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 地面が揺れる。


 茶色の毛皮で覆われた巨躯が季節に色褪せた草原に頽れた。

 木の陰からガタガタと身を震わせて見ていたローレルは、獣の命が途絶えた事を知るとその場に力なく座り込む。

 立っているのは、セイだけ。


「……これだけの肉があったら、暫くは食料に困らないかしら。ああ、でも保存が……そこは干し肉、いや薫製……」


 ぶつぶつ言いながら熊の手を引っ張り上げる。

 大人の男でも一人で動かせないほどの巨体を、表情を変えることなくうつ伏せから仰向けへ。その胸元は心臓を狙って、大きな風穴が空いている。

 断崖の岩肌を掘削した時と同じだ。岩ほどの硬度を持たない熊の胸元は、種から発芽した植物による緑の槍によって易々と貫通してしまう。そうして出来上がった熊の死体は、セイに見下ろされる立場へと成り下がった。

 彼女の武器となった緑の植物は今日は四本。その姿を消すことなく主に付き従って場に残っている。


「ねえ、ローレル」

「はっ!? は、はいぃ!!」

「声が上擦ってるわよ。……貴女、薫製肉の作り方分かる? こういうの一人で全部するのは無理があるから、その辺り手伝ってくれたら助かるんだけど」

「……あ、で。でき、ます。……でも」

「『でも』?」

「……肉、だけ……捌くのは、時間が……掛かるかな、って……。これだけ大きいと、火元に運ぶのも……私だけだと、難しいし、それに」

「なんだ、そんな事」


 手伝いに難色を示したローレルだったが、その言い訳にセイは拍子抜けした。

 この言い訳自体は、セイの並外れた戦闘力が言わせたものだ。こんな人間の形をした化け物の側に居ること自体が怖いと、ローリエは当たり障りのない言葉で拒否しただけ。

 でも、その拒否は逆効果だった。


「こうすればいいんでしょ?」

「――え」


 セイの指が、軽く空を切る。

 その動きだけで――再び、緑の槍がその穂先を閃かせる。

 生半可な刃よりも鋭い先端が、熊の体の表面で踊る。足先から頭頂までを、毛皮の奥まで。

 そして、二本がローレルの心の準備さえさせないうちに、熊の両眼を突き刺して宙に持ち上げる。


「うぐっ!?」


 その光景だけでも悍ましいものだった。

 吊り上げられた獣の死体は力なく、だらりと垂れ下がっているのみ。

 そこに別の緑の槍が伸び――頭頂から一気に、熊の体から皮を剥ぎ取る。

 それらはまるで最初から別の個体であったかのような、綺麗な剥がれ方だ。

 ……しかし、それから間を置いて、腹部から内臓が転び出て来る。毛皮を切る時に一緒に腹を裂き、内臓部分まで切断していたらしい。


「っ、……!! ……!」


 ローレルは突然の事に口を手で覆った。獣の解体は見たことあるかも知れないが、手順が残虐だ。

 しかしセイは気にしない。


「骨はそこまで重くないし、今はこのくらいで良いかな。このまま草を編んだ敷物の上に載せたらあとは首を跳ねて、……ん?」


 セイが指先の動きだけで草で敷物を作る。その途中にローレルが走り出してしまった。

 少し離れた木陰で、吐き気を堪える音がする。特に大したものも胃に入ってる訳ではないだろうに、それでも食べたものが逆流してしまう人間の性質を思うと溜息が出て来た。

 熊肉の処理をしている間に、セイがローレルの背中を横目で見る。大人になり切れていない子供の背中を、今は撫でてやる気にもならなかった。


「……まったく、こういう反応されるなんて思わなかったわ。ほんとにヒューマンってのは弱くて嫌にな、――」


 ちり、と頭が痛む気がした。火花が散ったような感触と共に、口を滑って出てきた言葉。

 ――『ヒューマン』。彼等自身を、()()()()が表す呼び名。


「……」


 自分の正体が見えて来た。種を使う能力を持っている時点で、ただの人間ではないと分かっていたのだが。

 子供達の詳細までは知らないが、特殊な能力があったのならこんな目に遭ってはいまい。


「……そう、だったわね。私は」


 緑の槍の穂先が肉と大まかな骨を分けていく。

 いつだったか、似たような事をした記憶が蘇る。体が覚えている手順から読み取るに、狩りは得意だったらしい。

 敷物の中に収まる程度の大きさの塊に分けた後、骨と皮を別にして包む。血の滴るそれらを一度に担いだところを気分が落ち着いたらしいローレルが見て、また息を詰まらせていた。


