第三章 三話 お嬢様友達の悩み (後)
凛の家を出た美香は、門の外で小さく息を吐いた。表向きは「補習帰りに友達の家に寄った」だけの午後だが、裏庭と黒いワゴン車の情報は明らかに偶然では片付けられない。
(あのメイドさん……途中で言葉を飲んだ。誰かに口止めされてる?)
まずは目撃情報の補強だ。美香は通りを挟んだ向かいの花屋に入り、店先で水やりをしていた年配の女性に声をかける。
「すみません、このあたりで黒いワゴン車を見ませんでしたか?」
「黒いワゴン? ああ、先週から時々停まってるのを見たよ。裏通りの方だね」
「どんな人が乗ってました?」
「中年の男二人組。あまり愛想がなくて、こっちを見ようともしないの」
美香は軽く会釈して、次は角のコンビニへ。入ってすぐ防犯カメラを確認し、バイトらしき男子に声をかけた。
「ねえ、ここのカメラって外も映る?」
「うん、駐車場側は映ってるけど……何かあった?」
「実は友達の犬がいなくなって、怪しい車を探してるの」
少年は少し考えた後、小声で教えてくれた。
「昨日の夕方かな……黒いワゴンがここで停まってた。運転席の人が降りて何か探してるみたいだったけど、すぐに裏道に走ってった」
(裏道……やっぱり裏庭と繋がってる)
さらに美香はコンビニを出てすぐのコインパーキングへ足を運ぶ。駐車管理のおじさんが椅子に座って缶コーヒーを飲んでいた。
「すみません、この駐車場に黒いワゴンって停まりましたか?」
「ああ、昨日と一昨日も来てたよ。こっちじゃなくて、もっと南の倉庫街に向かってたな」
(倉庫街……車の行き先はもうほぼ確定)
胸の奥が少し熱くなる。このまま放っておけば、モモは本当に帰ってこないかもしれない。美香はスマホで地図を開き、倉庫街までの最短ルートを確認すると歩き出した。
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夕暮れのオレンジ色が鉄骨とトタン張りの倉庫群を鈍く染めていた。美香はタクシーを降り、辺りをぐるりと見渡す。人影はほとんどなく、かすかに潮と錆の匂いが漂ってくる。
(この空気……誰もいないはずなのに、どこか見られてる気がする)
舗装のひび割れた路地をゆっくり歩きながら、視線を建物の隅々へ走らせる。倉庫の壁に取り付けられた監視カメラが一瞬光を反射し、美香は足を止めた。
「……あそこだけ最新型だ」
他の倉庫は古びた防犯灯があるだけなのに、その倉庫だけは新しいカメラが複数、死角なく設置されている。しかも入り口のシャッター付近の地面には、タイヤの跡が何度も重なっていた。
さらに耳を澄ますと——
「……ワンッ……」
かすかだが、犬の鳴き声。しかも籠もったような響き方で、間違いなく建物の中からだ。
(ここだ……凛の犬がいる可能性が高い)
美香は物陰に身を寄せ、倉庫周辺を観察する。巡回らしき足音が遠くで響き、やがて近づいてくる。背の高い男が一人、倉庫の裏口へ回っていき、姿を消した。
「……一人なら、隙を突ける」
美香はポケットから小型のライトとスマホを取り出し、音を立てないよう歩を進める。倉庫の壁際に身を寄せ、裏口の鍵の構造を一瞥。彼女の指先に、わずかな緊張が走る。
シャッターの向こうから、また鳴き声。今度は短く、助けを求めるように。
(……行くしかない)
美香は深く息を吸い、耳を澄ましながら一歩踏み出した。
裏口のドアノブをそっと試すと、鍵はかかっていない。ほんの少しだけ開け、隙間から中を覗く。薄暗い室内に並ぶ木箱と鉄製の棚——そして奥の檻の中で、小さく丸まる犬の姿があった。
首輪は間違いない、凛の愛犬だ。
(やっぱり……)
美香は音を立てないよう扉を閉め、忍び足で檻へ向かう。その途中、部屋の隅の机に地図と帳簿らしき書類が無造作に置かれているのが目に入った。ざっと目を走らせると、複数の犬種と価格、そして日付が並んでいる。
(やっぱり違法売買……)
「クゥン……」
犬が美香に気づき、小さく鳴いた。
「静かにね……助けるから」
ポケットからヘアピンを取り出し、器用に錠を開ける。カチリと音を立てて鍵が外れ、
檻の扉が開いた瞬間——
「おい、何してやがる!」
低い怒鳴り声が背後から響き、心臓が跳ね上がる。振り向くと、さっき巡回していた男が立っていた。美香は犬を抱きかかえ、一歩後ずさる。
「その犬は——友達の家から盗まれたのよ!」
「ガキが何言ってんだ、離せ!」
男が手を伸ばしてきた瞬間、美香は犬を片腕で抱えたまま、足元の木箱を蹴飛ばす。ガタン!と派手な音を立てて箱が崩れ、男の足元を塞ぐ。
その隙に美香は裏口へ駆け出す。
「待てッ!」
男の怒声が背後に響く。外へ飛び出した美香は、そのまま倉庫街の細い路地へ身を滑り込ませる。男の足音が迫るが、曲がり角で待っていた自転車に飛び乗り、全力でペダルを踏んだ。
振り返ると、男は路地の出口まで追ってきたが、それ以上は来ない。距離が開いた瞬間、美香はスマホを取り出し、警察に通報した。
数十分後、現場にはパトカーが到着。倉庫の中からは他にも複数の犬が保護され、男は現行犯逮捕された。
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後日。
「本当に……ありがとう、美香」
凛が泣き笑いしながら犬を抱きしめる。犬も尻尾を激しく振り、美香の手に顔をすり寄せた。
「私、ただ……友達のために動いただけだよ」
そう言って笑う美香の目は、少しだけ誇らしげだった。
夕方の校庭では補習を終えた生徒たちの声が遠くに響いていた。美香と凛は校門のそばで立ち止まり、名残惜しそうに犬の頭を撫でている。
「……正直、私、自分じゃ何もできなかった」
凛の声は小さく、でもどこかホッとした響きを帯びていた。
「それでも、最初に相談してくれたのが私でよかったよ」
美香はそう言って、凛をまっすぐ見つめた。凛は照れたように笑い、ふっと真顔に戻る。
「ねえ、美香って……いつも人を助ける時、怖くないの?」
「怖いよ。でもね——誰かが動かなきゃ、って思うんだ」
その一言に、凛はしばらく黙って美香を見つめ、やがて小さく頷いた。犬が二人の間に割り込み、鼻先を擦り付ける。
「ありがとう、美香。……これからも、友達でいてね」
「もちろん」
美香は笑顔で答えた。その笑みには今回の出来事で得た小さな自信と、仲間を守る覚悟が滲んでいた。夕日が二人と一匹を包み込み、長い影が校門の外へと伸びていった。




