二部 六話 真上透という男
真上透はその日も、安っぽいコンビニ弁当を片手に、自宅アパートの一室でだらけていた。六畳一間。
埃の積もった本棚に、カタカタと音を立てる扇風機、蛍光灯は半分切れかけで、部屋の隅には使わなくなったプリンターが鎮座している。まるで時間が止まっているかのような空間だった。
テレビもラジオもつけない。ただ、コンビニのビニール袋のカサカサという音と、遠くの道路から聞こえる車の通過音だけが、かろうじて「今」を感じさせてくれる。
そんな空間に溶け込むように、透はソファにもたれかかり、ぬるい缶ビールをひと口飲んだ。
——大学時代から、ずっと一人でやってきた。
彼には「視る」力がある。触れた物に宿った“記憶”の断片を、そのまま覗くことができるという異能。それは彼にとって、日常の延長線上にある便利な「道具」に過ぎなかった。
落し物、家出人、浮気調査。依頼が来れば請け負い、淡々と解決する。対価をもらい、また次の依頼へ。誰にも干渉せず、誰にも踏み込ませない。その距離感が、ちょうどよかった。
だが——ある事件を境に、すべてが変わった。
浮気調査の依頼だった。妻からの依頼で、夫の行動を追い、証拠を集める。よくある依頼だった。透にとっては「いつも通り」のはずだった。だが、浮気相手に調査の存在がバレた。
相手が取った行動は、常軌を逸していた。依頼人の娘を人質に取ったのだ。
そして、助けるためにはどうしても「能力」を使うしかなかった。透は躊躇したが、結果的に奥さんの目の前でそれを行使してしまう。
——泣きじゃくる娘の記憶が、ガラスのように透けて見えた。
——彼女の絶望、恐怖、そして助けを求める声。
その場は、とっさの嘘で取り繕いなんとかごまかした。
だが、自分が“何をしたか”は、透自身が一番わかっていた。
その日を境に、透は能力を封印した。
「使わない方が、楽なんだよな……余計な責任も、怖さも背負わなくて済む」
独り言のように呟いたその瞬間。スマートフォンが震えた。
スマホの画面に浮かんだ名前を見た瞬間、透は額を押さえて呻いた。
発信者名:「如月 源一郎」
「……最悪だ……」
数日後。
透は渋々向かった喫茶店の個室で、重厚なスーツを着た男——如月源一郎と向き合っていた。
父親であり、代々草薙家に仕える名家「如月家」の当主である男だった。
「お前にしか頼めん案件がある」
開口一番、如月はそう言った。
「……その言い方、何年経っても変わらないな。まるでまだ俺を“息子”だと思ってるみたいだ」
皮肉のつもりだったが、如月は微動だにしなかった。
「今は一人の人間として、お前に頼みがある。内容はこの封筒を見ればわかるだろう」
そう言って、茶色の封筒を机に置く。
「美香お嬢様を、助けてやってほしい。お前の目が必要だ。……いや、“力”が、必要だ」
その名前を聞いた瞬間、透は眉をひそめた。
「……あのじゃじゃ馬お嬢様の付き添い役? 冗談じゃない」
「報酬は出す」
言葉を挟むように、如月は再び封筒を差し出す。
厚みのあるそれは、明らかにただの手紙ではなかった。契約書、そして——現金。
「今回は正式な依頼として扱う。給料も出す。必要な機材や場所も用意する」
「……で?」
「条件は一つ。——彼女の命を、守れ」
静かな口調だったが、その言葉には一切の冗談がなかった。
「彼女は、気高く、純粋で……しかし、あまりにも無防備だ。特に今の彼女が関わっている活動は、年齢相応の範囲を超えている。だからこそ、お前の目が必要なんだ」
「……親父。俺に、また“守れ”って言うのかよ」
かつて「守れなかった」自分に。
そう呟きたかったが、透は口を閉じた。
代わりに、封筒の端をゆっくり指先でなぞる。
長い沈黙の後、彼はぼそりと呟いた。
「つまり俺は、そのお嬢様たちの……“保護者”ってわけか」
如月は何も言わなかった。
その夜。
透は、自宅のタンスから古びたレザージャケットを取り出した。ポケットをまさぐると、そこには小さな銀色のイヤリングが入っていた。
かつての依頼で、返し損ねた片方だけのイヤリング。
指先がそれに触れた瞬間、ふわりと脳裏に映像が広がる。
——泣きながらイヤリングを落とす少女。
——か細く「たすけて」と口にするその声。
