二部 四話 内気な少女 後編
放課後、京介と草薙は昨日に引き続き、静の護衛にあたった。
とはいえ、やはり今日も何も起こらなかった。
静はいつも通り友達と帰宅し、僕たちは遠巻きにそれを見送るだけ。張り込んでいると言えば聞こえはいいが、結局、何もせずに一日が終わった。
「……空振り二日目か」
京介がぼそっとつぶやくと、草薙も隣で小さくうなずいた。
「でも、逆に考えれば、それだけ静ちゃんの周囲が安全ってことでしょ。無駄じゃないわ」
そう言われても、何もできなかった無力感は簡単には消えない。
どこか釈然としない気持ちを抱えたまま、二人は静の家を後にした。
その後は七限まで授業があった劉と合流し、例のビルの一室──ヒーロークラブの”事務所”で待機していた。
今は草薙が一度席を外していて、部屋には京介と劉の二人きりだ。
外の蝉の声が、かすかに窓越しに響いている。机の上には資料のファイルや、静の通学ルートを書き込んだ地図。昨日と今日の記録をまとめたメモ帳をなんとなく眺めていると、張り込み中の無力感がまたぶり返してくる。
「ごめんね、京ちゃん。俺が持ってきた依頼なのに、二人に任せっきりにしちゃって」
劉は申し訳なさそうに、ぺこりと頭を下げて両手を合わせた。
「まあ、仕方ないだろ。そんなに何回も欠席できないし。草薙も”学業優先”って言ってたしな」
そう言うと、劉はホッとしたように息をついた。
「ありがとー。もうすぐテストだし、追い込みかけなきゃ……。そういえば、京ちゃんはテスト勉強してる?」
「まったく」
京介は胸を張って答える。劉が軽く眉を下げた。
「……今度、勉強会しようか」
あきれ顔。どこか「やっぱりね」とでも言いたげだった。
……バックレよう、と京介は心の中で決意した。
中間テストは、前日に配られた対策プリントを丸暗記して、ギリギリ赤点を免れた。
だから期末もなんとかなる——はずだ。
それにしても、草薙の学力ってどんなものだろう。
(お嬢様学校に通ってるくらいだし、そこそこ頭はいいのかもしれない。そもそも、僕と同じレベルの勉強なんてしてない気がするけど——)
ガチャッ。
そんなことを心の中で考えていると、扉が開いて美香が現れた。
後ろに男性の姿が見え、二人に向かってお辞儀をした。
「二人とも、紹介するわ。我がヒーロークラブの”表の探偵役”、真上透さん。私の家に仕える執事の息子よ」
二十代半ばに見える青年だった。身長は京介や劉より高く、大人の男性という印象だ。黒髪に眼鏡、静かでどこか影のある雰囲気を纏っている。
ただ、目だけが妙に鋭い。不快ではないが、見透かされているような感覚がある。
「初めまして。真上透と申します。探偵……というよりは、“記録を辿る者”といった方が正しいかもしれません。よろしくお願いします」
表情はピクリともせず、淡々と続けた。
「記録……?」
劉が首をかしげると、透は無言でポケットから小さなキーホルダーを取り出した。
「美香様が、依頼人の静様が日常的に持ち歩いていた物を一時的にお借りしておいてくださいました。そこに、わずかですが”痕跡”がありました」
透がキーホルダーにそっと触れた瞬間、空気がわずかに張り詰めるのを感じた。彼は目を閉じ、そして静かに口を開く。
「……暗い部屋。机の上に置かれたスマホ。その奥、やや高い位置から……男子制服らしき影が見えます。ただし……」
透が眉をひそめた。
「複数回、異なる人物がスマホに触れた形跡があります。少なくとも2人以上が関与している可能性が高いです」
「2人以上?」
美香が驚く。
「詳細な特定にはもう少し調査が必要です。まずは、依頼人の静様に再度お話を伺う必要があります」
「どうして、そんなことが分かるんですか」
京介が問う。その眼には疑念があった。
「どうして、と言われても説明が難しいですね。しいて言うなら、私にそのような素養があったとしか」
透はわざとらしく顎に手を当てて答える。
「素養?」
京介の疑念はさらに深まる。
すると——
「透さんは触れたものの記憶を覗くことができるの」
不穏な空気になりそうなのを察して、美香が慌てて口を挟む。
「お嬢様からお二人はこのようなものの理解がおありだと聞いていたのですが…」
「ええ、二人とも理解はあるはずよ。ちょっと驚いただけで……ねっ!」
と美香は劉と京介に返事を求める。
「う、うん」
「ああ」
と二人は答える。
すると美香は続けた。
「だから、透さんの言葉には確証があるの。とりあえず疑うんじゃなくて、静ちゃんに話を聞きましょう?」
その言葉に、京介は一瞬視線をそらしたが、やがて小さく息を吐いて頷いた。
