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冬の過ごし方については、セイよりも子供達の方が慣れていた。
スイレンはセイが率先して狩って来た獣の皮を、そのまま毛皮に仕立てていく。
糸も針も無いはずのこの森の中で、針は川で獲れた魚の小骨を、糸は草の繊維を使った。
炎はセイが持ってくる薪でなんとかなる。岩肌は寒気を齎すが、それも藁を敷き詰めて壁すらも覆えば多少は和らぐ。細い竹に括った藁束を用意したのも子供の中で最年長のスイレンや大人しく控えめなローレル、それから最年少の女児カルミアだ。
火の番や串刺し肉の料理は唯一の男であるロベリアが担当した。折れたままの腕は、今は他の作業に使えない。細い枝を折って火にくべる程度なら、彼にだって出来る。
セイは、その他の殆ど全ての仕事を担当した。
食料調達や食用茸採取、火にくべる細枝が尽きる頃には、それらしい斧も無いにも関わらず丸太を割った薪を持ってくる。太い幹を掘ったような桶で水を汲んでくるのにも、どうやってそういった容器を用意しているかが子供達には不明だった。
此処に来るまでの記憶が殆ど無いというセイ自身が謎に包まれている人物ではあるのだが。
セイだって、自分の謎について考えない時は無かった。
「……うーん、……うぅーん………」
そして、火の出ている時間ですら毛皮が無くてはいられなくなったとある日の朝。
ぬるめに沸かした湯で風呂代わりの清拭を済ませたローレルは、外に出て篠竹林――だった場所から葉に半分埋もれた天を仰ぐようにして、茣蓙にもなり切れない藁を敷いた地面に座り呻き声を上げているセイを見つけた。
なんなんだこの女、と思う心は真綿で包まれて言葉に出る。
「どうしたんですか、セイさん。そんな変な声出して」
「……なんか、変だなって思って」
「変?」
セイの口にする『変』なんてものは、今の所すべての事象に言える事だ。ローレルがこの場所に捨てられた時、洞窟も篠竹も無かったしセイ自身もいなかった。この女の存在ひとつで、環境の全部が異常に振り切れているのに。
セイもただ呻くために外に出ていた訳ではないらしい。手には自分の以前からの持ち物であったらしい小刀を手に、枯れた篠竹の小さいものから縦に横にと割っていた。……あんな小さな刃物でなんとかなるような量ではない筈なのだが、彼女の手には傷一つ無く、ただの燃料と化した細い竹の山が積まれている。
住処となっている洞窟の入り口は篠竹が生え放題。枯れて来たものから切り倒して燃料その他に使っており、今は入り口を塞いでいたものの半分が姿を消している。
「私がこれまで何をしてたか、思い出そうとすると頭が痛くなるの。思い出した部分は勝手に出て来たのにね」
「……はぁ……。それ、前も聞いた気がします」
「つれないわね」
ローレルの生返事に、セイも似たような気のない言葉を返す。ローレルだって、今まで聞いたことのあるぼやきにいつまでも付き合っていられる程に暇ではないのだ。
今日の仕事はスイレンの手伝い。室内の掃除や毛皮の手入れなど、セイの手の回らないところで出来る範囲は子供達に任せている。
「夢で何か見るような気がするんだけど、起きたら覚えてないし……。こういう時、悔しいわね」
「夢なんてそんなものでしょう。でも、見た夢が本当に記憶に関係するって訳でもないんじゃないですか?」
「……ローレル、貴女どうして今日はそんな冷たいの」
「さあ?」
不満げなセイの言葉を躱す側も、少しの間一緒に暮らしてきて慣れて来た。
このままでは子供達にやり込められる日も遠くないかも知れない、と一度だけセイが咳払い。
「別に記憶のことばかり考えてた訳でもないのよ。どうにかして、雪の降らない今のうちに皆でこの森を脱出する方法が無いかなってのも考えてるんだから」
「それは……ロベリアの骨折が治るか、セイさんの記憶が戻るまでどうしようもないって話だったんじゃ?」
「その無理を押してでも出る方が良いと思ってるのよこっちは。思い出すのは森を出てからでも遅くない。……と、いうか」
これまで散々話し合った件なのだが。
「このまま私の記憶が戻らない――なんて事態も、考えられるのよね」
記憶喪失は、『これまで』も経験があったかすら分からない。
必要だと思われる生活の知恵は都合よく残っていて、それでなんとか命を繋げている。子供達だってそのお陰で屋根の下で生きていられる自負もある。
それでも自分を構築しているものが何なのか分からないのは、不安だった。
「何があって私がこの場所に来たのか――『落ちて来た』のか分からないもの。最悪の状況なんてものは考えてて損は無い訳じゃない」
「最悪の、って。……どんな最悪を考えてるんですか?」
「そうね、例えば」
不安が不安を想像する、その結果も歪ではあったが。
「私がすごく誰かから恨まれていたり敵対視されていたりで、その人物がここまで私を追って来る――とか?」
「……」
「………」
「……。はぁ」
「冗談よ冗談! そんな冷たい目なんてしないでよ、――」
