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 それは冬になる少し前の話。


「ねえっ! あの女の人が起きたわ!!」


 セイがこの地で最初に目を覚ました時、視界には星空が移っていた。




 屋根すらない空の下で、秋から冬に移ろう季節の寒さを震えながら耐えていた子供達が側に居た。

 頭が痛い。体もだ。何が起きたか分からずに、ひとまず起き上がろうとしたら子供の一人が阻止してくる。


「駄目です、動いちゃ! 貴女は二日も目が覚めなかったんですよ!?」

「……二日……?」

「この崖の上から落ちてきたんです。血は出てませんでしたが目を覚まさなくて……」

「き、ず……」


 制止も聞かずに身を起こそうとして置いた手、その下には葉しか敷かれていない。

 着ている服は土埃のようなもので汚れていたが、払う余裕すらない。そのままセイは周囲を見渡す。


 言語の理解が出来る子供が二人、そして幼児が一人、片方の子供の腕に抱かれていた。

 三人ともが女の子だ。彼女達も薄汚れた格好をしていて、季節に見合わない寒々しい服装。

 屋根も無い屋外で、自分は二日も野晒しだったのか――そんな考えが浮かんだが、すぐに霧散する。

 子供の腕の中の幼児の様子が、ただ寝ているだけでは無かったのだ。


「……ここ、どこ?」

「……ここは、森の中です。口減らしで嫌に有名な場所なんですけど」

「口減らし? ……ああ、なるほどね」


 短く漏らした納得の言葉に、幼児を抱きかかえた方の少女がびくりと肩を震わせた。

 捨てられた子供の末路なんて獣の餌か浮浪者か。今は喰われている様子は無いので、後者になるのだろうか。将来的にどうなるかは分からないが。

 現状確認は、今はそれだけでいい。雨風をしのげる場所すらないと聞けば、それを先に用意しなければならない。こんな寒空の下で火すら無いのは危険だ。

 体に力は入る。立ち上がって改めて周囲を確認すれば、未開の地のような文明のない森と、そこが少し開けた草原。いつからこの少女達は居たのだろう、なんて考えも浮かぶ。


「お姉さん、まだ寝てないとっ……!」

「貴女達、ここに来て何日?」

「……え……?」


 質問を返されるなんて思っていなかった様子の少女は一瞬言葉を失い、それから指折り日付を数え始めた。

 何度朝日を見たかを思い出しながら、一本、二本、三本。


「……多分、……五日目、です」

「そう。五日あって、今の今まで野晒し生活?」

「……」


 責めている訳ではない。

 でも、その時のセイの言葉は夜風よりも冷たかった。

 少女二人は顔を下に向ける。それは申し訳なさか、憤りか。セイは二人の心を汲まず、その気も無く、改めて周囲を見た。


「火は起こせる?」

「火……? ……い、いえ、ごめんなさい、私達には……」

「そう」


 困ったわねぇ、なんて独り言のように言うセイ。

 屋根も壁も、火も無い状態で五日間。年端も行かない少女が二人に、体調の芳しくない幼児が一人。

 この状態で一番動かなければいけない人物が誰か。――なんて、考えるまでもない。


「そっちの、ちっちゃい子抱いてない方」

「は、はい!?」


 呼ばれて身を震わせたのは、暗い茶髪の少女。


「あるだけ枯草かき集めてきて。このままじゃ寒くて凍えるでしょ。……特に、そっちのちっちゃい子」

「……!」

「茅葺の、ってのも考えたけど……私じゃ建築分からないからなぁ。こういうのはカ、………、……え?」


 特に何も考えず、誰かの名前を呼び掛けた。


 その名前が、最後まで呼ばれる事無く空気に溶ける。


「シ、……? ……、……」


 誰かの名前、だけでなく。

 自分の名前を思い出そうとする。

 この場で目を覚ました以前の自分の状況を確かめようとする。

 でも、無理だった。


「……待っ、て……」


 自分。

 本来の自分。

 自分を形作っていたもの。

 今着ている衣服の出所すら覚えていない。この服はどこで、誰が用意したもの?

 家族は。

 友人は。

 自分の側に居たのは誰だった?


「っ――」


 動かなきゃいけない。

 でも、今だけは動けなくなった。

 地を踏んでいる靴底の、その底が踏みしめて来た筈の世界が分からない。

 この服が服と成る前の布であった時、誰の手に触れていたのかも分からない。

 自分は。

 『私』は。


 私がここに居る事の理由は。


 ――ご報告いたします、……様!!


