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拝啓、偉大なる故郷。
あなたのそばに居られないまま、どれほどの時間が経ったのか。私にはそれさえ分かりません。
その大地を駆けることも、芳しい空気を味わうことも、日の出の美しさや夜の安寧を感じることもできません。
どうして、あなたを忘れてしまったのか。
私はそれが悔しくてたまらないのです。
どうして、私は。
あなたの冬の寒さすら、肌でさえも覚えていないのでしょうか。
「雪」
ローレルが夜の川の水の冷たさを、己が身を以て知った夜から二日。
特に冷える朝に外に出たローレルの視界に、ひらりと踊る白い結晶を見た。
吐く息も白くなって久しく、流れの緩い川は薄氷を作り始めた。人を飲み込む深い森は霧を立ち込めさせる回数も増えた。
雪が降って、本格的な冬の到来。
何の準備も出来ない非力な者を殺す季節。子供達が恐れていた時期がやって来た、が。
「ついに来たわね」
セイは毛皮で出来た外套を一枚だけ使い、他の毛皮は子供達に全部使わせた。寝床としても防寒具としても、最大限を使わせた。
セイの特殊能力で薪は幾らでも用意できる。洞窟に閉じこもり火を絶やさなければ、凍死という最悪の状況は防げるかも知れない。
それよりも、問題なのは。
「今作る乾燥肉なら長期保存が出来るかも知れない。肉取って来るわよ、皆は準備してて」
――食物を腐らせる有害な菌も、やっと働きが鈍る頃合い。
既に少量になってしまった、乾燥茸と生肉。今あるだけで冬を越すなど絶対に無理。
かといって秋の間に冬の食料を調達しようとしたところで、こんな森の中では腐らせるだけだった。セイの選択は、冬に入るまでは暮らせるギリギリの量しか狩らない事。
洞窟の中に生きる育ち盛りを飢えさせず、秋を終えて冬眠に入る頃の丸々と太った獣を狩ることで命を繋げられる。
こんな綱渡りのような生活でも、まだ最後の手段は出さない。セイは考えて、今の方法で子供達を生かしていた。
「ロベリアは火の様子見、スイレンは燻製器の準備。ローレルは荷物持ちに付いて来て。ミーちゃんは皆の癒し係」
「あい!」
「だから命令するなって……おい聞いてんのか!!」
ロベリアの文句を背中で聞き流したセイは、言葉の終わりを待つこともなく洞窟を出て行った。
ローレルはそんな二人の間で苦笑いを浮かべるしか出来なくて、やがてセイのように出ていく。
残された三人の中でも一番気合が入っているのはカルミアだ。癒し係と言われて鼻息荒いまま洞窟内をうろうろし始めた。整然と並びながらも、毛皮の扱いは雑なそれぞれの寝床を幼い手付きで整えていく。
「……何してんだ?」
枯れ枝を持ったロベリアは、そんなカルミアの様子に疑問を抱いた。癒し係というなんとも抽象的な役職に就いたカルミアが、どうして寝床を整えようとしているのか分からない。……実際整える前後でそんなに変わらないし。
ロベリアの質問に顔を向けたカルミアは「う?」と言いながら首を捻る。
「セイおねちゃ、いってたの! きれぇなおねどこでねると、いやされるって!」
「……あー」
これもまた、セイの入れ知恵。
カルミアの行動の理由が分かると、ロベリアは急に興味を失って火に視線を向けた。
ロベリアはまだ安静にしておかないと折れた骨がくっつかないし、その部分が寒さで痛む。託された火の番は、間違いなく適職の筈だった。
「……ムカつくな」
力不足だと、病人だと、セイは直接には侮らない。でも、ロベリアはそうじゃない。
今の自分の不甲斐なさをひしひしと感じているのだ。それでなくとも、生まれ育った村では病人や怪我人はお荷物でしかなかったのだ。そして自分も、そんな者達を荷物扱いしてきた。
される側に回るとも思っていなかったが、今の状況で優しくされることも不満だった。これまでの自分達が、あまりに狭量だと責められている気がするから。
「まだ言ってるの?」
使わない時は洞窟の中に引っ込めている燻製器を引っ張り出しながら、スイレンが溜息を吐く。
これを外に出して、一緒に肉を切る道具類も出して。スイレンのやる事は幾つかあるが、どれも過酷なものではない。荷物持ちだと連れ出されたローレルだってそうだろう。
今やっている仕事の中で、誰が一番激務かといえば。
「……っせーな。説教は聞かねえよ」
「説教じゃないよ。でもそういう言い方はかなり失礼じゃ、」
「はいはい、いいからお前は自分の仕事してろよ」
「……」
スイレンの溜息は一際大きく、音だけ残して洞窟を出ていく。
二人は、というより子供達は元々面識もない。大人一人に命を繋がれているこんな状況で友誼を温めるなど無理な話。特にロベリアから見たローレルもスイレンも二人共、セイの命令を喜んで聞く取り巻きになっている。
やや乱暴に火に枝を投げ入れるロベリアを見ているカルミアは、そんな苛々に恐れるでもなく。
「おにちゃん」
「……ん?」
「セイおねちゃんのこと、きらいの?」
――嫌いなの。
舌ったらずの声が伝えて来る疑問形。
幾ら小さくても、カルミアだってこの苦境を共にする仲間だ。それぞれの顔色を気にしてしまう。