冷たいローレルの視線が耐え切れなくなったセイが、再び弁解の言葉を上らせる。その手の中の竹も小刀によって、火口になるほどの繊維状にされていた。
弁解の言葉の重みもそんなに感じられなくて、ローレルがふと視線を遠くに向けた。同時、セイが何かの音を感じ取って動きを止める。
セイの瞳は崖に張り付いたようだった。岩肌、というよりも、住処にしている洞窟がある切り立った崖の岩肌、その延長。ロベリアが落ちて来た場所よりももっと遠く。
「……ローレル」
「今度は何ですか」
「ここにある火口と薪、全部中に持って行ってくれない? 今直ぐ」
「え……?」
持って行って、というセイの視線はローレルには向いていない。どこか、何か一点を見たままだ。
何を見ているんだろう、と気になって視線を送りそうになると「早く」と急かされる。
いつもの様子とも違う。セイは高圧的な所もあるが、頼みごとをする時に急ぎでも無し、その人物の方をちらりとも見ないなど有り得なかった。
ここで暮らしていく上で、セイから頼まれ事をしたなら断れない。渋々といった風にローレルが屈み、無造作に置いてある少量の火口を掴み上げ、少ない薪を拾い上げていく。その間も、セイは一定の場所から視線を逸らさない。
「……何見てるんですか?」
どうしても気になってしまった。
拾うだけ拾ったローレルは、身を起こしてそのまま上体だけ振り返ってしまった。
見るな、とまでは言われていない。だから。
「――え」
視線を向けて、気が付くまで数秒かかった。
岩肌の表面から視線を滑らせた先の崖上に、人影が一人分立っていた。辛うじて、それが人か何かだと認識できるくらい離れた距離。
そして、そのすぐ下に、今まさに岩肌を転がり落ちている、豆粒のような何かの影も見える。
その影は、岩肌に赤い跡を幾つも残した。
転がり落ち始めた時は一塊だったはずなのに、その赤い跡がつくのとほぼ同時に塊から何かが捥げるように二つ、三つに分かれる。
すぐにそれは森の木々の中に落ちて姿を隠し、見えなくなった。その頃には崖上の人影も消えていた。
「見ちゃ駄目」
それは少し遅かった。
まるで蔦性の植物が支柱に巻き付くかのような動きで、何かがローレルの目元に絡みつく。
それは人肌よりも冷たく、滑らかでありながら肌の質感とも違う。
セイの手の感触だと気付くのは、視界が閉ざされてからだった。密着したセイの体から、花のような香りが微かに漂う。
「せ、い、さん。……セイさん、あれって、あれって」
「何も見てない。何も知らない。いいわね」
「あれっ、……くち、べらし」
「何も無かった。無かったなら何も見られないわ。悪い夢でも見てたんじゃない? 立ったまま寝られるって羨ましい特技ね」
「そうじゃ、なくて……!!」
『人が突き落とされ』て、運悪く『岩肌で即死に至った』。
セイを始めとしたこの場所を仮住まいとしている者達のように運よく五体満足で助からなかった、口減らしの犠牲者のひとりだ。
折しも季節は初冬。生活の苦しい村では、今もこうやって慣習的に行われている。
生き残れているこの五人の方が奇跡。
「やだローレル、薪落とさないで。ちゃんと中に持っていくのよ、私のお願い聞いてくれる?」
「………」
「中に入ったら、暫く出ないでいてね。私、少し気になることがあるからこの場を離れるわよ。夕方くらいには絶対戻るから、心配……は、しないか。とにかく、温かくして待ってるのよ」
ローレルの目元から手を離したセイは、小さな子供にするように頭に手を置いて数回撫でた。さっき見たのは夢か幻だと、そう言い聞かせるかのように。
セイはどこへ行くのだろう。もしかしたら、さっき落ちて来た影の様子を見に行くのだろうか。あれで生きているなんて思わないけれど、生きていた時にセイはどうするのだろう。
軽く手を振ってその場を離れるセイの背中越しに、ローレルは遠い岩肌を見た。見間違いなんかじゃなくて、そこだけ赤く染まっているようだった。
ぶるり、体の身震いは勝手に現れる。セイが言っていたように、気付かぬうちに落としていた薪を拾い上げ、足早に洞窟の中に入る。今はもう洞窟の入り口も毛皮になっていて、防寒性は多少上がった。
今、安心できる場所はここしかない。
セイの作り出した場所しかない。
ローレルは洞窟の中で、火に爆ぜる薪の音を聞いてやっと呼吸が出来ているような心地になった。
セイがあのまま、もし帰って来なかったら。
そのときは、どうやって生きていけばいいのだろう。
不安な心を抱えたローレルの耳に、外から鳥の大きな羽音が聞こえた。
普段見かけるような小鳥の可愛らしい羽搏きの音ではない。不吉さを感じさせるほどに、巨大な鳥が出す音のように思える。
「……一番可能性高いの、ここだって聞いてたんだがなぁ……?」
羽音がしたのに、誰か知らない男の声まで聞こえてきた。
中に居た子供達は、その違和感に顔を見合わせる。
知らない人物の来訪だ。
それはまさに洞窟の入り口で、毛皮の幕の前に立ちはだかっているようだった。