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第15話 遊生夢死

もう1周年てマジ!?(1ヶ月遅れ)

人生短し15話だ!

「ウンウン、素晴らしい、とても素晴らしいよ。」

 一体何が素晴らしいというのか。考えが読めない。ネロイは初めて会った時と同じく、薄い笑みを浮かべている。

 奴が少しずつ距離を縮めていく間にも、真っ赤に染まった海面は上がり続けている。あと数十分あればここも呑まれてしまうだろう。

「君もそう思わないかね?」

「…」

 悔しくも、何故か0.01%ほど否定できない所があった。確かにこの景色は酷いものだが、奴はこの世界だけを指して「素晴らしい」と言っているわけではないだろう。では何に共感してしまったのか?孤独?焦燥?絶望?当てはまるものが見つからない。

「もうじき分かるさ。」

 そう言って彼は杖を掲げた。何をしようというのか。杖の先が光を放ち、振り下ろされようとする。しかし、それは落ちる前に輝きを失った。

「うおりゃッ!」

「…君はしつこいよ。」

 ネロイの動きを止めたのは夢乃だった。俺の背後からすっ飛んできた。しかし、彼女は夢の中の姿である。俺は現実形態なのに。

 思えば、この状況自体おかしい。現実ではあり得ない。なるほど、明晰夢になってなかったのか。…おかしい。武器が出ない。あたふたしてる間にも夢乃は不利な状況に追い込まれていく。焦りは加速度的に増していく。

「君の扱いには本当に困る。」

 困ると言いつつも、見事に全て受け流している。表情も一切変わらず、余裕が見てとれる。

 一瞬、ネロイの杖から刀身がちらりと見えた。その刹那、死体の雨も、流れる雲も、夢乃の動きも、全てが停止する。世界が再び動き出した時、俺の足元は真っ二つに割れていた。ああ、また落ちるのか。夢乃の左腕が吹き飛んでいるのが見える。誰かの生首が真上を掠める。下に見えるのは血の海、ではなく紫の裂け目。


 また目が覚めた。布団はまたしてもベトベトだったが、綺麗な部屋だった。夢ではないか確認するように頬を引っ叩いてみた。しっかり痛い。先程までのはきっと悪い夢。そのうち忘れる。しかし、どこからが夢だろう。考えていても分からないし、どうしようもない。どうせなら全て夢であってほしい。今までに何度そう思ったことか。

「あ…。ここは…。」

 玄関に向かおうとしてようやく気付いたが、ここは昔住んでいた場所だ。いや、実際は一度も引っ越していないからここで目覚めたのだろう。

 なんだか全てが懐かしい。窓からの眺めも、床の暖かみも家具の配置も気に入った。

「行ってきます。」

 誰もいないのに思わず挨拶をしてしまう。「行ってらっしゃい」と聞こえたような気がする。その幻聴がより虚しさを掻き立てた。

 玄関に足を踏み出す前にしっかりと警戒する。先程の夢のような惨状はもうこりごりである。警戒したからといって回避できるものではないとは分かっているが、やらないよりかはマシだろう。

「ヨシ、大丈夫。」

 一歩一歩を踏みしめる。無事に外出できた。

 何をしようとも思わずに外に出たので、気晴らしに散歩することにした。晴れやかな香りや春風の温もりを体いっぱいに感じる。それでも気分は完全には晴れなかった。夢が忘れられないのだ。

 胸騒ぎがする。しかし、あれが現実だとしたらこちらが夢なのか?いやいや、さすがにあの状況は非現実的すぎる。普通はアパートが粘土みたいに曲がって折れることはないし、空から人の死体が降ってくる事もない。だんだん訳がわからなくなってきた。

 こちらが現実なら、まだ夢乃達は無事なのだろうか。いや、彼女らも俺の脳ミソが創り出した空想上の人物かもしれない。だとしたら少し寂しい。しかし、蘭なんかは特に、現実味のないようなぶっ飛んだ人だった。生い立ちも人柄も。あの状況だから一緒に過ごせたのだろう。普通に生きている中であんな人間と出会ったら距離を置くし、彼女の父親を見てもそれが正しい判断だろう。

