1.プロローグ
静かだった。
アルフェン子爵家の屋敷には、今日も変わらない朝が訪れている。
ただ、その空気はどこか――よそよそしい。
「お前に、この家で果たす役目などない」
「余計な夢を見るな。現実を見ろ」
長兄アルトの声は、いつも通り冷淡だった。
次兄カインは何も言わなかったが、その視線が「無関心」であることを明確に伝えてくる。
「……ふーん。成人かぁ。ま、元気でね」
三兄シリウスだけが、茶目っ気のある笑みを浮かべて肩を叩いてきた。
それは、“優しさ”というにはあまりにも軽くて、でも――
“この家で唯一の味方だったかもしれない兄”との、たぶん最後の会話だった。
ユウ=アルフェン、16歳。
今日から彼は、家を出て、一人で旅に出る。
形式的には“成人”を迎えたから。
本音を言えば、“ここに居ても仕方がない”から。
「……どうせなら、全部置いていこう」
鏡に映る自分にそう呟いて、ユウは無地の布で荷物をまとめた。
華美な衣服も、領主の証も、家名も――
どれも、今のユウには必要ない。
必要なのは、旅に出る者としての最低限の装備だけ。
屋敷を出る直前。
ユウは、ふと足を止めた。
一歩外へ出れば、もうこの場所には戻らないかもしれない。
そう思ったとき、どうしても……一人、会いたい人の顔が浮かんだ。
「……母上」
廊下を抜け、裏手の小さな部屋。
長く病床に伏している母、イレーヌ・アルフェンは、窓辺の椅子に腰かけていた。
白い指が、そっとカップを包んでいる。
一口、紅茶を含んで、ゆっくりと目を閉じた。
「……ユウ。来てくれると思っていたわ」
母は、微笑んだ。
その微笑みには、強さも弱さも、どちらも含まれていた。
「旅に出るのですね」
「……うん」
「あの人や、兄たちは、言いたい放題だったでしょう?」
「……まぁ、いつも通りだったよ」
ユウは肩をすくめる。
本当は、もっと強く言い返したかった。でも、それは意味がないと分かっていた。
「ユウ、あなたは……とても優しい子ね」
「優しすぎて、時々、自分を抑えてしまうところがある」
「でも、あなたの“本当の力”は、優しさの先にあるのだと思います」
母の言葉は、ふわりとした紅茶の香りと一緒に、心にしみ込んだ。
「ありがとう、母上」
「……俺、もう行くよ」
そう言って立ち上がると、母はそっと、机の引き出しから何かを取り出した。
小さな銀のペンダント。
見慣れない装飾が施された、古びたものだった。
「これはね、昔……私が“ほんの少しだけ自由だった頃”に買ったもの」
「お守り代わりに、持っていってちょうだい」
「……うん。大事にするよ」
母の手は、細くて、冷たかった。
でも、その手が胸元に触れた瞬間、ユウの中の不安が、少しだけやわらいだ気がした。
「ユウ。あなたの未来が……あなただけのものでありますように」
その願いを背に受けて、ユウは静かに部屋を後にした。
武器、防具、手袋、靴、マント、バックパック。
すべて、街の道具屋でそろえた“初心者用の廉価品”だった。
けれど、そのどれもにユウは、小さく手を加える。
糸を抜き、金具を交換し、目立たない場所に細工を仕込む。
「見た目は地味。性能は、ちょっとだけマシ。……このくらいがちょうどいい」
誰にも知られずに、誰にも期待されずに、静かに旅立つ。
それが今の彼にとって、いちばんの“自由”だった。
最初の目的地は、王国の中心――《エリオン》。
けれど、いきなり人の多い場所に行くのは、少し気が重い。
「……まずは、ミルゼットにしようか」
エリオンへ向かう途中にある、小さな静かな街。
旅の拠点にはちょうどいい。
決まった。あとは、歩くだけだ。
ユウは誰にも見送られることなく、屋敷の門をくぐった。
背負ったバックパックが、少しだけ重く感じたのは――
初めての旅に、不安がなかったわけじゃないから。