 ――……殿下の命令により、直ちに……


「……」


 誰とも知れない男の声が、何故か一番に蘇った。

 思い出したくて埋もれた記憶を掘り返して出て来た声は、求めたものとは絶対に違うということだけは分かってしまう。

 声が重要なんじゃない。

 本当に重要だったはずのものは、その内容。


「……殿、下……?」


 その報告を受けた時の、胸の焦燥感は覚えている。

 どうして。

 なんで。

 その焦燥が呼び水となって、いつの記憶かも分からない断片的な記憶が一度に蘇って来る。

 誰の声かも分からないのに、その時の感情も一緒に。


「あ、うぁ、……っぐ、ううっ……?」

「え、お、お姉さん!? お姉さん!」

「お姉さん、急に立つからっ! まだ休んでないと、っ!?」


 脳裏に浮かび上がる姿があっても、名前が出て来ない。

 時折出て来る名前も所々黒塗りで、一人分の名前になるような文字列は殆ど思い出せない。

 でも。


 ――島流しみてえなモンじゃねえか。


 その声は、はっきりと思い出した。


 ――帰ってきたくなったら帰って来いよ。まぁ、お前さんにゃ無理だろうがな!


 嘲笑うような大声は、やや掠れた女の声。

 無理だなんて決めつける、意地の悪い笑い声。

 ただ思い出しただけでは不快感が湧き上がりそうになる言葉なのに、その時の自分の感情が思い出せない。


「っは、……あ」


 顔を両手で覆った。

 気持ち悪い。別に、思い出せた言葉に苛立ったとか、そういう理由ではなく。

 その言葉に何と返したのかも忘れてしまった事への失望だけがあった。

 あんな言葉を掛けられた事で、なんと思っていたのか。

 あんな言葉を発した人物は、自分とどういう関係だったのか。

 怒りでも悲しみでもいいから、そんな単純な感情すらをも思い出せなくなっているのか。


「お姉さんっ!」


 自分の身を案じて叫ぶ声が、うるさい。


 思い出せない。

 全部、ではない。

 自分を取り囲んでいた環境のほとんどを。


「――……うっさいわね」


 冷や汗が止まらない。

 気持ち悪さは背中から肩に取り憑いたまま、ぞくぞくとした寒気を齎した。こんなもの、今まで感じた事が無い。

 それでも。

 酷い悪寒に襲われていても、膝を付くのは覚えていない筈の矜持が許さなかった。


「子供に心配されるほど落ちぶれていないわよっ!!」


 無理やり思い出そうとして思い出せないのなら、無意識に任せればいい。

 さっきまで絶対の自信を自分に持っていた。この状況を打破できるのは自分しかいないと。そして、その方法はとても簡単だと。

 脳髄にまで染み込んだ自負が真実だというのなら、その手段は体が覚えている筈だ。

 呼吸を整え、何も考えないようにする。

 何か心の落ち着くものを思い浮かべられるならそれが一番だったのだが。

 ふ、と息を吐いた時に、指先がぴくりと動く。


 自分の体が、求めるままに。


 指先が求めたのは、髪留めだった。

 滑落の際に汚れてしまったのか、砂埃のついたままの紫の留め具。紫の長い布の真ん中に、髪に差し込めるよう軽い金属製の櫛がついていたものだ。

 その金属部分は、髪留めを取ると同時に二つに折れてしまった。


「――」


 髪留めが取れた瞬間に、櫛とは違うものがばらばらと地に落ちる。

 ある程度の質量と大きさを持った紫色の小粒のそれは、不思議な懐かしさを感じる物体だった。

 ずっと、産まれてからすぐ側にあったもの。


 これだけは忘れていても、見ればすぐに思い出せる。

 荒波立つ心が落ち着くような、無くしたお気に入りの玩具を見つけ出せたような。


「……だいじょうぶ、大丈夫……。私は、『私』」


 生きていくために必要な情報は残っている。

 その中に『今までの自分』が無いだけだ。

 生きていくのはこの先の未来。忘れてしまったものは、本当に大切だったのならまた見つけられる。

 ぱらぱら、と粒が――種が、全部落ちきる音が聞こえた後に、両手を一度打ち合わせる。

 その音に反応するように、種は自分達に意思があるかのように土の中に潜り込む。


「私に無理な事なんて無いわ。……でしょう?」


 何かを忘れていても。

 思い出せない事があっても。


 ――『大丈夫ですよ』。


 その声が、ふと蘇った。

 低く優しく、そして甘い、男性の声。

 自分に対して全幅の信頼を寄せる、大切だった筈の人の声だ。


 忘れてしまっても。