 八作はクラスに居てもおかしくはないかもしれないが、同級生男子だったら仲良くしようとは思わない。あちらから話しかけてきたら会話するかもしれないが、彼もこちらに興味など持たないだろう。

 大人達は比較的落ち着いていたが、どこかクセがあった。それでも上の人間には逆らえない。使用人とはそういうものなのか。もっと話しておけば良かった。セバスさんとは一緒にいる時間が長かったし、火灯さんとは結構話が合った。仕事の邪魔をするのは良くないとか、そんな理性が働いていたのかもしれない。

 後の祭りとなった後悔が頭を巡るとき、ぼんやりと空を眺めたくなる。これまでもそうしてきたし、別に悩みなどが無い時もそうする。

「痛っ。」

 ぼんやりしてたらぶつかってしまった。前には大柄な男が堂々と立っている。凄い筋肉。道理で痛い訳である。男は、見下ろすように目線をこちらへと移した。なかなか厳つい眼光だ。

「…すみません。」

「気をつけろよ。」

 デジャヴ。どこかでこんな事があったような。謝るとコワモテの相手がすぐに許してくれるのも知っている。

 後ろを振り返ってみると、先程の男のスキンヘッドが曲がり角に消えていくのが見えた。

「はぁ。」

 どうも気分が上がらない。先程とは対照に、斜め下を向いて歩き進む。一定の距離なら前方が見えるが、ここまでですれ違う人、突き当たる壁はない。非常に快適だ。

 すぐ先の横断歩道を渡り始めると突然、勢いよく背中を押された。小さな横断歩道だったので、その勢いのまま反対の歩道までたどり着いた。さっきまで誰も居なかったのにどうして。

 振り返ると、人が倒れている。轢かれたのか?車は来てなかったし音もなかったが。とにかく助けなければ。そう思って一歩目を踏み出した瞬間、目が真実に拒否反応を示した。

「母さん…?」

 人違いかもしれない…。いや、間違いない。ここにいるのは俺のお母さんだ。

「そんな…そんな事…。」

 あまりに衝撃的で救助に手が回っていなかった。ワンテンポ遅れて救急車を呼びつつ生存確認する。周りに人はいないので何一つ任せる事はできない。うろ覚えの確認法だが、肩を揺すり声かけをして脈を見た。返事は無い。微かだが脈はある。

 この一連の作業をしている間、救急車へのコーリングがひたすら鳴り響いている。いつになったら出るんだ。こちらは人の命が関わっているのだ。これでは困る。

 ようやく応答してもらえた。しかし、出たのは救急と無関係の人物だった。

「親不孝者め。」

 声から分かった。お父さんだ。なぜ救急の番号で出たのかは分からないが、とても厳しい声色だった。お父さんはいっそう声を荒げて捲し立てる。

「なんて事をしてくれたんだ。お前の母さんは死んだんだよ。お前のせいだ!俺はお前を許さない。」

「俺は…俺は悪くない!」

 思わず携帯を叩きつけてしまった。液晶が割れて飛び散る。割れた携帯の隣で、お母さんの身体はすでに冷たくなっていた。もうダメだ。

 どうしていいか分からなくなって、その場でうずくまってしまった。

「かわいそう」

 背後から声がした。振り向くと黒い人影。大きな目玉だけが頭に付いていて、こちらを凝視している。それも大勢。

「本当にかわいそう。こんな子供をもって。」「もっと早く救助呼べなかったの?」「道路の真ん中で邪魔なんだけど」「お前が轢かれればよかったのに」「死ねよ」「殺すぞ」

 直感した。コレは現実ではない。夢でもない。コレは…記憶。俺は今、記憶を無理矢理掘り起こされている。あらゆる負の感情が一斉に攻撃してくる。

「死ね」「ホント親不孝」「やる気あるの?」「いつまで生きてんの?」「在日が」「生理的にムリ」「調子乗んなよ」「無価値」「一生引きこもっとけ」「逆らったらいつでも消せるんだぞ」「次しくじったらクビだからな」

 やめろ、やめてくれ。なんで、なんでそんな事言うんだ。誰も、独りで悲しむ事を許してくれない。押しつぶされそうだ。

「こんな子に育てたのもあの親だしねぇ」「貧乏のくせに」「親子揃って消えたらよかったのに」「ヤクザの娘」「人殺し」「逃げられると思うな」「末代まで呪う」「猫かぶりやがって」「将来の夢?寝言は寝て言ってください」

