめき、波紋のように広がっていく。
「……わからない。でも……やってみるしかないな」
そのとき――
バリアの外から、ずるりと何かが現れた。
人の形をした「手」だった。
それも一つや二つではない。十、二十、いやもっと――壁一面にびっしりと、無数の手が張りつき、爪で光を引っ掻き始めた。
**ドン、ドン、ドン!**
バリアが鈍く震えるたび、内側の空気が押し潰されそうになる。
「時間がない!」
美香が叫んだ瞬間、京介は意を決した。
「よし……やってみる!」
両手を大きく広げ、全神経を光の壁に集中させる。
光が一気に強くなり、バリアが膨らむように拡大していく。外の手たちが弾き飛ばされ、廊下の奥へと消えた。
「今よ! 一気に一階まで!」
二人は光の球体に包まれたまま、階段へ飛び込んだ。
足が床を叩くたび、背後から高い悲鳴と低いうめき声が混ざったような叫びが追いかけてくる。
**──かえして、かえして、かえして!**
声は壁をすり抜け、頭の中まで響き渡った。それでも二人は振り返らず、ただ出口を目指して走り続けた。
足音が重く響き、背後からはなおも、耳を裂くような叫び声が追いかけてくる。
**──かえして、かえして、かえしてええええ!**
声は壁をすり抜け、頭の奥まで直接叩き込まれてくるようだった。視界の端で、黒い影が何度も階段を塞ごうと伸びてくる。だが、バリアはそのたびに光を弾けさせ、影を押し返した。
「もう少し……!」
美香の声が震える。
階段を降り切った先に、淡く光る窓ガラスが見えた。それは確かに、外の光だった。
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外で待機していた三人の元に、建物から強烈な光が漏れた。
「京ちゃんたちだ!」
劉が立ち上がる。
その時、校舎の正面扉が勢いよく開き、光の球に包まれた二人が飛び出してきた。
京介は膝をつき、荒い息を吐いている。
冷たい夜風が頬を打つ。さっきまで肺の中にまとわりついていた淀んだ空気が、潮が引くように一気に消えていく。
校舎の玄関から飛び出した二人は、そのまま数歩、外のコンクリートの上に膝をついた。美香も膝に手をつき、しばらく呼吸を整えていたが、やがて顔を上げた。
「……助かった、のよね?」
京介は、まだ鼓動の速さが収まらない胸を押さえながら頷いた。
「……出られた……のか?」
美香が周囲を見回す。
「ええ、でも……」
遠くに人ならざる影を見た美香はすぐに身を潜める。
「逃げよう」
劉が冷静に言った。
「ここは危険だ」
五人は走り出した。振り返ると、旧校舎の窓から無数の白い手が伸び、まるで彼らを追いかけているように見えた。
街の明かりが見えるところまで来て、ようやく足を止める。
「……あの鏡、何だったんだ?」
京介が荒い息で言った。
美香が振り返る。遠くの旧校舎は、もう普通の廃墟に戻っていた。
「たぶん……昔ここで死んだ人の怨念。何かを奪われて、ずっと『返して』って叫び続けてる」
「何を奪われたって?」
「それはわからない……」
静が不安そうに聞く。
「もう大丈夫でしょうか?」
「たぶんね」
「あの、八田君……そろそろ、その……」
何かに気づいた美香は少し俯き、耳のあたりが赤くなっている。
「どうした、耳を打ったか?」
「あ、いや、そうじゃなくて…手、もう大丈夫よ」
「?」
京介は理解できずに手を見てみると、いつの間にか美香と手をつないでいた。
「?…えっ!」
思わずパッと手を離した。
おそらく逃げているときにだろうが、かなり力強く手をつないでいた。しかも今まで気づいていなかった。
「いつから…」
「えと、八田君にバリアを大きくしてもらった後から」
するとさっきまでの赤面から一転、美香は顔を青くした。
京介の腕に、薄っすらと手の跡のような痣ができていた。触れると、冷たかった。
「八田君、それ……」
「気にするな。すぐ消えるだろ」
そう言ってみんな帰ろうということになり、解散となった。
家に帰るとなると、おのずと同じマンションの美香と京介は二人で帰ることになる。
先ほどのこともあり、少しきまずい。
夜道を歩く、靴の底で砂を踏む音だけが響く。さっきまでの喧噪が嘘のように、夜は静まり返っていた。
そのとき――
京介はふと、右のポケットに硬い感触を覚えた。さっきまで何も入っていなかったはずだ。
眉をひそめながら取り出すと、手のひらに小さなガラス玉が転がった。直径二センチほどの透明な玉。
中には、黒い煙のようなものがゆっくりと渦を巻いている。
街灯の光を受けるたび、煙が形を変え、時折、人の顔のようにも見えた。
「……これ、なんだ?」
京介が呟くと、美香が一歩近づき、玉を覗き込んだ。次の瞬間、彼女の表情が硬直する。
「八田君、それ……校舎の中から持ってきたんじゃないわよね?」
「いや、ポケットに入れた覚えなんか……」
言いかけた京介の背筋に、ひやりとした感覚が走る。
玉の奥から、かすかな声が漏れた気がしたのだ。
**──かえして……**
ほんの囁き程度だったが、確かに聞こえた。
二人は無言で顔を見合わせる。
その瞬間、玉の中の黒い渦が、こちらを見て笑ったように見えた。
夜風が、不自然に冷たく吹き抜けた。




