第三章 四話 学校の七不思議 3
午後8時。必要なものを揃えた京介たちは、美香の学校へ向かっていた。
遠くで太鼓の音が夜風に乗り、祭りの匂いがかすかに漂っている。
潜入組の美香と京介は、それぞれ大きなリュックを背負っていた。
「……重い。こんなに必要か?」
京介は背中の荷物を睨む。懐中電灯、校内の地図、ロープ、水、非常食──まるで登山装備だ。
「探検には必需品よ。それに資料室の棚が動くかもしれないし」
「そんな展開、漫画だけだろ」
「何が起こるかわからないでしょ? 持てないなら代わりに持ってあげる」
「いらない」
美香がにやりと笑うと、京介はむっとして顔を逸らした。
20時15分。五人は早乙女女子高の旧校舎前に到着した。
街灯の少ない外周は薄暗く、灰色の外壁が月光に照らされている。無数の窓が暗い穴のように口を開けていた。
「……あれが旧校舎か」
京介がつぶやくと、大和がごくりと喉を鳴らした。
「じゃあ、三人とも見張りよろしく」
美香が振り返る。静が妙に張り切った声で答えた。
「はい、任せてください、美香さん」
劉が冷静に付け加える。
「見回りが来たら、すぐ隠れて二人にメールする」
三人を残し、京介と美香は塀沿いを進んだ。植え込みの影に小さな門扉がある。
錆びついた格子を押すと、ギィ……と鈍い音が夜に響いた。
「よし……ここから入るわよ」
湿った草の匂いを抜け、木製の正面扉にたどり着く。塗装は剥げ、取っ手には白い錆が浮いていた。
遠くで祭り囃子が響く中、京介が低く問う。
「……鍵、開いてるのか?」
美香が取っ手を回す。カチリ──隙間から冷たい空気が流れ出し、古紙と埃の匂いが鼻を刺した。
「じゃあ……行くわよ」
目を合わせ、二人は暗闇へ踏み込んだ。
廊下は薄暗く、懐中電灯の光の輪だけが頼りだった。壁紙は剥がれ、床板は時おりミシリと鳴る。
「資料室は二階って言ってたな」
「そう。“お化けの鏡”はその奥」
「奥って、こういうときロクなことないよな」
「じゃ、戻る?」
「戻らない」
即答する京介に、美香が小さく笑った。
階段を上ると、空気がさらに冷たくなった。
壁にかけられた古びた写真や額縁を光が横切るたび、人影のような影が揺れる。
カタ……と小さな音が響いた。
「……風か?」
「さあ。確かめたくはないけど」
視線を交わし、足を速めた。
二階奥、資料室の扉は半開きになっていた。
京介が押し広げると、棚に古書や木箱が積まれ、埃が舞い上がる。
部屋の最奥──カーテンで仕切られた一角があった。
「……あれじゃない?」
美香が指差し、京介は渋い顔でカーテンをめくった。
そこには、人の背丈ほどの姿見が立っていた。
黒く煤けた枠、曇った鏡面。
それでも二人の姿だけはぼんやりと映っている。
「……これが”お化けの鏡”?」
「らしいわね」
美香が近づく。鏡の中の彼女の口元が、わずかに動いた気がした。
「……草薙」
「見えてる」
無意識に一歩下がる。部屋の空気が重くなり、遠くの祭り囃子が止んだ。
鏡の中の二人は、目の奥に光がない、同じ動きをやめ、じっと立ち尽くしていた。
……瞬きすらしない。
その瞬間、鏡面が水面のように波打ち、京介の映像だけが歪んだ。
足元から、ぬるりと何かが這い上がる感覚がした。
ギィ……と、扉の外で床板が軋む。
懐中電灯を向けるが、廊下は空っぽだった。
◆ ◆ ◆
その頃、外で見張りをしていた劉たちは気づいた。
「……音、止まりましたよね?」
静が首をかしげる。
「音?」
「お祭りの太鼓……さっきまで聞こえてたのに」
大和が低くつぶやいた。
「あの……窓、誰か……見てない?」
見上げると、二階奥の窓に白い影が立っていた。まるで劉たちを見下ろしているように。
◆ ◆ ◆
資料室。
鏡の曇りが濃くなり、映像は形を失っていく。
京介の足は床に根を張ったように動かなかった。
「八田君、下がって!」
美香が腕を引く──次の瞬間、鏡の中から白く異様に長い手が突き出された。
指先が懐中電灯に触れた瞬間、ぱちん、と光が消えた。
闇の中、耳元だけに低い囁きが届く。
──かえして
*かえして、かえして、かえして、かえして*
その声が次第に重なり合い、京介の頭の中で響き続ける。