 もう嫌だ。一生分の罵詈雑言を流し込まれた。腕を伸ばし、人影の中から這い出る。目はずっとこちらを見ている。睨んでいるわけでも軽蔑しているわけでも無い、嘲笑うような目。全力で走って逃げた。無駄だとうっすらと感じていた。誰に対しての言葉かなんてどうでもいい。耳に入ってくるだけで耐えられないのだから。

 街にはいくつもの液晶が設置されていて、映像の乱れたニュース、砂嵐、そしてあの目が映し出されている。

「母さん、ごめん…母さんッ!…」

 必死で逃げる。人目につかない場所へ。誰にも見られないだけで少し落ち着く。とにかく、この領域から脱出する事を考えよう。それで先程の事も少しは気が紛れる。

 振り向くと、斜め上から男が虚な目で見下ろしていた。足は地についていない。首には空高くから垂れる紐が括り付けられている。

「うっ、うあああああああああああ!」


 夢乃は瓦礫の下に避難していた。荒れに荒れていた海は突然に鎮まり、町を破壊した残骸だけを残していた。人間の死体も空に残ってないのか、既に降り止んでいる。

「あんなバケモノどーしたらいいのよ…。」

 切り飛ばされた左腕の切り口を押さえてぐったりしている。あまりに凄まじい切れ味だったのか、斬られた瞬間は全く痛みを感じなかった。しかし、その直後から血がダボダボと流れ出ている。

「武器も無いし、見つかるのも時間の問題かな。」

 諦めかけたその時、目の前の崩れた家の家根が吹き飛んだ。夢乃は焦って足をジタバタさせて後退りしようとしたが、ぬかるみで滑って頭を打ってしまった。

 家根からは、何も出てこなかった。しかし、近くにあった木の枝が宙に浮いた。夢乃はポカンとしたままその光景を眺める。やがて木の枝は地面に何か書き始めた。

「落ち着いて聞いて。いや、この場合『聞く』じゃなくて『読む』かな、まーいいや。」

 そこそこ綺麗な字である。一見よく分からない状況だが、落ち着いて記憶をたどると夢乃には思い当たる節があった。

「あなた、アニマ?」

「物分かり良くて助かる。」

 やっぱりそうだ。今までに会った目に見えない相手といえば彼女しかいない。しかし、なぜここに。なぜ筆談などする。疑問は尽きない。

「何?私を倒しに来たわけ?」

「ちがう。ケイコクとヒロトの助け方おしえにきた。」

 時間が惜しいのか、画数の多い漢字は書かない方針にするようだ。字もだんだんと走り書きになっていく。

「なんでアンタが味方になってんの…」

「そそっ、ソレはジジョーがあって、ウン、アッ、ソウソウ、ネロイのケーカクにハンタイでうらぎったんダヨ。」

 筆談でここまで分かりやすく焦りが出る人を見た事がない。怪しいったらありゃしない。夢乃は訝しみの目を向けた。

「じゃあ、そのケーカクのナイヨーはなしちゃおうか、ネ?」

 これまでの経験から、ネロイは計画の内容がバレる事を酷く恐れていると思われる。それを話すというのだから、味方についたという事でいいのだろうか。いや、嘘の情報を流される可能性も大いに存在する。

「じゃあかくね」

「ちょっと待ちなさいよ!」

 まだ何も言ってないのに書き始める。しかし、いつもこういう時に奴は来るのだ。

「のんびりと筆談とは、舐められたものだ…。」

 やっぱり。奴は夢乃の隠れていた瓦礫の上に立っている。

「やっば」

 そこまで筆談しなくていい。こんな時に考える事ではないかもしれないが、アニマの性格は夢乃の想像とだいぶ乖離していたようだ。

「全く、さっきから見ていれば君たちは…」

 ネロイが言い切る前に木の枝が地面に突き立てられた。それを中心として半径1.5mくらいの穴が開く。

「…!!」

 垂直に落下していく。上から次々に紫の裂け目が現れて、そこから刃が飛び出してくる。ふいに、夢乃は右腕を掴まれたような感覚を覚えた。いや、実際アニマに掴まれたのだろう。横穴に引き込まれる。

