4
幼児の熱は、一晩様子を見ようという話になった。子供達はこれまでの生活で疲労困憊だ。このままでは熱を出すのが幼児一人で終わりそうになかった。
滑落してきたらしい少年の具合も悪い。目に見えて折れている骨の整復をセイがするも、固定するだけして、あとは運を天に任せるしかなかった。
子供達を皆洞窟内に押し込めるも、その洞窟内の寒い事。集めて来た枯れ枝を纏めて、火をつける段階になってセイは自分の服の中を探る。簡易的に火をつける道具が見つかったので、枯草に火を移して暖を取ることに成功した。
気になるのは入り口からの風だ。こればかりは仕方ないので、それまで着ていた服を脱いで入り口に掛けた。
少女二人からはぎょっとした目で見られたが、二人もやっと一息つける状態になったせいか既に横になったまま声も出ない。
「……いなくなったりしないから、安心して眠りなさいな」
そう声を掛けられるくらいには、セイも大人だった。
大人であろうとした。少女達、子供達が安心して夜を明かせるための守り人であろうとした。
寒い空気から出来るだけ守ってやる。獣が襲ってくるなら撃退する。今できる最低限を用意してやろうと思った。
自分がこれまで何をしていたかさえ覚えてないにしても、子供は守らなければならない。まるで、そう体に刻み込まれているかのようだった。
でも。
「おっ、俺は知ってるぞ!! この女は魔女なんだ!! 騙されねえぞ!!」
……骨の二・三本は確実に折れている少年が、起きて開口一番そんな事を言ってしまえば。
セイが子供達を守ろうとした心だって、容易く揺らいでしまうというものだ。
「は???」
セイの堪忍袋が裂けて爆発した瞬間に、少年は反撃を食らって激痛の絶叫を洞窟内に響かせることとなる。
……具体的には、大人げないセイが整復した筈の少年の骨折部分を叩いた事で。
「……お、……俺は、見たんだよ。そこの女が、大勢の大人に囲まれて、……それで、偉そうにしてる所」
暫くして、洞窟内に全員が集まった。
動ける少女二名は外で草を毟って枯草を用意していたり、枯れ枝を拾って来ていたり、食べられそうなものを見つけて来ていた。熱を出した幼児はまだ洞窟内でぐったりと横たわったままだ。
洞窟内では怯えている少年と、偉そうにどっしりと座り込んでいるセイがいるだけ。
その空気に異質さに少女二人は顔を見合わせるも、「座りなさい」と言われればそのようにするしかなかった。
「見たことも無い服を着て、大きな馬車に乗ってたんだ。それで村長と何か話してたけど、俺は知らなくていいって言われて」
「村長? 貴方の村の名前は何?」
「……と、……トガロフ村。……でも、この数年で……知らない、変な名前に変えられちまった」
「変な名前? なに、それ」
「この国には、悪い皇帝がいた、って。でもその皇帝が居なくなったから、今度は別の国が支配するんだって。その変な名前なんて俺、覚えてねえよ。俺が住んでたのはトガロフ村だ。……でも、村長も、俺の親も、その変な名前で、これからは覚えるようにって……」
「……ふうん?」
「お前は、知らねえ大人達からセイなんとか様って呼ばれてたのを見たぞ! 俺の村を変な名前に変えやがった奴だ!! だったら、俺の嫌いな悪い奴だ!!」
「セイ、……? それ、確かに私に向かって呼ばれてたのね?」
「ああ、間違えるはずが無ぇ。なんだったかもう少し長い名前だった気もするが、そのセイなんとかってのだけは忘れてない!」
「……セイ……」
言われて、セイが目を細める。
そう呼ばれていたと聞いても、自分の中にピンと来るものが無い。自分の名前がそうだったとして、普通ここまで何も思わずにいられるだろうか。
セイなんとか。
もう少し長い名前。
だとしても、自分にはセイという愛称が使われていた可能性だってあるだろう。でも、その呼び名に一切思うところが無い。
「……セイ……? 違うわね、絶対。私の名前はそんなんじゃなかった筈よ」
「で、でも……俺は間違いなく、そう聞いたんだ」
「まあいいわ。私、今の所自分の名前が無くて困っていたの。暫定的にこれからは私を『セイ』って呼ぶように。いいわね」