「分かった。静ちゃんを呼ぼう」
劉が静に電話をすると、すぐに来られるということだった。
十数分後、呼び出された静と匠が部屋に入ってくる。静の手には、もふもふの狐のぬいぐるみがそっと握られていた。
「ごめんなさい、お待たせしました」
「いきなり呼び出してごめんなさい。こちら真上透さん、私たちヒーロークラブの探偵役よ」
「…探偵」
静は少し緊張した面持ちで椅子に座る。
「あら、かわいい狐ね」
「クラスの子が貸してくれて…」
透はあくまで落ち着いた口調で問いかけた。
「静様。できれば、そのぬいぐるみを借りたときの状況をできるだけ詳しく教えていただけますか」
静は一瞬戸惑ったように眉を寄せたが、すぐに頷いて話し始めた。
「えっと……昼休みに、クラスメイトの大和君って子に借りたんです。これ、大和君のお気に入りみたいなんですが、最近、私が元気ないのを心配して貸してくれたんです。『後で返してくれればいいから』って」
「そのとき、大和様の様子に変わったところは?」
「ううん、特には。……でも、少しだけ、顔が強ばってたかもしれません。何かあったのかなって思ったけど、聞けなくて……」
静は申し訳なさそうにうつむく。
その様子を見て、美香が優しく声をかけた。
「静ちゃん、大和君はそのとき、自分が疑われるかもしれないって、分かってたのかもしれないよ。それでも何も言わずにぬいぐるみを渡したのは、
たぶん……あなたを安心させるためだったんじゃないかな」
「そう、なのかな...」
静は手の中の狐のぬいぐるみに目線を落とし答えた。
「ところで静ちゃん、誰かにスマホを貸したことある?」
美香の問いかけに、静は一瞬身を縮めた。
「...ないです」
その瞬間、美香の表情が変わった。静の感情に微細な揺らぎを感じ取ったのだ。
「静ちゃん、何か隠してることがあるの?」
美香の優しいが鋭い問いかけに、静はついに観念した。
「……実は、二人いるの。大和君にも貸したことがある」
「大和君? もう少し詳しく教えてくれる?」
「大和樹君。同じクラスの男子で……あまり目立たない子だけど優しくて、私と同じゲームが好きで、時々話すの。彼にゲームのスクリーンショットを見せてって言われて……」
「もう一人は?」
「……浅野和馬っていう人。クラスの人気者で、宿題を送って、って言われて連絡先を……」
静の声がだんだん小さくなる。
「浅野和馬?」
匠が驚いた。
「学年一のイケメンで、クラスの中心人物だろ? 3年の先輩にも人気だって、中学の後輩から聞いたことがあるぞ」
「でも、そんなに仲良くないし、向こうも私に興味ないよ…」
静は自信なさげにつぶやいた。
「対象は絞れた。聞き込みといきましょう」
美香は力強く言い放った。
美香は翌日、静の中学校の近くで聞き込み調査を行った。
京介は聞き込みが苦手なのは分かり切っているので、透と一緒に静の警護に当たってもらっている。
本人はいきなり二人は気まずいと言っていたが、これから一緒に依頼をこなしていくのだ。
ここは心を鬼にして慣れてもらおう。
放課後、校門前で生徒たちの様子を観察し、何人かに話を聞くことができた。
美香の持ち前の無鉄砲さが功を奏した。
中でも静のクラスメイトの女子グループに話を聞けたのは運が良かった。
「浅野君はクラスで人気者ですよ、話しやすいし」
「浅野君って、すごくモテるんですよ。特に3年の田中先輩は、浅野君にベタ惚れで有名で……」
「それで、誰も浅野君に告白できないんですよ」
「大和君は……うーん、あまり目立たない子ですね。静ちゃんとゲームの話してるのは見たことあります」
「大和ってあの根暗そうなやつでしょ? そういえば静のことたまにじっと見てなかった?」
「あー見てた、見てた」
大和に対してマイナスな感情はあったが、嘘は言っていない気配だった。
情報を整理すればするほど、二人は全く対照的な存在だった。
浅野和馬:学年一のイケメン、クラスの中心人物、多くの女子生徒の憧れの的
大和樹:目立たない存在、ゲーム好き、静とは気の合う友達、たまにじっと見ている
透の二回目の調査で、より詳しい事実が判明した。
「スマホの操作ログを詳しく解析しました。どうやら犯人は静様のスマホにスパイアプリを入れ行動を把握していたようです。スマホに触れた時系列的には大和さんが先で浅野さんが後です。ただし……」
透は資料を見つめながら言葉を選ぶ。
「問題のアプリがインストールされ、実際に悪用が始まったのは、浅野さんがスマホに触れた後からです」
「じゃあ、犯人は浅野の方ってことか?」
京介がそう言うと、劉が少し戸惑った顔で言葉を継いだ。