「どこ行くの?」

 もちろんだが返事は無い。何度も壁に激突しそうになりながら、狭い穴を右へ左へと駆けていく。ついに出口だ。背後を見ると、もう刃は追いかけてきていなかった。外に出てからも案内するようにアニマは手を引き続けた。

 夢乃の血は止まっていた。夢パワーの自然治癒力なのだろうか。それでもじんわりと痛みが残っている。

「どこ向かってるかくらい言いなさいよ。ねぇ。信用してない訳じゃないんだからさぁ。」

「来たら分かるヨ。しかァし、ネロイはもっとイイ物見つけちゃったのかもネェ…。あっ、聞こえてないカ…。マァその方がいいか。」

 不安を顔に浮かべる夢乃をよそに、アニマは道なき道を進んで行った。


 廣人は逃げ続けた。吊るされた男は追っては来なかった。

 ひとしきり逃げて橋の柵にもたれかかった。人気が無くて非常に落ち着くが、景色が記憶を感じさせてくる。この場所も何度も通った事がある。しかし、周りがこんな風に見えた事は多分無かった。

「何なんだよ、ホント。どうしちゃったんだよ。」

 廣人は涙を抑えるかのように、不気味なくらいに快晴な空を見上げた。空の奥底は暗く、深い。見ているだけで孤独な気分になり、今度は下を見る。川を大量の鯉のぼりが遡上している。目がくり抜かれたように黒い。

 再び、だんだんと周りの景色が現実から離れていく。また来る。

「逃げるな」「苦しんでる人を見捨てるのか」「人でなしでロクでなし」「償え」「ああ、アレが噂のクズか」「何しに来たの?」「ああいう人にはなったらダメですよ〜」

 先程の経験から、廣人は必死で耐えた。コイツらは言いたいだけだ。何も考えちゃいない。

 少々耐えられるようになっても、やはり彼にとっては辛いものだった。さすがに家までは入って来ないだろうと考え、耐えられる内に全力疾走した。

 途中ですれ違った車が全て自分を轢こうとしている。そう見えて仕方なかった。影は団地の入り口に着いた時には見えなくなっていた。しかし、油断できないし、喜んでもいられない。むしろ、改めて現実を突きつけられて最悪の気分である。気分が落ち込んでいるからか、当時の記憶のせいか、階段の一段一段が異様に大きく、重い。

 廣人は玄関のドアを恐る恐る開けた。時間帯の割に暗かったが、靴が2つあるのは見えた。姉と父だ。

「た、ただいま…」

 家の安心感は凄まじかった。もう孤独ではないのだ。自身の姿は当時とは違うが大丈夫なのかなどと考える余裕さえできていた。

「おかえりー」

 数秒と経たない内に返事がきた。安心しつつも曇った、悲しみを隠せていない声だった。

「廣人は無事で良かっ」

 姉の声が突然途切れる。代わりに、倒れ込むような音が聞こえてきた。廣人は急いでリビングに駆け込む。

「姉ちゃん?大丈夫…」

 ドアを開けた瞬間目が合った。人の死体と。

「何…これ…?」

 姉は顔を恐怖にひきつらせて首を左右に動かすしか無かった。腰を抜かして尻餅をついている。廣人も思考が追いついていない。

「…お父さん?そんな、いくらなんでも…」

 廣人の足元に紙切れが落ちていた。折れ曲がったそれを開くと、父の遺言が書かれていた。「俺はもう疲れた。生きていても意味がない。子供を置いて逝くのは気が引けるが、許してくれ。」弱々しい筆跡ながらも、父の字体の面影は残っていた。そういえば、当時の父は仕事も上手くいっていなかったようだったし、精神的に追い詰められていたのかもしれない。だからといって子供を残していいと二人は思えなかった。

 廣人はすぐに遺言の続きを見つけた。目を疑った。まばたきをして何度も見た。そこには「廣人、お前を許さない。」と書かれていた。少し時間を置いてから書いたのだろうか、先程までよりも明らかに怒りのこもった文字だった。「子供を置いて逝くのは気が引ける」と矛盾してるのではというような感想を抱く余裕は廣人には無かった。