*かえして、かえして、かえして、かえして、かえして、かえして、かえして*
◆ ◆ ◆
「……消えた」
大和がつぶやく。
劉が二階窓を睨んだ。さっきまでの白い影はもういない。
だが窓ガラス全体が墨汁のように真っ黒に染まり、その中央に長い指の手形がべたりと浮かんでいる。
静が慌てて美香に電話をかけた。
「……圏外?」
スマートフォンのアンテナ表示が、完全に消えていた。
◆ ◆ ◆
──かえして、かえして、かえして……
その声だけが、京介の意識をじわじわと侵食していく。
最初は耳の奥にこびりつくような、か細い囁きだったのに、今では頭の中全体に広がり、他の音を押し流していく。まぶたの裏側まで黒いもやが這い寄ってくるようで、視界がどんどん暗く沈んでいく。足元がふらつき、立っているのがやっとだった。
「──戻ってきて、八田君!」
遠くで、必死な声が響く。
それが美香の声だと気づいたのは、肩を強く揺さぶられた瞬間だった。はっと息を吸い、現実に引き戻される。胸の奥にへばりついていた冷たい何かが、一瞬だけ薄れる。
気がつくと、二人は淡く発光する壁に囲まれていた。乳白色の光がゆらめき、ぼんやりと辺りを照らしている。壁は透明にも見えるが、手を近づけると微かな抵抗があり、硬いのか柔らかいのか判別できない不思議な感触が返ってきた。
「……バリア?」
自分の口から漏れたその言葉に、美香が深く息をつき、肩の力を抜いた。
「よかった……目を開けたまま固まってて、声も届かないし……正直、心臓が止まるかと思ったわ」
どうやら、無意識に発動した自己防衛のバリアらしい。壁の外は、完全な闇。そこから、じわじわと骨まで凍らせるような冷気がしみ込んでくる。
バリア越しでも、皮膚の内側まで刺すような感覚だ。
「なんだ、この……変な冷たい感覚」
自分の腕を擦りながら呟くと、美香が顔をしかめ、額にうっすら汗を浮かべながら答えた。
「感じるの? これ……たぶん、呪いの塊よ。嫉妬や憎しみ、怨み……そういう負の感情が凝縮してる。下手に触れたり使ったりしたら、こっちが呑まれるわ」
美香は感情を力に変える能力を持つが、それは諸刃の剣だ。負の感情は毒のように作用し、美香自身を蝕む危険がある。
「……私、今回役立たずだわ」
悔しそうに唇を噛む美香に、京介は肩をすくめてみせた。
「つまり、鏡のやつに捕まってるってことか。スマホは……ほら、やっぱ圏外」
ポケットからスマホを取り出し、画面を見せる。アンテナは一本も立っていない。
「ええ。……八田君、このバリア張ったまま動ける?」
美香の問いに、京介は意識を集中する。
光の壁の一部が押しのけられるように横へ滑り、わずかに進むことができた。
「……ちょっとずつなら、いける」
額にじわりと汗が滲む。意識を保ちながら結界を動かすのは、想像以上に集中力を削られる作業だった。
「すごい……本当に使いこなしてるのね。この前は発動も解除も無意識だったのに」
「ちょっと練習しただけだ」
前回、静の件で不良たちと乱闘になったとき、無意識に能力を使い、多くの人に露見しそうになった。
その後、透からこっぴどく注意を受け、暇さえあれば部屋で発動と解除の練習を繰り返していたのだ。
「嬉しい誤算だわ。じゃあ、このまま出口まで行きましょう。この空間がどんなものか、探りながらね」
美香がそう言うと、京介は黙って頷き、足を踏み出した。
壁の外の闇が、ざわ……と音を立てた気がした。
その闇の奥で、またあの声がかすかに響く。
──かえして……かえして……
◆ ◆ ◆
劉は咄嗟に静と大和を近くの草むらへ押しやった。
「何か来る……隠れろ!」
塀の向こうから、ゆらりと人影が覗いている。
顔は濁った水越しに見ているように歪み、口元だけがゆっくりと笑っていた。
その影は音もなく門の前を通り過ぎていく。三人は息を殺して待った。
やがて気配が遠ざかると、劉が小声で呟く。
「……警備員じゃない。あれは……」
「人間じゃなかったですよね」静の声が震えている。
大和が青い顔で校舎を見上げた。
「二階の窓、また……」
見ると、さっきまで黒く染まっていた窓に、今度は無数の手形が浮かんでいる。
まるで内側から必死に叩いているように。