「……使わない方が、楽なんだよな……」
独り言のように、呟く。
翌朝。
透は如月から渡されたメモを手に、“とある廃ビル”へと向かった。
最初は顔合わせ程度のつもりだったが──どうやら、既に依頼は受けた後で、しかも行き詰まっているらしい。
だが、あのじゃじゃ馬……いや、美香様は思ったよりも強かだった。
事前に依頼主の少女から、普段身につけている物を借り受け、透が調査しやすいようにしていた。
おかげで、迅速に動けた。
これまでの経験と“力”を駆使し、無事に解決へと導けた。
所詮、中学生男子の浅知恵……そう言ってしまえばそれまでだが。
──新田静の背中が、最後まで震えることはなかった。
京介が無言で隣に寄り添い、美香様と杉原君が静ちゃんを支えながら、学校を後にする。
透はその後ろ姿を、少しだけ離れた場所から見つめていた。
手元には、調査記録をまとめた紙の束と、証拠として印刷したチャットログ。
役目は、もう終わっていた。
「……ヒーロー、ね」
自嘲気味に、ひとりごちる。
何かを救うたびに、何かが確かに削れていく──そんな感覚が、まだ胸の奥に残っていた。
──
古びたソファの端に腰を下ろし、スーツの襟を緩める。
眼鏡を外せば、視界はぼやけて、世界が少しだけ曖昧になった。
事件が片付いた今になって、妙な疲労が押し寄せてくる。
この“力”を使うと、いつもこうだ。
ただ記録を“見る”だけ──そんな簡単なものではない。
対象の“感情”や“記憶の断片”に、自分の感覚を沈める。
だから、見てしまう。
──あの子が、どれほど不安だったか。
──どれほど、信じたかったか。
「……透さん、ですよね」
ぼんやり考えているとふいに背後から声をかけられた。
振り向くと、京介がひとり立っていた。
扉は閉まったはずなのに──戻ってきたらしい。
「どうかしましたか?」
透が訊ねると、京介は少しだけ迷うような顔を見せ、それから、ふっと笑った。
「……ありがとうございました。静ちゃんのこと、助けてくれて」
「礼を言われる筋合いはありません。僕はただ、依頼をこなしただけです」
淡々と返す。
それでも、京介は気にした様子もなく続けた。
「でも、あの子……たぶん、今日からちょっとずつ変わっていけると思います。
僕らがやったことって、良くも悪くもそういう力があるんだって、今回少し分かりました。」
真っ直ぐな目だった。
純粋な子供の目だ。
けれど、その奥にどこか──見覚えのある影があった。
──似ている。
大学時代、透が初めて“力”を使って誰かを救ったとき。
あのときに向けられた、真っ直ぐで、愚かしくて、眩しい目と。
「……それは、大変なお役目ですね」
「ええ、まあ」
京介は肩をすくめた。でも、その言葉に迷いはなかった。
「僕たちのやり方は、たしかにちょっと変かもしれません。ヒーローなんて名乗れるほど、何かできてるわけじゃない。今回も、僕らだけじゃ無理だった」
京介の声は、反省の色を含んでいた。
子どもが背負うには重すぎた問題──それを、ちゃんと分かっている子だった。
「でも……手を伸ばしてくれる人がいれば、誰かの“明日”くらいは救えるかもしれない。そんな気がするんです」
そのとき。
「──ちょっと、二人で内緒話?」
隣から、美香がぬっと顔を出してきた。
京介も透も、少し驚いて振り返る。
それは──昔の僕が手放した言葉だった。
“自分には似合わない”と、諦めた考えだった。
「……如月様のお考え、多少は理解できました」
ぽつりと呟くと、二人が目を丸くする。
透は静かに立ち上がり、緩んだ襟を正した。
「明日からも、しばらく顔を出します。正式な報酬の話は──後ほど美香様と詰めましょう」
「えっ、本当に……?」
「ええ。まだ“終わった”とは言えませんからね。妹さんのケアも、もう少し必要でしょう」
自分の口から出た言葉に、思わず苦笑する。
これは仕事でも義務でもない。ただの“気まぐれ”だ。
──そう、自分に言い聞かせた。
けれど、去り際にもう一度だけ振り返ると。
美香と京介が笑い合っているのが見えた。
その光景は、どこか眩しくて──
気づけば、透は目を細めていた。
でも、今は……それでもいいかもしれない。