「も、もうやだ。とにかく、逃げないと。」

 玄関に向かって走っていく。焦りからか、床がとても滑る。

「待って!廣人ッ!」

 姉が追いつき、姉弟で玄関口に立ち尽くす。聞こえてくるのだ。雑音、騒音、喧騒、陰口、野次、罵倒。だんだんと近づいてくる。「漠田さんちのご主人も亡くなったの?」「自殺って聞いた」「え?子供に殺されたらしいよ」「そうなの?怪しいとは思ってたけど…」「奥さんも酷い目に遭ったのに災難ねぇ」「居なくなってせいせいするわ」「これであの子達も保護施設行きだな」

 おそらく現実的にも物理的にもありえない速さの情報伝達がされているようだ。

「酷い…。なんでそんな事言うの…。」

「おーい、いるんだろ?」「顔くらい出しなよ」「責任取らないと」

 ドアの覗き穴から見る外の景色には、ニヤつく影が視界中びっしりと蠢いていた。その輪郭は徐々に曖昧になって融合していき、数多の目と口をもつ塊になった。

「出てこいよ」「無責任だぞー」「早くしろって。殺してやるから。」「楽になるなら今のうちだよ」

「どうしよう…逃げられない…。」

 廣人が左を向いたのと同時に、姉が彼を強く抱きしめた。彼女の体温がしっかり伝わってくる。

「なんとかなる…いや、なんとかするから。」

 当時から廣人にとって、彼女の「なんとかする」ほど信用できるものは無かった。

「廣美ー、アンタも共犯でしょ」「弟君連れて出てきなよ」「そーだそーだ」

 あの塊はまだ居座っているどころか、さらなる吸収を重ねて巨大化している。姉弟の会話が互いに聞こえなくなるくらいに声量も増してきた。このままではストレス負荷が酷いので、一旦リビングに戻る。腐ってきた父親は不気味で臭く、でもどうすればいいか分からない。その上、死んでいるのにずっと廣人を睨んできて、彼は狂ってしまいそうだった。姉の心強さにずっと助けられていた。

 そしてそのまま1時間ほど経った。普段からは考えられないくらいに慎重に行動する姉を見て、いかに窮地に追い込まれているか再認識する。

「あいつらまだいるの?暇人なの?」

「え?」

 廣人は気づいた。姉にはあのドス黒い塊が普通の人間に見えているのだ。放っておけばその内居なくなると思っていたのかもしれない。

「どうかしたの?」

「いや、何でもない。」

 見ている景色が大きく違う事が少し寂しかったが、廣人はそれを誤魔化した。

「ああ、もう我慢できない。」

 テーブルを叩きつけるようにして立ち上がると、彼女はずんずんと父に向かって歩いていく。そして、近くの台に乗り、彼の縄を解いた。

「何してるの?」

「ここから逃げるよ、廣人。ずっと留まってもキリがないし、いつドアをこじ開けてくるかも分からない。無策に出ても無事には逃げられないでしょう?だから…。…あ、ちょっと反対持ってくれる?」

 廣人が足側、姉が頭側を抱えて父を運ぶ。近づくと臭さが倍増する。目的地は目の前のベランダ。

「まさか…。」

「ごめんね、お父さん!」

 勢いよく空中に投げ出される父。落ちる瞬間、何か恨めしげに叫ぼうとしているようだった。しかし、それも一瞬で地面にぶつかり砕ける。

「今!早く!」

 玄関の覗き穴を見ても、そこには何も居なかった。落ちてきた死体が注意を引いたのだろう。廣人は体当たりするようにドアを開け、団地の階段を駆け降りる。

「あいつ遂にやりやがった」「動かぬ証拠だ」「死体遺棄するなんて…」「少年法に頼れると思うなよ」「同じ目に遭ってもらわないと」

 裏から憎悪の声が響いてくる。しかし、この状況を楽しんでいるような感情も聞いてとれるのが、廣人にとってはさらに不快だった。承認欲求をこんな事で満たそうとしているのが許せなかった。

