第一話 再会
今日の朝は晴天だった。
しかし矢田京介の心は恨めしくどんよりとした気分だ。
中に筆箱と昼食用の菓子パンしか入っていない軽い学生リュックを背負い、
普段以上に辛気臭い顔をしながら猫背になりながら歩いている。
もしこの姿を祖母が見たら「しゃんと歩きなさい!」と
背に喝を入れられてしまうだろう。
「・・・うげっ」
京介は思わず不快感を声に漏らした。
それもそのはず今日という最悪な日の元凶が目の前に立っていたのだ。
確か名前は――草薙美香
昨日、一方的に名乗られた
人の名前を覚えるのは苦手な京介でもあまりにインパクトが強く記憶に残ってしまった。
この辺で有名なお嬢様学校の制服に身を包みスマホに目線を落としながら、
塀にもたれかかるように立っていた。
別の道から行こううかとも思ったがそうなると遠回りになってしまう
学校に遅刻するギリギリまで寝ている京介にはその選択肢は取れない
幸い美香はスマホに夢中でこちらにはまだ気づいていない。
京介は“陰キャ特有の気配消しスキル”をフル活用し、静かに通り抜けようと試みる。
ゆっくりと、足音を殺しながら歩く。
幸い、この時間でも通学中の生徒はちらほらといる。人混みに紛れられれば――
(……いける!)
作戦は成功し、美香の前を通り過ぎ――
「あ、やっと来た~」 ――無理だった。
「ねぇ、ちょっと――」
「遅刻するんで!」
何か言われる前に、京介は全力で逃げ出した。
遅刻を盾にすれば、さすがに無理やり止めてくることはない……はずだ。
――「おはよう!」「…おはようざいます」
何とか校門にたどり着き朝の立ち番をしている体育教師に挨拶をする
返さないと返すまで言ってくるのだ実にめんどくさい
京介は気だるげに教室へ向かった。
廊下を歩く。すれ違う同級生たちの会話や笑い声が、京介の耳には遠い別世界のように響いていた。
誰とも目を合わせることなく、できるだけ存在感を消して、席へ滑り込む。
彼の席は、窓際のいちばん後ろ。まさに“ぼっち”のベストポジションだ。
教室には、すでに何人かのクラスメイトが来ていたが、
京介に挨拶する者はいない、京介から挨拶する相手もいない。
この学校の特進クラスには幼馴染がいるがわざわざ会いに行く理由もない。
誰とも話すこともなく、スマホをいじるでもなく、ただ机に突っ伏して目を閉じる。
いつもならこのまま騒がしい世界から夢の世界へ逃げられる
けれど、眠れはしない。
昨日の出来事が、頭の中をぐるぐると回り続けていた。
――例のお嬢様。草薙美香。
彼女は何者なのか、なぜまた京介の目の前に現れたのか。
(……ほっといてくれよ)
チャイムが鳴り、授業が始まる。
英語、現代文、数学……どれも頭に入ってこない。
ノートや教科書を机に広げることもなく、寝たふりをして過ごした。
騒がなければ基本何も言われないのだこのクラスは
そして、あっという間に放課後。
いつものように、誰とも言葉を交わさずに帰ろうと、リュックを背負い昇降口へ向かう――
……が、運悪く、校門の前で待ち構えていた数人の男子に呼び止められた。
「おい、八田」
「放課後ヒマだよな? ちょっと付き合えよ」
京介の顔が、わずかにこわばる。
見覚えのある顔ぶれ。
同じ学年のいわゆる“不良グループ”。
京介のような“自分より下の人種”を、暇つぶしにいじることに喜びを感じる連中だ、 気分でいろんな人にちょっかいをかける学校の問題児5人組だ。
「……帰るけど」
ぼそりと返すが、相手は引かない。
ひとりが肩に手を置き、もう一人が無遠慮にリュックを引っ張る。
「は? なに無視してんの?」
「俺たち暇なんだよ。なぁ、こっち来いよ」
(……あーあ)
京介は、何も言わず、ただ目を伏せた。
せめてパシリ系にしてくれサンドバックは勘弁してもらいたい。
その瞬間――
「お待たせ!」
明るい声が、空気を割る。
誰もがその声の主を見て、そして固まった。
黒髪をひるがえしながら駆け寄ってきたのは、
例のお嬢様、草薙美香。
なぜか、笑顔で京介の隣にぴたりと立つ。
「ごめんね、ちょっと遅れちゃった。ほら、帰ろ?」
その手が、迷いなく京介の腕を取る。
さっと不良たちから距離を取り帰路につく
京介はあっけにとられ美香に引っ張られるままついていく
少し離れた背後では不良たちの顔が、戸惑いから苛立ちへ変わっていく
そのことに二人は気づいていなかった。
「いやぁー危ないところだったねぇ矢田京介君、なんかだかTHE不良って感じの人たちに絡まれてたけど、あれ、いつももあんななの?」
「……いつもじゃない、てかなんでいんだよ」
京介は、腕を引っ張られたまま、顔をしかめながら言った。
「しかし、今の私の助け舟。ヒーローっぽくなかった?」
――ガン無視だ。
美香はまったく悪びれる様子もなく、得意げにニコッと笑う。
