12
子供は、守るものだ。
セイの中では、それは揺るがぬ信念だ。記憶を失う前もそうだったのかは分からないが、もしそうでなければセイを突き動かす衝動が何なのか説明がつかない。
カルミアが消えたと知って僅か一分、セイの行動は早かった。後を付いて来るロベリアさえ無視して、洞窟の外に飛び出す。
生活拠点にしている周辺にはカルミアの姿が無い。更に探索範囲を広げる。そんな中でも背後から付いて来るロベリアの気配に、セイは小さく舌打ちをした。
「同じ場所ばかり探してどうするの! スイレンもローレルも別の所探してるんだし、私達も分かれるのよ!!」
「分かれるっつったって! 俺、カルミアの行きそうな場所とか分かんねえし!」
勝手について来ておきながら、これっぽっちも役に立ちそうにない。折れた腕の骨もまだまともにくっついていないだろうに洞窟内で大人しくしてろと言っても聞きやしない。
セイにとって、ロベリアは足手纏いだ。カルミアを心配する思いに偽りはないと思ってはいるが。
「だったらどうしてっ、――!!」
洞窟を出る前言った通りに、引っ込んでいてくれたらよかったのに。
咄嗟に出てきそうになった言葉を飲み込むように、セイが唇を嚙みしめる。
続く言葉を直接聞かせるのがセイの望みではない。誰も傷つかないように、安全に、平穏にこの地を去る。その日が来るように皆を守りたいだけなのに。
――全員、という訳にはいかないのだろうけど。
「お前こそ、カルミアの行く場所わかってんのか!」
「そんなの分かってたら苦労しないわ!」
ロベリアの怒声が後ろから聞こえてきて、思わずセイが舌打ちをする。傷つけたくはなくても苛々は募るばかりだ。
探してみないと分からない、けど。
あんな小さな子が自分の足で行ける範囲なんて限られている。
「探す前から文句垂れんじゃないわよっ!!」
「な、――」
「口ばっか動かすつもりなら置いてくわ! 邪魔しないで!!」
セイの思考を阻害するなら、そんな手伝いもどきは要らない。
助けになるどころか足を引っ張るだけの存在。記憶のないセイにだって、そんなものを自分が好んだとはどうしても思えなかった。
だが、言われたロベリアはそれで反発しない子供ではない。
「そこまで言わなくったっていいだろ!? だいたい、お前がどうにかして探せないのかよ、そんな変な体してる癖にっ!!」
――変な、体。
言われてセイの足が徐々に速度を落とす。緊急事態であることを考えたら、決してそんな速度でいてはいけない時に。
自分の言葉がセイの地雷を踏んだことを察して、ロベリアも速度を落とす。しかしその表情は、言い負かしたとかそういう感情が浮かんでいる訳ではない。
何か。
得体の知れない、何か。
ロベリアが生きて来た年月程度では到底理解しきれないような存在の、その怒りに触れた。
ロベリアの背筋を寒気が襲う。
言ってはいけない言葉を言ったような気がする。でも、浅い生が齎した無駄な矜持が謝罪を許さない。
やがて、セイの進む速度が完全に止まると、その肩越しに振り返る。
「――誰が?」
底冷えするような、骨の髄までが振るわされるような、寒気を通り越した恐怖を覚える音。
これが人の、それも外見だけはか弱く見える女の出せる声なのか、と、自分の感覚を疑うロベリア。
しかしセイはそれ以上、ロベリアに敵意ある様子を見せなかった。代わりに、自分の頭を両手で覆い、何かの苦しみに耐える姿で。
「……私だって、……私だって!! ……私だって、望んだ訳じゃ……!!」
彼女には、彼女なりの苦しみがある。
幾ら超人めいた姿を見せていたって、その心は不安に揺らめく人間そのものの姿だった。
どうして、それを『変』と言い切れようか。
どうして、それを『変』だと言ってしまったのか。
誰かを思う心すら変わらないその女を、どうしてそう判断しまったのか。
……ロベリアであったなら容易く憤慨し、以後は話にもならなかったであろう言葉を、無理やりに飲み下し、後回しにできるだけの分別がセイにあったのが救いか。
ロベリアが理解し得なかった、出来たとしてもしようともしなかった彼女の苦悩は今目の前にある。
でもその苦悩の理由が分からないから、茫然と突っ立っているしか出来なくて。
「――違う」
そしてロベリアが思っていた以上に、『大人』という存在は、強くて。
たった一瞬だけ揺らいだ姿を見せただけのセイは、自分の苦悩さえ振り払うように軽く首を振る。それだけで整理のつかない心はあるだろうに、平気な振りをして立って見せた。
「望もうが望まなかろうが、これが『私』。……言われるまでも無いの、私は『私』でしかないの。それでも受け入れてくれたの。……あの人は、それでもいいって……」
「……あの人?」
あの人、だなんて名前を出せずとも大切に想う誰かがいる事は覚えているらしい。それとも他にも何か思い出した事があるのか、とロベリアが声に出した。
今はこの女の記憶を辿ることが正解ではないのに、興味が勝ってしまう。
――しかし。
「っ……あっちよ!!」
「へ、」