 かなり歩いた。噂が広まりきってない地域なのか、人の目が気になる事も無くなった。古いネオンが町を彩っている。

「さて、これからどうしようか。」

 姉は笑顔ながらも悲しい表情を彼に向けた。こんなにも短い時間で沢山の物を失ったのだから、仕方のない事である。それでも前向きに生きようとするので、廣人は強烈に彼女を尊敬していたのだ。

「警察に相談でもする?」

 この時、廣人は断片的に思い出した。当時保護施設が嫌だと言ったのは自分だった。なんにせよ、身寄りの無い少年少女が入れられる保護施設は評判が悪いどころではなかったのだ。全国的に施設内での暴言、暴力は当たり前、なぜか施設を出た直後の子供の行方不明事件も多く、無事に出た人も「2度と行きたくない。あんな施設即刻壊すべき。」と語っていたほどだ。そんな状況でも国は重い腰を上げる事もなく、長いこと放置だった。国と人身売買の組織がグルだったと言われるほどだ。ともかく、身寄りも無いのに警察に相談したら即保護施設送りで憂き目にあうのは見えていたのだ。

「ゴメン、今のナシで。」

「そう言うと思った。」

 姉はにやりと笑って、カバンから何か取り出した。

「お金?いつの間に…。!?」

 そこから、景色が急速に動き出した。世界が回り、時が去るのを感じる。だんだんと周囲がゆっくりになっていき、やがて停止した。気づけば、小さな部屋に独り。

「…記憶が抉られた?」

 気味の悪い寒気に包まれつつも、廣人は部屋を見回した。そうだ、姉は何処へ行ったのだ。近くに隠れている訳でも無いだろう。そもそも、どれだけの記憶を削がれたのかが分からない。

「姉ちゃーん、外にいるの?」

 ドアが何かにぶつかる。結構硬く、重いものだ。そっと確認すると、大きなジュラルミンケースが置いてあった。誰の物かも分からないのに、思わず部屋に持ち込んでしまった。廣人が両手を使ってギリギリ運べるくらいの重さだった。ケースは白熱球の明かりを反射して眩しく輝いた。

「何だコレ…。」

 ケースを開くと、大量の札束が現れた。そして、その上には一枚の紙が置いてあった。硬めの紙で、葉書とも違う手触りだった。父の件を思い出して嫌な予感がしていたが、的中した。

「こちらは、廣人様のお姉様である廣美様からの依頼の物でございます。『これを使って自由に生きて欲しい』との事です。なお、我々の活動が公にならないよう、詳細は省かせていただきます。」と書かれていた。

「は?」

 全身の機能が停止したようだった。急に大金を手に入れても、どうやって、誰のために使えばいいか分からない。

 廣人は姉を待った。一晩待っても帰って来なかった。次の日も帰って来なかった。何も喉を通らないまま、あっという間に時間だけが過ぎていく。

「信じてたのになぁ。馬鹿だったなぁ。」

 姉は自分を置いてどこかへ行くような人ではない筈だ。絶対いつか帰って来る。そのような事も信じられなくなってしまった。

 やがて部屋が汚くなっていき、見覚えのある光景が浮かんでくる。長いこと過ごし、最近にも帰ってきたあの部屋。そこに独りでいる事は、廣人にとって孤独の象徴でもあった。そして、今まで仲間と過ごし、孤独への耐性を失った彼はこの部屋に強い拒否感を持った。それはここまでに見せられた記憶よりも強かった。

「一人に…一人にしないでくれ…。」

 丁度上に座っていた布団に潜るが、いつかのように受け入れてはくれない。嫌な記憶が余計に反芻されるだけだ。

 締め切った暗い部屋にパソコンが光りだす。あれはかつての逃げ道。今見ると地獄への入り口のようである。あそこに逃げ込みたい気持ちは山々だが、末路が分かってしまうのだ。廣人は全力で抗い、外へ出ようとドアノブを回した。開かない。鍵はかかっていない。開く方向も間違えていない。

「なんで、なんでだよ。もう、一人は嫌なんだよ!」

 これは記憶なのだ。彼がいくら行動しようと、記憶に無い限り大筋を変えることはできない。はずだった。

「よいしょー!」

 ドアが開いた。どころか、開きすぎて壊れた。向こう側は外の景色ではなく、真っ白に輝いている。そこから上半身だけ飛び出していたのは、体中から眩しいまでの光沢を纏っている少女だった。