「……は? 名前が無いって、どういう……」
「それで」
勝手に話を進めたセイは、更に続きを話す。
「貴方達。一人ずつ、名前と境遇を話してくれない? 得意な事とかあったらそれも知りたいわね、暫く共同生活するんだろうし」
病人と、怪我人。
口減らしの森から出るには、流石に足手纏いが多すぎる。下手に動かすことも躊躇われて、そのせいで守り切れない者が出て来るのは耐えられない。
ひとまず、動けるようになるまで。
地理どころか自分の事すら全く分からない状態で、口減らしのために捨てられたものがいる者達を引き連れて動けない。……セイの判断は早かった。だから、互いの環境を知る必要があると思ったのだ。
子供達はそれぞれ顔を見合わせると、まず最初に最年長の少女が口を開いた。
そして前置きとして、「私達、名前はもう無いんです」と告げる。
一人は革職人の家に生まれたが、消去法で口減らしに選ばれた不遇の子。「皮さえ用意出来たら革に出来るか」と聞いたら「材料さえあれば」と返された。
一人は農家の子に生まれたが、両親が村の中での地位が低かったために口減らしに選ばれた少女。食べられる野草の判別は付いたから、少女三人はこれまでなんとか食い繋いだという。
幼児の出自は分からない。聞いたところで本人すらうまく伝えられないだろう。ただ、『ミーちゃん』という一人称が名前、もしくは愛称。
そして、昨晩に崖上から落ちて来た少年といえば。
「…………」
――黙して語らず。
セイと少年の間の、どす黒い沈黙に少女たちは震えあがっている。
痺れを切らしたセイが舌打ちしても、少年はそっぽを向くだけ。これは命の恩人に見せるべき態度ではない。静寂の時間はたっぷり五分と少し。
「仕方ないわね、じゃあ先に私の話をするわよ」
折れたのはセイが先だった。
「名前、暫定的に『セイ』。そこの子の言葉を信じるなら、私はどっかの国の偉い人なんでしょうね。それも、この国の皇帝をどうにかして、村に変な名前とやらを付けた立場……或いはその組織所属。今の所、日常生活に支障が出る以外の記憶が殆ど無いわ。何か聞かれても答えられないことの方が多いと思うから、よろしくね」
「………」
あまりにあっさりとしたセイの言葉に、子供達は皆顔を曇らせた。
その理由が分からなくて、セイも言葉を詰まらせる。
「……何よ?」
「いえ、……その、疑う訳じゃないんですけれど。……セイ、さん……すごく、落ち着いてるな、って思って」
「落ち着いてる? そう?」
「はい、……自分の名前も分からないって状態で、そんなに慌てないものなのかな、って。体調が悪そうに見えた時以外、何でもない事みたいにしてて」
「まあそうでしょうね。慌てたら下々の者が不安になるから絶対に顔に出すなって言われたわ」
「え?」
「え? 私今何て言った?」
言った本人も驚いた顔をしていた。最年長の少女と顔を合わせて瞬きを繰り返す。
完全に無意識だったのだろう。無意識でその言葉が出て来るということは、言い慣れているという事だ。
セイは自分の唇に手を置いて、何かとんでもない事を言った気がする自分に頭を捻っている。
「……下々の者、……なんか引っかかるわね……? すごく嫌な感じがするのに、どうしてこんな言葉が出て来るのかしら」
「………」
セイの言葉に、幾ら人生経験の浅い子供達と言っても理解できる言葉がある。
予想していたよりも、ずっと上の地位にいるような女である可能性が高い。
知識があって強く、様付けされるような地位にいるとんでもなく偉い人物。下手に機嫌を損ねれば、どんな目に遭うか分かったものではない。
子供達が異様な緊張に包まれている中、それまで神妙な顔をしていたセイがあっけらかんと声を出す。
「ま、考えたって思い出せないものは思い出せないわね。無意識に記憶が出て来るんなら普通に生活していた方がいいんでしょうし、今は考えないでおくわ」
「え……え、えええ……?」
「私はこのまま外行ってくるわね。生活するには足りないものばかりだわ、秋ならキノコとか動物とかで食料事情はどうにかなるでしょう。病気に効きそうな薬草も探して来ないと、カルミアがいつまで経っても病気のままだわ」