弾かれたように顔を上げたセイが、ロベリアを気にも留めずに走り出す。
翻弄されてばかりのロベリアが、その背に追従するのに少し出遅れてしまった。
「……ああもう、なんだってんだよ!!」
ロベリアには聞こえなかったのだ。
葉が落ち、木々の騒めきも聞こえない冬の気温に閉ざされた静寂が包む世界で。
ロベリアには分からなかったのだ。
本当だったら微かに聞こえるかどうかの筈の叫び声が、セイの耳には鮮明に聞こえたこと。
――その頃、カルミアは。
「いやっ、や、なのぉ」
舌ったらずな声が拒否を語る。
叫んだ喉は掠れ、咄嗟に逃げようとした足元は薄く雪が敷かれて隠れた木の根で転んでしまった。
涙を浮かべて怯えた視線を向ける先には――口許から涎を垂らした、飢えた熊。
冬になる前に充分な食料にありつけなかったのだろうが、豊かな毛皮の上からでは子供の視界では尚巨大。
冷たい地面を躙りながら獣から逃げようとしても、獣の視線は逸らされてくれない。荒々しい息の合間に聞こえる唸り声が、今日の獲物を宣告するようだった。
「やぁ……やだ、おねーちゃん……、おにぃちゃ、……まま、ぱぱ」
――助けてほしい。
願いながら救いを求める言葉が最後まで語られないうちに、獣の巨体が地面を蹴った。
怖い。
恐い。
痛いのは嫌。
死にたくない。
本能が考えさせる死の恐怖から逃げられない状態になっても、自分の肉を抉ろうとする牙や爪からは瞳を逸らせない。
このまま死にたくない。
自分の願いは、――。
「たすけてぇ、おねーちゃんっ!!」
ここで死ぬことじゃない。
助けを求めたカルミアは、瞼を目一杯開いて叫んだ。
今の叫びが聞こえても、助けが間に合う訳が無い。それでも助けてほしいと、喉が潰れそうになるほど力を振り絞る。
怖い。
寒い。
悲しい。
こんな所で食われて死にたくない。
こんなの――嫌だ。
願いを叶えてくれるなら何にだって祈っただろう。
けれどカルミアは祈る対象を理解していない。
何に祈ればいいのか、誰に祈れば願いを叶えてもらえるのか。
そんなことを考えることもなく生きて来たカルミアでも、確かに救いを求めていた。
「――あ」
そして、その祈りは、カルミアが祈らなくても、確かに届いた。
逸らせなかった視界で、目の前、今まさにカルミアに飛びつこうとしていた熊の巨体が――縦に、二つに裂けた。
裂けた、という表現は正しいのかも分からない。ただ、地面から空に向かって分断する刃物のような物体が、熊の体を二つに分け、熊自身は己の速度を保ったままカルミアの体の左右に音を立てて崩れ落ちた。
穢れを知らない体に、大量の血が降りかかる。
「……ぅあ、……あ、……ぁああああ」
助かった、と。
理解できなかった。
痛みは無いが、この血が何なのかすらも分からなかった。熊が死んだのかすら分からない。体を分断された生き物は生きていられないと、ふんわりとしか理解していなかった。それ以上を理解するにはまだ早いと、『死』という現象から遠ざけられた年齢でもある。
怖くて、寂しくて、何も分からない。震える声で言葉にならない音を発し続けるので限界だった。けれど。
「――カルミアぁああああっ!!」
名前を呼ばれた事に気付けないほど、壊れてはいなかった。
「お、――」
「カルミア、無事っ!? 怪我は!? 痛いところない!?」
「……おね、ぇ、ちゃん……?」
息を切らして近付いて来るセイを、茫然とした目で見るカルミア。
纏わりつく血の臭いも不潔さも気にせず、その胸に引き寄せられて抱きしめられた時、やっと自分は助かったのだと理解することが出来た。
「おねーちゃん」
「なんで黙って出て行ったの!! あと少し遅かったら、もうカルミアに逢えなくなってたのよ!?」
「ごめ、なさい」
「許さないっ! こんなに心配かけて、貴女に何かあったら、私は――っ!!」
大声を出して怒りを露わにするセイに、カルミアは何も言えなくなっていた。
どうしよう、自分のせいだ。ここまで怒るなんて思わなかった。
自分の行いが悪かったのは分かっても、謝罪を許さないと返されればどうしようもない。途方に暮れる頃に、耳に啜り泣きのような声が聞こえた。
「……許さないから。もう、こんな事はしないって約束して。危ない事はしないで。勝手にいなくならないで。許さないから、許されたいなら、約束を守って」
「………はい」
「本当に、……どうして、こんな事したの……。心配したのよ、カルミア……。無事でよかった……」
「ごめ、な、しゃ……ふえ、ふええええええ」
一人は声を押し殺すように、一人は誰に憚ることも無く大声で。
泣く二人を遠目に見ているロベリアは、セイを茶化すこともカルミアを責めることもできなかった。
カルミアがこんな危ない事をしたのは、自分の失言のせいだ。ある筈も無い薬草の話を鵜呑みにして一人で出て行ったのだと、小さな手に握られた枯れかけの草を見れば分かる。
「………」
カルミアにもし『何か』が起きていたとしたら。
その時に感じる後悔と自責の念に、ロベリア自身が耐えられる気がしなかった。