「戻るわよ、ローレル。こんな所で油売ってられなくなった」

「……は、はい。……急ぐん、ですか?」

「急ぐわ。……少し、確かめたい事があって」


 役に立てない自分に負い目を感じたのか、ローレルがセイに「荷物を」と言ったが拒否される。

 流石のセイも体調不良者をこき使う気にもなれず、代わりにと帰路の所々に落ちている枯れ枝を拾って持って帰る事で留飲を下げてもらう。

 そしてセイは。


「……」


 処理するときに残して来た、肉と骨と皮()()の残骸に一瞬だけ目を向けて。

 二人はその場を後にした。




 戻ったセイを待っていたのは、相変わらずの病人と怪我人一人ずつ。

 外傷のロベリアは劇的な変化がないとして、熱を出していたカルミアの寝息は落ち着いたものとなっている。喘鳴ももう聞こえない。

 寝床が整い、充分な休息が取れるだけでも違うようだ。それで回復の兆しを見せているだけ、カルミアは運が良かった。


「……なんだ、もう帰って来たのかよ、って!?」


 洞窟内のロベリアは、セイとローレルが戻ると気付くや否や憎まれ口を口にする。しかし、視線を向けた途端にその言葉も黙る。

 どちゃり、と置いた編み草で包まれた何かの塊を置いた瞬間、まだ残っていた血液が飛び跳ねる。

 運悪くもその跳ねを受けてしまったロベリアは、熊の血を頬に浴びたまま固まっていた。


「体感……元重量の三分の一とちょっとって所かしら。干し肉って、ここから脂肪を全部削ぎ取ってから作るのよね?」

「え、ええ」

「脂肪は燃料に使えるの? そういうの全っ然分からないから任せたいんだけど大丈夫かしら」

「使え、ますけど、その」

「何? ……なんか煮え切らないわね。そういえば何か言いかけてたんだっけ?」

「……干し肉……作るには、材料が、ない、です」

「は?」


 ローレルが肉の塊に視線を落としながら、目の前の恐怖の対象へと言葉を続ける。

 言わないでいることも出来るが、黙ったままの方が後が怖い。


「ざい、……材料? え、何で? 肉ならこんなにあるのに。なんなら今からまた獲って来ても」

「……塩が無いんです。塩が無いと保存できません。腐ってしまうんです」

「しお」

「ここは、森なので。村に居た頃は漁村から行商の方が塩を売りに来ていましたが、今はもう行商の方が来ることも無いですから手に入らないんです」

「………」


 セイの保存食大量作成の野望は完全に頓挫した形になる。

 これまで一度も冷静な態度を崩したことも無いはずが、この時だけは両膝から力なく崩れ落ちた。


「……そういえばそうだわ、なんで忘れてるのよ梅干し漬ける時も死ぬほど塩使ったじゃないのよぉおおお……!!」

「ウメボシ?」

「なんだそれ」


 朧気に覚えているのは、年季の入った壺の中に山盛りの梅の実を下処理して浸けた地獄の工程。

 ちまちまと軸を取り続けて十個終わっては残りを確認し、気付けばその実の山が増やされていた時の絶望。終わるまで休ませない、なんてしゃがれた老人の声までも思い出した。

 思い出さなきゃいけない記憶ばかりは引っ込んでいる癖に、こういうどうでも良い忘れてしまいたい記憶ばかりが蘇っている気がする。


「あのクソ年寄り共私が嫌だって言っても絶対に見逃してくれなかったのよまだ生きてたら殺してやるわあいつら自身に保存食にできるだけの肉もついてない癖に私のやる事なす事に口出すんじゃないわよ梅干し食べたかったら自分達だけで作りなさいよ馬鹿ああああ」

「ウメボシ……」


 蘇った記憶による混乱にセイが喚いている間、ローレルとロベリアは『ウメボシ』なる正体不明の物体について首を傾げている。

 ひとしきり喚いて呻いて落ち着いたのか、セイは荒い息をしながら洞窟内を見渡した。


「……そういえば、スイレンは? 二人の看病を任せたつもりだけど」

「私ならここですよ」


 いつの間にか、出入り口にスイレンの姿があった。少し外に出ていたらしく、手には枯れ枝や幾らかの植物を持っている。

 枯れ枝自体はそこまで多くは無いが、火を絶やさないようにするにはその『少し』でも欲しいところだ。


「何処行ってたのよ。残るよう言ってた筈だけど」

「この洞窟に籠ったまま生活するのは、その、無理です。だからお詫びじゃないけれど、薬草も摘んできました」

「薬草?」

「村で使っていたのと同じものがあったんです」

「……」


 スイレンが床に下ろした薬草の中には、セイも覚えがあるものが幾つかある。

 それをどこで見たのかは覚えていない。


「これが解熱、これが咳止め。これとこれを合わせて、これも解熱に使ってました」

「これ解熱じゃないわよ」

「えっ?」

「飲んだ人、結構すぐ寝てない? 休息することで体力を回復させるもので、これ自体に熱冷ましの効能は無い、……筈。私が覚えてる解熱はこっちとこっちを一緒にすり潰したもの。……だけど子供には強いって言ってなかったかな……?」

「い、言ってた? それは、思い出したんですか?」

「……」


 ――ちまちま梅干しを作っていた時のものよりも、遥かに思い出す価値のある記憶。


「金髪の医者が言ってた」

「……お医者さま? お知り合いですか」

「そう、ね。……知り合い? ……知り合いなのかしら。……どうしてか、……絶対に逆らえないような雰囲気はさせてたわね」


 朧気に記憶に蘇るのは、部屋に閉じ籠った状況の方が多い医者の姿。黒い服ばかりを着て辛気臭かった事を思い出した。

 それ以外は正確な顔も名前も思い出せない。性別は……確か、女性だった気がする。


「……その薬草生えてた所、案内できる? 私も行ってみたい」


 靄が掛かったままの記憶も、薬草が生えているところを見て少しは晴れたりしないか。

 そんな事を思いながらした提案に、スイレンは即座に承諾を返す。

 洞窟を出るその直前に、振り返ったセイがローレルに告げたのは。


「……とりあえず、肉……焼いといて……」


 保存が効かない大量の肉塊をどう処理するべきか、悩んだ挙句にそう言うしか出来ない、言葉尻もしおしおな指示だった。



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