「か、カルミア?」
「その子の名前。今決めた」
セイが指さした先には、藁の寝床で苦しそうに息をしている幼児の姿がある。
熱が高いが咳は無く、ゼイゼイと荒い息を繰り返している、一人称『ミーちゃん』の小さな女の子。
看病しようにも薬は無く、栄養があるような食事も無い。
「貴方達、ここにいるって事は名前無いんでしょう? 酷い話ね、村では死んだ事にされて死体の無い墓作られて、実際は口減らしの森に捨てられて。死んだって言われた名前はもう名乗れないんでしょう? 不便だから新しい名前で生きるしかないじゃない」
「……」
「スイレンはカルミアの様子見ながら留守番してて。ローレルは一緒に来て荷物持ちして貰おうかしら。……そっちの」
セイが『今考えた』という名前を口にしながらそれぞれを指さす。
しかし、それも少年を指さした時に一度動きが止まる。
今口にしているのはただの記号のような暫定的な呼び名。だから名前をつけるにしても何だっていいはず。
そう出来なかったのは、セイの方。
「……ロベリア」
その名前だけは、温かい感情と共に蘇って来た。
「ロベリア」
改めてもう一度名前を呼ぶ。
指をさされている方は居心地の悪さに顔を顰めるばかりだ。
それまでのあっさりした事務的な通達をする時の声よりも、明らかに情が籠ったものだったから。
「……貴方は怪我が治るまで休んでる事ね。無理したら繋がる骨も繋がらなくなるわ」
「……お、おう……?」
ローレルが動き出すのさえ待たずに、セイが洞窟を出ていく。
何をどう集めればいいのかも考えてはいないが、明るいうちに森の様子を見ていれば、今後の行動も決まって来るだろう。
「……」
洞窟の入り口から見た空は、木々の間から覗く狭いもの。狼煙を焚いたところで、口減らしの森に助けに来るものなどいないだろう。森の外から狼煙を見つけて貰えるかも分からない。それに、今は燃料に使えるものを賭けに使うなど出来なかった。
「私がここに来た理由……、私が何をしていたか……。私の正体、私の言葉の意味……」
考えていたって仕方ない。
でも、不安な顔は一人の時の今しか出来ない。
「ロベリア……」
少年にその名を付けたのは、再び記憶を失ってその名すら忘れる事が怖いと思ったから。
何故怖いのかも分からないけれど、自分が今まで口にしたどんな言葉よりも大切なものだと思えた。
胸の中の焦燥は、その名を呼ぶだけで薄れていく気さえした。子供達の前で不安に揺らぐ自分を見せられない。だから、その名前に縋るしかなかった。
「待ってください、セイさん!」
呼吸を整えたところで、洞窟からローレルが追い付いてきた。その頃には表情も取り繕えている。声に何でもない風を装って振り返る事が出来た。
……この仕草も、覚えていない自分が得意としたものかも知れない。
「な、何の用意も無く出るなんて思わなかったから……」
「用意も何も、支度するようなものなんて何も無かったじゃない。ほら行くわよ」
「……なんか、セイさんって……思ってたより、すごくさっぱりした人ですね」
「ん? ……それ、どういう意味?」
「いえ、その」
さっぱりした、と言われてそこまで悪い気はしない。けど言葉の真意を汲みかねて、眉を顰めて聞いてみた。
「セイさんを見つけて、看病して、目を覚まさなかった二日間……。セイさん、寝ながら何度も言ってた言葉があって」
「寝ながら? ……寝言……っていうか、譫言かしら。なんて言ってたの?」
「私も、……ええと、スイレンさんも……聞いたから間違いないんですけど。セイさんが言ってたのは」
その言葉は、新たな疑問をセイに植え付けるのに充分だった。
「『絶対に許さない』……って」
「……。他には?」
「それしか聞いていないんです、ごめんなさい」
「そう」
譫言で口走る程の激しい感情。起きた時には忘れていたとしても、何度も繰り返したほど。
それは誰に対しての恨み言か。
自分がそれほど憎らしく思う人物が居たということか。
もしかすると、自分を突き落とした犯人に対する言葉かも知れなかった。