 彼への思慕は変わらない。


 打ち付けた手を両側に開き、今は目の前に居ない『彼』へ抱擁を求める。

 抱擁の代わりに冷えた空気が全身を包む込む、が――。

 その冷えた空気に動きが加わる。どこからか吹く風ではない。

 鋭利な何かが速度を以て動くような、そんな空気の動きだった。


「えっ……!?」

「な、なに、あれ……!?」


 戸惑った声はセイの背中から聞こえる。少女二人の困惑はそのまま放っておく。

 今は目の前の――岩肌の掘削を始めた、緑の槍の方が重大事件だ。先ほど転がっていって勝手に埋まり、指示が下れば一気に成長する植物――のような、凶器。

 地面から突き出した緑が伸び、岩肌を削り穴を開け、広げる。こんな光景は悪夢以外で見た事は無いだろう。


「……暮らせるくらいの穴になさいね。入り口は少しくらい狭い方が良いわ、でも中は焚火置けるくらい広くしてね」


 普通、植物は言葉を理解しない。けれどセイが出した指示の通りに掘削を続けた。こんな夜中でも、気にするような近隣は無い。

 セイは腕組をしながら、突貫工事を見守っていればいい。幾らか掘り進めた後に、緑の植物が一斉に穴の中から姿を現す。中に溜まっていた石クズを箒で掃くかのように持ち出して。


「これで幾らか雨風はしのげるでしょ? 中に草を引いて。火は私が点けるから、枯れ枝でもあれば……ん?」


 少女二人に指示を出すと、返事も控えめながらにすぐ動き出す。

 一人が両手いっぱいの藁と、一人が幼児を抱きかかえたまま、掘削したての洞窟の中に入っていった。

 誰かが動く足音とは別の異音が聞こえたのは、その時だ。

 断崖の上から、小石が落ちて来る。それから、誰かの叫び声。


「う、うわ、うわああああああああああああああああああああああああああっ!!」

「……」


 小石の次は声が降って来た。セイが向けた視線の先には、岩肌を滑り落ちる少年の姿が見える。

 少年は悲鳴を上げながらも、頭を守ろうと腕を庇っていた。でも人間が重力に勝てる訳もなく、成す術もなく落下している最中だ。

 自分が滑落してこの地に来た、という言葉を思い出すセイ。

 自分は生きて今地に立てているが、さて彼はどうだろうか。


 普通であれば、岩肌に身を削られて挽肉となるか。

 はたまた地上に落ちて肉塊となるか。


「仕方ないわね。お前達、仕事よ」


 ぱんぱん、とセイが二度手を鳴らすと、先程まで掘削作業をしていた植物たちが再び伸び上がる。それぞれ先端を籠編みの要領で組み合わせて、かつ少年を受け止められるように広く面を作った。

 硬い岩盤すら掘削できる植物は、指示一つでその姿を柔らかくしなやかに変える。

 大地に熱烈な抱擁を食らうよりもずっと前に、植物で組んだ網で少年を受け止める事には成功した。

 それからは指先の指示だけで、少年の体に負担がかからないように緩やかな速度で降りて来る網。

 やはり、というべきか――少年の体はそこそこの大怪我を負ってしまっているが。


「お姉さん? さっき変な音が……って」

「ああ、気付いた?」

「なん、ですか、これ……ああもう、驚く事ばっかり……」

「上から落ちて来たから、つい助けちゃった。捨てた方がいい?」

「そんな事言ってませんっ!」

「そう? やっちゃいけないのかと思ったけど安心したわ」


 少年に意識は無いようだ。呼吸はあるようで、胸元が微かに上下している。

 この少年の怪我の手当てもそうだが、やる事は山とある。ひとまず洞窟内の環境を整えなければ病人も怪我人も手当てが出来ない。


「少し、枯れ枝拾って水汲んでくる。その間藁でも引いてて」

「わ、分かりました!」

「帰ってきたらこの子も中に寝かせるから、それまでにお願いね」


 指示をして返事が来るまで待つのは、植物を相手にするのより面倒だ。

 そう思いながらセイは森の中に入っていく。

 別に、この森を抜けるだけなら一人でも充分だ。けれど見捨てられた子供達は、間違いなくこのまま死ぬだろう。

 それだけは、寝覚めが悪くなりそうで選べなかった。


「……」


 いつ、森を抜けられるだろう。

 少なくとも、先程落ちて来た少年が動けるようになるまでは難しいだろう。


 セイは一人きりになって、やっと溜息を吐いた

 でももう、先程まで感じていた、記憶が亡くなっていた事への焦燥感はだいぶ薄くなっていた。

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