「ヒーローっていうか……誘拐だよな。これ」
「違います、護送です」
「意味がわからん……」
「はいはい、ぐちぐち言ってないで。行くよカフェ!」
「は? なんでカフェ?」
「あなたには教えないといけないことがあるの、矢田京介君」
美香は少し声のトーンを落とし、深刻そうに話す
「教えないといけないこと? …あんたが僕の名前と学校を知っていることとかか?」
「もっと知ってるわよ!年齢は十六歳、誕生日は十二月二五日クリスマスが誕生日なんて
素敵ね!聞き手は右手、身長は168㎝、体重は50キロジャスト、部活は無所属、
あとは――」
「怖い怖い怖い!なんでそんなこと知ってんだよ、キモイ!」
「キモイとは失礼な、ちょっと協力者に調べてもらったのよ。」
「うわー、やべーヤツだ…」
美香はどこか不満気だが、引く普通に引く体重とか自分でも把握してない、
京介は距離を取りたいと考えるが腕をホールドされているので身動きが取れない
「うるさいなーもう。おごるから行こうってば」
「……おごるの?」
奢りという甘美な言葉を聞き京介は眼を光らせる
万年金欠の京介には最高の餌だ
「もちろん。命の恩人にお茶の一杯もおごれないなんて、器ちっちゃすぎでしょ」
美香は片腕を腰にあて薄い胸を張っている
「・・・?恩人は一応あんたのほうじゃねぇの?」
「いいから! ほら、歩幅合わせて!」
「いや普通に歩かせ――痛っ!腕引っ張んなっての!力強いな」
煩わしく思ったのか美香は京介の腕をかなりの力で引っ張る。
そうして連れてこられたのは、駅前の喧騒から一本外れた、路地裏の洒落たカフェだった。
学校からここまで歩いて二十分ほど。普段の倍はしんどい。
「ちょっと歩いただけでへばるなんて、体力なさすぎじゃない?」
「うるさい……普通こんなとこ、高校の帰りに寄らないだろ」
対照的に、美香は涼しい顔のまま、僕を小馬鹿にするように笑った。
カフェは、想像以上に重厚な雰囲気だった。
煉瓦造りの外壁に、曲線の美しいアイアンの看板。
そして入り口のドアには、やたら主張の激しいライオンの顔があしらわれている。
「……絶対、場違いだって……」
恐る恐る中へ入ると、鼻腔をくすぐるのは香ばしいコーヒー豆と、どこか洋酒のような香り。店内は照明を落としていて、天井からは小さなシャンデリアが下がっていた。
中世ヨーロッパ風のBGMまで流れていて、もう完全に高校生の来る場所じゃない。
「いらっしゃいませ。草薙様、ご予約のお席へご案内いたします」
現れたのは、品のある物腰の中年女性。淡いグレーのエプロン姿で、どこか女優のような雰囲気をまとっている。
「こんにちは、千代さん」
美香がにっこりと会釈すると、どうやら顔なじみらしい、
店員の女性――“千代さん”も柔らかく微笑んだ。
「本日もありがとうございます。美香お嬢様、事前にご連絡いただいたとおり、
例のお部屋をご用意しておりますよ」
あっさり“お嬢様”認定されたその一言に、僕は思わず固まる。
「……ちょっと待て、どういう店だここ」
美香は「気にしないで」と笑って歩き出す。
「ここ、うちの会社の一つが経営してるの。学生ってことは内緒で通してもらってるのよ。
……いいでしょ、特権ってやつ」
さらっと“特権”とか言うあたりが、やっぱり普通じゃない。
店の奥、分厚いカーテンの先にある重たい木のドアを開けると、案内されたのは個室だった。
足元の分厚いカーペットが足音を吸い込み、壁には金の額に入った油絵が並んでいる。椅子は革張り、テーブルは艶のあるマホガニー、その上に小さなベルがあるチェーン店によくあるボタンを押すものではなく手でもってチリンチリン鳴らすやつだ。
……妙な安心感があって、不思議と落ち着く。場違いなのに。
美香は当然のように奥の席に座って、メニューを開いた。にっこりと笑いながら言う。
「ね、ここ落ち着くでしょ?」
――いや、落ち着いてたまるか。
なんで高校生が、こんな高そうな異世界サロンみたいな場所に連れてこられなきゃいけないんだ。
ツッコミたい気持ちを喉元で押し込めて、僕は渋々、向かいの椅子に腰を下ろした。
……椅子が、ふかっと沈んだ、初めての感覚だ。
「…よし私はアイスティーと、ブルーベリーチーズケーキのセットにしよ」
京介がふかふかの椅子に感動しているうちに、美香はさっさと注文を決めていた。
「矢田京介くんは、どれにする?」
重厚感のあるメニュー表を、見やすいようにこちらへ向けて渡してくる。
横文字だらけの紅茶の名前なんて、京介にとっては未知の言語だ。そもそも、今まで飲んだ紅茶といえば午後ティーくらいのものである。変なのを頼んで飲めなかったら最悪なので、ここは無難に——
「あんたと同じので」
だって、味の予想がつくのがそれしかなかった。
仕方ないだろ、と心の中で言い訳していると——
