三部 一話 新・団員(前)
八月のはじめ。午前十時前にして、既に溶けそうな暑さが八田京介の体にまとわりついていた。
セミの鳴き声が遠くから近くから容赦なく響き、空からは直射日光が容赦なく降り注ぐ。
空を見上げて思う――これからさらに気温が上がっていくのだ。絶望以外の感情が見当たらない。
「……あつい」
何度目かわからないその呟きを、京介は今日も更新しながら歩く。目指すは【余白探偵事務所】。
彼にとってのオアシスだった。
真夏の午前、こんなにも汗だくになってまで外を歩いている理由は二つある。
一つは、京介が現在夏休み中の高校生で、なおかつ部活動には所属していないからだ。
期末テストも無事、全教科赤点を回避し、補習の対象にはならなかった。
劉は「本当に大丈夫だったのか」と心配していたが、そんなのテスト前に配られるまとめプリントを読んでおけば何とかなるのだ。要はタイミングと集中力である。
そしてもう一つ。むしろこちらが本命だ。
京介の部屋には、クーラーがない。
今までは扇風機で何とか耐えてきたが、連日35度を超えるような猛暑においてはもはや限界。
だから彼は「余白探偵事務所」――またの名を「電気代ゼロで長居できる楽園」へと向かっているのだった。
自宅から事務所までは徒歩で約10分。学校よりも近い。
人通りの少ない路地に入ると、ビルの陰に覆われて一気に空気が涼しくなる。
「……涼し」
つい声が漏れる。京介はそのまま廃ビルを改装した建物の奥へと進む。
壁面は白く塗り直されており、他の階層が寂れた雰囲気を保つ中、三階だけがやたらと清潔で浮いている。
この異質な改装は、美香が持ち前の”お嬢様パワー”を使って実現させたものだ。
そういえば毎回このビルを訪れる時に、同じように思うな――
そう思いながら三階まで階段を上がり、【余白探偵事務所】と書かれた札のかかった扉を開けた。
涼しい空気がふわっと顔をなでていく。
クーラーの効いた室内は、まさに命を救う冷気だった。
「おや、おはようございます、八田様」
出迎えてくれたのは落ち着いた声。
そこにいたのは真上透――かつて探偵をしていたという、美香の執事の息子だ。
どうやら彼が最初に来て、室温を整えてくれていたらしい。
「おはようございます。早いですね」
「私の業務には事務所の管理も含まれていますので」
「……いつもありがとうございます」
軽く頭を下げると、透は机の引き出しから手帳を取り出し、予定を確認するようにめくった。
「本日は美香様と杉原様は午後からの予定でしたね。十四時に来客があると伺っております」
「ええ、確か大和くんと静が来るって言ってました」
そうだ。数日前、静の方から「話したいことがある」と連絡があったのを思い出す。
――また何かトラブルでなければいいが。
「ふむ……皆様が集まるなら、お茶菓子が必要ですね。確認しますが、確か残りが少なかったはず」
透はそう言って、部屋の奥にある棚を見に行く。
その棚は、美香が「ネットで見たんだけど、いい職場にはお菓子置き場があるんだって!」と突然言い出して導入されたもので、見るからに高そうな棚に、それなりのお菓子が入っていた。
――改めて思うけど、草薙ってめちゃくちゃ影響されやすい性格だよな。
京介は心の中でそんなツッコミを入れつつ、棚を覗き込む透に声をかける。
「麦茶でいいんじゃないすか? お菓子も一人一つはあるし」
「いえ、いずれ買い足しは必要になりますし。少し早いですが、昼食のついでに補充しておきましょう」
透はそう言いながら、手際よく身支度を始めた。
「八田様は昼食はどうされるご予定ですか? よろしければご一緒に」
「あ、えっと……昼は草薙たちとカフェに行く約束してて……」
「ああ、そうでしたか。残念です。では、買い出しと昼食に行って参ります。
申し訳ありませんが、事務所の鍵をお願いできますか? スペアは持っておりますので、そのまま外に持ち出していただいて構いません」
「はい、確かに預かります」
差し出された鍵を受け取り、京介は丁寧に頭を下げる。
「それでは、また午後に」
透が静かに扉を閉めると、事務所に再び静けさが戻った。
「ふぅ……」
ソファに体を沈めると、体から一気に力が抜けていく。
ふかふかのソファ、快適な空調――これ以上に心地よい環境があるだろうか。
最近は夜も暑くてろくに寝られなかったせいで、京介の意識はゆるやかに、深く、沈んでいった。
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「ん……八田くん!」
「きょーちゃーーん!!」
「うるさっ……って、お前らか……」
耳をつんざく騒音とソファの揺れに目を覚ますと、目の前には制服姿の草薙美香と杉原劉が立っていた。
どうやら学校帰りらしい。劉はリュックに加えて、空手の道着が入った袋も持っている。部活帰りだろう。
「うるさいって、京ちゃんが全然起きないからだよ。俺の拡声器と草薙さんのソファー揺らしでようやく目覚めたんだぞ」
……なるほど、目覚めが最悪だったのはそのせいか。
京介は呆れ顔で見てくる劉を何となく睨み返した。
「もう十二時よ。お腹すいたし、カフェの予約もしてるの。早く行きましょ!」
「あー、わかった……俺、真上さんから事務所の鍵預かってるから」
寝ぼけた頭を何とか再起動させながら、京介は財布とスマホを確認し、立ち上がる。
扉に鍵をかけると、美香と劉と並んで事務所を後にした。
三人は昼食を取るため、いつものカフェへと歩き出した。