子供だから何も分からない、なんて嘘だ。だってロベリアもそうだった。
「……」
他に、誰もいない。
だから、嘘は吐かない。
「そうじゃねえよ」
カルミアに嘘を吐く理由なんて無い。張る意地も無い。
セイに対する反抗の半分以上が、自分のせいだと分かっている。
もしこの場に無傷で立っていられたら、セイに大きな顔をするなと怒って、そして彼女より無力な自分にまた苛立っていただろう。
性別が男というだけで張る意地は幾らでもある。少なくとも、村では皆そうだったから。
こうして何の見返りも無しに、危ない事ばかりを率先してやる女の異質さに慣れないだけだった。
「……俺一人だけだと、多分死んでた。カルミアがいるだけだったら、俺はお前を助けられなかったろうしな」
「ミーちゃん、げんきになったの!」
「そうだな。良い事だ」
「ミーちゃんね、みんな、だいすきの。やさしいの」
「そうかそうか。良かったな」
何の垣根も無く素直に感情を表現するカルミアは、愛らしくて眩しい。一番守らなければならない存在として、皆の心の支えにもなっている。
自分一人で何でもできる、なんて思っていない。セイいてこその四人だと分かっている。
それでも口と体は勝手に反抗してしまうのだが。
だって。
ロベリアが『こう』なったのは――セイのせいなのだから。
「……俺の腕が折れてなけりゃ、こんなに寒くなる前に……全員でここから出られたんだろうけどな」
「う……?」
「言ってたって仕方ねえよな、早く腕が治らねえと他に何も出来ねえ。あーあ、折れた骨が一瞬で治る薬草とか生えてねえのかよー」
軽口を叩いたロベリアを、きょとんとした瞳で見るカルミア。
火の中に再び投げ入れられた枝が僅かに煙を出した後。
「ミーちゃん……、おそと、いく」
「お、便所か? 外にゃスイレン居るだろ、声かけて行けよ」
「……あい」
いつもより力のない返事に、ロベリアは違和感を覚える。だが、それも一瞬だけだ。
外に出ればスイレンが燻製器を用意しているのは間違いないのだ。そしたらカルミアはいつもの調子で人懐こく声を掛けるに違いない。スイレンだって幾ら仕事があるからといって、カルミアを無下に扱いなどしないだろう。
ロベリアは火の番をするだけでいい。他に仕事を言いつけられるまで。
「……あら?」
そして、一番最初に洞窟に戻って来たのはセイだった。
「しっかり仕事出来てるみたいで感心感心。どう、火は絶やしてない?」
「……人を無能扱いするなよな」
「別にそんなつもりじゃないわよ。今から外にも火を出さないとね、スイレンが準備してくれてるから」
言いながら洞窟の中に入って来るセイの衣服には、目を覆いたくなるような量の血液が染み込んでいた。
どうせまた熊か何かの血だろうが、視線をちらりと向けたロベリアは「げぇ」と声を漏らす。
「洞窟汚れんだろが、入って来るな」
「もう滴りもしないわよ。……ん?」
焚き火の側に近寄るセイは、洞窟内を見渡す。彼女の記憶の中から、ひとり足りない。
「カルミアは?」
「んあ? 知らねえ、便所じゃねえのか。外にスイレンいるから声かけろって言ったぞ」
「……居なかったわよ」
「は?」
「居なかった。間違いない。スイレンと話もしてきたもの」
「ちょっ……居ないって、どういう」
――ひとりで、どこかへ、言った。
「……こんな、寒いのに……?」
誰にも声を掛けずにいなくなる、なんて。
こんな場所ではあまりに危険だった。
「ロベリア! カルミアは何か言ってなかった!?」
「え、べ、別に何も、外行くってしか」
「なんで一人で行かせたのよっ!!」
「――そ」
――そんな事、言われても。
セイの怒声のような金切り声にロベリアの言葉は喉まで出掛かっていて、でも引っ込んでいった。
スイレンが知らないなら、最後にカルミアと関わったのは自分だったからだ。でも、こんな風にいなくなるなんて考えてない。
悔しくて両手で拳を握る。骨折していた方からは痛みが走るが、それどころではない。
「探しに行く」
「ああもう、その体で行ける訳ないでしょう! 私が」
「行く」
どこか近場にいるのなら、セイが戻って来るまでの時間スイレンが気付かないのも変な話だ。
今探しに行かないと、後悔する。
ロベリアはセイが引き留めようとするのを押して、立ち上がった。
どうしてカルミアは洞窟を出て行ったきり戻ってこないのか、その理由も知りたい。それより。
無事な姿を見つけて、一秒でも早く安心したい。
「……体、少しでも痛んだらすぐに戻ってきなさいよ」
「命令すんな」
「本当に、もう」
二人はセイを先頭にして洞窟を出た。
まだ雪の降る外にはスイレンもローレルも居て、カルミアの行方不明を告げると二人共血相を変える。
捜索に同行を申し出る二人には、もしカルミアが一人で戻って来た時の事を考えて、スイレンだけ残って貰うようにした。
「……心当たりは、本当に無いのね」
「ああ」
あんな小さな子供が遠くまで行ける訳ない。でも、近場だって危険だ。いつ巣穴から冬眠していた獣がふらりと出て来るかも分からないのだ。
セイ達は狩って来た獣肉がその肌に雪を薄らと積もらせるのにも構わず、深い森の中を走り出した。