「オッケ〜♪」
美香がベルを手に取って、チリンチリンと鳴らす。
本当に鳴らすんだ、と驚いていると、すぐにコン、コン、コン。
ノックの音が個室に響いた。聞こえるんだ……と京介が感心する間もなく、さっきの店員さんが扉を開けて頭を下げた。
「失礼いたします。ご注文をどうぞ」
「アイスティーと、ブルーベリーチーズケーキのセットを二つお願いします」
「かしこまりました。アイスティーは、ミルクかレモンをお選びいただけます」
「私はレモンで」
「あ、えっと……僕は、ミルクで」
情けないほど小さな声しか出なかった。急な選択肢に焦ってしまったのだ。ミルクかレモンが選べるなんて聞いてない……いや、たぶんちゃんとメニューに書いてあったんだろう。でも、そんな余裕は京介にはなかった。
「かしこまりました。少々お待ちください」
店員さんは注文を書き終えると、軽く一礼して退室する。
「どうせなら、最後までマネっこしたらよかったのに」
美香はにやにやと笑いながら京介を見ている。どうやら保身はバレていたらしい。
「仕方ないだろ、こんなとこ初めてなんだから」
ムキになって反論する京介に、美香は肩をすくめて言った。
「いいじゃない。人生の経験値、ってことで」
どこか上から目線のその言い方に、少しイラっとしながら——京介は、ずっと気になっていたことをぶつける。
「……で。あんたが俺に教えなきゃいけないっていう話って何なんだよ」
「あ、それはね、長くなるから。ケーキが来てからにしよっか」
京介は少し拍子抜けした、さっさと話してほしいがこいつは自分の考えたタイミングじゃないと絶対言わないなと察しあきらめて椅子に全体重の乗せる
京介は少し拍子抜けした。
さっさと話してほしいところだが、こいつは――自分が決めたタイミングじゃないと、絶対に話さないタイプだ。
そう察して、あきらめたように椅子に全体重を預ける。
「…この椅子、やばいくらい沈むんだけど」
「ね? 埋もれてく感覚、クセになるでしょ?」
照明のやわらかな光に照らされながら、ふたりの間にしばしの沈黙が流れる。
その隙間を縫うように――コンコン、と扉がノックされた。
「失礼します。お待たせしました。ご注文のケーキセットです」
店員は優しく微笑みながら、そっとトレイをテーブルに置いた。
「レモンティーのお客様、こちらになります。ミルクティーのお客様はこちらです」
それぞれのカップが、ゆっくりと前に差し出される。香ばしい紅茶の香りがふわりと立ちのぼり、彩りの美しいケーキが目を引いた。
「ありがとう」と、美香はすっと微笑んで受け取った。ナプキンを膝に広げながら、
品のいい動作でティーカップの位置を整える。育ちの良さが垣間見える
一方で京介は、ややぎこちない手つきでミルクティーのカップを見下ろす。
届いたケーキの上には、艶やかなブルーベリーと、ひらりと一枚、薄いミントの葉が飾られていた。
店員さんは注文の品を置き終わるとごゆっくりどうぞといって部屋を出ていった
京介はミルクティーのカップを前にして、小さくうなった。
「……なんか緊張するな、これ」
「え? なにが?」
美香は首をかしげて問う
「いや、まず……このケーキ、フォーク入れていいやつ?」
京介は右手にフォークを持ったまま固まっている
「え?ケーキに入れていいフォーク以外ってあるの?」
「違う。なんか、見た目が綺麗すぎて。壊したら怒られそうだなって……」
マジな顔でド真剣に聞いてくる京介に美香は吹き出しそうになるのを堪えて、
フォークを手に取った。
「大丈夫。ケーキって食べられてなんぼだよ。ほら、いただきます」
フォークでふわりとクリームをすくい、一口。ほんのり甘酸っぱい果実の味に、美香の頬がゆるんだ。
京介もおそるおそるフォークを入れ、一口。
「……あ、うま」
素の声が漏れ、美香がうれしそうに頷いた。
「でしょ? ここのチーズケーキ、わたしのお気に入りなんだ」
「お気に入りって……ここ、通ってんの?」
「まあね。お母様のカードがあるし」
「“お母様”……あ、そっか。お嬢様だったな、お前……」
京介はぼそりと呟き、ミルクティーをひと口すする。
冷たく、まろやかな味が口に広がった。
そして──。
「……で。“あんたが俺に教えなきゃいけないっていう話”って、何なんだよ」
京介があらためて訊ねると、美香はフォークを止めた。
「あ~、それはね──」
美香は少し身を固くし目線を右に逸らし少ししてから、
彼女はふっといたずらっぽく笑い、顔を上げる。
「長くなるから。ケーキ、食べ終わってからにしよ?」
京介は目を細め、ため息交じりに椅子の背にもたれかかった。
「……やっぱ、こいつ、自分のペースでしか話さねぇ」
天井から下がるシャンデリアが、ふたりのテーブルに柔らかな光を落としていた