「廣人さん、早く、掴まって!」

 訳もわからず彼女が伸ばした手をしっかりと掴む。廣人は腕にから伝わる感触で、彼女が人間でないことに気付いた。現に、人間と思えない力で引っ張られている。眩しい空間を通り抜け、やがて周囲は真っ暗になった。そこでようやく、今までの体験を記憶として処理できるようだった。


 廣人が目を開くと、そこは狂人収容所だった。といっても、壁が崩れていたり、床が抜けていたりと、昔の姿は無い。それどころか、狂人の一人残っていない。いるのは夢乃とアニマだけ。しかし、それで充分であった。

「ホントに帰って来た!」

「ホラ、ワタシの言ったとおり。」

 夢乃は座っている廣人の胸元に飛び込んだ。彼はまだ完全に状況を飲み込めていないが、これが現実である事だけは信用できた。

「何度も何度も心配させないでよ。」

「お…おう。…で、何が起こってたんだ?」

 アニマの目線の先には大きな箱があった。その黒い箱からはコードが伸び、廣人が座っている椅子をつたい、頭上の装置に繋がっている。

「…もしかして、マギナ!?」

「バックアップが残ってたのヨ。ソンデ、その機械と繋げたらウマくいくかなぁとやってみたら…コノとーりってワケ。」

 接続対象が居なくても、この装置がこんな能力を発揮するとは驚きである。また、バックアップとはいえ、マギナがまだ残っていた事も廣人にとっては嬉しい情報だった。

「それで、そっちはどうだったの?今はもう大丈夫なの?」

「嫌〜な体験させられたよ。おかげで色々とありがたみを感じたけど。体は…多分大丈夫…かな。」

 廣人はそう言ってゆっくり立ち上がると、わずかにめまいがした。少し酔ったような気分だ。めまいがして、マギナの本体に思わず寄りかかる。手から伝わる強烈な刺激が一瞬でめまいを吹き飛ばした。

「熱っ!」

「大丈夫!?」

「コレは…ショートしてるワ…。」

 アニマが箱の側面に触れて確認する。熱がる素ぶりは見せない。

「配線が焼き切れてル。相当負荷かかっテたのね。」

「そんな、また会えたと思ったのに。」

「それだけアンタが大事だったんでしょ。命がけで助けてもらったんだから、その分頑張らないとね。」

 二人の会話を察した夢乃は廣人の背中を強めに叩いた。まだ悲しい気持ちは晴れないが、少し前向きな気分になる。そして、命がけで助けてくれた人に顔向け出来ないような生き方を今まで続け、逃げていた事を実感した。いつも「自分のせいだ」と思っていたのに、償いもせずにのうのうと生きてたのだ。だから、大き過ぎる責任からは逃れようと必死だった。

「私はずっとヒロは悪くないって思って言ってたけど、逆効果だったかもね。」

「…そうかも。でも、ありがとう。」

 廣人は壊れてしまったマギナの本体にも一言礼をした。

 そんなこんなしている間にも、マギナに特に思い入れの無いアニマは次の行動に出ていた。冷たいようにも思えるが、励ます担当は夢乃に任せるのが良いと判断したのだろう。

「サテ、休んでる暇は無さそうネ。さっさとケリつけちゃいましょウ。こっちに敵は…イナい。」

 アニマが安全確認をし、壁が崩れてできている大穴から外に手招きで誘導する。廣人は夢乃を連れてそちらへ向かった。

 外は非常に明るく、まさに雲一つ無い快晴だった。小鳥はさえずり、川はせせらぐ。随分と穏やかだ。3人はその光景に様々な感情を抱いた。懐かしい気持ちになったり、悲しくなったり、はたまた何故か怒りが込み上げてきたりといった具合だ。「こんな場所でみんながずっといられたら」と誰もが思った。しかし、「みんな」はもう居ない。彼らのためにも、ここで止まるわけにはいかないのだ。

「こんな所で道草食ってられない。」

 周囲に警戒しつつも、大きく一歩を踏み出した。

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