狂愛
——誰が想像していただろう、
あの人がこんなにも狂っているなんて。
目の前が霞むような土砂降りの雨の中。
泥でぬかるんだ山道を、わたしは走っていた。
あの人に与えられた美しい着物は、雨と泥に汚れ、見る影もない。
草履を履く暇がなかった裸足の足裏は砂利が食い込み、滝のような雨が傷に変わる。
知らない土地で一人、土地勘なんて何もなかった。
それでも、
走って走って走って。
逃げて逃げて逃げて。
無理やり連れてこられた山奥の屋敷。
あの人だけが毎日やってきて、
わたしを見つめ、わたしに触り、わたしを抱いた。
知らない知らない知らない。
『また会えたね』
『ずっと探していたよ』
わたしは、
あなたなんて知らない!!
わたしは故郷で家族と、静かに幸せに暮らしてた。
あの日、あの人が仕事でわたしの村へ来るまでは。
あの人は大財閥の御曹司。
わたしを見て、あの人は村への融資額を変えた。
わたしをあの人に”売れば”村は潤う。
親も、親戚も、周りの奴らも、
「きっと幸せになれるよ」
皆がいう。
わたしの気持ちを無視して皆がいう。
ここはどこ。
どこに行けば逃げられる?
わたしは、
「みーつけた」
声がして、振り向くと黒い蛇目傘を差したあの人が立っていた。
「探したよ」
「その先は崖だよ、危ないね」
「さあ帰ろう、こんな所は体が冷えてしまうよ」
手を差し出したあの人の目に浮かぶのは、
受け入れられない”狂気”。
わたしは、
あなたの思う通りになんて、ならないわ。