「でも……周りの人の話的には大和君の方が怪しく見えたよね。静ちゃんのこと、ずっと見てたっていう話もあったし」
静はゆっくりと首を振った。
「確かに、そういうことはあったけど……でも、大和君は私に変なことはしなかった。
距離もちゃんと取ってくれてた。……それに、私はむしろ、嬉しかった」
その言葉に、京介は少し驚いたように目を見開いた。
静は恥ずかしそうに目を伏せながら続ける。
「話すのは緊張するけど……それでも、ちゃんと聞いてくれるっていうか……。私が困ってるとき、そっとノートを差し出してくれたりして……」
その声は小さいけれど、はっきりと大和への好意がにじんでいた。
透が、視線を浅野の記録に戻しながら言った。
「一方の浅野さんは……操作ログを見る限り、静さんのスマホに不審なアプリを入れたのは間違いありません。」
美香が険しい顔でつぶやく。
「静ちゃんと浅野君が話してたときって……宿題を送ってって言われたとき、だっけ?」
「うん……。机の上に置いてたスマホを勝手にいじられて……それで」
静はぎゅっと制服の袖を握った。
「最初は、私のことを褒めてくれたり、気にかけてくれるのが嬉しかった。でも……最近、ちょっと変だった。私が他の子と話してると、あとからLINEで『誰と何を話してたの?』って聞かれたりして……」
「執着、か」
京介が低く言った。
「浅野さんは、自分なりに”仲良くなってる”と思い込んでたのかもしれません。でも実際には、静さんが他の誰かに心を開くことを許せなかった。特に、大和さんに対しては」
透の言葉に、静は黙ったまま小さくうなずく。
劉が少し震えた声で言った。
「じゃあ……自分を見てくれない静ちゃんに対して、“罰”みたいなつもりで……?」
透は答えず、ただ資料を閉じた。
部屋の空気が、少しだけ静かになった。
浅野の部屋——
浅野のスマホには、未送信のメッセージがいくつも残されていた。
《……どうして、大和なんかに……》
《お前には、俺しかいないのに》
その言葉が、誰にも届かないまま、画面の奥で消えていった。
真相が明らかになった後、透がスパイアプリのデータをまとめ、学校に報告することになった。
しかし、静は躊躇していた。
「でも……浅野君って、すごく人気者で……みんな信じてくれるかな……」
匠が妹の肩を抱いた。
「静、お前は何も悪くない。勇気を出せ」
劉も優しく声をかける。
「みんなで静ちゃんを守るから。大丈夫だよ」
美香は静の手を握った。
「本当のことを言うのは怖いけど、それが一番静ちゃんを守ることになるの。私たちがついてるから」
生徒指導室での事情説明後、学校側は迅速に対応した。
静と両親の同意を得た上で、問題の男子生徒には事実確認のための呼び出しが行われ、
保護者同伴での面談が予定された。
ここから先は京介たち子供ではなく、大人たちの領分だ。
京介は、劉の隣でうつむいている静の姿をそっと見つめていた。
ほんの数日前、声を出すことすらできなかった彼女が、今は正面を向いて立っている。
それだけで、少しだけ胸が熱くなった。
「……とりあえず、これで解決だな、あとは大人がどうにかする。」
静かに言うと、美香がうなずく。
事件は、最悪の事態になる前に終わった。
事務所からの帰り道。空はすっかり夕焼けに染まっていた。
「……真上さんって、すごい人だね」
ふと、劉がぼそっとつぶやいた。
「彼には全てがお見通しね」
美香が軽く肩をすくめる。
「……でも、草薙さんもすごいよ」
「え?」
「証拠がない段階で、ちゃんと動こうとした。草薙さんがいなかったら、きっと誰も気づけなかったよ」
美香は少し照れたように笑った。
「静ちゃんが、本気で怯えてたからね。私は……その”揺れ”に反応しただけ」
「草薙さんは人の感情がわかるの?」
「正確には……五感を通じて、“揺らぎ”がわかる。人の感情、変化、緊張……。それをエネルギーに身体を動かすの。だから、普通よりちょっとだけ早く動ける」
そのとき僕は、やっと腑に落ちた。
あの人間離れした動きの理由を。
「なんか、俺の周り超能力者だらけになっちゃった」
劉が冗談めかしに笑う
「これで、また一歩進めたのかな……」
美香がつぶやくと、劉はにっこり笑って言った。
「ヒーロークラブ、最初の実績ってやつだ」
「次の依頼、来るといいね」
そのとき、美香がふと空を見上げた。
「……でもね、人って、簡単に本当のことを言わないの。苦しみを隠す方が、ずっと得意だから」
その横顔は、どこか寂しげだった。
「だからこそ、私たちが”気づく側”でいなきゃいけないのよ」
彼女の言葉が、夕焼けに溶けていくように響いた。